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序章 先史の世界
ア.人類の進化
人類  定義と特徴:人類は生物学上の分類では「哺乳綱霊長目ヒト科」に属する。大型類人猿と近い関係にあり進化の過程で分化してきた。現在地球上に生存している人類はすべて同一の種(交配できる生物集団)であり、人類学上はホモ=サピエンス(現生人類、または新人)という。人類の特徴は、人類学的には「直立二足歩行」と「犬歯の消滅」が目安とされている。またある時期から脳容積が大きくなり、知能を発達させ、道具や言語を使用するようになった。そして他の動物には見られない、文化を継承・発展させるることによって「歴史」を形成してきたのが人類である。
人類の進化:人類にはわれわれホモ=サピエンス以外に、絶滅してしまった「種」があったことが化石の発見と研究によって判ってきた。それらの化石人類には猿人、原人、旧人があり、新人の最初の時期も化石として見つかっている。現在の化石人類の研究によれば、猿人、原人、旧人はそれぞれ前の段階に比べて、より「進歩」した形態と能力を持っていたが、単線的に「進化」してきたのではなく、それぞれ複雑に分化、絶滅、置換、進化を繰り返してきた。特に最近の分子生物学の進歩によって化石人類のDNA分析が進んだ結果、旧人(ネアンデルタール人)と新人(現生人類、ホモ=サピエンス)の関係はその順ではなく、新人の方が早く登場したと言うことが判ってきている。
人類の起源:最古の化石人類である猿人の出現年代については、現行教科書(2006年版山川出版社『詳説世界史』)では約450万年前となっているが、旧版では400万年前、さらにその前は250万年前とされるのが一般的であった。ところが21世紀に入って新たな発見が相次ぎ、現在では最古の人類は約700万年前にアフリカに出現というのが定説となりつつある。
現生人類の登場:現生人類(ホモ=サピエンス)(新人とも言う)の発生についても、かつては各地の原人たちが、それぞれの地域で新人に進化したとする多地域進化説がとられていたが、現在では分子生物学などの発達により、「アフリカ単一起源説」が有力であり、アフリカから全世界に生活の場を広げた(アウト・オブ・アフリカ)と考えられている。またホモ=サピエンスの登場は教科書などでは代表的な新人クロマニヨン人の年代として4〜3万年前とされているが、最近の研究では約20年前(つまり旧人よりも早く)にアフリカに登場したという説が有力になっている。このように人類の起源について新たな知識が増えたのは、人類学の発達と並んで分子生物学(DNAの分析)の研究が急速に進んだためである。
a 直立二足歩行 人類はサル(チンパンジーやゴリラなど大型の類人猿)と同じ祖先から別れて進化し、その中で樹上生活から平地に下りて二足歩行をはじめた種から進化したと考えられる。どのような経緯で平地に下りたのかはよく判らない。かつては気候の寒冷化に伴って森林が減少したためというのが通説であったが、現在の古気象学上は否定されているようだ。樹上から下りてもはじめは四足歩行か、腕歩行だった彼らがなぜ二足歩行(直立)できたのか、これもまだよく判っていない。体重が重くなりすぎたからとか、氷や雪の上を歩くためやむなく立ったとか、草原で敵を早く発見するために立つようになった、あるいは立つ方が日射を受ける面が少なくなるので「日射病回避説」など、もっともらしい説が出されている。恐らく、前足を歩行に使わないこと、道具を造ったり物を運んだりできるようになるので、道具の使用と関係があるのだろう。最近の有力な説は女は子どもを育て、男が手で食糧を運んでくるという家族社会の成立と関係するという説である。いずれにせよ、直立二足歩行によって「手」を自由に使え、重い「頭脳」を支えることが可能になり、ヒトが人間になったことを示す基準とされている。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.35-62 など>
Epi. 猿人の足跡 約350万年前の猿人の足跡というのがエチオピアのラエトリで発見されている。有名な人類学者リーキーの未亡人メアリーたちが発見したもので、雨に濡れてどろどろになった火山灰の上を歩いたヒトの足跡が翌日に太陽の光で固まったものだという。火山灰の年代からこれは猿人(アウストラロピテクス)のものだとなった。足跡は大人二人と子ども一人のもので、もしかしたら親子なのかもしれない。その足跡には土踏まずがあり直立して、ほとんどわれわれと同じ姿勢で歩いていたらしいことがわかった。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年 p.92-96 など>
b 道具の使用 人類直立二足歩行することによって自由になった手を使い(あるいは道具や武器を前足で持つようになって二足歩行が出来るようになり)、道具を手に入れ、自然そのままの生活から、自然に働きかけて生活をする存在となった。道具には自然の石や木などが使われたであろうが、その痕跡は人類化石と共に出土する食糧になったと思われる動物の骨などから類推するに過ぎない。人類が造った道具として最初に登場するのは打製石器であり、動物を解体したり、木を削ったり、また石器を使って石器を造ったりする「道具を造る道具」として用いられた。それが現代の自動車や飛行機、コンピューターや携帯電話という「道具」の始まりであり、石器製造は人類の「第一の技術革命」であった。250万年前のアウストラロピテクスの遺跡から出土したレイヨウのスネの骨には硬いもので打ち付けた傷が何カ所も残っており、石器で骨を割って中の骨髄を食べていたことをうかがわせる。
Epi. チンパンジーも道具を使うが…… 野生のチンパンジーも石を使って硬い木の実を割ることが知られている。果たしてチンパンジーは道具を造ることが出来るだろうか。アメリカの研究者が記号を使ってコミュニケーションが出来ることで有名な”秀才”チンパンジーのカンジ君の協力で実験を行った。ひもでくくった箱の中に果物を入れ、石を砕いて石器を造ればひもを着ることが出来ることを身振りで教えた。カンジ君は石を投げつけて砕くなどの方法で石片を造り出す方法を編み出し、果物を取り出せるようになったという。しかし人間が造るような鋭い切れ味の石器はついに造ることが出来なかった。実用に耐える石器を造るにはどのような角度で石を割ったらいいか、という想像力が必要だが、カンジ君にはその想像力はなかったのだ。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.77>
c 火の使用 人類を他の動物から区別する上で重要な要素が、火の使用と言語の使用であろう。考古学または人類学上、火の使用が確認されるのは、約50万年前の北京原人である。火の使用によって、人間の食生活は豊かになり、暖をとったり、動物から身を守たりする上で、大きな進歩であり、石器に次ぐ「第二の技術革命」と言える。
最近の研究:北京原人が火の使用をしていたという定説には疑問が出されている(北京原人の項参照)。人類の火の使用の始まりについては、北京原人よりも古い約150万年前の南アフリカやケニアにその痕跡が見られるが、それが自然の落雷などによるのか人が使った火なのかは判定が困難である。約79万年前のイスラエルの遺跡には焼けた石や木片などが見つかっているが数が少ない。もっとも確実な炉の跡が見つかったのはフランスのテラ・アマタ遺跡で約40〜35万年前である。つまり火の使用を始めたのは原人の段階であるが、その時期は150万年前から35万年前としか判らない。いずれにせよこの第2の技術革命で寒冷なヨーロッパやアジア北部にも移住でき、肉を加熱して食べることによって食中毒が少なくなり、また洞窟から動物対をいだして人間が住むようになり、夜も遅くまで活動できるようになった。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.100>
d 言語の使用 言語の使用は明確にはわからないが、頭蓋骨の変化などからやはり原人段階であろうと推定されている。原人の頭蓋骨には言語のコントロールする部位といわれるブローカ野の痕跡が認められるので、叫声から言語に進化する途上にある原始的な言語は使っていたと考えられる。しかし、現生人類のような発達した前頭葉を持つ大脳を収納するような頭蓋骨はネアンデルタール人にも認められない。ネアンデルタール人の脳容積そのものは現生人類よりも大きかったが、その頭蓋骨の構造を分析すると前頭葉の発達は未熟であるという。また音声を発するのどの構造も、ネアンデルタール人までは声帯の位置が現代人に比べて高く、複雑な発声は出来なかったと考えられている。チンパンジーの生態はもっと上にあって気道が短すぎ叫び声は出せても言葉を発声することは出来ない。複雑な分節化した言葉を発することが出来るようになるのは、やはりホモ=サピエンスになってからのようである。<赤澤威編著『ネアンデルタール人の正体』朝日選書 2005 p.256,270>
