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4.ムガル帝国の興隆と衰退
ア.ムガル帝国の成立とインド=イスラーム文化の開化
A ムガル帝国の建国 ティムールの5代の孫に当たるバーブルが、インドに開いたイスラーム教を奉じる王朝。ムガルとは、中央アジアで言うモゴール、つまりモンゴルのことである。1526年にパーニーパットの戦いロディ朝を破ったバーブルがデリーに入り、建国した。バーブルの頃は、まだデリー周辺を支配するに過ぎず、また第2代のフマーユーンは一時アフガン族のシェール=ハーンに追われ、イランのサファヴィー朝に亡命、1555年にデリーを奪回するという混乱が続いた。ムガル帝国が北インドを統一し、現在の北インド、パキスタン、アフガニスタンの一部、バングラディシュを含む領域を支配するようになったのは16世紀後半のアクバル帝からである。 → ムガル帝国
a バーブル インドのムガール帝国の創始者。生没1483〜1530年。本名ザヒール・アッディーン・ムハンマド・バーブル。父方はティムールの5代の孫、母方はチンギス=ハンの15代の末裔であると称している、モンゴルの血筋を引くトルコ系民族出身。ティムール朝の分封領の一つ、フェルガナの領主の長子としてアンディジャンに生まれた。ティムール朝の末期、ウズベク族シャイバニ朝が成立したためシャイバニに追われてアフガニスタンのカーブルに移った。その後もサマルカンドの奪回を狙ったが、シャイバニ朝に敗れ、方向を転じて肥沃な地をねらって北インドに侵入、1526年、パーニーパットの戦いロディ朝の王イブラーヒームの軍を破り、デリーに入城しムガル帝国を建国し、初代統治者となる(在位1526〜1530年)。さらに1527年ヒンドゥー教徒のラージプート連合軍をハーワヌの戦いで破りその支配権を広げた。バーブルはペルシア語・アラビア語に深い教養を持ち、日記風の回想録『バーブル=ナーマ』を残している。
カーブル現在のアフガニスタンの首都。海抜1800mの高地にあり、南東のカイバル峠を越えると原パキスタンのペシャワール(クシャーナ朝の都プルシャプラ)に至る。古来、中央アジアからインドに入る際の交通の要衝であった。ティムール朝の末期、バーブルは1504年にこの地を占領し、ここを拠点にインドに侵入し、ロディ朝を倒してムガル帝国を建設した。ムガル帝国の都は後にデリーに移ったが、バーブルの墓はカーブルにある。18世紀にはイランのナーディル=シャーに占領されたが、1747年にドゥラニー朝が独立、それ以後アフガニスタンの首都となる。アフガニスタンではイスラーム原理主義が台頭、ソ連のアフガニスタン侵攻以来、首都カーブルは緊張が続いている。
b パーニーパットの戦い 1526年、アフガニスタンからインドに入ったバーブルが数倍のロディ朝軍を破り、インド支配を決定づけた戦い。バーブル軍は鉄砲と騎兵を併用し、旧式の騎兵のみのロディ朝軍を破ることに成功した。鉄砲はすでにポルトガル人によってこの地にもたらされ、バーブルはそれをいち早く取り入れた戦いをした。
なお、パーニーパットはデリーの北の約137kmの地点にあり、インドにとっての要衝であったので、古来何度か決戦の場となった。その最初がこのバーブルがロディ朝を破ってインド侵出を果たした戦い、次いで1556年、ムガル帝国のアクバル大帝がスール朝の軍を破り、ムガル朝の支配を再建した戦い、3番目が1761年にアフガニスタンのドゥッラーニー朝がインドに侵入、マラーター同盟軍と戦ってその北インド支配を排除した戦い、の三度である。
