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3 インド・東南アジア・アフリカのイスラーム化
ア.イスラーム勢力の進出とインド
A イスラーム勢力の侵入 イスラーム教勢力のインドへの進出は早く、711年に最初の大規模な侵攻がインダス川下流のシンド地方で始まった。ウマイヤ朝のイラク総督ハッジャージュがムハンマド=ビン=カーシムの遠征軍は翌712年、シンド王を戦死させ、その地を征服した。711年はウマイヤ朝がイベリア半島で西ゴート王国を滅ぼした年でもある。しかしウマイヤ朝の内紛やインドのヒンドゥー勢力の抵抗もあって、イスラーム勢力の支配はシンド地方以上は広がらなかった。10世紀後半にアフガニスタンに成立したガズナ朝マフムードは、11世紀初めにパンジャーブ地方からガンジス川流域に前後17回にわたって出兵した。続いてアフガニスタンに登場したゴール朝のムハンマドが1175年に北インド侵攻を開始、1192年にタラーインの戦いでラージプート諸国連合軍を破り、さらに1202年にはベンガルまで進出した。ゴール朝は北インド支配を継続するため、デリーに奴隷出身の部将アイバクをおいた。1206年、ゴール朝のムハンマドが暗殺されるとアイバクはデリーを都として奴隷王朝を建てた。ガズナ朝とゴール朝はアフガニスタンを本拠としてインドを支配したイスラーム王朝であったが、奴隷王朝からはインドのデリーを拠点として北インドを支配するインドのイスラーム政権と言うことができ、それ以後続く5つの王朝を、デリー=スルタン王朝という。これらはトルコ系またはアフガン系のイスラーム政権であり、それに続くムガル帝国も、アフガニスタンからインドに入った、いずれも征服王朝であり、イスラーム教(スンナ派)を信奉する支配者が、ヒンドゥー教徒の民衆を統治するかたちであった。しかし、10世紀に始まる北インドのイスラーム政権による実質支配が続いたこと、ムガル帝国がヒンドゥー教徒との宥和政策をとったことによってイスラーム教もインドに浸透していった。また、イスラームのインド浸透を軍事力だけによる強制と見るのは間違っており、スーフィズムが民衆の心を捕らえたことと、イスラーム商人との交易が都市でひろがったことを背景として指摘しなければならない。
a ガズナ朝  → 2節 ガズナ朝
マフムードアフガニスタンのトルコ系イスラム王朝(スンナ派)、ガズナ朝の全盛期の王。在位998年〜1030年。インドの富をねらって侵略を開始、1001年、カイバル峠を越えてガンダーラ地方に侵攻し、ペシャワールでシーア派の地方政権を倒した。1008年にはパンジャーブ地方を征服した。さらに数回にわたって北インドのラージプート時代のヒンドゥー教国プラティーハーラ朝を攻撃、1018年にはその都カナウジを陥落させた。1025年にはグジャラート地方の宗教都市ソームナートを破壊し、多数のヒンドゥー教徒を殺害した。ただし、ガズナ朝は中央アジア支配に力点を置き、インド侵入は略奪が主で、永続的に支配することはなかった。なお、マフムードは文化の保護者としても知られ、ガズナの宮廷ではイラン=イスラーム文化が開化した。フィルドゥーシー『シャー=ナーメ』はマフムードに献げられたものである。
b ゴール朝 ガズナ朝の領内のゴール地方(アフガニスタン中部)から起こった勢力が、1148年に独立し建国したイスラーム王朝。1186年にガズナ朝を滅ぼし、アフガニスタンからイランを支配、たびたびインドに進出した。その王ムハンマドはパンジャーブを平定した後、インドでのイスラームの布教につとめた。1192年、ムハンマドはラージプート諸侯軍を破り、北インドを平定した後、その地の統治を部下のアイバクに任せ、自らはガズナに戻ったが1206年暗殺され、ゴール朝は分裂状態となった。北インドにはアイバクが奴隷王朝を建て、アフガニスタン、イラン方面は1215年にホラズムに奪われ、ゴール朝は滅亡した。