e ”文化”の形成 文化とは、人間が、生物学的な遺伝ではなく、集団的に伝承してきた、生活様式の事である。 → 文明の形成
d 化石人類 人類の進化の段階には、人類化石の研究によって、「猿人」「原人」「旧人」「新人」の4つがあるとされている。現在の我々人類(現生人類)は「新人」段階にある。この進化は、4つの段階が継続的に続いたのではなく、途中に、「絶滅」や「置換」が起こったとされており、各段階の関係は必ずしも明かではない。またネアンデルタール人とホモ=サピエンスの出現順序も全く逆であったことが判明した。そのため現在では猿人、原人、旧人、新人という化石人類の4分類は人類学会では用いられなくなっている
最近の研究成果を紹介した諸書によって、人類進化史のあらすじを化石人類でまとめると次のようになる。
700万年前……アフリカで類人猿の仲間から直立歩行したヒト類が誕生。
450万年前……アフリカの大地溝帯周辺でラミダス猿人が登場。
380万年前……アフリカでアウストラロピテクスがオルドヴァイ文化を産みだす。
280万年前……アウストラロピテクスが華奢型と頑丈型に分かれる。 
250万年前……アフリカでホモ=ハビリス石器製造技術を発達させる。
180万年前……ホモ属のホモ=エレクトゥス(原人)が旧大陸に広がる。
 60万年前〜20万年前……アフリカ、アジア、ヨーロッパに旧人生まれる。
 20万円前……アフリカでホモ=サピエンス(現生人類)が生まれる。
 16万年前……ホモ=サピエンス、この頃から「出アフリカ」し旧世界に広がる。
 15万年前……ヨーロッパから西アジアでネアンデルタール旧人が活動。
  3万年前……インドネシアのフローレス島にホモ=フロレシエンシスが独自の進化。
  2万5千年前……地球上にはホモ=サピエンスのみが生き残り、文明を形成する。
<参考文献>
・『「人類の起源」大論争』瀬戸口烈司 講談社選書メチエ(1995)
・『ネアンデルタール人の正体』赤澤威 朝日選書(2005年2月)
・『人類がたどってきた道』海部陽介 NHKブックス(2005年4月)
・『人類進化の700万年−書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠 講談社現代新書(2005年9月)
・『われら以外の人類−猿人からネアンデルタール人まで』内村直之 朝日選書(2005年9月) など
 約500万年 2007年度使用の山川詳説世界史から、人類の誕生は約500万年前とされるようになった。前年度版まで約450万年とされていた。450万年前という数字は1994年に発見された、ラミダス猿人の年代から割り出されたものである。ところが、90年代終わりから2000年代初頭にかけて、人類学上の新発見が相次ぎ、現在では大幅な修正がなされ、約700万年前(または600万年前)とされている。今後も研究の進展で、さらにさかのぼる可能性もある。
参考: 最新の人類起源700万年前説 最新の研究によれば、最古の人類化石として、約700万年前の「サヘラントロプス=チャデンシス」が報告されている。発見地が従来の人類化石が多数出土している東アフリカの大地溝帯からかなり離れたサハラ砂漠南部の中央アフリカのチャドであったことが人々を驚かした。サヘル(サハラ砂漠の南を指す地名)で発見されたチャドのヒトの意味で学名が付けられた。発見された人骨はほぼ完全な頭蓋骨を含み、直立歩行し犬歯が退化しているなど明らかにヒト科のものであったが、周囲が砂漠であり、火山堆積層がないため直接確かめられず、同時に出土した動物化石が他でいつ頃の地層から出土しているかで年代特定が行われたため、700万年前という数値には慎重な意見もある。また2000年にはケニアで発見されたオロリン=トゥゲネンシスは約600万年前、2001年にエチオピアで発見されたアルディピテクス=カダバは約570万年前とされている。これらの相次いだ新発見の化石人類と従来の猿人の関係は諸説あって不明だが、猿人の登場年代が一挙に倍近くさかのぼることは確かなようだ。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年など>
e アフリカ(現生人類アフリカ起源説) 現生人類である「新人」の起源については、「旧人」から連続して進化したと見る見方と、「旧人」とは別に出現したとする見方とが対立していた。前者は「多地域進化説」といわれ、世界中の各地域で原人の時代から現代まで連続して人類は進化してきたと考え、北京原人の子孫が東アジア人となり、ジャワ原人の子孫が東南アジア人(やアボリジニ)となり、ネアンデルタール人がクロマニヨン人を経て現代のヨーロッパ人となったと主張していた。
現在は、分子生物学の発達によって、化石人類の研究が進み、後者の考え方が有力となっている。特に「現生人類アフリカ起源説」が1987年に提唱され、現在ではほぼ確実視されている。その考えでは現生人類の進化のシナリオは次のようになる。
「世界中のすべての現代人の起源は、20万〜5万年ほど前のアフリカ(広いアフリカの中のどこかはまだ明らかでない)に現れたホモ=サピエンスである。彼らはある時期にアフリカからユーラシアに進出したが、その時旧人(ヨーロッパにはネアンデルタール人、中国では北京原人の末裔、東南アジアではジャワ原人の末裔)が残っていた。ホモ=サピエンスの到来とともに、これらの先行した人類はいなくなってしまった。なぜいなくなったのか、戦いがあったのか、混血の結果吸収されたのか、はまだ判らない。」<海部陽介『人類がたどってきた道』NHKブックス 2005 p.40 などによる>
Ep1.  アフリカのイブ 「現生人類アフリカ起源説」とは、1987年、アメリカの人類学者レベッカ=チャンなどのブループが発表した。彼らは世界各地出身の147人の現代人からミトコンドリア(細胞内にある小器官で女性を通じてのみ遺伝する)のDNA(遺伝子情報)を集めて比較したところ、その共通先祖はおよそ20万年前のアフリカにいたことがわかった。この集団の中に世界中の現代人の共通祖先に当たるDNAをもつ母親がいたという「イブ仮説」とも言われる。その共通祖先を旧約聖書の最初の女性、イブの名で呼んだわけだ。
その後、研究が進み、ネアンデルタール人の化石からDNAを取り出すことにも成功し、その結果彼らと現代人には遺伝子の上でのつながりがないことが判明した。現生人類はネアンデルタール人の子孫ではなかったのだ。
オルドヴァイ渓谷 タンザニアの大地溝帯にある渓谷。1959年にリーキー夫妻によってアウストラロピテクスに属する化石人骨が発見され、にわかに注目を集めた。以前から旧石器が多数出土することでも知られており、約250万年前の最も古い形態の石器が見られ、この地にちなんでオルドワン文化と言われている。
Epi. 三代にわたり化石人類発見に燃えるリーキー一族 ルイス=リーキーはケニア生まれのイギリス人で、1926年からオルドヴァイ渓谷に入り、化石人骨の探索を続けていた。30年以上の探索の結果、ついに人類の頭骨化石を発見、ジンジャントロプス=ボイセイと名付けた。さらに1964年には、ホモ=ハビリスを発見、その年代は170万年前にさかのぼると発表した。オルドヴァイで夫ルイスを助けた妻のメアリーは、リーキーの死後も発掘を続け、1978年にはタンザニアのラエトリで、360万年前の直立歩行する人間の足跡を発見した。ルイスとメアリーの子のリチャードは、初めは父母と違う道を選び、サファリの案内人となったが結局その後を継いで化石ハンターになった。その妻のミーブも子どもの頃からジグソーパズルの大好きで、集めた骨片から人体を復元する技術に長けている。二人の間の娘ルイーズもロンドン大学で古生物学を学び化石ハンターとしてデビューしたそうだ。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年 p.p.125-130>
人類の進化の段階のまとめ
A 猿人


国立科学博物館のルーシー 三井誠『人類進化の700万年』p.24