c ムガル帝国 1526年のパーニーパットの戦いでロディ朝を破ったバーブルが北インドにムガル帝国を建国。イスラーム教(スンナ派)を奉じる。公用語はペルシア語が用いられた。第3代アクバル帝の時、北インドから現在のパキスタン、アフガニスタンの一部、バングラディシュを含む大帝国となった。アクバル帝時代の都はアグラ。続くジャハンギール、シャー=ジャハーンまでの17世紀前半までが全盛期。シャー=ジャハーンの時、新都としてデリーが建設された。ムガル帝国は圧倒的に多いヒンドゥー教徒を、征服者であるイスラーム教徒が支配するという形態であるため、これまでの皇帝は宗教的に寛容策をとり、ヒンドゥー教徒との融和を図り、国家の安定を図ったが、17世紀後半のアウラングゼーブ帝の時代から、イスラーム教の立場を明確にし、ヒンドゥー弾圧をはじめたので、様々な問題が生じてきた。またポルトガル人のインド進出は16世紀に著しくなったが、それはインド商人との商取引にとどまり、ムガル帝国にとっても深刻な脅威ではなかった。しかし、シャー=ジャハーンの17世紀から、イギリスとフランスが東インド会社の商館を各地に設け、直接的な勢力圏の拡大をはかり、その抗争が激しくなる。ムガル帝国も安定した統治は17世紀後半のアウラングゼーブ帝で終わり、ムスリムとヒンドゥー教徒の対立や地方政権の成長などの動揺が始まった18世紀には、同時にインドをめぐる英仏の抗争がイギリスの覇権の確立で終わり、イギリスの綿製品の流入でインドの綿織物生産は打撃を受け急速に植民地化していく。1757年のプラッシーの戦いはムガル帝国衰退の第1歩となったものであり、それからちょうど100年後の1875年の「インド大反乱」(セポイの乱)でムガル帝国は滅亡する。
『バーブルの書(バーブル=ナーマ)』 ムガル帝国を建国したバーブルが、自ら書いた回想録。母国語であるチャガタイ=トルコ語で書かれ、「フェルガナ」「カーブル」「ヒンドゥスタン」の三部からなる。重要な資料であるとともに、トルコ語文学の傑作とも言われている。
B アクバル大帝 ムガル帝国第3代の皇帝(在位1556〜1605)。わずか13歳で即位、4年後に親政を開始、中央アジア出身の高官を抑えるとともに1562年にラージプート族出身の女性と結婚してヒンドゥー教徒との融和策をとり、ジズヤを廃止してインドの統一を図った。1576年にはベンガル王国を征服して北インドをほぼ平定した。晩年には北部デカンも支配下においた。アクバルは税制、貨幣制度を整備し、官制ではマンサブダール制を採用、ムガル帝国繁栄の基礎を築いた。ムガル帝国の成立以前の1498年にバスコ=ダ=ガマが南インドカリカットに到達して以来、すでにポルトガルのインド進出は始まり、1510年にはゴアを占領して海岸部で南インドの土侯と香辛料などを取引を始まめており、1573年にはゴアのポルトガル総督がアクバル帝に使節を派遣している。
Epi. アクバル大帝の「神の宗教」 アクバル大帝はイスラーム教とヒンドゥー教の融和を図っただけでなく、キリスト教についても学び、宮廷にいろいろな宗教家を招いて話を聞いた。その結果、彼はどの宗教も究極は一つである、という結論に達しようで、自ら「神の宗教」(ディーネイラーヒー)を説くようになった。どうやら単なる小手先でのヒンドゥー融和策ではなかったようだ。一種の総合的な新宗教の創造を考えたのかも知れないが、それは定着することなく終わった。彼はヒンドゥー教徒のサティー(夫を亡くした妻が殉死する風習)や幼児婚を禁止しているが、それもインド社会にはあまり受け入れられず、最近まで続いていた。
a アグラ またはアーグラーと表記。ムガル帝国の都で、アクバル大帝が1565年に建設。一時を除き、1648年にシャー=ジャハーンがデリーに遷都するまで続く。近くにはタージマハール廟がある。 
b マンサブダール制 ムガル帝国で特徴的な位階制のこと。ムガル帝国では文官と武官の区別はなく、各官僚は最低10から最高5000までの数字で示されたマンサブ(禄位)を与えられ、そのマンサブに応じて給与の額と保持すべき騎兵の数が定められた。マンサブ1000以上が貴族(アミール)とみなされた。マンサブを与えられる官僚をマンサブダールという。給与は土地の形で与えられたが、土地そのものではなく、土地からの徴税権であり、それをジャーギールという。
ジャーギールムガル帝国の官僚に与えられた給与地のこと。ムガル帝国のマンサブダール制で、官僚に与えられる禄位(マンサブ)に応じて定められた給与地をジャーギールという。官僚はジャーギールに見合った騎兵を養い、帝国の危急にはそれを提供しなければならなかった。なお、ジャーギールは土地そのものではなく、土地からの徴税権であり、ブワイフ朝、セルジューク朝以来のイスラーム世界でのイクター制、オスマン帝国のティマール制にあたるものである。ジャーギールは官僚の土着化を防ぐため、3,4年ごとに所替えされた。