c ラージプートラージプートとは、インド北西部のラージャスターン州を中心に、ガンジス川中流域に居住する人々の中の地主などの支配者層のカーストを言う。また7世紀後半から13世紀初頭のインドの分裂期をラージプート時代という。8世紀以来、ヒンドゥー教の強固な信仰によって結束したラージプート諸侯は、アフガニスタンや中央アジア方面からのイスラーム勢力の侵入に対抗した。しかしガズナ朝のマフムード、ゴール朝のムハンマドとの戦いに敗れ、ついにアイバクがトルコ系イスラーム教国の奴隷王朝をデリーに建設して以来、デリー=スルタン朝というイスラーム政権の支配を受けることとなった。ラージプート諸侯はその後もインドの小王侯として存続したが、16世紀のムガル朝の成立後はそれに服属し、帝国を支える軍事力を構成していた。ラージプート族はヒンドゥー教徒であったので、ムガル帝国のアクバル帝はラージプート族の女性を妻とするなど、融和を図ったが、アウラングゼーブ帝の時代にはヒンドゥー教排除の政策を復活させたため、帝国から離反して独立するようになり、ムガル帝国は崩壊に向かった。
B デリー=スルタン朝13世紀初頭の奴隷王朝から約3世紀間続く、デリーを都としたイスラーム諸王朝をいう。奴隷王朝(1206〜90)→ハルジー朝(1290〜1320)→トゥグルク朝(1320〜1413)→サイイド朝(1414〜51)→ロディー朝(1451〜1526)の5王朝が交替し、いずれも王がスルタンを称したのでデリー=スルタン朝(デリー=サルタナット)という。これらの王朝はロディー朝がアフガン系であるが他はトルコ系である。ハルジー朝やトゥグルク朝の時期には南インドにも支配を及ぼし、インドのイスラーム化を進め、次のムガル帝国の出現を迎えることとなる。デリー=スルタン王朝はいずれも中央アジアのアフガニスタンを拠点としていたが、13世紀の中央アジアは、モンゴル帝国の侵攻が大きな脅威となった時代であった。デリー=スルタン王朝もその北西部をモンゴル軍脅かされ、一時はパンジャーブまで侵攻されている。彼らが南インドに進出したのは、背後をモンゴル軍に推されていたためともいえる。
a 奴隷王朝 1206年からインドに自立した最初のイスラーム王朝。「奴隷王朝」という名は、最初のスルタンのアイバクがゴール朝の奴隷兵士(マムルーク)出身であり、歴代のスルタンが奴隷またはその直系子孫の出身であったからである。宮廷に属する奴隷たちは「四十人組」という会議を組織し、意のままに王を廃立した。都はデリーに置かれたので、デリー=スルタン王朝の最初とされる。「奴隷王朝」という名については、実際に奴隷出身でスルタンになったのは3人に過ぎないとして、正しくないという意見もある。エジプトと同じく「マムルーク朝」またはアイバクの名前から「クトゥブ朝」という言い方もある。<近藤治『インドの歴史』1977 講談社現代新書 p.143>
なお、奴隷王朝は、1241年、57年の二度、中央アジアのモンゴル国家チャガタイ=ハン国に侵攻され、さらに1285年、87年にはイランのモンゴル国家イル=ハン国軍の侵攻を受けて混乱、1290年に滅亡した。
b アイバク 正しくはクトゥブ=ウッディーン=アイバク。インドの奴隷王朝の初代スルタン(在位1206〜10)。中央アジア出身のトルコ人で、奴隷として売られ、ニシャプールの法官に所有されたが、そこで兵士としての教育と訓練を受け、法官の死後はさる商人に売られ、さらにゴール朝のムハンマドの奴隷として売られた。騎兵隊の指揮官となったアイバクはムハンマドの信任あつく、親衛隊長となり、その先兵としてインドのベンガルやビハールの平定に当たった。ムハンマドからインド統治を任され、1206年、彼が暗殺されてからインドのデリーで独立してインド最初のイスラーム王朝のスルタンとなった。1610年、ポロに興じていた最中に落馬し、それが原因で死亡した。<近藤治『インドの歴史』1977 講談社現代新書 p.142>
Epi. アイバクとクトゥブ=ミナールの建設 アイバクはデリーを征服すると、インド最初のモスクを建設した。そのミナレットとして建てられたのがクトゥブ=ミナールでる(山川教科書p.110のカラー写真参照)。インド最古のイスラーム建築として重要であり、精密なアラビア語を意匠化した彫刻が見られる。ただし、モスク建築をよく見ると、イスラーム美術にはにつかわしくない裸女のレリーフがある。これは、アイバクがモスク建築を急ぐあまり、その地にあったヒンドゥー寺院を破壊してその建材を流用したからだった。