動物の進化の過程で類人猿から分かれて進化し、最初に登場した人類。ヒト科に属するが、ヒト属(ホモ属)とは区別され、現在の人類学ではアウストラロピテクス属とされる。直立歩行し、犬歯が退化していることなどから類人猿とは区別されるヒト科の特徴を持っている。現在のところアフリカにしかその存在は知られていない。
るその出現時期については数年前までは約400万年前とされていたが、今次教科書の改訂から450万年前とさかのぼることとなった。さらに現在では700万年前に修正されている。猿人類に属する化石は、現在のところアウストラロピテクス類など、アフリカでのみ発見されているところから、人類の「アフリカ起源説」が現在有力である。エチオピアからケニア、タンザニアに南北に延びる、大地溝帯がアウストラロピテクスの活動舞台であった。
1994年には日本の人類学者らによって450万年前のアウストラロピテクス類化石人骨が発見されている(ラミダス猿人)。このラミダス猿人が最古の化石人類とされていいたが、2000年代に入り、さらに古い年代の化石人骨の報告が相次いでおり、その年代に関しては修正されている。
猿人(アウストラロピテクス)は、直立二足歩行し、犬歯も退化しているところから、明らかに類人猿とは異なるヒトとしての特徴を備えているが、その脳容積は現代人の3分の1程度で、類人猿に近い。彼らは道具と言っても簡単な礫石器を使う程度で、狩猟は行わず、もっぱら動物の死肉をあさったり、芋や根、果実を採集していたものと思われる。まだ火の使用は知らなかった。約250万年前になって、猿人と次の原人の中間と考えられるホモ=ハビリスが同じく大地溝帯に現れ、高度な石器製造技術を持つようになる。
なお、猿人の出現したのは地質年代では更新世(洪積世)以前の新生代第3紀(鮮新世)までさかのぼることになる。
Epi. 猿人ルーシー 1974年、エチオピアのハダールで、ジョハンソンたちが300万年前と見られる猿人化石を発見した。細かな骨をたんねんにつなぎ合わせていったところ、それは一体の女性のものであることがわかった。そのキャンプの仕事場でビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」が流れていたので、この女性に「ルーシー」というニックネームが付けられた。猿人化石でほぼ完全な骨格がわかったのはきわめて珍しいのでルーシーは世界的に有名になった。「彼女」は年齢20〜30歳、身長1メートル、脳の大きさは400cc(チンパンジーと大差ない)だが、骨格から二足歩行していたことは確かである。なお、上野の国立科学博物館で彼女と会うことが出来る。もちろん復元モデルであるが、妙にリアルで親しみが持てる。<『人類進化の700万年』三井誠 講談社現代新書 2005 p.24 などによる>
更新世 地質年代でいう、新生代第4紀の前半(約170万年前〜1万年前)にあたる。4回の氷河期と3回の間氷期があったとされる。ほぼ、原人・旧人・新人の人類が活動していた時期で、考古学上は旧石器時代にあたる。更新世の次の第4紀後半(1万年前から現在)が完新世といわれる。なお、かつては、洪積世沖積世と言い方があり、考古学上は依然として使われることがあるが、地質学では更新世・完新世と言う用語が一般化している。もともと洪積世・沖積世という言い方はヨーロッパの学者が、キリスト教の伝承である「ノアの洪水」の時代を洪積世といったことから始まったもので、科学的な用語ではなかったと反省されいる。およそ、更新世が洪積世、完新世が沖積世にあたる。問題の解答に更新世を洪積世としても、誤りにはされないだろう。
ラミダス人 1994年、アメリカのホワイト日本の諏訪元などがアフリカのエチオピア、アワシュ川中流で発見した、約450年前の猿人の一種。1990年代にはこれが最古の人類化石とされていたが、2000年代に入り、さらにさかのぼる化石人類の発見が相次いでいる(450万年前の項を参照)。ラミダスとは、現地の言葉で「根(ルーツ)」を意味するという。学名はアルディピテクス=ラミダス。発掘された歯などから犬歯が退化した(ということは明らかにサルとは違う)ヒトの化石であると判明した。この化石は1994年の英国の科学誌『ネイチャー』に発表され、当時として最古のアウストラロピテクスに先行する猿人と認定された。ただし腰骨や脚の骨が未報告であるので二足歩行には疑問もあるとされている。
Epi. 日本人学者が発見したラミダス猿人 化石ハンター諏訪元氏は東大からカリフォルニア大学に留学、ホワイト教授の下で古人類学の研究に従事し、アフリカのエチオピアでの調査団に加わった。1992年12月13日、アワシュ地方の荒野を歩き回っていた。エチオピア人の化石発見の名人アスフォーがサルのあごがあったというところだ。地表を探し回る。探すときはイメージした化石の他は目に入らないそうだ。そのとき歯の根のようなものが目に飛び込んできた。息をのんでよく見ると明らかにヒトの大臼歯だった。留学中の10年以上、あらゆる時代の歯を見続けた諏訪の目には疑いはなかった。現場の地層は500万年から400万年前とわかっていたので、これがその時点での最古の人骨の発見となった。諏訪氏は現在は東大総合研究所博物館助教授。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年 p.36>
a アウストラロピテクス 化石人骨の中で最も古い「猿人」の代表的な種類で、南アフリカで発見された化石にちなみ「南方の猿」を意味する学名がついた。その最初は1924年夏、アフリカのヨハネスブルク大学教授レイモンド・ダート博士が、ベチュアナランドのタウングスにある石灰岩採石場で発見し、翌年「アウストラロピテクス=アフリアヌス」と名付けて『ネーチュア』誌上に発表したもの。これはそれ以前に知られていたジャワ原人や北京原人などの原人より原始的であるヒトの化石であり、サルと人間をつなぐ存在であると主張した。はじめこの説は批判にさらされ、一般に認められなかったが、南アフリカ各地で同様の化石が発見され、二足歩行していたことも証明されて、「猿人」の存在が明らかになった。アウストラロピテクス=アフリカヌスは280万年前頃でるが、それ以外にも420万年前のアウストラロピテクス=アナメンシス、380万年前のアウストラロピテクス=アファレンシスなどがある。
Epi. アウストラロピテクスの華奢型と頑丈型 アウストラロピテクスにはアフリカヌスなどの頭蓋骨などの形状が細身のタイプと、頭頂部に盛り上がりがあり骨格も頑丈なタイプの二種類があった。後者はパラントロプスと分類され、その代表的なものが1959年にリーキー博士がオルドヴァイ渓谷で発見したジンジャントロプス(現在はアウストラロピテクス=ボイセイと言われている)である。この二種類のアウストラロピテクスは同時に併存したとも考えられるが、後者は約100万円ほど前まで生存して絶滅し、前者の中からホモ属が現れたらしい。  
b ホモ・ハビリス 約250万年前、アフリカでの大地溝帯で、高度な石器製造技術を持っていた化石人類。発見者のリーキーはホモ属に属すると考えホモ=ハビリスと命名したが、現在では猿人と次の原人の中間的な段階と考えられている。
1959年7月17日、東アフリカ、タンザニアのオルドヴァイ峡谷で、30年以上も発掘を続けていたナイロビ博物館のリーキー博士夫妻は、人類化石を発掘しジンジャントロプスと命名した。さらに翌年、さらに古い地層から12才ぐらいの子供の化石を発見、現生人類につながる直系の先祖ホモ属の化石であると確信して、「ホモ=ハビリス」(「能力ある人」の意味)と名付けた。同じ地層から、礫石器が見つかり、彼らは道具を使用していたと考えられる。しかし現在の研究ではホモ=ハビリスは猿人(アウストラロピテクス)にかなり近く、ホモ属ではないという説も有力である。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年 p.158-162>
脳容積 チンパンジーは約380CC、ヒトはその3倍以上の1350ccぐらいが標準であり、猿人(アウストラロピテクス)とホモ属の違いも脳容積の違い、約700〜800cc以上からがホモ属とされる。それに該当するのは原人(ホモ=エレクトゥス)からであるとされる。ホモ属にはより猿人に近いハビリスの他に、エレクトゥス、ハイデルベルゲンシス、ネアンデルターレンシス、現代のわれわれ(ホモ=サピエンス)などの種類がある。<内村前掲書 p.16,p.134>
