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第3章 東アジア世界の形成と発展
1.北方民族の活動と中国の分裂
ア.北方民族の動向
a 匈奴の分裂 前3世紀末から前漢と戦ってたびたび勝利し、匈奴の全盛期を迎えたが、前1世紀には漢の武帝の討伐を受けて次第に衰退し、東西に分裂した。東匈奴は内モンゴルに残り、はじめ漢と同盟して西匈奴を滅ぼした。西匈奴は中央アジアのタラス川流域に移動したが、前36年、漢と東匈奴によって滅ぼされた。東匈奴はさらに48年に南北に分裂する。北匈奴は、後漢に討たれて西方に逃れ、彼らがヨーロッパに現れてフン人となった、という説が有力である。また南匈奴は後漢に服属して以来、中国の北辺に定住し、五胡の一つとされ、晋の八王の乱に乗じて、華北に進出し、五胡十六国時代の趙、北涼、漢、夏などを建国した。華北が鮮卑族の北魏によって統一されるとそれに服属し、同化していった。→匈奴(五胡十六国時代)
東匈奴  
西匈奴  
南匈奴  
北匈奴  
b 羯(族)けつ。五胡の一つ。匈奴の一派。4世紀の五胡十六国時代には自立し、華北に侵入、一族の石勒が後趙を建国する。→(五胡十六国時代)
c 鮮卑(族)せんぴ。五胡の一つ。モンゴル高原で活動していた遊牧民族。モンゴル系とツングース系の混血とか、トルコ系などの説がある。はじめ、匈奴に服属していたが、匈奴の分裂後、2世紀頃に部族の統一を果たす。その後、内モンゴルに進出、いくつかの部族に分裂しながら漢文化を取り入れしだいに発展した。五胡十六国時代には中国北東部から華北に侵入し、いくつかの国を建てた。その中の拓跋氏の建てた北魏が439年、華北を統一し、五胡十六国時代を終わらせる。鮮卑族はその後、漢民族に同化し、独自性を消失する。→鮮卑(五胡十六国時代)
d テイ(族)てい。五胡の一つ。チベット系氏族で、中国の北西部で、半農・半遊牧の生活を送っていた。2世紀頃から動きが現れ、五胡十六国時代の4世紀後半には、長安を占領して前秦を建国した。東晋との戦いに敗れて以後は衰退。→五胡十六国時代
e 羌(族)きょう。五胡の一つ。チベット系氏族で、中国の西部、青海省付近の遊牧民。384年には、姚氏が長安に入り後秦を建国した。唐時代には党項(タングート)として知られ、11世紀には西夏を建国する。→(五胡十六国時代)
f 五胡 胡とは、漢民族から見て北方の異民族を言う(日本語の訓みは「えびす」)。中国史では、匈奴鮮卑(テイ)の五つの民族を言いう。北方遊牧民の世界では、前2〜前1世紀の間、匈奴が強大であったが、その分裂に乗じて、後2世紀頃から、他の遊牧民の自立と統一が進んだ。またその南の農耕民族である漢民族の世界で、後漢が滅亡し、三国時代から西晋の八王の乱という混乱期に入ると、これらの北方遊牧民が中国の北半分(華北)に進出し、それぞれがいくつかの国を建てた。これらを総称して五胡十六国という。その間、彼らは華北に新しい統治方式(律令制など)を生み出しながら、一方で中国文明を取り入れて、次第に漢民族に同化していく。
傭兵(東洋)  → 傭兵(西洋)
g ゲルマン民族の大移動  → 第6章 1節 ゲルマン民族の移動
h 中国の南北朝の動乱  
イ.分裂の時代
A 後漢の滅亡 後漢の衰退が進み、社会的な不安が広がると、太平道と五斗米道という民間宗教団体の活動を生み出し、黄巾の乱が勃発した。乱は鎮圧されたが、もはや漢王室には統制力は失われ、長安は董卓という軍人の率いる集団に選挙され、献帝は長安を脱出した。各地には成長してきた豪族を糾合した軍事政権が生まれたが、その中の有力な三人がそれぞれ独立した政権を作り上げ、後漢の王室は有名無実化した。その有力な三人が、魏の曹操呉の孫権蜀の劉備である。220年、後漢の献帝は魏の曹丕に帝位を譲って退位し、ここに漢王朝は消滅した。
a 黄巾の乱  → 第2章 3節 黄巾の乱
b 曹操 三国の魏を事実上、建国した人物。『三国志演義』の英雄の一人。漢の宦官の養子の子として生まれ、長じて黄巾の乱の平定に活躍。後漢の献帝を擁立して有力となる。208年、赤壁の戦い孫権劉備の連合軍に敗れ、天下三分の形勢となる。後に献帝から魏王に封じられ(216年)、呉・蜀と対抗した。曹操は屯田制をしいて国力増強に努め、後の魏の基礎を作った。また文学の保護者としても知られる。その子の曹丕が魏王朝を創建したとき、曹操には太祖武皇帝の諡号が贈られた。
c 孫権 三国の呉の初代皇帝。『三国志演義』の英雄の一人。家柄の低い武人の家に生まれ、次第に頭角を現し、浙江省を中心とした江南地方を支配する。赤壁の戦い劉備と協力して曹操を破り、212年には建業を拠点とし、222年に呉王を称して独立、229年に皇帝となって呉王朝を建てた。
d 劉備 三国の蜀の建国者。『三国志演義』の英雄の一人劉備玄徳。漢王室の劉氏一族の流れをくむという。はじめ黄巾の乱を鎮定する軍に従軍、群雄割拠する中で人望を集め、関羽張飛という有能な武人を部下に持ち、一大勢力となる。軍師諸葛孔明を「三顧の礼」で迎えたことは有名。208年赤壁の戦い孫権と連合して曹操を破り、219年漢中王を名乗る。曹丕が漢に代わり魏を建国すると、翌年四川地方の成都で即位して蜀(蜀漢)を建国し(昭烈帝)、諸葛孔明(亮)を丞相とした。
e 赤壁の戦い 208年、長江(揚子江)中流の湖北省にある赤壁で、曹操と、孫権・劉備の連合軍の戦い。華北を統一し、さらに南下して江南を目指す曹操に対し、江南の孫権が劉備と結んで抵抗した。孫権と劉備の同盟を進めたのは諸葛孔明であった。水軍が弱体だった曹操軍が長江での水上戦に誘い込まれて大敗し、曹操は南下を断念した。その結果、諸葛孔明の構想した「天下三分の計」が実現し、曹操の魏、孫権の呉、劉備の蜀の三国が鼎立する三国時代となる。
B 三国時代 中国史で後漢滅亡後の、魏・呉・蜀の三国が分立対抗した220年〜280年の60年間を言う。220年、魏の曹丕が漢の献帝の上位を受けて皇帝となると、翌年蜀の劉備が、翌々年呉の孫権それぞれ帝位を宣言し、三国鼎立の状態となった。三国の抗争が続き、263年魏が蜀を滅ぼすが、魏は265年に晋に帝位を奪われる。その晋が、280年に呉を滅ぼし、一時中国の統一を回復する。そこまでを三国時代という。
a 魏 (三国)三国時代の魏は、220〜265年、洛陽を都として華北一帯を支配した。後漢末の曹操が、献帝を擁して実権を握り、213年魏公、216年魏王となる。220年、曹操の子の曹丕が献帝に譲位を迫り、皇帝となった(魏の文帝)。明帝の次に幼帝が立つと、249年家臣の司馬懿がクーデターを起こして実権を握り、その後司馬氏一族の支配が続く。その間、263年蜀を滅ぼす。265年、司馬炎は禅譲を受けて晋(西晋)を建国する。魏では曹操の始めた屯田制、曹丕が始めた九品中正制が重要で、後の王朝にも継承された。また三国の中でもっとも東に位置していたので、遼東の公孫氏や高句麗と戦った。その背後にある日本の邪馬台国の女王卑弥呼が239年、魏に使者を送っている。
b 曹丕(文帝) 三国時代のの初代皇帝。父の曹操の後をついて魏王となり、220年に漢の献帝に譲位を迫り、禅譲という形式で帝位について魏王朝を建てた。これによって後漢は滅亡した。そのとき、漢の郷挙里選に代わり、新しい官吏登用法として九品中正制を採用した。彼は文人としても知られ、『典論』という著作もある。
c 洛陽 → 洛陽
d 呉 (三国)三国時代の呉は、222〜280年、長江流域の江南地方を支配し、都を建業(現在の南京)においた。もと後漢末の土豪孫堅が台頭、次いで孫権が魏の曹操、蜀の劉備と対抗しながら勢力を強めた。赤壁の戦いでは蜀と結んで魏に勝ったが、後には蜀と争い、魏の曹丕から呉王に封じられた。222年独立し、229年、建業で帝位につく。その後、国内では豪族の対立が続き、280年に司馬炎の晋に討たれ、三国時代が終わる。呉の時代に江南の開発が進み、その都建業はその後も南朝の都として繁栄する。また領土はベトナム北部に広がり、林邑・扶南から朝貢を受けた。
e 建業 現在の南京。三国時代の呉の都。南北朝時代には東晋が都として以来建康と改名された。
f 蜀 (三国)三国時代の蜀は、221〜263年、長江上流の四川地方を支配した。都は成都。蜀を建てた劉備は、漢の劉氏の血を引くと主張して、帝位についたので蜀漢ともいう。名臣の諸葛孔明(亮)を宰相に、魏・蜀と対抗したが、劉備死後は衰え、263年魏(司馬炎が実権を握っていた)に滅ぼされた。四川地方の南の雲南に進出し、その地方の開発を進めた。
g 成都 中国の四川省の省都。戦国時代には秦の支配下に入って、城が築かれた。後漢末の混乱期、214年に劉備がこの地を陥れ、蜀を建国した。長江上流の交易都市としてその後も繁栄し、安禄山の乱の時は唐の玄宗がここに逃れてきた。
関羽 『三国志演義』では、黄巾の賊の討伐軍に志願した劉備と張飛と酒場であって意気投合、三人は義兄弟となった(桃園の誓い)。その後、張飛とともに蜀の武将として劉備を助け、数々の武勲をたてる。三国志の豪傑で最も有名な人物。219年、呉軍に攻められて敗死。その死後、宋代頃から軍神として民衆の崇拝を集めるようになり、関帝廟が作られるようになる。横濱の中華街にある関帝廟も、関羽をまつるもので、同時に商売の神様ともされている。
張飛 項羽とともに劉備と義兄弟のちぎりをかわした豪傑。『三国志演義』でも活躍する。
諸葛孔明 劉備が、隠棲中の諸葛孔明を「三顧の礼」で軍師として迎えたことは有名な話。諸葛孔明(または諸葛亮)はその後蜀の軍師、丞相として活躍。赤壁の戦いでは、呉の孫権と連合して魏の曹操を破り、彼の唱えた「天下三分の計」を実現した。劉備没後はその継嗣劉禅を立てて魏と戦ったが、234年五丈原の戦いで陣没した。
五丈原 蜀の諸葛孔明が陣没した古戦場で、陝西省にある。234年、丞相諸葛孔明の率いる蜀軍と、武将司馬懿の率いる魏軍が五丈原で対峙したが、司馬懿は諸葛孔明の知謀を恐れて容易に兵を動かさない。膠着すること100日に及び、諸葛孔明は司馬懿に女性の着物を贈ってその臆病をからかい、挑発。司馬懿はその使者から諸葛孔明が日夜軍務に精励しながら食事が減っていることを知り、その死が近いことを悟る。そんなとき、赤い星が五丈原の蜀軍の中に落ちるのが見られた夜、諸葛孔明は陣中で病没した。蜀軍は兵を退いたが、魏軍は諸葛孔明の策略をおそれて追撃できず、「死せる孔明、生ける仲達(司馬懿の字)を走らす」と言われた。