c カビール 15世紀のインドで、ヒンドゥー教とイスラーム教の融合を図った宗教家。ヒンドゥー教は南インドで特に民衆に深く浸透し、12世紀の初めに強い信仰心で神に帰依することをめざすバクティ運動が盛んであった。次第にイスラーム教の影響を受け、カースト制度の否定と結びつくようになった。そのようなバクティ運動とカースト制度の否定を結びつける思想を体系づけたのがカビールである。彼は15世紀中頃ベナレス(ヴァラナシ)のバラモンの寡婦の子として生まれ、ムスリム織工に育てられ、偶像崇拝の否定、苦行や儀礼の否定、カースト制度への抵抗など、イスラーム教の影響を受けたヒンドゥー教の改革を唱え、民衆の支持を受けた。
d ナーナク 16世紀初め、インドのパンジャーブでヒンドゥー教の改革を唱え、シク教の創始した人物。ヒンドゥー教とイスラーム教を融合しようとしたカビールの影響を受け、一神教信仰、偶像崇拝の否定などを説いた。シク教のでは彼を初代のグル(師)として尊敬している。
e シク教 16世紀初め、パンジャーブ地方でイスラーム教の影響を受けてヒンドゥー教の改革を掲げ、一神教信仰、偶像崇拝の否定、カーストの否認などを説いたナーナクが創始した宗教。シクとは、ナーナクを師(グル)として、その弟子(シク)として忠実に教えを守ることからきた。シク教徒は次第に集団的な結束を強め、17世紀後半にはムガル帝国のアウラングゼーブ帝の弾圧に抵抗して戦った。19世紀には西北インドの一大勢力となり、イギリスとのシク戦争を戦った。このように独立心が強く、また戦いをいとわなかったので、イギリス統治時代には兵士となる者が多かった。戦後の1980年代には、イスラーム原理主義の影響を受け、シク教徒の中にも過激派が現れ、彼らはパンジャーブ地方のインドからの独立を主張するようになり、1984年6月にはその総本山のアムリトサルの黄金寺院に立てこもるという事件を起こした。インディラ=ガンディー首相は実力で鎮圧したが、さらに反発したシク教徒過激派によって同年10月暗殺された。シク教徒によるパンジャーブ独立運動(彼らは「カリスタン独立運動」と言っている)は現在のインドの抱える難問として続いている。
f 人頭税(ジズヤ)の廃止 ムガル帝国のアクバル大帝は北インドを支配するに当たり、自らはイスラーム教徒であるが多数のヒンドゥー教徒と融和する必要があると考え、自らヒンドゥー教徒の有力氏族であるラージプート族の女性と結婚し、ヒンドゥー教徒の聖地への巡礼への課税を廃止した。一連の宗教融和策で最も重要なのが、1564年のヒンドゥー教徒に対する人頭税(ジズヤ)の廃止である。ジズヤはイスラーム教国で非イスラーム教徒に課せられていた人頭税である。 → アウラングゼーブ帝のジズヤ復活
ジャハンギール 
C シャー=ジャハーン ムガル帝国第5代皇帝(在位1628〜58年)。祖父のアクバル、父のジャハンギールとともにムガル帝国の全盛期をもたらした。マンサブダール制を改革して財政の健全化を図り、デカン方面に領土を拡大した。また1648年、新たに都シャージャハーナバードを建設し、それまでの都アグラから遷都した。これが現在のデリー(旧デリー)である。また、旧都アグラの郊外には、愛妃ムスターズ=マハルの廟であるタージ=マハルを建設した。シャー=ジャハーンは晩年は病気となって政争が起こり、息子のアウラングゼーブ帝によって幽閉されて死んだ。
a インド=イスラーム文化  → 第5章 3節 インド=イスラーム文化
b ミニアチュール(細密画)  → 第4章 3節 ミニアチュール
c ムガル絵画 インドのムガル帝国時代に、宮廷で作られた絵画。イル=ハン国などイラン圏で発達したミニアチュールの影響を受け、細密で装飾的な技法を用いている。皇帝の肖像、宮中の生活、狩、儀式などから花鳥風月などの自然が題材とされ、宮廷の手厚い保護を受けた。