ヒトの脳は体重のわずか2%を占めるに過ぎないが、その消費エネルギーは全体の20〜25%に及ぶ。安定した栄養をとり続けないと維持できない。大きな脳を支えたエネルギーは肉食だった。肉食を可能にしたのは石器を使って動物を殺し解体し、栄養の豊かな骨髄などを食べることできたことだ。このような石器の使用→肉食の効率化→脳の大型化という変化は原人の出現と一致している<三井前掲書p.66-89>
Epi. 新発見のホモ属、ホモ=フロレシエンシス 2003年、インドネシアの中部、フローレス島から不思議なヒトの化石が発掘された。島西部の山中の洞窟から見つかった人骨は地層から約3万8千年から1万4千年前の間にこの洞窟で暮らしていた人々のものであることが判ったが、不思議なのはその小ささだった。身長は1mぐらい、頭はグレープフルーツぐらいしかない。しかし歯の成長具合から見て立派な大人だ。発掘者はこの人骨にホモ=フロレシエンシスとの学名を与え、ホモ族に属する新種のヒトであると発表した。彼らは何故このように小型なのか。それは「島嶼性矮小化」と説明されている。敵がいないので小さくても生きていける、限られた蜀もとの中で小さい方が有利、などの条件が重なった島で動物が小型化する現象で、シチリア島では1mに縮んだゾウの化石が見つかっている。年代から見ると彼らとわれわれホモ=サピエンスがフローレス島で共存していたとしても不思議はなく、彼らが何故絶滅したのか興味深いものがある。<『われら以外の人類』内村直之 朝日選書 2005年 p.6-14>
c 打製石器 人類が最初に「加工、製造」した「道具」。石器の発明は人類にとって、「第一の技術革命」にあたるもので、ヒトの特徴の一つ「道具を造る」ことにあたる。猿人から原人、さらに旧人、新人の1万年ほど前までに使用された石器は「打製石器」であった。打製石器は人類の文化のほとんどを占める長期にわたって使用され、その時代を「旧石器時代」というが、その長い期間でも変化、発展があった。はじめの猿人段階では、ほとんど自然石と変わらない、一個の石材の一部を打ち掻いて造る礫石器であったが、原人段階になると、石材を全面的に加工してかたちを作り、握斧(ハンドアックス)にするようになり、さらに旧人段階には、石材を割ってできる剥片を、さらに細かくうち砕きながら、ナイフややじり型の石器を創り出す剥片石器という高度な石器製造技術が現れた。また一部では細かな細工を施し、もっきと組み合わせて用いる細石器も現れた。これらの打製石器には、世界各地に共通する技法と地域の独自の技法とがあり、人類が互いに教え合いながら、また環境にそれぞれ適応していった歴史が刻まれている。
礫石器 最も粗末な、自然石の一部をうち割って作った石器。人類が最初に作った石器である。猿人のホモ=ハビリスが作りだしたもので、人類は”道具”を獲得したと言える。最も古いものはエチオピアで発見された約250万年前石器とされている。
B 原人


左がトゥルカナ=ボーイ、右がルーシーの骨格模型(国立科学博物館展示)三井誠『人類進化の700万年』 p.81
約150万年前に猿人に続いて出現した人類で脳容積を増大させたホモ属に含まれ、学名はホモ=エレクトゥスという。その化石は猿人と異なり、アフリカから出てヨーロッパからアジアまでの旧大陸にに広く分布しており、ジャワ原人、北京原人、ハイデルベルク人などがその例である。おそらくアフリカで猿人段階から進化を遂げた一部が、脳容積を増大させる契機を掴み、「火の使用」を獲得することによって、生息範囲を広げることができたものと思われる。その活動期間は、約100万年前から30万年までとする説もある。また、数年前までは原人の出現は50万年前とされていたが、現在では約150万年前と100万年もさかのぼっている。
原人段階の人類は、脳容積が増大し、火の使用言語の獲得・石器製造技術の発達(ハンドアックスの出現など)など、飛躍的な「文化」を形成している。しかし、この原人と現代の人類(新人)の関係については、絶滅して現在につながっていないという説と、現在のアフリカ・ヨーロッパ・アフリカの各民族の祖先となったという説があるが、現在は前者が有力である。
Epi. アフリカの原人、トゥルカナ=ボーイ 1984年、ケニアのトゥルカナ湖畔でリーキー一家によってほぼ完全な原人化石が発掘された。約160万年前から蘇ったのは少年だったので、トゥルカナ=ボーイと名づけられた。身長はすでに160cm、大人になれば180cmに達したのではないかと言われている。脳は880cc、大人になれば900ccだろう。左の写真でも判るように現代人と代わらないスラリとした体型をしている。この大きな歩幅はハイエナと草原で競争しても負けなかっただろうし、彼らがアフリカ大陸から出て世界中に広がる原動力になったと考えられる。彼は猿人のルーシーと並んで化石人類のスターとなった。現在、上野の国立科学博物館にその骨格を見ることが出来る。<『人類進化の700万年』三井誠 講談社現代新書 2005 p.81 などによる>
a ジャワ原人 インドネシアのジャワ島のトリニールで発見された原人(ホモ=エレクトゥス)に属する代表的な化石人類。現在ではピテカントロプス=エレクトゥス(直立原人)とは言わない。最近までその属名で言われたが、現在は原人の一つの地域集団とされ、単に「ジャワ原人」という。年代は、100万年(もしくは150万年)前ごろと50万年前ごろ、10万年前ごろの三つのグループが知られている。ジャワ原人がオーストラリアのアボリジニに進化したとの説もあったが、最近は否定され、ジャワ原人は絶滅したと考えられている。
発掘の経緯:ドイツの生物学者ヘッケルは、ダーウィンの進化論を基に、人類の進化の過程でサルとヒトの間の「失われた鎖の輪」(ミッシング・リング)をつなぐ中間的存在にたいして「ピテカントロプス」(ピテクはラテン語でサル、アントロープはヒトのこと)と名付けた。そしてそれは東南アジアのスンダ列島のどこかで発見されるはずだと大胆に予言した。その予言を信じて発掘を行ったオランダの若い解剖学者デュボアが、1891年にジャワ島のソロ川流域にあるトリニールで、めざす化石を発見した。最初の発見は頭蓋骨と一本の歯だけだったが、翌年夏、同じ地層から大腿骨と歯を発掘し、2年後に調査の結果をまとめて、「ピテカントロプス=エレクトス」(直立猿人)として発表した。
b トリニール  
c 北京原人 

周口店遺跡博物館前にある北京原人像
中国の北京の南西にある周口店で発見された、原人(ホモ=エレクトゥス)に属する化石人類。1927年から本格的な発掘が行われ、約50万年前から30万年間ごろの原人化石とされた。なお、現在はシナントロープス=ペキネンシスとは言わない。最近までその属名が使われたが、現在は原人の一つの地域集団とされたため、その言い方は行われない。北京原人は、その後中国大陸で旧人を経て現生人類につながるという見方もある。現代のアジア人にある上顎の中切歯の裏側がくぼむ特徴(シャベル型切歯という)が北京原人にも認められるという。最近の研究ではホモ=サピエンスは旧人とは断絶しているとされるが、北京原人とホモ=サピエンスの関係はまだよくわかっていない。従って、北京原人が現在の中国人(漢民族)の先祖であるとは単純には言えない。
発見の経緯:スウェーデンの地質学者アンダーソン(「黄土地帯」の命名者としても有名)は鉱業政策顧問として中国に招かれてから、北京で古いほ乳類化石が「竜骨」として売られていることに興味を持ち、その出土地をさがした。中国に来ていた宣教師たちの協力で北京西南50kmにある周口店からたくさんの化石が出ることを知り、1923年から発掘を始めた。石灰岩の丘にある洞窟や崖の割れ目から、数多くの動物化石に混じって人間の祖先のものらしい臼歯が発見された。発掘を助けた解剖学者のカナダ人ブラックは新発見の人類化石として「シナントロプス=ペキネンシス」と名付け発表したが、当時は学会の承認を得られなかった。1927年から中国人学者も加わって本格的な発掘が行われ、ほぼ完全な頭蓋骨が発掘され、火の使用の痕跡も見つかった。当時の中国は蒋介石の北伐の最中で内戦状態だったため発掘は困難を極め、1937年には日中戦争勃発のため発掘は中断された。発見された北京原人の頭蓋骨も戦争に巻き込まれて行方不明になってしまったが、戦後、再開され、多数の化石が見つかっている。
北京原人と火の使用:北京原人は最近の研究では約55万〜25万年前の化石人骨とされたが、火の使用については疑問が出されている。人骨が見つかった洞窟から灰のような堆積物は最近になって、植物に由来する炭素か、細かな砂が堆積した跡である可能性が指摘されたのだ。火を使ったのであれば炉の跡が見つかるはずだがその痕跡は確認できない。焼けた動物の骨があることから完全に否定されたわけではないが解釈は研究者によって分かれている。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.100>