デリーインドのデリー=スルタン朝の各王朝の都とされた。1526年にロディ朝を破ってインドを支配したムガル帝国は、始め都をアグラに置いていたが、シャー=ジャハーンの時、デリー=スルタン朝の都の近くに新たに都として1648年にシャージャハーナバードを建造した。これが現在のデリー(旧デリー)で、赤い砂岩の城壁が市の中心部に建設されたので「赤い城」の意味でレッド・フォートと言われた。現在のニューデリーは、このデリーの東南に、1911年にイギリスがインド統治の首都として新しく建設した町である。
c ハルジー朝 1290年、ジャラールッディーンが建国したトルコ系イスラーム政権。デリー=スルタン朝二番目の王朝。第2代スルタン、アッラー=ウッディーンの時、中央アジアのチャガタイ=ハン国が再三インドに侵攻しデリーを攻撃したが、持ちこたえた。一方ハルジー朝は盛んに南インドに遠征軍を送り、インド南端のパーンディヤ朝の王を敗死させ、ほぼインド全土を支配した。
ハルジー朝のアラー=ウッディーンは、モンゴル軍との戦いや南インドへの遠征のために、財政を安定させる必要に迫られ、税制の改革を行った。それは、ヒンドゥー教徒など非イスラーム教徒から、ジズヤ(人頭税)を徴収する際、納税者の財力に応じて三段階に分けて課税し、貨幣で納めさせた。また従来は村落の有力者が徴税を請け負っていたが、それらを排除し、直接納税させることにした。これらの税制はムガル帝国にも継承されることとなる。
トゥグルク朝 1320年、ハルジー朝の将軍トゥグルクが建国したトルコ系イスラーム政権で、デリー=スルタン朝の第3の王朝。ハルジー朝の領土を受け継ぎ、ほぼ全インドを支配したが、次第に政治が乱れ、各地にイスラーム政権が分立するようになった。その一つ、バフマニー朝はデカン高原から南インドに有力となった。また1336年には南インドにヒンドゥー教国のヴィジャヤナガル王国が自立した。1398年ティムールがインド遠征に乗りだしデリーに入城すると、トゥグルク朝スルタンは逃亡し、デリー市民多数が殺戮された。デリーはティムールの部将ヒズル=ハーンが代官として統治した後、1414年トゥグルク朝を滅ぼしサイイド朝を建国した。
Epi. イブン=バッツゥータのインド旅行 1334〜40年にアラブの大旅行家イブン=バットゥータがインドに来て、トゥグルク朝のスルタンに仕え、詳細な記録を『三大陸周遊記』に残した。彼の仕えたスルタンのムハンマド=イブン=トゥグルクの善政と、その反面の想像を絶する残虐な刑罰について述べている。「インドのスルターンは、謙遜、公平であり、貧民をあわれみ、底なしの太っ腹を示しながら、人の血を流すことが何よりも好きである。王宮の門前に殺された人々の横たわっていないことは、まず珍しい。わたくしは、その門前で人を殺し、その屍をさらすさまをいやというほど見せられた。ある日、参内しようとすると、わたくしの馬が怯えた。前方を見ると地上に白い塊があった。「何か、あれは」というと、同行の者が「人間の胴体です。三段に斬ってあります」と答えた。・・・<前島信次訳『三大陸周遊記』角川文庫 p.200>
サイイド朝 1414年、ティムールの部将ヒズル=ハーンがトゥグルク朝にかわりデリーで建国。デリー=スルタン朝の第4の王朝。サイイドとは、ムハンマドの血筋にある者の意味。ティムール朝シャー=ルフの保護を受けていたが、その死後衰え、1451年ロディー朝に替わった。
ロディー朝 1451年成立したデリー=スルタン王朝の第5番目で最後の王朝。デリー=スルタン朝の中では唯一のアフガン系で、アフガンの有力部族の連合政権的性格が強い。パンジャーブ地方に起こり、デリーに迎えられて建国した。1526年、パーニーパットの戦いバーブルの率いるムガル軍に敗れ滅亡。
C インド=イスラーム文化 13世紀のデリー=スルタン朝以来、イスラーム教がインドに受容され、ヒンドゥー文化と融合して形成され、ムガル帝国のもとで繁栄した文化。それまでのインドでの外来文化はヒンドゥー文化に同化されてきたが、イスラーム文化は消滅することなく、ヒンドゥー文化の要素を取り入れてインド=イスラーム文化として発展したところに特色がある。インド=イスラーム文化が特に発展したのは、16世紀のムガル帝国であった。ヒンドゥー様式を取り入れたイスラーム建築としてタージ=マハルなどが造られ、またインドの題材を取り入れたミニアチュール(細密画)が描かれた。征服王朝であるイスラームの支配者の用いたペルシア語・トルコ語を、インドの口語に取り入れて作られたウルドゥー語は、インド=イスラーム文化の特徴的な内容である。