d ラージプート絵画 インドの伝統的絵画で、ラージプートとはイスラーム以前のインド固有の民族や文化を意味する。特に16〜19世紀のムガル帝国時代に、ヴィシュヌ神など土俗的なヒンドゥー教の神々を題材にした絵画が発展した。宮廷中心のムガル絵画に対して、庶民的な絵画と言える。
e ウルドゥー語 ムガル帝国ではペルシア語が公用語とされたが、征服王朝であったので多数のインド人を兵士として補充した際、軍隊内の指揮伝達の共通言語が必要となり、北インドの口語(ヒンディ語)の文法をもとにトルコ語、ペルシア語の語彙を加え、アラビア文字を用いて表記するという、ウルドゥー語がつくられた。ウルドゥーとはトルコ語で軍隊の陣営を意味していた。イスラーム圏の言語として現在では、パキスタンの国語となっている。イスラーム文化とヒンドゥー文化を融合させたインド=イスラーム文化の特徴的な例である。
ペルシア語ペルシア語はイラン民族の言語でインド=ヨーロッパ語族に属するが、現代に至るまで変遷している。古代ペルシア語はアケメネス朝、パルティア、ササン朝ペルシアで使われていたが、7世紀にイランがイスラム化してからは急速にアラビア語の語彙をとりいれ、文字もアラビア文字が用いられるようになった。しかしアッバース朝以降のイスラーム王朝ではイラン人が政治や学問の上で果たした役割は大きく、いわゆるイラン=イスラーム文化が形成された。インドに成立したイスラーム政権では、ペルシア語が公用語とされ、宮廷ではペルシア語が話され、ペルシア語の文学作品も多数生まれた。ムガル帝国の時代に、ペルシア語と北インドの民衆の言語ヒンディー語が融合して、ウルドゥー語が生まれる。
f ヒンディー語 北インドの各地の言葉が統合され、インドの共通語となったもので、現在のインドの公用語とされている。しかし、現在もインドには多数の言語が存在し、統一を妨げる要因となっている。 → インドの言語分布
g タージ=マハル ムガル朝第5代のシャー=ジャハーンが、妃のムムターズ=マハルの墓廟として建築したもの。
h ヴィジャヤナガル 南インドに14〜17世紀に繁栄したヒンドゥー教国。北インドのデリー=スルタン王朝が、ティムール帝国の侵入を受けて衰えたのい反比例して、南インドには独自政権が伸張した。その最有力国がヴィジャヤナガル王国である。ヴィジャヤナガルを中心として、デカンの農村地帯、西海岸のマラバール地方のアラビア海交易で繁栄していたカリカットなどを含む。1498年、バスコ=ダ=ガマがカリカットに渡来した時の統治者はこのヴィジャヤナガル王国であった。1565年、北に隣接するイスラーム諸国の連合軍によって攻撃され、滅亡した。南インドにはその後、マイソール王国がヒンドゥー王国を再建し、18世紀後半にイギリス植民地化に激しく抵抗(マイソール戦争)する。
イ.ムガル帝国の衰退と地方勢力の台頭
A アウラングゼーブ帝 ムガル朝第7代皇帝(在位1658〜1707年)。アウラングゼーブ帝は、熱心なスンナ派イスラーム信徒であったので、ムガル帝国のアクバル帝以来の方針を転換し、ヒンドゥー教徒との融和策を放棄、ジズヤの復活、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなどを強行した。(ヒンドゥー教だけではなく、イスラーム教以外の宗教、仏教やジャイナ教も否定され、寺院が破壊されたり仏像が壊されたりした。)帝は各地で非ムスリムの反乱を鎮圧、1681年には自ら南ンド遠征を行い、その領土を最大にまで拡大した。しかし、その強硬姿勢は非ムスリムの激しい反発を買い、デカンのマラーター王国、パンジャブのシク王国などの勢力が一斉に反旗を翻した。1707年、デカン遠征の途中、アウラングゼーブ帝は89歳で没した。その死後は、ムガル帝国の求心力は急速に失われ、各地の州太守(総督)は独立し、ラージプート諸王国(ヒンドゥー勢力)は次々と離反していった。また、農村には、ザミンダールといわれる徴税権を認められた地主層が農民を支配するようになった。18世紀のそのような状況の所に、イギリス・フランスの植民地侵略が始まる。