d 周口店 北京から南西方向に約50km、房山県の地名。この地で人類化石が発見され、北京原人と命名された(現地では猿人といっている)。現地は龍骨山という石灰岩から成るなだらかな丘陵の一部が陥没して巨大な穴状になっており、その側面から多数の動物化石に混じって人骨と石器が発見された。最初に見つかったのは一個の歯にすぎなかったが、その後発掘が進み頭蓋骨も発見された。とくに洞窟から火の使用の痕跡が見つかり注目された。さらに戦後には山頂の洞窟からも人骨が発見され、こちらは新人に該当する周口店上洞人(または山頂洞人)と名づけられた。現在、遺跡は世界遺産に指定され、周口店遺跡博物館と共に洞窟を見学することができる。
 ハンドアックス 握斧。打製石器で、石材のまわりを全面的に打ち掻いて、手で握ることの出来る形に整形する。原石の核(本体)を使うので石核石器の一種である。旧石器時代のもっとも一般的な石器。150万年前から現れ、30万年前頃まで続いたもので、ヨーロッパではアシューリアン文化(フランスのサン=アシュール遺跡が基準)と言われている。人類の段階では原人(ホモ=エレクトゥス)の時期に当たる。
d 火の使用  → e 火の使用
f ハイデルベルク人  
h 言語活動  → 言語活動
e 採集・狩猟 採集は食物の根や芋類、木の実などの果実を集めて食料とすること。狩猟は野生の動物を捕獲して食料とすること。採集はヒトは生物として最初から行っていたであろうが、狩猟が本格的に行われるようになったのは原人の段階からである。猿人の遺跡からも食糧としたとも割れる動物の骨が見つかるが、それらは猿人が狩猟で得たものではなく、他の肉食獣が倒したものの余りを頂戴していたに過ぎないらしい。猿人たちはむしろ肉食獣に食べられることが多かったろう。猿人化石の中には頭蓋骨にヒョウの歯形がついたものもある。人類が大型獣を狩猟で倒すことが出来るようになったのは火の使用が出来るようになり、精巧な打製石器を造ることが出来るようになった原人の段階からである。狩猟の最古の証拠とされるのが1997年にドイツの北西部の探鉱で見つかった約40万年前の槍であり、松の木で造った長さ1.8〜2.3m、近くからはゾウやサイ、シカ、ウマなどの骨も見つかっている。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.103>
C 旧人 原人に続き現生人類の一段階前となる化石人類。ホモ属に属し、ネアンデルタール人が代表的な例なので、学名はホモ=ネアンデルターレンシスという。ほぼ20万年前に出現し、4、3万年間には絶滅したと考えられる。
出現時期:諸説あり、20万年説の他に、60万年ほど前からとするものもある。分布は原人と同じく旧世界各地に見られ、ジャワのソロ人、南アフリカのローデシア人などがいる。ネアンデルタール人はヨーロッパから西アジアに広がっている。
特徴:ネアンデルタール人は脳容積が増大(現代人よりも大きいとも言うが、形は頭頂部が平坦で前頭葉の発達は見られない)し、石器製造では剥片石器を造る技術を獲得し、毛皮をまとい(毛皮をなめすのに前歯を使ったらしく前歯がすり減っている人骨が多い)、洞窟住居で狩猟生活を行っていた。彼らの遺跡からは埋葬された人骨が見つかっており、人間文化の発展が見られる。かつてはどう猛な狩猟民というイメージであったが、現在では現代人に近い、一定の「文化」を有していたと考えられている。
新人との関係:この旧人が、現代の人類(新人)にそのまま進化したのかどうか、についても対立する説があり、各地の旧人がそれぞれ進化して現在のコーカソイドやアジア人、黒人などに進化したという「多地域進化説」と、旧人は絶滅しそれとは別にアフリカに起源を持つ新人が世界中に広がり「置換」が行われたとする「現生人類アフリカ起源説」が対立していた。現在は、1990年代終わりにDNAパターンの解読が進んだ結果、ネアンデルタール人など旧人と現代のわれわれホモ=サピエンスはつながりがないことが判明し、旧人は絶滅したと結論された。
a ネアンデルタール人


ネアンデルタール博物館の展示(赤澤威『ネアンデルタール人の正体』口絵より)
旧人(ホモ=ネアンデルターレンシス)に属する化石人類で、約20万年間に現れ、4〜3万年前に絶滅したと考えられる。1856年、ドイツのネアンデル谷(谷をドイツ語でタールという)で発見され、その後ヨーロッパから西アジア各地に広く発見されている。ネアンデルタール人は毛皮をまとい、洞窟に住み、剥片石器を用いて狩猟採集生活を行っていた。また脳容積が大きく、仲間を埋葬するなどの精神的な営みも行っていたことが知られている。彼らは絶滅し、現生人類への置換が行われたと考えられているが、最近の研究では両者はかなり長い時期にわたり併存関係にあったとされる。しかし両者の間に敵対関係や、逆に混血などの関係があったのかどうかについては諸説あるが、いまのところ不明である。(ネアンデルタール人がどこかに生存していると真面目に考えている学者もいる。)
発見の経緯:ネアンデルタール人が洪積世の人類化石であると認められるのには45年かかった。1856年、ドイツの高校教師フールロットは、デュッセルドルフの近くのネアンデル渓谷で掘り出されたという古い人骨を、頭骨の形や脳の容積から見て原始時代の人類の骨であると確信し、「ノアの洪水で溺れ死んだ人」の骨だと学会で発表した。しかし大学教授たちは、「絶滅した特殊な人類の一種」であるとか、「ナポレオン戦争で戦死したコサック兵の遺骨」、「クル病にかかって変形した老人の骨」などとしてフールロットの説を認めなかった。ダーウィンの進化論が発表される1858年よりも前のことだった。フールロットは自説が認められないままこの世を去り、ようやく死後24年経った1901年、ドイツの解剖学者シュワルベによってネアンデルタール人が化石人骨であることがようやく認められた。同じような化石が多数発見され、「進化」の概念も導入されたからだった。
Epi. 新しいネアンデルタール人像 ネアンデルタール人には凶暴な野人というイメージがつきまとっていた。最近になってそのような思いこみは訂正されつつある。イラクのシャニダール洞窟では家族生活を営み、仲間を手厚く葬っていたり、病人を介護していた様子がうかがわれる。また日本の人類学者赤澤威はシリアのデデリエ洞窟で発掘した子どもの人骨をもとに全身を復元し、彼らの心性に迫っている。アメリカのある学者は、「もしネアンデルタール人がわれわれと同じ格好をして隣に座っていても気がつかないだろう」といっている。そんな考えで復元された人物が最初の化石の発見地に建てられたネアンデルタール博物館に展示されている(左)。<赤澤威編著『ネアンデルタール人の正体』朝日選書 2005 p.29-54>
b 埋葬 旧人のネアンデルタール人の遺跡からは多数の埋葬された人骨が見つかっている。死体を生き残ったものが埋葬すると言うことは、家族のような親密な関係の成立と、死後の世界を思いやる心性が生まれていることを示しており、旧人段階の人類の社会と文化の一定の深化を示している。
Epi. 花とともに埋葬されたネアンデルタール人 1950年代にアメリカのラルフ=ソレッキはイラクのシャニダール洞窟で埋葬されたネアンデルタール人の人骨を発掘した。墓穴の土壌を細かく調べたところ、たくさんの花粉が見つかった。ノコギリソウ、スギナ、アザミ、ヤグルマソウ、ムスカリ、タチアオイなど現在もこの地にすむクルド人が約そうとして用いている植物だった。ソレッキは「花と共に埋葬されたネアンデルタール人」として発表し、注目を浴びた。彼は薬草と共に埋葬されたこの人物はシャーマンだったと考えた。最近、この花粉は洞窟の中に巣くったネズミが持ち込んだものだという説が発表されたが、この男性が埋葬されたことは確かである。<赤澤威編著『ネアンデルタール人の正体』朝日選書 2005 p.9,p.53,p.303>
c 剥片石器 礫石器やハンドアックスは、石核を残す石核石器であるが、原石から剥がされた石片を利用してつくるのが剥片石器。より鋭利な石刃を造ることが出来、打製石器技術が高度に発達したことを示す。ヨーロッパの旧石器文化ではムステリアン文化といわれ、剥片を打ち出す技術はルヴァロワ技法という。人類の進化段階では旧人のホモ=ネアンデルターレンシスの時期に当たる。
D 新人










ブロンボス洞窟で発見された幾何学模様のあるベンガラ 海部陽介『人類がたどってきた道』表紙より