a 仏教  →第2章 1節 仏教の成立
b バクティ  →第2章 1節 バクティ運動 
c ヨーガ信仰 ヨーガはインドの身体調整法としてよく知られているが、本来は古代インドのバラモン哲学のなかの、解脱に達する手段として身体的な修行を重視するヨーガ学派から広がった。2〜4世紀にまとめられた『ヨーガ=スートラ』を根本経典とし、13世紀にはさまざまな座法を取り入れたヨーガが体系化され、14世紀にはバクティ運動と結びついて苦行を通じて神との合体を求めるヨーガ信仰が生まれた。 
d カースト差別  → カースト制度の成立
  
イ.東南アジアのイスラーム化
A 東南アジアのイスラーム化 東南アジアへのイスラーム教の布教は、ムスリム商人の活動によって、13世紀頃から展開され、港市などでひろがっていった。現地の人々にうけいれられた背景には、イスラーム神秘主義(スーフィズム)の活動があったもと思われる。東南アジアで最も早くイスラーム教を取り入れたのは13世紀のスマトラ北端にあったサンドラ=パサイの王であるが、より本格的な受容は15世紀初頭のマレー半島にあったマラッカ王国であった。マラッカ王はイスラーム教に改宗して海上貿易で繁栄した。マラッカ王国は16世紀にポルトガルに滅ぼされるが、イスラーム教は東南アジアの諸島部に広がり、各地にイスラームの小国家が生まれた。ジャワ島のマタラム王国バンテン王国、スマトラのアチェ王国などであり、いずれもポルトガルとの香料貿易で栄えた。またフィリピン諸島にも14世紀にイスラーム教が伝わり、ミンダナオなど南部を中心にスペイン入植者と激しいモロ戦争を繰り広げることになる。
a ムスリム商人の活動 (東南アジア)ムスリム商人(イスラーム教徒の商人)はインド洋交易圏を経て東南アジアにも進出し、東南アジアのイスラーム化をもたらす重要な役割を果たした。13世紀のスマトラ島のサンドラ=パサイ王に始まり、15世紀にマラッカ王国がイスラーム化して、イスラーム教は広く諸島部に広がった。現在でもインドネシアはイスラーム教が最大の宗教となっており、マレーシアや、フィリピンでも多数のムスリムが存在している。 → ムスリム商人のアフリカ
神秘主義(スーフィズム)  → 神秘主義(スーフィズム)
サンドラ=パサイ王国 13世紀にスマトラ島の北端にあったイスラーム教国。サムドラとは「スマトラ」の地名のもとになった古い地名で、パサイはその外港の名前。13世紀末、元の使節に従って海路ペルシアに向かったマルコ=ポーロがこの地に滞在したことが『東方見聞録』に見える。そこではこの地の王がイスラーム教徒であるとは書かれていないが、ムスリムが多かったことが知られる。後のマレー語で書かれた歴史書ではそのころからイスラーム商人と神秘主義教団によってイスラーム化が始まったことがうかがえる。1346年にはイブン=バットゥータがインドから中国に向かう途中、サンドラ=パサイに立ち寄り、スルタンに面会している。この国は東南アジアのイスラーム教徒が増えるにつれ、そのメッカ巡礼の中継として、また港市国家として栄えた。
マジャパヒト王国  →  マジャパヒト王国 
B マラッカ王国 15世紀に成立し、マレー半島からスマトラ島の一部を支配したマレー人国家で、港市国家として繁栄し、イスラーム化した。1511年にポルトガルによってマラッカを占領されて衰退した。マラッカはマレー半島南西部の海港都市で、インド洋と南シナ海を結ぶ要衝のマラッカ海峡に面している。建国神話(『マラヤ編年記』)によると、その始祖はアレクサンドロス大王の血を引いており、その国は「黄金の国(スヴァルナプーミ)」といわれ、はじめスマトラ島のパレンバンにいたが、シンガポール島を経てマレー半島のマラッカに移り、王国を築いたという。
イスラーム化と官僚制国家:マラッカ王国は海洋民族を従えながら、イスラーム教に改宗し、国王はスルタン(サルタン)として統治した。スルタンの下に、世襲の最高司令官(ブンダハラ)と大蔵大臣、侍大将、警察長官にあたる官僚制が形成され、多くの港市の外来商人や原住民の部族村落が管理されていた。
中国への朝貢:マラッカ国王は明に対して朝貢を行い、永楽帝からマラッカ国王に封じられ、印章と勅語を受けている。また永楽帝がインド洋に派遣した鄭和は、マラッカ王国を拠点としてインドへの進出をはたした。