C 晋 (西晋)265年、司馬炎が魏の皇帝の禅譲を受けて武帝となる。都は洛陽におかれた。280年、呉を滅ぼし、中国を統一した。武帝は、土地公有制の先駆となる占田法・課田法を実施し、統一政策を進めた。また、魏の官吏登用法である九品中正制を継承してが、その結果地方豪族の家格が固定化し、中央の官僚として門閥貴族化が進んだ。司馬氏の一族が互いに争うようになり、290〜306年、八王の乱が起こる。その際、兵力として北方民族を導き容れたため、次第にその勢力が強まり、ついに五胡の侵入を受け(永嘉の乱)、316年に滅亡した。その後、一族の司馬睿が江南に逃れて晋を再建するがそれを東晋とし、それ以前を西晋と言って区別する。西晋の時代は魏の九品中正の制度が継承され、貴族社会の形成が進み、また文化史上では竹林の七賢など清談の流行や、仏教の布教などの重要な転換期であった。
a 司馬炎 (武帝)の曹操・曹丕親子の武将だった司馬懿(仲達)は、249年クーデターによって実権を握った。その後、その子司馬昭、孫司馬炎と司馬氏の権力が続き、魏の皇帝は名ばかりとなった。265年、司馬炎は魏の皇帝の禅譲を受け、皇帝となった。それが晋の武帝である。武帝は魏の屯田制で蓄えられた兵力を用いて、帝位につく前の263年にはを滅ぼし、さらに280年にはを滅ぼして晋の中国統一を実現した。武帝は占田法課田法戸調式などを定め、統一的な土地制度と税制を作ったが、その死後は晋は一族の争いから八王の乱が勃発して急速に衰退する。
b 八王の乱 290※〜306年に起こった西晋の内乱。皇帝の司馬氏一族の諸王の権力争いであったが、対立しあう諸王が軍事力として匈奴など五胡と言われる北方民族の力を利用したことから、北方民族が中央権力を獲得するきっかけとなったことが重要な意味を持つ内乱であった。290年、西晋の武帝(司馬炎)が没し、子の恵帝が即位したが暗愚であったため外戚が実権を握った。300年、諸王の一人趙王がその外戚を倒し一時帝位を奪うと、301年に一族の諸王も各地で兵を挙げて大混乱に陥った。このなかの有力な八人の司馬氏一族の王たちの争いを八王の乱という。武帝の時、皇帝直属軍は縮小され、多くの兵士が帰農していたので、政府や八王はそれぞれ北方異民族を兵力として利用しようとした。306年に恵帝の弟の懐帝が即位し一応の収束をい見たが、その懐帝は311年に匈奴の劉淵によって洛陽を占領されるという永嘉の乱で、その捕虜とされてしまう。
「諸王の間にはまったく意思統一が無く、部下にあやつられながら、個々バラバラに、それぞれの利害を追求する。闘争は闘争を生み、その間に、互いに北方異民族の武力を導入して自己の戦闘能力を高めようとする。収拾のつかない、このいわゆる「八王の乱」は、さいしょ諸王や漢人の地方勢力に使われていた北方異民族が自己の武力の強さを自覚する契機となり、ついに、華北全域を異民族の跳梁にゆだねて、司馬氏の諸王が滅びさる、という結果をもたらした。」<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.169-170>
※八王の乱の開始年代 教科書によっては、武帝の没した260年ではなく、趙王が一時帝位を奪った300年、あるいは全国的な内乱に転換した301年を八王の乱の開始としているものもある。いずれにせよ、長期にわたる内乱が北方民族の台頭をもたらしたことが重要。
c 五胡  →ア 北方民族の動向 五胡
d 匈奴  →ア 北方民族の動向 匈奴(五胡十六国時代)
e 永嘉の乱 311年、匈奴西晋の都洛陽を攻撃し、西晋を滅ぼした戦乱。はじめ西晋の成都王のもとに仕えていた匈奴の族長劉淵とその子劉聡の軍が、311年に洛陽を陥落させ(洛陽は灰燼に帰し、約3万が殺されたという)、晋の懐帝を捕らえ、313年に殺害した。さらに316年、長安に即位した愍帝(びんてい)も匈奴の族長劉曜に降伏したが、この311年をもって事実上晋(西晋)は滅亡したといえる。その後、司馬氏の王族の一人司馬睿が江南で東晋を建国する。こうして華北には五胡の建国した16の国々が興亡(五胡十六国)し、漢民族は江南に押しやられて、東晋以下の南朝となる。
司馬睿 司馬睿は西晋の王族の一人であったが、八王の乱を避けて山東に移った。さらに307年、江南の中心地建業に乗り込んで、豪族を支配した。江南の豪族は司馬睿を立てて安定した政権を期待した。永嘉の乱による西晋の滅亡をうけ、317年晋王、318年皇帝となり東晋の初代皇帝(元帝)となった。
f 東晋 西晋が匈奴の侵入を受けて滅んだ後、司馬氏の一族の司馬睿が江南で317年に晋を再建した。それを東晋という。420年までの約100年間、江南地方を支配し、華北の北方民族(胡人)の文化に対して漢民族の文化を維持し、発展させた。呉の建業を、建康と改称して都とした。建康は以後、南朝の都として繁栄する、現在の南京である。383年華北の前秦(が建国した王朝)とのひ(ひ)水(肥水)の戦いに勝ち、その南進を食い止め、以後は淮河を境界とした南北で対抗するという形勢が定まった。420年部将の劉裕(宋の武帝)に禅譲し滅びる。東晋時代は詩人の陶淵明、画家の顧ト之、書家の王羲之などが活躍し、六朝文化が栄えた。また法顕がグプタ朝時代のインドに行き、戒律を学んで帰り、仏教も盛んであった。
g 建康 呉の都であった建業に入った司馬氏が建康と改名して東晋の都とした。次の宋→斉→梁→陳の南朝の都として続き、六朝文化がこの地で展開された。隋が陳を滅ぼしたときに都城は破壊され、地名も江寧と改められ、一小都市となる。後に明の首都として復興し、南京と言われるようになる。
D 五胡十六国 304年匈奴の劉淵の建国から439年北魏が華北を統一するまでの、華北に興亡した五胡や漢民族の国々を総称して五胡十六国という。五胡とは、匈奴鮮卑の五つをいう。なお、中国で北方遊牧民の南下が活発となった4世紀〜5世紀は、遠くヨーロッパではゲルマン民族の大移動が始まった時期と同じである。ユーラシア大陸の東西で同時に民族移動の波が起こったことは興味深い。また、ゲルマン民族がローマ帝国の傭兵としてその領内に移住していったのと同じように、五胡の北方民族も、東晋の八王の乱などで軍事力として用いられることによって中国内に移住していったことも同じような動きである。 
a 匈奴(五胡十六国時代)南匈奴は後漢の支配のもと山西省各地で部族ごとに生活していたが、魏の曹操がこの地を制圧すると、地域ごとに左・右・南・北・中の五部に分割して統治された。実際には奴隷として人身売買される境遇にあった。3世紀末、東晋で八王の乱が起こると匈奴はその軍事力を利用されるようになった。匈奴の自主性回復の好機と捕らえた劉淵は匈奴の兵5万を結集して、304年、漢王を称して独立し(漢王を称したのは、東晋に奪われた漢王朝を復活させることを標榜したため)、山西で建国、漢の高祖を名乗った。これが五胡十六国時代の幕開けとなった。その弟の劉聡は316年、洛陽を陥れ西晋を滅ぼす(永嘉の乱)。この漢は、319年に国号を趙に代える(前趙)。前趙は、後に羯人の石勒が建てた後趙に併合される。→匈奴 匈奴の分裂
b 鮮卑(五胡十六国時代)五胡十六国時代は、いくつかの部族に分かれて華北を支配した。慕容(ぼよう)氏は燕、乞伏(きっぷく)氏は秦、禿髪(とくはつ)氏は涼をそれぞれ建国。ついで拓跋(たくばつ)氏が華北を統一して北魏を建国した。→鮮卑族 
c 羯(五胡十六国時代)五胡の一つの羯(けつ)人である石勒(せきろく)は、はじめ南匈奴の劉淵の建てた漢の部将として、山東・河南を征服し、319年、自立して後趙を建国した。330年、前趙を併合して、帝を称した。羯人はインド=ヨーロッパ語族と推定される。後趙の石勒と次の石虎は、西域出身の仏教の僧侶仏図澄(ぶっとちょう)を保護し、都の洛陽では仏教が大いに広がった。しかし後趙は内紛によって351年に滅亡。→羯族 
d (五胡十六国時代)後趙が衰えた後、351年、苻健が前秦を建国、長安に入る。三代苻堅(ふけん)が華北を統一、さらに中国全土の統一を目指したが、383年東晋とのひ(ヒ→拡大)水(肥水)の戦いに敗れた。394年に滅亡。→(テイ)族
e 羌(五胡十六国時代)384年、長安に入り後秦を建国。一時華北一帯を支配したが、394年に東晋の劉裕の北伐を受けて滅亡した。→羌族
f 拓跋氏 鮮卑の有力部族。2世紀後半から鮮卑の中で最も有力となった部族。拓跋氏出身の拓跋珪は北魏を建国し初代皇帝道光帝となった。五胡十六国の分裂を終わらせ、華北を統一。その後、拓跋氏一族は北朝の各王朝、さらにそれを継承した隋と唐で政治的な支配層を形成したので、それらの国家を拓跋国家と言う場合もある。
g 北魏 鮮卑拓跋氏の建てた魏は、拓跋珪が396年に皇帝(道武帝)を称し、398年平城を都にして、鮮卑族の部族制を廃止し中国的な王朝に移行する基礎を築いた。三代太武帝が北燕、北涼、夏を併合して439年華北を統一した。はじめ道教を信奉し、廃仏を行ったが、4代文成帝の時、仏教に復し、雲崗の石窟寺院を建造した。6代孝文帝均田制三長制をしいて北方民族による漢人支配の体制を強化した。また494年、都を中原の洛陽に遷して服装、食事、ことばなどを中国風に改める漢化政策を進めた。しかし北方民族の不満が高まり、反乱(523年、胡人の兵士が起こした六鎮の乱など)が起き、6世紀前半には東西に分裂する(東魏西魏)。なお、北魏は拓跋氏という漢民族から見れば異民族が華北を征服した王朝であるが、まもなく漢化したので、征服王朝の中には加えない。
h 太武帝 北魏の第3代皇帝。424年から439年にかけて、華北を統一した。五胡十六国はその439年、北涼が北魏に滅ぼされたことによって終わる。さらに柔然などの中央アジアの遊牧民も従え、華北から中央アジアにかけての北魏帝国を建設し、450年には自ら大軍を率いて南朝の建康に迫ったが、揚子江北岸に到達したところで引き返し、中国全土の統一は成らなかった。太武帝の華北統一に際し、北涼にいた僧侶3千人が捕虜となって平城に連行され、それによって仏教が華北に伝えられることになった。しかし太武帝は寇謙之を用いて道教を保護し、446年に廃仏、つまり仏教に対する大弾圧を行った(北魏の仏教)。また太武帝は北方部族の軍隊を主力としたが、官人には漢人を登用し、その融和をはかった。しかし、北魏の建国を北方民族の事業として著述した史官の崔浩を死刑にする(450年の国史事件)など、晩年は混乱し、皇太子に暗殺された。