人類学上の現生人類でホモ=サピエンスという。化石人類としてはクロマニヨン人がいる。クロマニヨン人の他にアジアでは北京原人の周口店遺跡の上層から発見された周口店上洞人が新人とされている。彼らはわれわれと同じ同じ特質を持ち、現在地球上に広がっているすべての人間と同じく、一括して「現生人類」である。
出現の時期:かつては約3(または4)万年前、とされていたが、現在では大幅に繰り上がり、約20万年前にアフリカに出現し、10万年前にヨーロッパ大陸にわたり、世界中に広まったと考えられている(アフリカ起源説参照)。2003年には16万年前の現生人類の化石がアフリカの大地溝帯で発見されたと報告されている。それらを総合すると、約60万年前にアフリカの原人を共通の祖先として旧人と新人が別れて別々に誕生し、別な道をたどって一方はネアンデルタール人となり、もう一方から現代人が現れたというシナリオが有力になっている。
特徴:旧石器文化を継承し、高度な狩猟採集技術を持ち、さらに1万年前から農耕と牧畜の技術を身につけ、地球上各地にさまざまな「文明」を形成した。その意味でホモ=サピエンス(知恵ある人)と言われている。彼らが残した洞穴絵画は「芸術」の起源ともされ、さらに「情報」を「抽象的な概念」で共有し、伝達するという現代人の能力も彼らからはじまったと考えられる。最近では現代人と共通するホモサピエンスの特徴として、抽象的思考、計画的能力、発明能力、シンボルを用いて知識伝達をする能力を持つことがあげられている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス p.86,93> → 人類の拡散
Epi. 7万5千年前の「模様」とアクセサリー ホモ=サピエンスが「模様」やアクセサリーを造る能力を持っていたことを示す例が最近報告され、注目されている。2002年、南アフリカのケープタウンに近いブロンボス洞窟で、7万5千年前の地層からオーカー(ベンガラ)の塊が多数出土し、その中の二つに明らかに人間が刻んだ幾何学模様が発見されたと発表があった(左掲)。さらに2004年には同じ洞窟の地層から同じ穴があけられビーズ状になった巻貝の貝殻が多数発見された。この発見は、「シンボルを操作する能力」を人類が身につけたものとして最近特に重要な発見とされている。<海部陽介 同上 p.62-73>
a ホモ=サピエンス 人類学上の現生人類(新人)をホモ=サピエンスという。homo は「人間」、sapience とは「知恵」を意味するラテン語からきた学名で、「知恵ある人」となる。ヒト科の中のホモ属の一つの種であり、現在地球上に存在するヒトはすべてホモ=サピエンスであり一つの種である。
用語の注意:なお、「人種」という言葉があり、白色人種(コーカソイド)や黄色人種(モンゴロイド)、黒色人種(ネグロイド)などといわれるが、これは生物学、人類学上の「種」ではないので注意を要する。東京やニューヨークのヒトも、ボツワナやトンガやシベリアなど極北にすむヒトもすべてホモ=サピエンスに属する「種」である。
また、1990年代までは、ホモ=サピエンスの定義が広く旧人であるネアンデルタール人も含められていた。そのため、ネアンデルタール人をホモ=サピエンス=ネアンデルターレンシスと言いクロマニヨン人(新人)はホモ=サピエンス=サピエンスと言う、などと説明されていたが、2000年代に入って研究が進み、両者は別な種であることが判明したので、現在ではネアンデルタール人をホモ=サピエンスとは言わない。ホモ=サピエンス以外のヒト科にはアウストラロピテクスやネアンデルタール人がいたが、いずれも絶滅した。
b クロマニヨン人 新人(ホモ=サピエンス)の化石でフランスのクロマニヨンから発見されたもの。現生人類と同じ形態的特徴を持つ。1868年、フランスのドルトーニュ県にあるクロマニヨンの岩陰から、鉄道工事中の工夫が人骨5体を発見した。その後、ヨーロッパ各地の洪積世地層から同様の化石人骨が発見され、現生人類に属する化石人類として「新人(ホモ=サピエンス)」と言われるようになった。
石刃技法という高度な石器製造技術を持ち、投げ槍・弓矢・骨角器による漁労用具などを発明して狩猟・漁労技術を飛躍的に高めた。またフランスのラスコーやスペインのアルタミラに代表される洞穴絵画や、自然の生産力を象徴するものと思われる女性裸像などが造られ、芸術表現や抽象化の能力を高めたことが知られる。
c 周口店上洞人 北京原人の周口店遺跡のある丘陵山頂部の洞窟から3個の頭蓋骨が出土した(1933年)。これらは約1万8千年から1万年前の新人(ホモ=サピエンス)段階の化石人骨と考えられている。山頂洞人とも言われている。彼らは北京原人との関係はわからない(断絶しているという説と、継続して進化したものとの両説がある)が、現在の漢民族の先祖であり、黄河流域で新石器文化を生み出し、それが黄河文明に発展したもと考えられている。
石刃技法 新人段階のクロマニヨン人からみられる石器製造技術で、石の面に連続して打撃を加え、多量の石刃を剥離させ方法。ヨーロッパでは4万年ほど前に始まる技法で、その文化をオーリニャシアン文化と呼んでいる。
d 骨角器 人類が新人(ホモ=サピエンス)の段階になって石器に続いて造り出した、動物の骨や角を加工した道具。主として魚を捕るための銛や槍の穂先に使われ、その出現は漁労技術の発達を示している。 
e 狩猟・漁労(新人) クロマニヨン人の狩猟クロマニヨン人は狩猟技術を高度に発達させていた。ネアンデルタール人が尖頭器のついた槍を使うだけであったが、クロマニヨン人は「投げ槍」を使っていた。1万8000年前になると、投槍機(角を加工してフック状にし槍を遠くに飛ばす道具)を発明している。1万5000年前ごろには弓矢を発明し、狩猟は一段と進歩した。マンモスやバイソンなどが絶滅したのは人類の狩猟技術の進歩の結果という説もある。
漁労:原人や旧人の遺跡からは魚を食べていた証拠は見つかっていず、やはりホモ=サピエンスの登場以降のことである。最近の報告で、最も古い漁労の例は、14万〜7万5千年前の地層のアフリカのホモ=サピエンスと考えられるブロンボス洞窟遺跡で見つかった千二百以上の魚の骨である。漁法の詳細は判っていないが、動物の骨などを使った銛(モリ)で突いていたらしい。<三井誠『人類進化の700万年』2005 講談社現代新書 p.146>
また中央アフリカのコンゴのカタンダ遺跡では9万年前の地層から、かえしのついた骨製の銛先とともにナマズの骨が多数見つかっている。ユーラシア大陸で骨角器が登場するのは4万5千年前以降である。魚を捕る漁という行動の出現も人類の歴史のなかで新しい出来事である。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス p.76-78,p.112-114>
f 洞穴絵画 旧石器時代のクロマニヨン人(新人)が活動していた範囲で広く洞穴絵画が残されている。代表的なものは、スペインのアルタミラ洞窟、フランスのラスコー洞窟などである。最近では1994年に発見された、南フランスのアルデーシュ川の渓谷の洞窟が96年にマスコミに取り上げられ有名になった。発見者の名をとってショーベ洞窟と呼ばれるようになったこの洞窟は炭素14年代の測定の結果、3万7千年前という古さで注目されている。
明確な洞穴絵画が現れるのはクロマニヨン人の時代になってからであり、ネアンデルタール人には今のことろ見つかっていない。現生人類の「芸術」活動の始まりがクロマニヨン人の洞穴絵画であると考えられている。描かれているのは主にウマやシカ、バイソン(野牛)などの動物で狩猟技術の向上を示すと共に何らかの儀礼的、社会的な意味合いがあったものと考えられている。色には赤、黄色、茶がオーカー(ベンガラ)の濃淡で表され、炭や二酸化マンガンで黒、白陶土で白が彩色されて、複雑な技法が用いられている。
なお、クロマニヨン人の残した美術では洞穴絵画だけでない、「ポータブル・アート」とも言われている、象牙やトナカイの角などを材料とした様々な彫刻や装身具が多数出土しており、「芸術の爆発」とも言えるほど表現が豊かになった。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス p.122-135>