マラッカ王国の交易品:イスラーム商人(ムスリム商人)の東アジア進出の拠点として海上貿易で大いに繁栄した。マラッカには三方の地域から物産が集まった。西方インドからは、綿織物・アヘンが、東方中国からは陶磁器・絹織物・武器などがもたらされ、現地東南アジアからは香料・象牙・白檀・獣皮・樹脂・金・スズ・銅・硫黄・真珠母・貝・鼈甲・さんごなどの特産品がインドと中国に輸出された。
ポルトガルの進出とマラッカ王国の衰退:1510年、インドのゴアに拠点を築いたポルトガルは、その翌年の1511年に、インド総督アルブケルケをマラッカに派遣、武力でマラッカを占領した。これが東南アジアの植民地化の始まりだった。マラッカ王国のスルタン(王)はマレー半島先端のジョホールに移り、その後さらにシンガポール島の沖合のリオウ諸島に拠点を移した。<鶴見良行『マラッカ物語』1981 時事通信社 p.108-140> → ジョホール王国 
C マタラム王国 16〜18世紀に、インドネシアのジャワ島東部を中心に成立したイスラーム教国。マタラームとも表記する。ジャワ島に存在した古マタラム王国(ヒンドゥー=マタラム)に対して、こちらは新マタラム王国(イスラーム=マタラム)と呼んで区別する。マタラムはジャワ島東部のジョクジャカルタ地方の古地名。
ジャワ島にはヒンドゥー教国のマジャパヒト王国があったが、マレー半島のマラッカ王国がイスラーム化すると、この地域にもイスラーム商人による海港都市が生まれてきた。16世紀にジャワ島内部の米作地帯に現れたマタラム王国は、17世紀にそれらの海港都市も支配下に治めて、海上貿易に進出した。17世紀末以降は内紛で衰え、オランダ東インド会社の介入を受けて次第に衰え、18世紀半ばには王国の支配権をオランダに譲渡した。その後は1755年に王国は二分割され、それぞれ自治領(王侯領とも言う)とされたため、マタラム王国の名は消滅した。その後も王侯の名目的な地位を保ち、その一人ディポネゴロが1825年〜30年に反オランダの反乱(ジャワ戦争)を起こしたが鎮圧された。<『インドネシアの事典』同朋舎 マタラム王国の項などより> 
バンタム王国  → バンテン王国
アチェ王国  → アチェ王国
ウ.アフリカのイスラーム化
A クシュ王国 クシュはアフリカのナイル川の上流、現在のスーダン(古代ではヌビアとも言われた)にあたる。ここにアフリカの黒人最古の王国が成立した。もちろん、イスラーム教の成立以前のことで、およそ紀元前10世紀の頃、エジプト文明の影響を受けて成立したものと思われる。はじめはナパタを都として栄え、エジプト新王国時代にはその征服を受けたが、前8世紀頃は勢いを盛り返し、新王国の衰退し、エジプト末期王朝の時期にはエジプト全土をを支配(第25王朝)したこともある。しかし、前671年にアッシリア人がエジプトに侵入しすると、それに押されてナイル上流に後退した。前540年頃、都を南のメロエに定め、これ以降をメロエ王国とも言う。ローマ時代には、たびたびローマ軍の遠征を受けている。350年頃、アラビアからエチオピアに侵入したアクスム王国に圧迫されて滅亡した。<マーガレット・シニー著『古代アフリカ王国』東大出版会 1978>
a メロエ アフリカのクシュ王国の都で、前540年頃からはメロエ王国の都。ナイル川に面し、紅海方面とナイル川上流域を結ぶ交易に中心地として栄えたらしく、現在遺跡が発掘されている。発掘の結果、多量の鉄製品や陶器が出土し、高度な文明を持っており、また独自のメロエ文字という象形文字も用いられていたことがわかっている。(まだ解読されていない。) 
メロエ王国 前540年頃から、紀元後350年頃まで、ナイル上流の現在のスーダン(ヌビア地方)にあった黒人王国。ナイル上流のスーダンからエジプトを支配した黒人王国クシュ王国が、アッシリアによって後退させられ、前540年頃都をメロエに遷してからをメロエ王国という。都のメロエを中心に、プトレマイオス朝やローマ帝国とも交易を行い、またアフリカ内陸部の文化にも影響を与えた。紀元後350年にアラビア半島から進出したアクスム王国に滅ぼされた。