E 南北朝 420年、江南地方で東晋から宋に代わり、439年、華北で北魏が統一を達成した。このころから、中国は淮河を境として、北半分の北方民族が支配し漢民族との融合が進められた地域と、南半分の漢民族の文化が維持された地域に二分される時代が589年に隋が統一するまで続く。その時代を南北朝時代という。北朝では、北魏の後は、東魏→北斉と西魏→北周の対立が続き、北周が統一する。その北周から隋が出て中国全土を統一するに至る。南朝では、東晋の後、宋→斉→梁→陳という漢民族の王朝が続き、陳が隋に滅ぼされて、終わる。
 北朝年代は439年から589年までの中国の華北を中心とした王朝の総称。五胡十六国を統一した北魏から始まるが、その滅亡後はさらに分裂を繰り返し、最終的には隋の登場までにあたる。北方の遊牧民が晋の混乱に乗じて華北に侵入し、漢民族と同化しながら新しい支配を作り上げた。異民族王朝に起源を持つが、漢化政策によっていずれも漢民族と深く同化したものであるので、後の征服王朝(遼・金・元・清)とは区別される。しかし、北朝においてそれまでの漢民族の王朝になかった軍事制度や土地制度が持ち込まれ、それが深化して隋唐の律令制に受け継がれていく。また文化面での遊牧民の日常生活(例えば椅子の生活など)や食生活が中国に持ち込まれたのも北朝においてであった。 
a 孝文帝 北魏の第6代皇帝。471年即位したがはじめは皇太后の馮太后が摂政となり、均田制三長制の土地公有政策と税制の整備が行われた。490年に親政を開始した孝文帝は、積極的な漢化政策に乗り出し、まず494年都を平城から洛陽に遷した。洛陽の宮廷では胡服を着ることは禁止され、中国語の使用が命じられるなど、風俗習慣を中国風に改め、胡族と漢族の通婚が奨励され、胡人の名前も中国風に改められた。また宮廷では南朝風の貴族制度が採用された。また太武帝のときの廃仏は終わり、孝文帝の時代には仏教が隆盛し、都洛陽の郊外の竜門に石窟寺院が建造された。
Epi. 強行された洛陽遷都 北魏の平城から南方の洛陽に遷都するという孝文帝の考えには、故郷から離れたくない鮮卑族の反対が強かった。一計を案じた孝文帝は、ある日突然、南朝の斉を討つために江南に遠征することを宣言した。群臣は一斉にその無謀なことを諫め、泣いて止める者も現れた。そこで孝文帝は、南征をあきらめるかわりに中原に都を遷したいと言い、「遷都に賛成の者は左側に、反対の者は右側に並べ!」と一喝した。江南遠征よりは洛陽遷都の方がまだましだ、と思った群臣はあわてて洛陽遷都に賛成したという。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫版 p.368>
b 平城 中国南北朝時代の北魏の前半の都。現在の大同。北魏は建国(396年)は都を盛楽(内蒙古)に置いたが河北の後燕を滅ぼした翌年の398年に都を平城に遷した。第6代の孝文帝の時の494年、南の古都洛陽に遷都して漢化政策を進めた。北魏時代に造られた雲崗の大石窟寺院はこの平城の西方に建造された。
c 漢化政策 北方遊牧民である鮮卑族の拓跋氏が起こした北魏が、華北を統一した後、漢民族の制度や風俗、文化を取り入れて、その支配を行おうとした政策。孝文帝が493年都を平城から洛陽に遷し、胡服を着ることは禁止され、中国語の使用が命じ、胡族と漢族の通婚を奨励し、南朝風の貴族制度を採用した。 
d 均田制 (北魏)485年北魏孝文帝の時制定された土地制度。その要点は、
・15歳以上の成年男子に「露田」40畝、妻には20畝、奴婢にも同額をわりあてる。
・耕牛の所有者には、1頭につき30畝をわりあてるが、4頭までに限る。
・70歳に達するか、死亡したときは露田は国家に返さなければならない。
・露田以外に、男子には20畝の「桑田」がわりあてられる。これは国家に返す必要はない。
・桑の適さないところでは桑田に代わって「麻田」が割り当てあられる。これは露田と同じく国家に返さなければならない。
・地方官には地位に応じて「公田」が支給される。など。
豪族の大土地所有を制限し、農民からの租税収入を確保するための土地制度であり、後の隋、唐の均田制に引き継がれる。
e 三長制 北魏の隣保制度。五家を一つの「隣」とし、五隣を一つの「里」、五里を一つの「党」にまとめ、それぞれに隣長・里長・党長を置き、それらにはまじめな人物を任命し、徭役を免除した。そのかわりに管下の農民がきちんと税を納め、徭役の人夫を出すように責任を持たせた。486年孝文帝の時に施行され、均田制実施の前提としての戸籍をはっきりさせることが目的であった。
東魏 523年、北魏の漢化政策や、貴族制の導入に反発した、北方系の軍人が反乱を起こし(六鎮の乱)、北魏は大混乱に陥った。その中から台頭した軍人の高歓が、534年北魏の孝静帝を擁立し北魏の東半分(山西省以東)を支配、都をぎょう(ギョウ→拡大)(河北省)に定めた。自らは晋陽に「幕府」を開いた。しかし、建国に功績のあった北方系の軍人(勲貴)と漢人官僚の対立が激しく、政権は安定しなかった。550年、高歓の子の高洋が、東魏の皇帝から禅譲を受けて北斉を建国する。
西魏 北魏で台頭した高歓に操縦されることを嫌った北魏の孝武帝は、洛陽から西の長安に逃れ、そこを拠点としていた地方軍団長の宇文泰を頼った。宇文泰は535年、孝武帝を立てて都は長安とし、自らは華州に「幕府」を開き、華北の西半分を支配した。宇文泰は北方系の軍団組織をもとに支配下の農民を兵士として組織した府兵制を作り上げ、また法整備を進め、安定した支配機構を持つに至った。宇文泰の死んだ556年、その子が西魏の皇帝から禅譲を受けて北周が成立する。
北斉 東魏から帝位の禅譲を受けた高洋は北斉の文宣帝を称した。しかし北方系軍人と漢人官僚の対立は続き、さらに西域商人の出身という和士開が実権を握るなど、混乱が収まらず、577年に北周に滅ぼされる。
北周 556年、西魏の軍事権を握った宇文氏が、西魏皇帝から禅譲を受けて成立。都や長安を継承。その3代武帝は西魏の時に父の宇文泰が作り上げた府兵制の軍事力を擁して、北斉併合に乗り出し、577年それを滅ぼして華北の統一を回復した。さらに南朝の陳、北方の突厥との戦いを進めたが36歳で病死し、全土の統一はならなかった。武帝は軍事態勢を強化するため仏教寺院の所有地を取り上げ、僧を兵士として徴兵するという廃仏を行った(三武一宗の法難の一つ)。これによって華北の仏教は一時衰え、末法思想が始まった。次の代の皇帝は統治の力が無く、最後の皇帝の皇后の父(外戚)であった楊堅が581年に禅譲を受け、隋の文帝となる。
 南朝年代は420年から589年まで、中国南部に存続した、の4王朝を言う。華北の遊牧民族の作った北魏などの北朝に対し、漢民族が江南を中心に支配した王朝。都はいずれも建康(現在の南京)。文化的には漢の貴族文化の厳冬を継承し六朝文化(宋の前の魏と晋をいれて六つの王朝の意味)と言われる。またこの時代に、江南地方の開発が進んだことも見逃せない。 
f 劉裕 南朝の宋の初代皇帝武帝。もと東晋の有力な軍団の北府軍団の軍人。揚子江南岸の京口の貧民に生まれ、北府軍団に入る。399年に起こった孫恩の乱という江南の海岸地方で起こった五斗米道系の宗教団体の反乱を鎮圧に活躍して頭角を現した。404年クーデターを起こして東晋の実権を握り、420年東晋の皇帝から禅譲を受けて王朝を建国し、江南の豪族勢力を抑える軍事政権を樹立した。
g 宋 (南朝)420年、劉裕が東晋から禅譲を受けて立てた南朝の王朝。都は建康(現南京)。初代皇帝武帝として即位した劉裕は、もと軍人で、軍事政権という性格が強い。2代目の文帝は文芸を奨励し六朝文化が繁栄し、詩人の謝霊運などが活躍した。北魏の討伐に失敗してから衰え、皇帝一族の権力闘争も相次いで、479年に滅亡。なお、日本の大和王権の「倭の五王」が使いをよこしたのがこの南朝の宋、おおび次の斉である。
h 斉 (南朝)479年、宋の部将であった蕭(しょう)道成が宋の皇帝から禅譲されて成立(高帝)。南朝の二番目。斉の時代は建康(現在の南京)を中心とした江南の生産力が高まり、貨幣経済が発達した。しかし皇帝には無軌道なものが多く、502年に梁に取って代わられる。
i 梁 (南朝)502年、斉の皇帝の一族であった蕭衍(しょうえん)が、斉に代わって梁王朝をひらいた。この梁の武帝の統治は約50年に及び、南朝でもっとも栄えた時代と言われる。皇太子の昭明太子は文人としても有名で文選を編纂した。また梁の武帝は仏教をあつく信仰し、その保護のもとで建康には多くの寺院が建造された。また建康の商業はさらに繁栄したため、貨幣が不足し、武帝は銅銭に代わって鉄銭を発行した。しかし、548年に始まる北朝からの降将の侯景が起こした反乱(侯景の乱)で建康は荒廃し、557年部将の陳覇先に帝位を奪われる。
j 陳 (南朝)もと浙江省の貧しい家に生まれた陳覇先が、軍人となって台頭し、梁の混乱に乗じてその最後の皇帝から強引に禅譲を受け皇帝となった(557年 陳の武帝)。陳朝はいくつかの有力な軍団が寄り合い所帯のように結んだもので、589年にわずか5代で滅亡した。この南朝最後の王朝を倒し、中国を約360年ぶりに統一したのが隋である。589年、陳朝の都建康の総攻撃を行ったのは隋の楊広、後の煬帝であった。
k 六朝 りくちょう、とよう。魏晋南北朝時代の、江南地方にあった、漢民族の呉→晋→宋→斉→梁→陳の6王朝をいう。華北の北方民族とは違った、漢民族の文化が伝承され、また発展したので、この地域のこれらの王朝の文化を総称して六朝文化という。
l 魏晋南北朝時代 中国史の中で、220年に後漢が滅亡してから、589年に隋が統一を回復するまでの、約360年間の分裂時代を、魏晋南北朝という。魏と晋は華北を治めた有力国を代表している。魏晋南北朝時代はさらに、次のように分けられる。
 1.三国時代:220年〜280年の60年間=魏・呉・蜀の三国が分立対抗した
 2.西晋の統一時代:280〜316年
 3.五胡十六国と東晋:316〜420(南)、439(北)=華北は五胡十六国に分裂、江南は東晋が支配
 4.南北朝時代:420(南)、439(北)〜589年=華北は北魏が統一、その後再分裂。江南は宋→斉→梁→陳が続く。
また同じ時期を、江南地方に建設された漢民族の王朝を中心にすれば、六朝時代と言うことになる。この時代の特徴は