Epi. 熾烈な後継者争いの勝者アウラングゼーブ 1657年、父のシャー=ジャハーンが重病との報せが入ったとき、アウラングゼーブはデカン太守として都を離れていた。後継者争いは熾烈で、他の3人の兄弟の誰かがこのままでは皇帝になる。急遽都に戻ったアウラングゼーブは、ただちに父を監禁し、他の兄弟を殺して第6代の皇帝になった。すでに40歳に近かったという。このあたりの詳しい話が、当時ムガル王朝に医者として滞在していたフランス人のベルニエが著した『ムガル帝国誌』に詳しい。同書は、モンテスキューやマルクスなどが、アジアの専制国家を論じる際の材料とされたものだが、読み物としても実におもしろく、一読の価値がある。幸い、岩波文庫で訳出されている。<ベルニエ著・関美奈子訳『ムガル帝国誌』上下 岩波文庫 2001>
a 人頭税(ジズヤ)の復活 1679年、アウラングゼーブ帝がヒンドゥー教徒に対してジズヤを徴収することを復活させた。その他の税制でもヒンドゥー教徒は不利な規定が復活し、ヒンドゥー寺院のモスクへの建て替えなども行われた。またムガル帝国の官吏にはヒンドゥー教徒は採用されなくなった。
B 地方勢力の台頭  
a マラーター王国 マラーターとはデカン高原の西北部にいたヒンドゥー教徒のカーストの一つで、その上層部はザミンダール(徴税権を認められた地主)層を構成し、デカンのヒンドゥー教国の戦士として重要な存在であった。彼らはムガル帝国の侵攻に対し激しく抵抗した。特にマラーターの英雄といわれたのが、シヴァージーで、ゲリラ戦法によってムガル帝国に抵抗した。彼はマラーター勢力を結集してムガル帝国にあたろうと、ヒンドゥー帝国の建設をめざし、1674年にマラーター王国をデカン高原西部に建国した。ムガル帝国のアウラングゼーブ帝はマラーター王国討伐に全力を挙げ、自らもデカンに出兵した。そのため、マラーター王国はシヴァージーの死後、ムガル軍に敗れ滅亡しかかったが、帝の死によって息を吹き返し、18世紀にはいると再び強大となり、勢力をデカン高原周辺に広げ、デリーのムガル政権を脅かすようになった。イギリスのインド支配にも抵抗し、18世紀末から19世紀初めの3回にわたるマラーター戦争でイギリスに滅ぼされる。
シヴァージー デカンのヒンドゥー教徒の指導者で、マラーター王国を建国した。1646年、ムガル帝国のシャー=ジャハーンに対して反乱を起こし、その後も抵抗を続け、アウラングゼーブ帝の捕虜となったが脱走して名声を上げ、1674年にマラーター族を糾合してデカンにヒンドゥー教王国マラーター王国を建設、チャットラパティを称して即位し初代国王となった。
Epi. シヴァージーの「虎の爪」 シヴァージーは初め、アーディル=シャーヒー朝というデカンの地方政権に仕えていた。反乱を起こしたシヴァージーを捕らえようと部将が派遣されてきた。シヴァージーは部将との会見の場で、挨拶の抱擁をするふりをして手にはめた「虎の爪」という武器で相手の腹を裂き、おそれた討伐軍は潰走してしまった。「虎の爪」は右図のようなものだ。ついでアウラングゼーブ帝の派遣したムガル軍に捕らえられ、アグラで帝と会見したが、そのときはさすがに同じ手は使えず、城内に軟禁されてしまった。しかし彼は隙を見て洗濯物入れの籠に隠れ、アグラ城を脱出するのに成功した。こうした冒険談はよく知られ、シヴァージーはイスラーム勢力という外敵に立ち向かった英雄の一人として人気が高い。<辛島昇編『南アジア史』新版世界各国史7 p.247 による 写真も>
マラーター同盟  
b シク教徒 の反乱パンジャーブ地方を中心にしたシク教の信者集団は、17世紀に組織化され、武装するようになった。ムガル帝国のアウラングゼーブ帝のイスラーム教強制政策が強まると反発を強め、北西インドにおける反ムガル勢力として、1675〜1708年の間、ムガル帝国と戦った。その後19世紀にはシク王国を建国、イギリスの支配が強まると、それに対しても抵抗し、シク戦争を展開する。またパンジャーブの独立を主張するシク教徒過激派による1984年の黄金寺院立てこもり事件や、インディラ=ガンディー首相暗殺事件が起きている。