スーダン(ヌビア地方)のキリスト教国とそのイスラーム化:メロエ王国滅亡後、ヌビア人はナイル中流の現在のスーダンに三つの王国を作った。これらの王国では6世紀にビザンツ教会から伝道されたキリスト教が盛んになり、多くの教会が建設された。7世紀になるとエジプトを征服したイスラーム勢力がこの地に及んだが、ヌビア人はキリスト教信仰を捨てず、長く抵抗をつづけ、10〜11世紀のエジプトのファーティマ朝に対抗するキリスト教国として存続した。しかし1171年にサラディンのアイユーブ朝が成立すると次第に圧迫されるようになり、1317年マムルーク朝の保護国となるに及んでイスラーム化した。<宮本正興/松田素二『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.154-157> → 近代のスーダン
メロエ文字 ナイル上流のスーダンにあったメロエ王国で、エジプトのヒエログリフを基にして、工夫された独自の文字。
B アクスム王国 紀元前後から7世紀頃まで、エチオピアで繁栄したキリスト教国。アラビアとの交易で栄えたがイスラーム帝国に押されて衰退した。アクスム人は、もとはアラビア半島の南端の現在のイエメンにいたセム系の民族で、紀元前のある時期に紅海を渡り、現在のエチオピアの海岸地方に移住し、前2世紀頃アクスムを都とする王国を建国した。現在のエチオピア北部のアクスムに古代アクスム王国の繁栄を示す遺跡が残っている。アクスム王国は紀元後3世紀にはローマ帝国の衰退に乗じて紅海の通商路に進出し、ササン朝ペルシアとも抗争した。また4世紀にはナイル上流に進出して350年にメロエ王国クシュ王国の後身)を滅ぼした。6世紀にはアラビア半島に進出し、アラブ人とも密接なつながりを持ち交易を行った。アクスム王国はエチオピアのキリスト教の繁栄の基を築いたが、7世紀頃からイスラーム勢力がアラビア半島に勃興すると交易ルートをたたれ、次第に衰退した。
アクスム王国とキリスト教:アクスム王国はキリスト教を受容し、それを国教として保護した。そのキリスト教は451年のカルケドン公会議で異端とされたキリスト単性説(キリストの人性を仮性とし、神性のみを認める)であり、ローマ=カトリック教会とは異なり、エジプトで盛んであったコプト教会といわれるものである。
出題 東京大学 2003 (世界史上の都市に関連して)「歴史上、首都の名称がそのまま国名として通用している例は少なくない。3世紀にローマの勢力が後退した機をとらえて、紅海からインド洋へかけての通商路を掌握して発展したアフリカの国(a)もその一つである。(a)の商人は、同じくインド洋で活動していたアジアの国(b)の商人と、インドの物産や中国から運ばれてくる絹の購入をめぐって競い合った。この2つの国の首都の名称を記せ。
  解答 →  
エチオピア (古代)アフリカ大陸の北東部に広がる広大なエチオピア高原(アビシニアともいう)は、紀元前後のアクスム王国以来、独自の文化を継承し、独立を維持(もちろん紆余曲折はあるが)し、現代まで続いている。伝説では「シバの女王の国」といわれ、アラビア半島との関係が強い。最初のアクスム王国を建国した人々も紅海をはさんだアラビア半島南部とから渡ってきたセム系民族とされる。紅海を利用したアラビアとの交易で繁栄し、プトレマイオス朝やローマ帝国、ビザンツ帝国とも交易を行った。彼らはアレキサンドリアで盛んだったキリスト教の単性説を受け入れ、コプト教会というキリスト教信仰をつづけた。7世紀以降はイスラーム帝国が成立しアラビアとの交易が途絶えて衰退し、スーダン方面からのイスラーム教の浸透が続いたが、現在でも国民の半数はコプト教会キリスト教徒である。 → エチオピア(現代)
Epi. 「シバの女王の国」エチオピア 「エチオピアは『シバの女王の国』と呼ばれてきた。伝説によると、紀元前10世紀、英明で名高いエルサレムのソロモン王のもとを訪れた南アラビアのシバ王国の美しい女王とのあいだにできた男子メネリクが、後にエチオピア王国を開いたとされる。これはあくまで伝説での話だが、こうした伝説が成立する背景として、古代エチオピアにおけるヘブライ文化(エチオピアにはファラシャと呼ばれるユダヤ教徒が存在してきた)の影響や紅海をはさんだ南アラビア文化との活発な地域交流が指摘できる。」<宮本正興/松田素二『新書アフリカ史』1997 講談社現代新書 p.158>
コプト教会  → 第1章 3節 コプト教会