 A.分裂期であったこと
 B.北方民族が華北を支配したこと。
 C.貴族制社会であったこと。
 D.文化史上は六朝文化という貴族文化が南朝を中心に展開したこと。
 E.江南地方の開発が進み、生産力が高くなったこと。
の5点で押さえることが出来る。
ウ.社会経済の変化
A 貴族階級の形成 貴族制は三国時代の魏にはじまり、西晋をへて南朝の諸王朝で発展したとされる。主に南朝において貴族制は発達したが、北朝においても北方部族の武人的官僚と漢人官僚が結びついた特異な貴族制が形成された。貴族階級は、漢時代の豪族が、魏の九品中正制によって中央政府の官僚となり、その地位を世襲的に独占するようになって形成されたもので門閥貴族と言うことが出来る。彼らは代々、教養ある文人として知識階級であり、また国家の官僚として社会的な上位層を形成し、また六朝文化の担い手となった。この貴族制社会はどこまで続くかについては学説が分かれており、かつては唐の中期までを貴族制の時代とする説(内藤湖南)が有力であったが、現在は南朝梁の武帝の末年の戦乱で衰退したとする説も有力である。魏晋南北朝時代は貴族制社会であったというとらえ方は一般化している。<川勝義雄『魏晋南北朝』、布目・栗原『隋唐帝国』ともに講談社学術文庫>
a  豪族  → 2章3節 キ.漢代の社会と文化 豪族
b 九品中正 曹丕(文帝)が魏を建国した220年に制定した漢代の郷挙里選に代わる官吏登用制度。九品官人法ともいう。九品とは、一品から以下、九品までの九つにわけた品等(ランキング)のこと。中正とは、各郡の出身者一名が政府によって任命され、その地の人に品等をつけ(それを郷品という)る役職のこと。中正がつけた郷品は中央政府に上申され、その品等に応じた官職が与えられる。例えば郷品において二品を与えられた人は、四等級下の六品の官に採用され、二品まで昇進できる。中正はその郡の郷論にもとづき、有徳で有能なを選ぶという人材登用が目的であったが、次第に有力な豪族の子弟が選ばれるようになった。249年、魏の実権を奪った司馬懿が、郡の中正の上に州大中正を置き、中央の名門出身者が州大中正を兼ね、より広い範囲で郷品をつけるようになってから、個人の力量や才能よりも、血統がよく財力のある豪族の子弟が選ばれるようになり、西晋の頃は「上品に寒門無く、下品に勢族なし」と言われる状態となった。この制度は、以後の魏晋南北朝を通じて行われ、地方の豪族が中央に進出して、上級官僚の地位を独占し、貴族化していく一因となった。その弊害をなくして人材を実力本位で選出しようとしたのが隋に始まる科挙制度である。
c 「上品に寒門無く下品に勢族なし」 九品中正制で上の品等にされた人々には寒門=貧しい家の出身者は無く、下の品等とされた人々には勢族=有力者がいない、という意味。つまり、上品は有力者=豪族に占められている、ということである。西晋の時代に言われたことで、魏から始まる九品中正が本来の人材登用の目的からはずれ、豪族が中央の官僚になることが多くなったことを示している言葉。
d 貴族階級 九品中正制によって中央の官僚となった門閥貴族で、豊かな財力を持ち教育を受けることが出来、知識人として社会の中の上層を形成していた。
B 土地制度の変化 三国時代の魏や続く晋、さらに北魏などでは、豪族の大土地所有を制限して、自立した個々の家族を国家が直接掌握して租税収入を確保したり、兵力を維持したりするための土地制度がとられるようになった。そのような土地制度は隋を経て、唐時代の均田制で完成される。
a 屯田制 魏の曹操が、196年、後漢末の戦乱で荒廃した土地に、流民を募って兵士として入植させ、平時には耕作にあたらせ、戦時には軍隊を編成した。そのような兵士に田地を与えて自給自足させ(兵戸)、主に辺境の防備に充てようとするのを軍屯といい、漢代にも採られたが、大規模に展開されたのは魏の時代である。魏の時代には、入植させた農民に農具や牛が貸与され、そのかわりに収穫の半分以上を上納させるという小作方式(これを民屯という)も採用され、国家財政の大きな部分を占めた。
b 占田法 蜀と呉を滅ぼし、中国を統一した西晋の武帝(司馬炎)は、兵士を帰農させ、あわせて土地制度と税制を整備した。その土地制度が占田法・課田法、税制が戸調式である。しかし、その実体は不明な点が多い。占田とは、田を申告することの意味と考えられる。自由農民は男子で70畝、女子で30畝の占田とされ、また品等に応じて占田が行われた。課田法とあわせて、各戸から徴収される調(絹と綿で納める)の額が決められた(戸調式)。 
課田法 晋の武帝(司馬炎)が占田法とともに実施した土地制度。課田とは、田を割り付けることと考えられ、屯田兵や屯田民に割り振られる田地の広さが定められた。 
戸調式 晋の武帝が制定した、占田法・課田法によって与えられた土地を耕作する農民の一戸ごとに絹と綿を「調」として現物納させる税制。
露田北魏の均田制で、穀物田で課税対象となり還授(期限が来れば国に返す)される土地のこと。15歳〜69歳の男に80畝、妻と奴婢に40畝、耕牛に60畝という規定であった。唐の均田制では口分田にあたる。なお、1畝は約6.3ヘクタールにあたる。露田の他に、桑田と麻田があった。
江南の開発 → 第3章 3節 エ.宋代の社会 江南の開発 
土断法東晋から南朝の各王朝で採られた戸籍登録法。晋の南遷以来、華北から多くの漢民族が江南に移住してきたが、その多くは無戸籍であったため、課税の対象とならなかった。また土地をもてないものは豪族に私有民となり政府の掌握に入らないことが多くなった。そこで、東晋および南朝の各政府は、移住者に対しても現住地で戸籍を編成し、豪族の私有民となることを防ぐとともに、課税の対象にしようとした。このように現住地で戸籍に編入することを土断法という。
エ.魏晋南北朝の文化
特徴魏晋南北朝時代の文化の特徴は次のようにまとめることができる。
(1)多様で新しい文化 三国から南北朝の動乱期にあたり、多様な思想や文化が生まれた。従来の国教としての儒教に代わり、西方から仏教が伝来し、また民間から発展した道教が盛んになって、多様で新しい思想を生み出した。
(2)貴族文化の繁栄 魏の九品中正制などによって貴族社会が形成され、貴族たちは自主的で自由な議論を展開するようになった。その代表的な存在が魏から西晋にかけての竹林の七賢などである。
(3)六朝文化の展開 江南では建業(後に建康。現在の南京)を中心に、漢文化が継承された。華北が北方民族の王朝に支配された時期に、江南では文学や絵画で貴族を主体とした六朝文化が栄えた。
1 仏教の伝来 インドの成立した仏教が、中国に伝来した時期については、文献上では前漢の哀帝の紀元前2年に大月氏国の使者が伝えたのが最初とされる。そして最初の信者となったのが後漢の明帝(在位57年〜75年)の異母弟楚王英であり、皇帝としての最初の信者は後漢の桓帝(在位147〜167年)であった。後漢での仏教は道教の仙人である黄帝と一緒に仏陀が祀られており、不老長寿の霊力のあるものとして信じられた。仏教は現世的な功利を目的とする信仰の形で後漢の社会に受け入れられたのであった。仏教経典が伝えられられたのは3世紀の西晋時代で、敦煌に住む月氏の人、竺法護(233年〜310年)が初めて多くの大乗仏教の経典を漢訳した。彼の翻訳した『正法華経』は観音信仰の広まる基礎となり、また『維摩経』は竹林の七賢などの清談にも影響を与えた。次いで西域から仏図澄・鳩摩羅什らが渡来することによって、大乗仏教の本格的な受容が始まる。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫> → 中国仏教の展開
中国仏教の展開中国への仏教伝来は前漢末ともされるが、確実なのは1世紀の後漢時代に西域を通って伝えられたとである。はじめは老子や荘子の道家思想と同化して受け入れられたようだが、3〜5世紀の西晋・東晋の時代に仏図澄、法顕ら、インドとの間の僧侶の交流が盛んとなり、大乗仏教が伝えられた。特にインド僧鳩摩羅什は多くの大乗仏典をもたらし、中国人僧侶とともにその漢訳にあたった。そのため5〜6世紀の南北朝時代に、中国の仏教は発展を遂げた。北魏の仏教は太武帝が道教を国教としたため一時弾圧(廃仏)されたが、間もなく復興し、雲崗竜門などに盛んに石窟寺院が建設された。南朝では梁の武帝の保護もあり、民間に定着した。次の隋唐時代は歴代の皇帝が仏教を保護のもと、国家統制も加えられ国家との結びつきを深めた。唐の仏教の隆盛は、玄奘や義浄のようにインドに赴いて仏典がもたらされたことにもよるが、むしろ中国仏教が独自に展開したためであり、天台宗、浄土教、密教、禅宗などが成立しのがこの時代である。一方で唐王朝は道教を国教として保護したため、仏教と道教はたびたび対立し、843年の武宗の廃仏によって仏教は打撃を受けた。北魏、北周、唐、次の五代の間の仏教弾圧をあわせて「三武一宗の法難」という。10世紀以降の宋代に仏教は復興し、禅宗、浄土宗、密教、天台宗、華厳宗などが再び盛んになった。特に禅宗はめざましく発展し、12世紀に臨済宗や曹洞宗など多くの宗派に分かれた。また、民間では阿弥陀信仰が盛んになり念仏によって極楽浄土に往生するというわかりやすい教えが浸透した。なお宋代には木版印刷が普及して膨大な経典を集大成した「大蔵経」が刊行されている。13世紀に中国を支配したは、チベット仏教を国教としたが、中国在来の宗教に対しては寛容であった。しかし、異民族支配が続く中、宋代に始まるという阿弥陀信仰の結社である白蓮教が民衆の反モンゴル感情と結びつき、さらに弥勒仏が現れて民衆を救済するという下生信仰が生まれて、元に対する紅巾の乱が起こった。代にも白蓮教は邪教として弾圧されながら存続し、中期には白蓮教徒の反乱を起こす。これらは仏教と道教などの民間信仰が混合したものであり、仏教そのものとしては禅宗と浄土教の融合が進んだが、次第に衰退した。
a 仏図澄 ぶっとちょう、と読む。本名ブドチンガという、西域の亀茲(クチャ)出身の僧侶。五胡十六国の混乱期の4世紀前半に、五胡の一つが建国した後趙国に招かれ、310年から洛陽で仏教を広めた。仏図澄は門弟一万人といわれ、八九三もの寺院を建設し、華北の仏教の興隆をもたらした。仏図澄自身は経典の翻訳も著述もしなかったが、その門下から道安などの中国人僧侶が現れ、中国仏教の基礎を築いた。