g アルタミラ 約1万8千年前の旧石器時代、クロマニヨン人(新人)が制作した洞穴絵画が残る洞窟。スペイン北部のカンタブリア地方にあり、多数のバイソンなどの動物が描かれ、洞穴絵画の傑作と言われている。1879年の秋、地元の漁師親子が発見したが、その当時は旧石器時代のものとは認められず、発見後20年後に同じような洞窟壁画がピレネー山中の洞窟で旧石器時代の異物を含む層から発見されて認められるようになった。現在では世界で最初に発見されたものであるとともに、もっともすぐれた「作品」だといわれる。壁面の凹凸を利用して赤や黒の色彩の濃淡で立体感をだし、点描法などもちいたり、現代絵画にも似たかなり高度な技法が見られる。描かれているのはシカ、イノシシ、バイソン(野牛)などで狩りの収穫を期待して描かれたものであろう。また太陽の光の届かないところに描かれているので、松明などが用いられたものと考えられている。
h ラスコー 1940年、フランスの西南部、ドルトーニュ県で偶然発見された旧石器時代の洞穴絵画。牛、馬、鹿などとともに、鳥の頭をもつ人物などが描かれている。スペインのアルタミラ洞窟の絵画と並び、旧石器時代の洞穴美術の代表的な遺跡であり、世界遺産に登録されている。
Epi. ラスコー壁画の危機 世界遺産ラスコー洞窟壁画が、黒いシミに悩まされ「危機遺産」への登録まで取りざたされ始めた。フランス政府はラスコー壁画の保存策を検討するための専門家による新委員会を5月に立ち上げる方針を示した。07年に深刻化が報告されたメラニン色素が原因の黒いシミは現在、「減りもせず、広がりもしていない」状態だが、ユネスコはフランス政府に対し対策を講じなければ危機遺産に登録される恐れがあると伝えた。洞窟は1940年に発見されたが、一般公開され大勢の市民が訪れる騒ぎとなり、人の出入りによる悪影響が懸念され1963年に閉鎖された。01年にも白カビが見つかり空調設備の交換工事が原因とされた経緯があり、管理体制の不備が指摘されている。<朝日新聞 09.3.2夕刊> 
屈葬  
人類の拡散 地球上のあらゆるところに及んでいる人類は、すべて同一の種、つまりホモ=サピエンスである。現在はその起源は約20万年前のアフリカであると考えられている。アフリカに生まれたわれわれ現生人類の共通祖先の中の一集団が、およそ10万年前に西アジアに入り、ユーラシア大陸全域に広がっていった。その一部で5万年〜4万年頃に西アジアからヨーロッパにいたのがクロマニヨン人である。人類の足跡はシベリアのツンドラ地帯に及び、一方では当時地続きであったインドシナ半島からインドネシアなどの島々に至るスンダランドにひろがった。5万年頃にはオセアニアに広がっていった。また地続きだったベーリング海峡を徒歩で渡り、1万4千年頃には新大陸に渡り、北アメリカ大陸の大氷床の縁辺を南下しておよそ1000年ほどで南アメリカ大陸南端に至った。さらに3000年前には南太平洋のポリネシアなどの島々まで拡散した。このような「大拡散」はホモ=サピエンスの高度な環境適応能力、文化継承と発明能力の表れである。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス第7,9,11章>
i 新大陸への人類拡散 ホモ=サピエンス(いわゆる新人=現生人類)はアフリカからおよそ10万年前からユーラシア大陸に「拡散」したが、さらにその一部は新大陸(北アメリカ・南アメリカの両大陸)におよそ1万4千年から1万3千年前ごろに到達した、と考えられている。この時期は最終氷期(現在の間氷期が終われば地球は再び氷期にはいることになっているので最終ではないが)にあたっており、特に2万1000年ごろには最寒冷期とよばれるピークで、夏の気温が10〜15度下がったと考えられ、大量の水が氷として陸上に閉じこめられたため海水面が現在よりも100mも下がった。そのためユーラシア大陸と北米大陸(現在のベーリング海峡)は陸続きであった。イギリスもヨーロッパ大陸と、日本もアジア大陸と、東南アジアの島々もインドシナ半島と地続きであった。
このような時期に地続きになったベーリング海峡をわたって、モンゴロイド系のホモ=サピエンスが13500年頃までに北アメリカ大陸に入り、ほぼ1000年間に南米南端のフエゴ島まで拡散し、各地の自然環境に適応して生活するようになった。彼らがインディオ(インディアン)と言われる人々の祖先である。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス 第9章>
オセアニアへの人類拡散 オセアニアのオーストラリア大陸はニューギニアと地続きでサフルランドという広大な大陸だった。しかし、東南アジアの陸地(スンダランド)との間には水路が横たわっていたことが動植物相の違いから判っている(19世紀の中頃の博物学者ウォーレスが発見したのでウォーレス線と言われている)。しかしホモ=サピエンスはカヌーなどを使って約5万年ほど前にこの大陸に入ってきたとらしく、その子孫がアボリジニーであると考えられている。さらにホモ=サピエンスは現在太平洋の島々にも及んでいが、彼らメラネシア、ミクロネシアやポリネシアの人々はおよそ3000年前から1300年前までに東南アジアから大型カヌーで移り住んできたと考えられている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス 第7章>
ウォーレス線 東南アジアのスンダ列島と、オセアニアのオーストラリア大陸・ニューギニア(太平洋の島々と区別して、ニア=オセアニアと言われている)の間に認められる動植物相の違い。19世紀中頃、イギリスの博物学者ウォーレスが発見した。ウォーレスは東南アジアで単身、動植物の調査に没頭し、ダーウィンと同じ時期に、生物の進化と自然選択の概念にたどりついた。ウォーレスによれば、オーストラリアに生息するほ乳類はほとんどカンガルーやコアラなど有袋類(母親が袋の中で子どもを育てる)とカモノハシなど単孔類(卵を産むほ乳類)であり、ユーラシアやアフリカ大陸、南北アメリカ大陸の哺乳類はほとんどが母親が胎盤の中で育てる有胎盤類である。有袋類はより原始的な哺乳類と考えられ、かつて大陸がつながっていた頃は全世界に分布していた。約5000万年前にオーストラリア大陸(ニューギニアとは地続きでサフルランドという)が分離した後、アフリカ、ユーラシア、南北アメリカには有胎盤類が台頭して有袋類は絶滅、切り離されたオーストラリア側には有胎盤類の哺乳類が侵入できなかったので、有袋類が多様化して栄えたと考えられている。
オーストラリア大陸にいた有胎盤類は空を飛ぶコウモリと、流木に乗って渡ってきたと思われるネズミだけだった。ところが約5万年ほど前、東南アジア側から海を越えて人類が渡来した。その時期やどのように渡ってきたのかはまだよくわからないが、現在ではカヌーを操って渡来したと考えられている。彼らがやってきた頃のオーストラリア大陸には現在よりも多様な有袋類がいた。体長3mを越えるディプロドロン、体高が2mになるジャイアントカンガルー、体長1.6mの大型ウォンバット、体重100kの飛べない鳥など・・・。これらの大型動物は氷期が終わる頃絶滅してしまったが、それには渡来した人類の狩猟も一因であると考えられている。<海部陽介『人類がたどってきた道』2005 NHKブックス 第7章>
イ.文化から文明へ
A 旧石器時代 旧石器時代(パレオリシック Palaeolithic)は、人類が打製石器を中心とした道具を使い、狩猟・採集を生業とし、まだ土器・磨製石器・金属器を知らなかった段階。人類の出現から、約1万年前の新石器文化の出現まで、ほとんどすべてが旧石器時代に属する。
旧石器の発見:ひとびとが旧石器時代を意識するようになったのは、1838年北フランスでブーシェ=ド=ペルトという人(専門の考古学者ではなく税関の役人であった)が洪積世の地層から絶滅種の動物化石と一緒に石器を発見したことに始まる(洪積世に人類が生存したという彼の説は当時は受け入れられず、彼は財産をなげうって研究を自費出版したが学会はそれを無視した。ようやく15年後の1853年にイギリスの学会で認められた。)。<伊藤嘉昭『人間の起源』紀伊国屋新書>
旧石器時代の命名:イギリス人ジョン=ラボックがド=ペルトの発見した文化が磨製石器と土器を伴わないことからそれまでの「石器時代」の概念を二つに分け、「旧石器時代」と名付けた。現在では世界各地でその遺跡、遺物、化石人骨が見つかっており、研究が進んでいる。
日本の旧石器文化:日本での旧石器文化の発見も同じような経緯があった。1949年相沢忠洋という戦争から復員してきた青年が群馬県岩宿の洪積世の地層から黒曜石の石器を発見した。それまで日本には旧石器文化は存在しないとされていたが、この素人の青年の発見によってその後各地で旧石器遺跡が発見された。最近では、1980から90年代にかけて東北地方を中心に、前期旧石器時代の北京原人と同じ時期の遺跡だ、というのをやはり独力で考古学を学んだ人物が次々に発見してマスコミも取り上げ、日本の旧石器文化はその前期までさかのぼるとされるようになった。ところが2000年、それがまったくの偽物であることが発覚し、その遺跡は国指定をはずされ、教科書から削除された。<『発掘捏造』毎日新聞旧石器遺跡取材班>