A ガーナ王国 アフリカの西部、ニジェール川の上流域(現在のマリとモーリタニアの国境地帯)に、成立した黒人王国。文字を持たない文化であったため、成立時期などは不明であるが、8世紀にアラブ人の記録に、「黄金の国」ガーナに遠征軍を送ったという記録が現れる。それ以前から、ガーナ産のと、サハラ産の岩塩の交易が行われていたらしい。(アフリカでは塩が貴重だったので、塩と同じ重量の金と交換したという。)また、ガーナ王国の王宮では犬も金の首輪をしていたという。これらの情報はイスラーム商人を通じてもたらされ、またイスラーム教の布教も行われたが、ガーナ王国はイスラーム化することはなかった。1042年、北アフリカに起こったイスラーム教国のムラービト朝の侵略を受け、1076年都のクンビ=サレーが陥落した。その後、独立を回復するが、1235年にはマンディンゴ人に制圧されて、マリ王国に編入された。
Epi. ガーナ王国と現代のガーナ 現在、ガーナという国名の国家は、大西洋に面した西アフリカの海岸地方にあり、古代のガーナ王国の位置ではなく、直接の関係はない。もとは、イギリス領の「黄金海岸」(ゴールドコースト)であったところが、独立に際して、その指導者エンクルマが、ヨーロッパ勢力侵入以前に繁栄していたガーナ王国の名を用いたのであった。 → ガーナの独立
a 金  
b 塩 サハラで産出したのは岩塩。
c ムラービト朝  第2節 ムラービト朝
d カムネ=ボルヌー王国 アフリカの中央部、チャド湖周辺に9世紀から19世紀末まで存在した黒人国家で、11世紀からはイスラーム化し、ムスリム商人とアフリカ内陸の交易で繁栄した。チャド湖はサハラ砂漠の南の淵にある大きな湖で、かつてはこの付近の中央アフリカをスーダンといった。14世紀後半までのカネム王国と、それ以後のボルヌー王国を併せてカムネ=ボルヌー王国という。はじめはサハラ北部のトリポリなどのイスラーム圏の交易にあたっていた。16世紀後半には全盛期となり、周辺に衛星国を多数持ち、大勢力であった。その後盛衰をくり返しながら、1893年まで存続した。現在は王国の領土はチャド、ニジェール、ナイジェリア、カメルーンに分割されている。 
B マリ王国 西アフリカのニジェール川上流からセネガル川留意域を支配した黒人王国でイスラーム教国。13世紀にガーナ王国に代わって台頭したマンディンゴ人が建てた国で、ガーナ王国と同じく、金の産地を押さえ、北アフリカとの交易でその都トンブクトゥは大いに栄えた。14世紀には全盛期を迎え、国王マンサ=ムーサがメッカ巡礼を行ったことで有名である。また大旅行家のイブン=バットゥータがマリを訪れている。15世紀に東隣のソンガイ王国によって押され衰退する。なお、現在のマリはこの地に出来た国であるが、直接は関係がない。
a トンブクトゥ 13〜16世紀、ニジェール川湾曲部の都市で、西アフリカ(かつては西スーダンと言われていた、現在のマリ共和国)地方の交易の中心地として、マリ王国ソンガイ王国の時代に栄えた。この地方の金をはじめ、奴隷・象牙・黒檀などが北アフリカにもたらされ、北からは塩の他に銅や鉄の製品、布などがもたらされた。またイスラーム神学を研究する大学も建設された。16世紀のサンコレイ大学は、黒人による最初の大学とされる。1590年、モロッコ人の侵入によってソンガイ王国が滅亡し、さらに大航海時代となり交易はポルトガルによる海洋交易が主流となったためトンブクトゥは衰えた。
世界遺産 トンブクトゥ トンブクトゥは1988年、「黄金の都」として世界遺産に登録された。かつて塩と金の交易で栄え、都市全体がアフリカにおけるイスラーム遺跡として貴重なだけでなく、多くのマドラサやモスクが残されている。15世紀のサンコレイ大学は現在モスクとして残されているほか、アラビア語の文献も保存されている。なおマリ共和国には他に、ソンガイ王国の王のアスキアの分後とドゴン族が断崖に創った集落であるバンジャガラの断崖が世界遺産に登録されている。<2009年4月29日放送 NHK「世界遺産への招待状」による>
b マンサ=ムーサ マリ王国の最盛期の国王。在位1312〜37年。イスラーム教を熱心に信仰したマンサ=ムーサが1324年にメッカに巡礼に上ったときの評判は、遠くヨーロッパまで知られるほど、豪勢なものであった。別名カンカン=ムーサとも。