Epi. 仏図澄の超能力 仏図澄は若くして幻術をよくしたといわれる。超能力を備えていたらしく、毎夜書物を読むときには腹の孔のふたをとると、孔の中から光が出て、辺りを照らしたという。朝には、孔の中から五臓六腑を引き出して水で洗ったらしい。310年に敦煌を通って洛陽に来たがその時すでに79歳になっていた。霊能者として呪術や予言に長じていた彼は、316年の永嘉の乱で洛陽を陥れた胡人の後趙王朝で国の宝として尊敬され、大和上と称せされた。亡くなったのは117歳だと言うから並の人ではなかったらしい。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫 p.31>
道安4世紀の僧で仏図澄の弟子。始めて中国人として仏教教団を組織し、始めて戒律をまとめた。五胡十六国の動乱に巻き込まれ、前秦の符堅の捕虜となって長安に連行された。道安の弟子に慧遠がおり、中国の浄土教(百蓮社)の祖とされている。
慧遠4世紀後半〜5世紀始め、東晋の僧で中国における浄土教の始祖とされる。道安の弟子として仏教経典や戒律を学び、戦乱を避けて江南の廬山に入り、東林寺を開いて念仏の道場どした。また長安の鳩摩羅什とも手紙で往来して親交を結んだ。慧遠は修行の方法として阿弥陀仏像の前で念仏をとなえる方法を始めたが、堂前に白蓮が植えてあったので、後にその結社は白蓮社と言われるようになり、浄土教(浄土宗)の始祖とされている。
Epi. 慧遠と陶淵明の交わり 慧遠は廬山に居を定め、東林寺の麓の虎渓を境として山を出ないことを誓い、三〇年間それを守った。ある日、田園詩人として有名な陶淵明と道教の大家陸静修が慧遠を訪ね、三人で「道」について語り合った。二人が帰るのを送りながら話に夢中になり、虎渓を越えてしまった。三人はそれに気づき、大笑いしたという。この話は「虎渓三笑」という画題にされている。陶淵明と慧遠に親交があったというのは作り話らしいが、二人は同時代の人で、陶淵明は廬山の南方の田園で酒と菊を愛し、農耕のかたわら詩を詠んでいた。<塚本善隆『世界の歴史』4 唐とインド 1961 p.80-84>
b 鳩摩羅什 くまらじゅう、とよむ。4世紀の末に、シルクロードを通って西域から中国に渡り、仏教を伝えた渡来僧。その名クマーラジーヴァを漢訳して鳩摩羅什と表記する。タリム盆地の小国亀茲(クチャ)国にうまれた。父はインド人、母は亀茲国王の妹だった。7歳で出家し、9歳でインドに渡り仏教を学び、大乗仏典を修めた傑僧として知られていた。五胡の一つ人の建国した前秦に招かれて401年に長安に渡るが、前秦はまもなく滅び、ついで後涼、羌人の建てた後秦と華北の王朝が交替する中、鳩摩羅什は長安で仏典の漢訳と説教につとめ、大きな影響を与えた。
Epi. 語学の大天才−鳩摩羅什 インドでサンスクリットを修めた鳩摩羅什は亀茲に戻り、さらに西域諸国のことばをマスターした。しかし亀茲国が五胡の一つ前秦の苻堅によって征服され、鳩摩羅什は涼州に移った。そこで17年間幽閉されたが、その間に漢語をマスターしたらしい。401年、後秦王によって長安に迎えられてから仏教経典の翻訳を開始、『法華経』『阿弥陀経』などの経典やナーガルジュナの『中論』などの大乗仏教の理論書の多数を漢訳した。それ以前にも経典の漢訳は行われていたが、鳩摩羅什の訳は正確・流麗であったので中国仏教にとって画期的な事業であった。もっとも僧侶としては女性スキャンダルなどもあり、自らの経典翻訳を「臭泥の中に蓮花を生じるが如し」と晩年に言っているそうだ。<鎌田茂雄『仏教の来た道』1995 講談社学術文庫 p.32-36>
c 法顕中国の東晋の僧。399年、長安を出発、仏典を求めて陸路インドに赴いた。法顕が訪れたのはグプタ朝のチャンドラグプタ2世の時代で、グプタ様式の文化が開花した時代であった。法顕は都パータリプトラで3年間、仏典を研究し、帰国はセイロン島に2年滞在、海路をとってマラッカ海峡を通り、412年に帰着した。その旅行記を『仏国記』といい、5世紀初めのインドと中国の交流を示す貴重な資料となっている。
Epi. 64歳でインドに向かった法顕 法顕は、『法顕伝』(一般に『仏国記』)によれば、長安を出発した時、64歳であった。同行した僧が10人ほどいたが、途中で死んだり、インドに留まったまま帰らなかったりで、東晋の都建康に帰り着いたのは法顕一人だったという。同書によれば、その旅行は、「長安を発してより六年にして中インドに至り、停って経ること六年、還るに三年を経て青州(青島)に達せり。凡そ遊履するところ減三十国あり」というから、帰国したのは七八歳になる。すさまじい老人パワーだ。<長沢和俊訳『法顕伝・宋雲行紀』1971 東洋文庫 による>
仏国記399年〜412年、中国の東晋の僧法顕法顕がインドに戒律を求めて大旅行をした時の旅行記。『法顕伝』ともいう。法顕は往路は西域からパミールを越え、カイバル峠からガンダーラ地方に入り、さらにガンジス流域のグプタ朝の都パータリプトラで3年間、梵語(サンスクリット語)を学んだ。帰路は海路をとりベンガル湾からマラッカを超えて帰着した。彼の持ち帰った戒律は、大乗仏教の基本を中国にもたらすこととなった。帰国後、東晋の都建康(現在の南京)で書かれたこの書は、これ以後、8世紀まで続く、中国の学僧のインド留学にとっての手引きとなり、現代においても西域やグプタ朝時代のインドの有様を伝える貴重な資料となっている。現在、東洋文庫で『法顕伝・宋雲行紀』(長沢和俊訳)として訳文を読むことができる。
Epi. 法顕、「空に飛ぶ鳥無く、地に走る獣も無い」砂漠を横断 法顕の著作『仏国記』(『法顕伝』ともいう)の冒頭近く、インドをめざす法顕がゴビからタクラマカンに至る砂漠(砂丘が常に河が流れるように移動するので沙河といわれた)を描いた部分は名文として知られている。「沙河中はしばしば悪鬼、熱風が現われ、これに遇えばみな死んで、一人も無事なものはない。空には飛ぶ鳥もなく、地には走る獣もいない。見渡すかぎり(の広大な砂漠で)行路を求めようとしても拠り所が無く、ただ死人の彼骨を標識とするだけである。・・・」<長沢俊和氏の現代語訳『法顕伝』東洋文庫 p.9>
北魏の仏教仏教はすでに5世紀の前半に、北魏太武帝が華北統一を進める中で、北涼国を滅ぼしたとき、そこにいた僧侶三千人を捕虜とし、多数の北涼国人とともに、かれらを首都平城に強制移住させたころから、北魏の国内に広まっていた。446年には、道教信者となった太武帝による弾圧(廃仏)が行われた。しかし次の文成帝の代から再び仏教は盛んとなり、北魏の都平城の近郊の雲崗に巨大な石窟寺院が造られた。さらに孝文帝による洛陽遷都後は、貴族にも信者が増え、宣武帝・孝明帝はみずからも仏教を信仰して保護したため、仏教は大いに隆盛し、都洛陽には多くの寺院が建設された。洛陽には北魏の末に一三六七の寺院があり、都市の三分の一は寺院に占められたという。また洛陽郊外の龍門の石窟はその盛況を物語るものである。<川勝義雄『魏晋南北朝』講談社学術文庫 p.377>
d 廃仏(法難)中国の5〜10世紀、北魏や唐などで行われた仏教弾圧のこと。主として対抗していた道教側からの働きかけと、仏教寺院の建設などに伴う財政負担が大きくなった場合に行われた。
北魏太武帝の漢人宰相崔浩は、道教の指導者寇謙之とともに、帝を道教信者にし、道教は442年には北魏の国教に定められた。さらに446年、太武帝は崔浩・寇謙之の意見に従い、仏教に対する大弾圧を行った。直接の動機は太武帝の北涼遠征の際、仏教寺院に武器や酒が秘匿されているのを見て、沙門(僧侶)の皆殺しと、寺院、仏像、経典の焼却を命じたものであるが、崔浩のねらいは、インド渡来で北方民族に信者の多い仏教ではなく、漢民族の古来の信仰である道教を保護することによって漢民族統治に役立て、政治理念としては儒教の理念を復興させることにあった。しかし崔浩が「国史事件」(北魏建国の歴史編纂を命じられた崔浩が、北魏王朝が鮮卑族出身であることをそのまま書いたため、太武帝の怒りを買い処刑された事件)で失脚し、寇謙之が死んでからは、宮廷内の貴族に仏教信仰が復活し、次の文成帝の時に仏教復興の詔が出された。文成帝の時に雲崗の石窟寺院が建造された。さらに孝文帝の洛陽遷都後は仏教は再び隆盛する。その後も仏教と儒教・道教の対立は続き、たびたび弾圧を受けている。仏教弾圧を「廃仏」(または排仏、破仏)といい、仏教側からは「法難」と言われる。主な仏教弾圧を「三武一宗の法難」という。
三武一宗の法難 中国仏教史上の、次の四回の廃仏(仏教弾圧事件)をまとめて「三武一宗の法難」という。446年の北魏の太武帝による弾圧、574年と575年の北周の武帝による弾圧、845年の唐の武宗による弾圧、955年の後周の世宗の弾圧。
北魏の太武帝の廃仏は、道教を華北統一のよりどころとして国教化し、北方系民族に信者の多かった仏教を排除しようとしたものである。唐の武宗の廃仏(会昌の廃仏)も、道教を信仰した皇帝が仏教を嫌ったもので、おりから長安を訪れていた日本の円仁の『入唐求法巡礼行記』に詳しく書かれている。廃仏には、王朝が過度に仏教を保護し、造寺などで出費が増えてしまったことに対する反動である面も強い。
石窟寺院インド、中国など仏教圏で多数つくられた、自然の岩壁をくりぬいて造営した寺院、および石仏。主なものに次のようなものがある。
・インド:ガンダーラ(クシャーナ朝)、アジャンター(グプタ朝)、エローラ(グプタ朝。ヒンドゥー教、ジャイナ教の石窟も含む)
・アフガニスタン:バーミヤンの石仏。
・中国:敦煌(莫高窟など)、雲崗(大同郊外)、竜門(洛陽郊外) いずれも北魏から唐にかけて造営。ただし、敦煌の仏像は石像ではなく、塑像である。雲崗と竜門はインド・西域と同じ巨大な石仏が造られている。
・朝鮮:石窟庵 751年、新羅の都慶州の郊外に建造された。仏国寺と並ぶ新羅仏教美術の代表遺物。
e 敦煌(石窟寺院)4〜14世紀にかけて多数の石窟寺院の建造され、多数の壁画の仏画、塑像の仏像が残されている西域の都市。現在の中国甘粛省のオアシス都市で西域のシルクロードへの入り口にあたる敦煌には早く仏教が伝わり、多数の石窟寺院が造営された。その中で最大のものが莫高窟(ばっこうくつ)で、4世紀の中頃から開削が始まり、五胡十六国時代の北涼や西涼の時代を経て、北魏で盛んに造営され、隋唐時代にも続いた。新しいものでは元代のものある。千仏洞ともいわれ、多数の窟内には仏教絵画、仏像(塑像)が造られ、仏教美術の宝庫である。なお敦煌の仏像は石仏ではなく、塑像である。粘土を固めて造る像。敦煌は砂漠の中にあり、雲崗や竜門のような石仏は作れなかった。
また20世紀の初め、大量の唐代の経典や文書が発見され、「敦煌文書」として知られている。
Epi. 敦煌文書の発見 1900年のある日、莫高窟に住み着いていた王という道士が、偶然に泥壁で隠されていた一窟(蔵経洞)から、膨大な数の文書類を発見した。1907年、敦煌を訪れたイギリスの探検家スタインは王道士から文書類の多数を買い付け持ち帰った。その後も、フランスの東洋学者ペリオや日本の大谷瑞を団長とする探検隊がこれらの文書を持ち帰り、研究した。これらの文書は経典類や唐代の戸籍などを含む貴重なものであることが判明した。しかし後になって、それらの文書の中には、王道士らが金に換えようとして偽造したものが含まれていることがわかった。<金子民雄『西域 探検の世紀』岩波新書 2002>
Epi. 敦煌のロマン 井上靖の『敦煌』<1959 新潮文庫など>は映画化もされて有名。物語は宋の時代、科挙に落第した趙行徳という主人公が、開封の町で偶然西夏の女奴隷を助けたことから、西夏軍の敦煌攻撃に加わることとなる。仏教を信仰するようになった趙行徳とは、敦煌が焼け落ちるとき、万巻の仏典を守ろうと石窟の一つに隠した。それが八百数十年後に王道士によって発見された仏典であったというもの。敦煌が西夏に占領されたのは1035年である。井上靖の得意なスケールの大きな西域もののロマンが人気を博し、いまでも敦煌を訪れる日本人観光客が多い。
Epi. 切り取られた敦煌壁画 もう一つ、敦煌の話。莫高窟の壁画が切り取られ外国に持ち去れるという事件があった。1924年アメリカ人でハーヴァード大学博物館のウォーナーという人物が敦煌を訪れ、莫高窟の壁画を特殊な糊をつかい、無惨にもはぎ取っていった。その後、1930年頃、今度は有名な探検家スタインを担ぎ出し、再び敦煌に入ろうとしたが、時代は変わり中国側の意識も高まっていたのでその計画は拒否された。へディンやスタインが、従者を連れて自由に中央アジアを探検する時代は終わっていたのである。<金子民雄『西域 探検の世紀』岩波新書 2002>
f 雲崗 5世紀の後半、北魏の最初の都平城(現在の大同)の郊外西方に造営された石窟寺院で、巨大な石仏で有名なところ。インドのガンダーラグプタ様式の影響を受けた巨大な石仏彫刻が特徴。
北魏では太武帝廃仏の後、次の文成帝が仏教を復興させ、僧曇曜を総監督に任じ、460年から494年の孝文帝の洛陽遷都までの間、建造が行われた。中国仏教美術の最大の遺産であり、ガンダーラ美術・グプタ美術の影響も見られ貴重である。
Epi. 雲崗の石仏の意味 雲崗に石仏を建造することを思いつき、文成帝からその監督を命じられた僧曇曜は、北魏に滅ぼされた仏教国北涼の出身で、太武帝の廃仏の間は身を潜めていたが、新帝によって都平城に招かれ、仏教復興事業にあたることとなった。曇曜は、廃仏の憂き目を再び味あわないように、容易に破壊されない仏像をつくろうとし、故郷の北涼に倣って石仏を造ることにした。また北魏の皇帝が気が変わっても破壊できぬよう、5体の大仏は北魏の太祖道武帝(拓跋珪)から現代の文成帝までの5人に擬した巨仏とした。しかも、その位置は都平城から北方の拓跋氏の故郷の地にむかう道の途中を選んだ。このような周到な配慮で造られたのが雲崗の石仏であった。<塚本善隆『唐とインド』旧中公版世界の歴史4 p.269>
g 竜門 5世紀末〜6世紀初頭の初頭の北魏孝文帝に始まり、8世紀中ごろの唐の玄宗皇帝の頃まで、洛陽郊外に造営された石窟寺院。雲崗と違い中国独自の様式が見られる。
竜門には2000以上の大小様々な石窟があり、中国仏教文化の重要な遺産となっている。北魏の最初の都である平城の西郊には仏教の復興後に雲崗の石窟寺院が造営されていたが、孝文帝が漢化政策の一環で洛陽に遷都を強行した際、雲崗に匹敵するものを造りたいと云うことで始まったものである。時期が雲崗石仏より下るため、それとは違ってガンダーラ美術やグプタ美術の影響は少なくなり、中国文化の独自性が強くなっており、大仏の裳裾の表現に見ることが出いる。
武帝(梁)南朝のの初代皇帝。在位502年〜549年。南朝の中では最も栄えた時代の皇帝で、特に仏教の保護で有名。深く仏教を信仰し、戒律を守り、自ら「三宝の奴」(仏法僧に帰依する意味)と称した。南朝の仏教はこの時代に最も栄え、都建康には700もの寺院があったという。朝鮮の百済は梁に使者を送り、仏像や経典を求めた。朝鮮の仏教は中国の江南の仏教を移植したものといえる。日本に百済から仏教が伝えられたという538年(一説に552年)も中国南朝では梁の時代である。聖徳太子は憲法十七条で「篤く三宝を敬え」と言い、聖武天皇も自らを「三宝の奴」と称した。なお、『文選』を編集したことで知られる昭明太子は、武帝の皇太子であった。
Epi. 南朝四百八十寺 唐の杜牧(9世紀)に次のような有名な詩がある。
千里鶯鳴いて緑紅(くれない)に映ず/水村山郭酒旗の風/南朝四百八十寺/多少の楼台煙雨の中
四百八十寺(しひゃくはっしんじ)は実際の数では無かろうが多くの仏寺があったことは確かで、その楼台が春雨の中に浮かんでいる様子をうたったものだ。江南の仏教が盛んであった様子がしのばれる。
2 道教 道教(Taoism)は、儒教とともに中国固有の宗教である。その源流は、原始的なアニミズムから始まるもので、神仙思想、易および陰陽五行説老子荘子の道家の思想(老荘思想)が融合した宗教と言える。とくに老子と荘子の「道」の思想(「道」は天地よりも先にあって、すべてのものを生み出す根源であり、人間の知恵を超えた、世界を支配する根本原理とする)が道教の基本理念となり、老子が道教の祖と考えられるようになった。道教教団の初めは、2世紀半ばの後漢の張角の太平道であり、黄巾の乱の原動力となった。さらに後漢末の張陵などの五斗米道天師道とも言われ、四川を中心に大きな勢力となった。
道教ははじめは符呪(おふだやまじない)が中心の、不老不死(壽)、金銭的な豊かさ(禄)、家庭の幸福(福)などの現世利益を求める宗教であったが、そこに老子や荘子の「道」の道徳観や易の宇宙観を取り入れ、さらに仏教の慈悲と救済の思想を取り入れて一つの宗教体系となった。特に北魏の寇謙之の新天師道は太武帝によって国教とされ、保護されることによって隆盛を迎えた。道教は、その後も仏教に対抗して教団組織を発展させ、仏教の僧侶にあたるものが道士、寺院にあたる者が道観といわれ、各地につくられた。また11世紀はじめには、仏教の大蔵経にならって「老子道徳経」などの教典が「道蔵」として編纂された。
唐、宋時代を通じて国家の保護が続いたが、そのためにその教えは体制化し、民衆から離反した。金の王重陽はそのような道教の改革にあたり、現世利益の面を弱め、禅宗の要素を取り入れて精神性を高めた全真教を起こした。一方、南宋では従来の天師道系の道教が正一教と言われて民間に行われた。元以降は教団としての道教は衰えるが民間には様々な神々をまつる民衆道教として生き残っている。<以下、道教についての記述は、村上重良『世界宗教事典』講談社学術文庫版を参照>
a 神仙思想 神仙思想は紀元前3世紀頃から、山東半島を中心に広がったもので、不老不死の神仙(仙人)が実在するとし、人間が神仙になることを信じている。4世紀に晋の葛洪が著した『抱朴子』では、不老不死になるためには修行によって生を養う養生術と、丹(または金丹)という薬をつくってて服用するという錬丹術がある、としている。神仙思想は後に道教に取り入れられ、民間に広がる。
Epi. 不老不死を願った始皇帝、徐福を日本に派遣? 山東半島のはるか東の海中に蓬莱山などの神仙境があり、そこには不老不死の仙薬があると信じられていた。秦の始皇帝も不老不死を願って仙薬を求め、徐福を蓬莱山に派遣した。徐福は数千人の童男童女をつれて、蓬莱山に向かったという。この徐福の目指した蓬莱山とは日本のことで、徐福が日本に来たという伝説が残っている。丹後半島の東南海岸(京都府)にある新井崎神社は、この徐福を祀る神社だという。<福永光司他、『日本の道教遺跡を歩く』1987 朝日選書 p.94>
b 寇謙之 こうけんし。北魏で五斗米道(天師道)以来の道教を新たに体系化し、新天師道を起こし、太武帝に信任されて、道教の国教化を実現した。洛陽に近い嵩山(霊山の一つ)で神仙になる修行をしているとき、天神の啓示を受けて道教の革新を使命とし、そのころ建国された北魏の都大同に赴いた。そこで知り合った漢人儒者崔浩と知り合い、ともにインド伝来の仏教を排斥することで一致し、太武帝に道教を国教とすることを建言した。それが太武帝の採用することとなり、寇謙之は国師となり崔浩は側近(後に宰相)となった。二人を信任した太武帝の華北統一は順調に進み、439年までに華北を統一した。その領土が西域に及んだため、その地で盛んであった仏教が華北にさらに流入したため、442年太武帝は仏教弾圧を断行(廃仏)した。こうして寇謙之と崔浩の名声は高まり、道教教団は国教として栄えたが、崔浩が失脚し、寇謙之死後は北魏宮廷内にも仏教復興の動きが出て新帝文成帝は仏教復興の詔を出した。
新天師道 5世紀前半の北魏の寇謙之が、旧来の五斗米道(天師道)を改革してつくった教団で、はじめて道教と称した。新天師道は、武侠と儒教の影響を受け、教義、教典、儀礼を整え、北魏の太武帝によって国教とされた。
道士 道教の教職者、修行者を道士という。仏教での僧侶にあたる。その居所が道観である。 
道観 道教の神々を祀るところで、道士が教えにあたり、修行をするところ。仏教でいう寺院にあたる。唐の683年には諸州に道観が建てられたという。道観の祭壇には、道教の最高神である老子ないし「道」を神格化した元始天尊(後に玉豊大帝)が祀られ、さらに孔子や釈迦、武将の関羽など様々な人が神として祀られている。
道蔵 道教の教典は老子の作と言われる「老子道徳経」をはじめ、おびただしい数に上り、11世紀のはじめに仏教の「大蔵経」にならって道蔵として集大成された。 
3 貴族文化  