Epi. マンサ=ムーサのメッカ巡礼 「おびただしい従者と、黄金や贈り物を積み上げたラクダの隊列にかこまれて巡礼に旅立ち、・・・・カイロに向かった。彼はまことに見事な馬具をつけた馬に乗り、奴隷500人のそれぞれが金の延べ棒を担いで彼の前を進んだ。彼は莫大な黄金を用意して、行く先々でそれを贈り物とした。・・・・マンサ=ムーサの富と寛大さ、彼の従者たちの素朴な、礼儀正しい態度は、行く先々によい印象をうえつけ、彼のキャラバンの豪壮・華麗なさまは、のちのちまでも驚異とうわさ話のまとになった。」<マーガレット・シニー著『古代アフリカ王国』東大出版会 1978 p.72>
C ソンガイ王国 15〜16世紀、西アフリカのニジェール川流域に登場したイスラーム教国。ガーナ王国マリ王国とほぼ同じ領域を支配したが、その中では最大となった。1468年にはトンブクトゥ、1473年ごろにはジェンネの町を支配し都はガオに定めた。全盛期の王アスキア=ムハンマドは、1497年にメッカ巡礼を行い、チュニスやカイロに至るルートを押さえた。彼の死後は衰え、北方のモロッコ人の侵入を受けて衰退し、1590年に滅亡する。このモロッコ軍は、ヨーロッパの白人傭兵を使い、火器を使用してソンガイ王国を滅ぼした。
世界遺産 アスキアの墳墓 ソンガイ王国の都であったガオ(現在はマリ共和国。トンブクトゥの東300km)には、15世紀の全盛期の王サスキア=ムハンマドの墳墓が残されており、1988年に世界遺産に登録された。墳墓は1495年に建設されたもので、日干し煉瓦と泥でできたているが、形状はピラミッド型である。これは、墳墓の主アスキア=ムハンマドがメッカ巡礼の途次にカイロのピラミッドを見て、それを真似たのだろうと言われている。目を引くのは無数に突き出た横杭であるが、これは壁を泥で塗り替える必要があり、その時の足場であるという。<2009年4月29日放送 NHK「世界遺産への招待状」による> 
a トンブクトゥ  → トンブクトゥ
A ムスリム商人 の進出ムスリム商人、つまりイスラーム商人(アラビア商人)は、7世紀から紅海(当時は現在のアラビア海を含む名称であった)一帯の海上貿易に進出し、アフリカ東海岸に進出し、マリンディ、モンバサ、ザンジバル、キルワ、モザンビク、ソファラなどのアフリカ東海岸の海港都市で交易に従事していた。彼らはアラビア海を舞台に、インドとの交易も行い、さらに東南アジア、中国にも進出した。 → インド洋交易圏
マリンディ  
モンバサ  
ザンジバル  
キルワ  
モガディシュ  
a スワヒリ語 アフリカ東海岸の、ムスリム商人との交易で繁栄した、マリンディ、キルワ、ザンジバル、モンバサなどの海港都市において使用された言語。スワヒリとは「海岸」と言う意味のアラビア語に由来する。基本的にはアフリカの言語の一つであるバントゥー語の系統であるが、アラビア語の語彙、さらにポルトガル語、トルコ語、インド系言語、マレー語、ペルシア語、英語などの語彙がまじって形成された。この地域に形成された独特の文化をスワヒリ文化とも言う。スワヒリ語は現代では内陸アフリカにも普及し、アフリカの共用語としての重要性が増している。
B モノモタパ王国 11世紀から15世紀頃、東アフリカの内陸部に栄えた黒人王国。1868年のジンバブエ遺跡の発見でその繁栄が明らかになり、ジンバブエを都とした古代王国であることがわかった。この地方は金と象牙の産地で、それらの品を海岸のソファラなどの海港都市に運び、イスラーム商人と交易をしていた。16世紀末以来、ポルトガル商人がアフリカ東海岸(スワヒリ地方)に進出するとその保護下に入った。さらに19世紀には南アフリカのケープ植民地を基点としたイギリスの勢力が北上、セシル=ローズによって植民地化され、ローデシアと言われるようになる。
a ジンバブエ 1868年、アメリカの狩猟家が偶然、森林の中に巨大な廃墟を発見した。それがジンバブエ遺跡であり、モノモタパ王国の都であった。ジンバブエにはおそらく王宮と思われる巨大な石造建築が並び、また鉄器や金細工の他に、中国の陶器、ペルシアの陶器、アラビアのガラス、インドのビーズなど出土している。なお、この地は後にイギリスのケープ植民地首相セシル=ローズによってイギリスの植民地となり、ローデシアと名付けられた。その後、北ローデシアはザンビアとして独立、南ローデシアは白人政権が一方的に独立を宣言してローデシアと称したが、多数派の黒人が立ち上がり、1980年には黒人政権が成立して、国名を古代モノモタパ王国の都にちなみ、ジンバブエに改めた。