老荘思想 春秋〜戦国時代の老子荘子の道家の思想をあわせて老荘思想といい、儒家の礼や徳の重視を人為的な道徳として否定し、無為自然を説いた。漢の武帝が儒学を官学とすると、儒学は経書の解釈に事とする訓詁学が流行したが、後漢末から三国時代の混乱期になると、その反動から反儒学的な老荘思想が人々の心をとらえた。その代表的が竹林の七賢といわれる人々で、彼らは世俗を離れて自由な境地をめざし、清談に明け暮れた。このような老荘思想の流行は、魏晋南北朝時代を通じて続き、貴族文化の一つの特徴であった。老荘思想は貴族社会だけではなく、民衆にも浸透し、神仙思想などと融合して道教を生み出した。
a 竹林の七賢 魏から西晋にかけての3世紀ごろ、老荘思想の影響を受け、儒教倫理の束縛から離れた自由な議論を展開した阮籍らを竹林の七賢という。
背景には三国の中で有力であった魏で、司馬懿が実権を握り、司馬昭、司馬炎と三代がかりで権力を簒奪して晋(西晋)を建国したという3世紀の王朝交替がの混乱があった。貴族の中にそのような政治の場面から身を避けて隠遁し、竹林に集まって酒を飲んだり、楽器を奏でたりしながら、きままに暮らす人々が現れた。彼らは権力者の司馬氏からの招聘も断り、自由に議論するを好んで「竹林の七賢」と称された。阮籍(げんせき)・けい(ケイ→拡大) 康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉怜・阮咸(げんかん)・王戎の七人を言うが、七人が同時に集まっていたということではない。彼らの議論は「清談」と言われ、以後の六朝の文化人の理想とされた。なおその中のけい康は、魏の実力者司馬昭(司馬炎の父)によって死刑になっている。
阮籍げんせき。「竹林の七賢」の一人で、3世紀の魏の代表的な思想家。俗界の名利を求めるのをやめ、自由に議論し、音楽を楽しみ、囲碁や酒を愛し、清談に明け暮れたという代表的人物。囲碁を好み、母親の死を知りながら囲碁を止めなかったという話や、名利を求めて近づく人間は白い目で迎え(「白眼視」という言葉のおこり)、清廉な人物は青眼でで迎えたという話は有名である。
b 清談 3世紀の中頃、魏から晋への交代という政治的変動期に、そのような政治的陰謀を避け、現実から逃避して、自由に物事を論じることを好む知識人が現れた。彼らは、琴を弾じ、酒を酌みながら自由に議論し、正しい「道」を求めたのであろう。そのような議論を「清談」といい、「竹林の七賢」が有名。かれらの理想とするところは、老荘思想の無為自然という境地であった。 
c 六朝文化 りくちょうぶんか。六朝とは、魏晋南北朝時代に江南地方に存続した、漢民族の六つの王朝、呉→晋→宋→斉→梁→陳の六王朝で、いずれも都を建業(建康。現在の南京)においていた。華北が五胡に占領されたのに対し、この地には門閥貴族が皇帝の政治を支える貴族社会が継続し、彼らが漢文化を継承発展させた。代表的人物は、文学では陶淵明(陶潜)、謝霊運、昭明太子。画家では顧ト之、書道では王羲之があげられる。
d 陶淵明(陶潜) 東晋から南朝の宋の時代にかけて活躍した、六朝文化を代表する詩人。中国文学史の中でひときわ光る田園詩人、隠遁詩人である。没落した貴族の家に生まれ、41歳の時に「五斗米の為に腰を折り郷里の小人に向かうあたわず」(わずかな給料を得るために田舎の小役人にへいこらできるか)と役人を辞め、貧しさにめげずに晴耕雨読の生活を送り、詩作をものした。「帰りなんいざ、田園まさに荒れなんとす、なんそ帰らざる・・・」と歌った長編詩「帰去来の辞」が最も有名でる。酒を愛し、約百三十編の現存する彼の詩のうち、半数は酒を歌っている。<井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書 2005 p.58> 
e 謝霊運 5世紀の南朝の文帝時代の人で、六朝文化の詩人として有名。彼は前王朝の東晋に対する忠義をわすれず、宋の文帝を簒奪者として非難したため、反逆者として捕らえられ広東で処刑された(433年)。
f 昭明太子 6世紀初めの南朝、武帝の皇太子で、学問に優れ、古来の名文を編纂した『文選』を残した。『文選』は日本にも伝えられ、平安時代の文学に大きな影響を与えた。 
『文選』もんぜん。南朝の梁の皇太子、昭明太子の編纂した、周から魏晋南北朝時代の文章家127名の名文を集めたもの。平安時代の日本にも伝えられ、平安文学に大きな影響をもたらした。
 四六駢儷体
→駢の正字はですがここでは略字を使用。→駢儷の拡大
四六駢儷(べんれい)文、または単に「四六文」、「駢文」ともいう。駢儷とは「ならべる」と言う意味で、4字と6字をもとにして、対句表現を行う文体をいう。初めは詩に用いられていたが、南北朝時代には散文にも取り入れられ、その形式が貴族社会の流行となった。特に南朝では音韻の研究が進んで四声が発見されたため、韻を踏む詩文として盛んになり、華麗な技巧が発達した。この流行は唐代まで続いたが、次第に形式化が進んで陳腐に感じられるようになり、韓愈などの古文復興運動が起こってくる。
h 顧ト之 こがいし。4世紀後半、中国史上最初に現れた画家で、「画聖」といわれる。書家の王羲之と並び、六朝文化の貴族文化を代表する芸術家である。その代表作は『女史箴図』(ロンドン大英博物館蔵)、『洛神賦図』(ワシントン・フレア美術館所蔵)であるが、いずれも模写しか伝わっておらず、真筆は散逸した。
Epi. 三本の毛を加え、画に魂を入れる 顧ト之は肖像画が特に優れており、裴叔則という人の肖像を描き最後に頬の部分に毛を三本かき加えた。ある人がわけを尋ねると、顧ト之は「裴叔則は優れた見識のある人だ。この毛こそその見識を示すものだ」という。あらためてとっくりと眺めると、なるほど三本の毛を加えたことで魂があるように見えたという。<井波律子『奇人と異才の中国史』岩波新書 2005 p.52> 
『女史箴図』 じょししんず。東晋の画家、顧ト之の代表作。張華の著した「女史箴」(宮廷の女官に対する戒め)をもとにして女官生活の一場面を描いたもの。ロンドンの大英博物館に所蔵されているが、顧ト之の直筆であるかどうかは疑問視されている。模写である可能性が高いが、六朝文化を代表する作品であることは間違いない。
i 王羲之 おうぎし。4世紀前半、東晋の時代に「書聖」といわれた六朝文化を代表する書家。魏以来の貴族の出であったが、中央政治にはなじめず、首都建康を離れて、会稽(浙江省)の地方官として赴任し、文人と交遊しながら『蘭亭序』などの代表作を生み出し、楷書・行書・草書の書体を完成させ、後の書道に大きな影響を与えた。子の王献之も優れた書家として知られ、二人合わせて「二王」という。
『蘭亭序』東晋の永和9年(353年)3月、会稽郊外の蘭亭(紹興県西南)に集まった王羲之、謝安ら四十一人の一流文士が森や竹林の下をまがりくねってゆく流れに盃を浮かべて即興の詩を詠じては飲みかつ楽しんだ。これは東晋時代に流行した清談の典型とされる。その時の歌集の序文が王羲之の書いた『蘭亭序』で、彼の代表的な書とされている。
『三国志』晋の陳寿が編纂した、三国時代の歴史書。魏書、蜀書、呉書から成る紀伝体を形式をふむ正史であるが、正統な王朝は魏のみであるという立場から帝紀は魏書だけである。3世紀の邪馬台国女王卑弥呼の魏への遣使を記録する「魏志倭人伝」はその一部でである。なお、『三国志演義』とは全く別な書物である。『三国志演義』は、魏蜀呉三国の抗争を題材として、英雄豪傑たちを主人公にした物語で、元代に生まれ、明代に羅貫中が現在のような形にまとめた『三国志通俗演義』のこと。一般に『三国志』というと『三国志演義』を指すことが多い。
『斉民要術』北魏の賈思きょうキョウ→拡大)が著した現存する中国最古の農業技術書。山東省の乾地農法に適した作物の栽培、加工、販売方法などを記しており、当時の実用書である。
『水経注』北魏のれきレキ→拡大)道元が編纂した地理書。『水経』という書物への注という形で、中国各地の河川について、その水路、流域の状況などを解説した書物。
『傷寒論』西晋で完成した中国の最古の医学書の一つ。後漢の200年ごろ、張仲景が著した医学書とされるが、現在の書物となったのは西晋の王叔和が編纂したもの。張仲景は後漢の高級官僚であったが、当時高熱を伴う竜教廟(恐らく腸チフス)が流行して数百人に上る一族が死んだため、この書を作ったという。直接に治療に役立つ書物としてすぐれており、後世の医学に極めて大きな影響を与えた。ことに金、元時代にはさかんに研究され、日本でも江戸時代の医者の必読書とされた。脈による病状の診断を中心として、病気を治療する処方が示されている。<藪内清『中国の科学文明』1970 岩波新書 p.56>
オ.周辺国家の形成
A 朝鮮半島の情勢  
a 朝貢 (古代)高度な文明を誇り、強大な国力を持った国家に対し、その文明の影響を受けながら国家形成を進めた周辺の諸民族の統治者が、その統治権を認めてもらうために、使節を送り、財物や奴隷などを貢ぎ物として差し出すこと。その見返りとして、王号や官職を授与される(冊封体制)。中国の各王朝に対する朝鮮や日本などの東アジア諸国、ベトナムなどの東南アジア諸国、中央アジアの西域諸国などが行ったのがそのような朝貢である。中国の王朝でも力関係が逆転すれば、匈奴帝国や遼、金などの北方民族の遊牧国家に朝貢したこともある。また、中華思想が確立した唐王朝以降も、中国の各王朝は外国からの朝貢という形で外国との貿易関係を持つのが通例であった。 →明代の朝貢貿易
貊族 貊はハクと読む。古代朝鮮の高句麗を建国した、ツングース系の民族。
b 高句麗 満州から北朝鮮にかけて活動していたツングース系の半農半狩猟の貊族(はくぞく)が後漢末に遼東の太守公孫氏に追われて、209年、鴨緑江流域に移り建国した。都は鴨緑江北岸の丸都城。中国が三国時代の分裂期にはいると勢力を強め、313年に楽浪郡を滅ぼし、427年には都を平壌に移し、現在の中国東北地方から北朝鮮に及ぶ大国となって繁栄した。特に広開土王の時は領土を南方に広げ、朝鮮半島に進出した倭国とも戦った。その勢力は中国の遼東半島にも及び、北西の突厥とともに中国の王朝にとって脅威となったので、隋の煬帝は数度にわたって高句麗遠征を行ったが、いずれも失敗し、その滅亡の一因となった。次いで唐の太宗も高句麗遠征の軍を起こし、新羅と結んで高句麗を挟撃した。このような唐新羅の連合軍の両面からの攻撃を受け、668年に滅亡した。4〜5世紀に高句麗が強大になったことは、東アジアの中での日本国家の形勢に大きな影響を与えた。高句麗時代の古墳に見られる壁画と日本の高松塚古墳(7〜8世紀初頭)との類似性が注目されている。
Epi. 高句麗は中国?、朝鮮? 2004年8月6日の『朝日新聞』記事によると、「高句麗」をめぐって韓国政府が中国に抗議したという。最近中国が「高句麗は中国の一地方政権だった」という宣伝を強めたためという。高句麗は5世紀の最盛期には現在の中国東北部から韓国の北部までを治め、韓国としては「かつての広大な領土に誇りを感じさせる」存在である。現在も中国東北部には多数の朝鮮系民族が居住している。中国が高句麗は中国の一部という歴史解釈を強調するのは、中国に住む朝鮮族が半島との一体感を強め、独立運動に発展することを恐れているのではないか、という見方も出ている。韓国の盧武鉉政権は「歴史の再評価」に踏み出し、日本の植民地統治下の親日派を糾弾する法律を制定しようとしており、その手前もあって中国にも強気で抗議しなければならなくなっているという。アジアのナショナリズムが変な方に行かなければいいがと心配される動きである。
丸都城 209年、鴨緑江北岸に建てられた高句麗の都城。現在は中国の吉林省集安の通溝にあたる。342年に故国原王が丸都城を修復して国内城と名付けた。高句麗の全盛期の好太王の碑が国内城に建造されている。その後、長寿王の時の427年に都は南方の大同江流域の平壌(現在の北朝鮮の首都ピョンヤン)に移された。
c 広開土王(好太王) 高句麗の全盛期の王(在位391〜412年)。広開土王とも好太王とも言う。396年以来、たびたび朝鮮南部に進出し、百済および、百済と結んだ倭国と戦い、領土を広げたとされる。彼の功績を称えた碑が、丸都城跡(現在の中国の吉林省集安市通溝付近)に建てられている。その碑文は「広開土王碑(好太王碑)」といわれ、古代において倭人(日本)が朝鮮半島に進出していたことを示す資料とされているが、1884年に発見されてから日本陸軍が改ざんしたのではないか、という疑いももたれている。
広開土王(好太王)碑高句麗全盛期(4世紀末)の国王広開土王(好太王)を記念して立てられた石碑で、鴨緑江中流の北岸の丸都城付近にある。碑文によると広開土王は391年と399年の二度にわたり南下して、倭と百済の連合軍と戦ったとされている。日本史ではこの記録をもとに大和政権が4世紀末に朝鮮半島南部に進出し、支配していた(任那など)というのが定説になっている。しかしこの石碑は1882(明治15)年に日本の軍人が発見したもので、その際に碑文が改ざんされたのではないか、という疑惑があり、韓国の史学会では疑問視されている。
平壌現在の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の首都ピョンヤン。古来、朝鮮半島北部の中心地で、大同江中流の主要都市。はじめ漢の武帝が置いた楽浪郡の中心地の王険城もこの地であったらしい。その後、楽浪郡を滅ぼした高句麗が、長寿王の時427年に都を丸都城から平壌城に移した。平壌周辺には今も高句麗時代の古墳などの遺跡が多い。668年、高句麗を滅ぼした唐は、平壌に6都護府の一つ、安東都護府を置いたが、新羅が自立したため、676年に遼東の遼陽に退いた。以後、新羅・高麗の時代は都ではなかったが、朝鮮王朝では平安道の道都が置かれた。
民族朝鮮半島で現在まで文明を継承している民族が韓(ハン)民族。アルタイ語系に属しているとされ、衛氏朝鮮からが漢民族の国家であると現在の韓国では考えられている。衛氏朝鮮が漢の武帝に滅ぼされてから朝鮮の大半は漢の直接支配を受けたが、南部には韓民族が次第に自立してきた。その後は北部はツングース系の高句麗に支配されたが、2世紀頃から馬韓・辰韓・弁韓という三地域(三韓)にわかれ、それぞれに小国家を分立させた。4世紀頃、馬韓の地を百済、辰韓の地を新羅が統一して、三国時代となった。その後、新羅が統一し、高麗を経て朝鮮王朝となり、1897年に大韓帝国と改称、1910年に日本に併合された。第2次大戦後独立を回復したが、北の朝鮮民主主義人民共和国と、南の大韓民国(韓国)とに分断され、現在に至っている。
三韓 2〜3世紀の南朝鮮は韓族が多くの小国家を作って分立していた。それらは、半島南部西側の馬韓、最南端の弁韓国、東側の辰韓の三つの地域にわかれ、総称して三韓という。4世紀に、馬韓の50余国は百済に、辰韓の12余国は新羅に統一された。
d 新羅 (三国)「しらぎ」とよむが本来は「シンラ」。356年に、朝鮮の辰韓の地の12余国をその一つの斯盧国が統一して、新羅が成立した。都は現在の慶州で、新羅では金城と称した。朝鮮の三国時代の高句麗・百済と争い、次第に強大となった。562年には加羅を倭から奪い、7世紀には唐と結んで、660年に百済、668年には高句麗を滅ぼし、朝鮮半島を統一した。さらに676年には唐の勢力を排除して自立した。→ 新羅の統一
慶州 (金城)韓国の読みではキョンジュ。三国時代および統一時代の新羅の都。新羅では王城として金城と言われた。新羅の仏教文化が開花したところとして有名で、石造の多宝塔で有名な仏国寺や、石仏で有名な石窟庵などがあり、市内には新羅時代の王墓が見られ、文化財の宝庫である。 
e 百済 345年頃、朝鮮の弁韓の地の50余国を伯済(はくさい)が統一した。高句麗・新羅とともに朝鮮の三国時代を形成。都は漢城(当時は慰礼城。現在のソウル)。後に熊津、さらに扶余に移した。南朝のを通して仏教を取り入れ、聖王(日本書紀では聖明王)などが保護、日本への仏教伝来は百済を通じてであった。高句麗・新羅に圧迫されたので倭国(日本)とは協力関係にあった。660年に百済が滅亡後、日本は救援軍を送ったが、663年白村江の戦いで唐・新羅連合軍に敗れた。その後、百済から日本への多数の渡来人が移住し、日本の文明形成に大きな役割を果たした。
扶余 プヨ。百済の最後の都。百済の都は初めは漢江の流域の慰礼城であったが、371年に漢城(後の朝鮮王朝の漢陽、現在のソウル)に移り、その後高句麗や新羅との抗争の中で、たびたび遷都している。475年には南の錦江中流の熊津(ユウシン、現在の公州)、さらに538年に聖王(日本書紀で日本に仏教を伝えたとされる聖明王)の時、下流の泗?(サビ、現在の扶余)に移された。扶余は錦江を下って白村江にでることができ、日本との交通に便であった。なお、扶余(扶餘)は百済人の出身氏族で、高句麗と同じく北方から移動してきた民族名でもある。
加羅 4世紀の後半、三韓の中の弁韓の地は統一されず、小国家分立が続いた。その諸国の総称を加羅、または伽耶(駕洛とも書く)といった。日本の歴史書『日本書紀』では、大和政権がこの地に「任那(みまな)日本府」を置いて支配したとしている。562年に新羅に併合された。
f 三国時代 (朝鮮)4世紀の中頃から7世紀中頃まで、高句麗・新羅・百済の三国が鼎立した朝鮮の一時代。中国においても漢帝国が滅亡し、三国時代から南北朝を経て隋唐の統一国家が出現するまでの分裂期にあたっている。そのような時期に自立していった朝鮮半島の諸民族は、統一国家の形成に向けて互いに争い、中国の各王朝に朝貢してその冊封を受け、国家としての権威を高めようとした。その中から唐と結んだ新羅が668年に半島を統一し、三国時代を終わらせた。
B 日本 (1〜6世紀)前1世紀頃から部落国家の形成が始まり、その中のいくつかは、漢や後漢に朝貢し、倭人と言われていたことが知られる。3世紀になって、邪馬台国の女王卑弥呼は、三国時代の魏の治める帯方郡に使節を送り、魏に朝貢し、「親魏倭王」の称号を与えられた。ただし邪馬台国の位置については九州説と大和地方説があってまだ確定がなく、この段階の日本国家統一の段階をどう考えるか、説が分かれている。4世紀に大和政権による国家統一が成ったものと思われ、5世紀にはその王たちが中国の南朝の宋と斉に使節を送っている(倭の五王)。同時に朝鮮半島南部にも進出したものと思われ、高句麗・新羅などと抗争し、百済とは友好関係を持った。6世紀には文字の本格的使用や仏教の伝来などがあり、日本も文明の段階に入った。しかし5〜6世紀は統一国家と言っても有力な豪族(天皇家と物部氏や蘇我氏など)の連合体にすぎなかったが、6世紀末に中国における隋の統一が成り、朝鮮半島でも新羅による統一が進む情勢の中で、国家体制の整備に迫られ、6〜7世紀の聖徳太子の改革、大化の改新を経て、隋唐に倣った律令体制による国家統一を目指すことになる。
a 倭国(倭人)  → 第2章 3節 ク.秦漢時代と世界 倭人
b 邪馬台国 『魏志倭人伝』に現れる倭人の国家。3世紀に倭人の国30あまりを従え、女王卑弥呼が治めていたという。239年に三国時代のに使いを送り、朝貢して冊封を受け、「親魏倭王」の印綬と銅鏡100枚を賜った。この邪馬台国の位置については、日本の歴史学会で古くから論争があり、九州説と大和説が対立している。
c 卑弥呼 『魏志倭人伝』に現れる邪馬台国の女王で、239年、に朝貢して皇帝から「親魏倭王」の称号を与えられた。倭人の国々から、「共立」されて女王になったとされ、「よく鬼道に仕え」とあるので、いわゆるシャーマン的な、宗教的な権威を以て治めていたものと思われる。死んだときは「大きな塚」が築かれたと言うが、その墓はどこかはまだわからない。
d 『魏志倭人伝』 正確には、『三国志』の中の、「烏丸鮮卑東夷伝」倭人の条。『三国志』は三国時代の正史で、陳寿の著作。(一般に『三国志』と言われるのは、『三国志演義』のことで、通俗的な歴史物語で全く別な書物。)この『魏志倭人伝』には、邪馬台国の卑弥呼の魏への遣使だけでなく、当時の倭人の生活や風俗が詳しく述べられていて興味深い。 
e 大和政権 4世紀頃、大和地方を中心に成立した豪族連合政権で、その中で最も有力なものが後の天皇家となったものと思われる。『宋書』倭国伝には、5世紀に、倭国の五人の王が、相次いで南朝の宋に使いを送っていることが見えている。それが、讃・珍・済・興・武の「倭の五王」であり、讃は応神か仁徳か履中、珍は反正か仁徳、済は允恭、興は安康、武は雄略の各天皇にあたるというのが有力である。これらの天皇の時代は、大和地方を中心に巨大な前方後円墳が築かれた、考古学上の「古墳時代」にあたり、大和政権と地方の豪族とのあいだに一定の緊張感があり、政権の拡大のため中国の王朝と結ぶことが必要であり、南東の宋などは北朝との対立から、東アジアの新興勢力である大和政権と結ぶことが有利であったものと考えられる。
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