Epi. ピルトダウン人:イギリスでも20世紀に、ピルトダウンでサルとヒトの中間の化石人骨が発見され、学会ははじめそれを信じ、人類学の大発見とされた。ところが、後になってその化石は偽造された物であることが判明、学会が大騒ぎになるという事件が起きている。
a 打製石器、骨角器  
b 狩猟・漁労・採集  
c 洞窟住居  
中石器時代 旧石器時代から新石器時代の間に、過渡期として中石器時代をおく考えもある。その特徴は細石器で、剥片石器をさらに細かく加工して、木や骨にはめ込み、槍や矢として使った。特に、弓矢の普及がこの時期に広がり、狩猟技術を一段と高めたことが重要である。弓矢の発明によって、狩猟生活が安定し、そのため人口が増加したが、やがて人口の増加を狩猟採集だけでは維持できなくなって、農耕や牧畜を始めざるを得なかった、とも考えられる。
d 1万年  
e 気候の温暖化  
f 狩猟民族文化  
g 遊牧民族文化  → 遊牧民
C 新石器時代 新石器時代(ネオリシック)Neolithic は磨製石器土器を指標(メルクマール)とする。およそ1万年前の気象の変化に伴う自然環境の変化に適応した人類が、9000年前ぐらいから農耕・牧畜を行うようにことに対応した文化である。
農耕・牧畜の開始による人間社会の変化は、人口の増加をもたらし、階級・国家を形成させ、文明の段階を生み出すという大きなものであった。そこで「農業革命」とか、「新石器革命」(20世紀のイギリスの考古学者チャイルド)という言い方もされる。
a 農耕・牧畜 狩猟・採集段階の次に現れる人類の生業。人類は農耕・牧畜という生産経済段階に入ったことによって人口を飛躍的に増大させ、文明を形成すると共に、階級や国家を発生させた。この変化を農業革命ともいう。この変化は、遺物の上では磨製石器と土器を指標とする新石器時代として現れる。その始まりは、確定的なものとしては西アジアで紀元前7000年頃、東アジアでは紀元前6000年頃と考えられている。
食糧生産が開始された地域として知られるのが、現在のイラン・イラク・シリア・ヨルダン・レバノン・イスラエルにまたがる、レヴァント地方である。この地域には野生の大麦や小麦が生育しており、まず紀元前10500〜8500年頃この地に麦類を採集し、野生の山羊などを狩猟して生活するナトゥファン文化が起こった。彼らは収穫用の石器や加工用の石臼、石皿など磨製石器を造り、紀元前7000年頃になって麦類の栽培を始めたらしい。農耕の起源についてはまだ不明な点が多いが、この西アジアから東地中海域にかけての地域(古来、「肥沃な三日月地帯」と言われている)が有力視されている。また、中国の農耕の開始は前6000年頃に、黄河中流域と長江中流域でであったと考えられている。
b 獲得経済  
c 生産経済  
d 人口の増加  
e 文明 → 文明の形成
f 集落  
g 土器 粘土を使って整形し、火で焼くことによって硬度をたかめ、さまざまな容器とする技法。素焼き地の上に酸化鉄による赤や黒や白で模様を描いた彩文土器は、メソポタミア・エジプト・インド・中国に共通に見られる。
Epi. 縄文式土器は世界最古? 土器の起源はその時期、場所など、まだ不明な点が多いが、約一万三千年前にさかのぼるとされる日本列島の縄文式土器も、世界最古の部類であることは興味深い。一般に、土器の発生は新石器時代への移行の指標となり、農耕の発生と関連づけられているが、日本の縄文文化は其の発生時期には農耕の発生との関連は無い。農耕と結びつかずに発生した縄文文化は世界史的には独自の新石器文化と言うことが出来る。
彩文土器  → 第2章 1節 インダス文明 彩文土器
織物  
h 磨製石器 打製石器に対し、石材を砥石によって研磨して整形する技術。石斧・石鎌・石剣・石棒など様々な形態があり、生産用具としての他、武器や祭祀用具としても用いられた。また石皿・石臼などのような穀物の生産のための用具でもあり、磨製石器の出現が新石器時代、つまり農耕社会への移行の指標となっている。
農耕の発達と文明の形成
A 初期農法  
a 乾地農法 用水路やため池などの灌漑施設の出現以前の方法で、雨水のみに依存する農法。天水農業とも言う。また農具の未発達のため、樹木や雑草を除去できないので、自然の草木のない乾地で、一定の降水のある地域で行われた、最も初期の方法である。
b 略奪農法 肥料を加えず、土地の養分をとりきってしまう農法なので、略奪農法という。その土地の養分がなくなれば別な土地に移動しなければならなかったので、定住できなかった。
c ジャルモ遺跡 メソポタミア最古の農耕遺跡。イラク領クルディスタン丘陵にある。レヴァント地方のイェリコ遺跡などと並んで農耕・牧畜の始まりを示す重要な遺跡である。発掘調査によれば、小麦・大麦を栽培し、羊・山羊・豚・牛・犬を飼育、方形の泥をつき固めた家に住み、死者は床下に埋葬し、磨製石器(石刃、石皿、石棒など)を使っていた。この文化が存在したのは前7000年紀前半から前6000千年紀末に当たると考えられており、メソポタミア最古の「ジャルモ期」段階にあたっている。
d イェリコ遺跡 メソポタミアのジャルモ遺跡と共に、現在、世界最古の農耕・牧畜の遺跡の一つとされている、レヴァント地方の死海北岸にある遺跡。レヴァント地方とは現在のシリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルを含み、「肥沃な三日月地帯」の西半分を占める、野生のムギ類が生育する気候の温暖な地域。イェリコは死海の北岸、ヨルダン川西岸(現在はレバノンに属するが一帯は事実上イスラエルが占領しているエリコにあたる)にあり、では前7000年頃から、農耕・牧畜が始まり、石積みの外壁や望楼を持ち、日干し煉瓦の住居で集落を形成していた。さらに発掘ではその上に青銅器時代の都市文明の遺跡も見つかっている。なおイェリコ(ジェリコとも表記)は旧約聖書にヨシュアに率いられたイスラエル軍に滅ぼされた(ジェリコの戦い)とされている町である。
日乾し煉瓦 粘土にわらくずなどを混ぜて形を整え、日光で乾かした煉瓦。メソポタミアの初期農村のジャルモ遺跡やテル=サラサート遺跡にはこの日乾し煉瓦で造られた家が数千年の間に何層にも重なり合って発掘されている。
B 灌漑農業 作物を生育させるのに必要な水を、雨水だけ依存していた初期農業に対し、人工的な用水路やため池、地下水の利用などによって得る農法。土木工事が必要になるので、集団的、組織的な共同作業を通じて、より広範囲の農業共同体を生み出す。この農法によって、生産力は飛躍的に向上したが、また水利をめぐって共同体間の争いが起こり、地域権力が発生する。このような潅漑農業は、およそ前6000年紀なかごろ(前5500年ごろ)に、チグリス・ユーフラテス流域のメソポタミア、さらにナイル川流域のエジプトで始まった。この両地域では、定期的な氾濫を繰り返す大河との格闘の中から人々は潅漑農業の技法を獲得し、その発達を背景に、定住が大規模に進み、交易も広範囲となり、前3000年頃には、青銅器の使用、文字の使用などを指標とする都市文明が形成されたと考えられる。
潅漑農業の開始年代:潅漑農業が始まったことを示す遺跡としては、メソポタミア南部のウバイド遺跡の前6000年紀後半(前5500年以降)の小神殿を持つ集落跡の出土などから想定されている。洪水が多いこの低湿地で、麦類の栽培を行うには、人々が水の統御に成功したからと考えられている。<『人類の起源と古代オリエント』1998 『世界の歴史』1 中央公論社 p.151>
a メソポタミア  → メソポタミア  メソポタミア文明
b 都市  
c 階級  → 階級
d 国家の形成  
C 文明の形成 文化が、旧石器時代から人間が集団的に伝承してきたさまざまな生活様式であり、衣食住や生産活動、精神活動の一つの地域的まとまりを言うのに対し、文明とはより高度であり、また文化を包摂したより広範な地域における人間の創造的な営みを言う、と理解しておこう。石器時代の文化遺産を継承しながら地球上ほぼ全域に拡散したホモ=サピエンスは、約5000年前ごろから各地で特色ある「文明」の段階に達したとされる。文明段階の指標としては、一般に、都市の発生・階級関係の形成・金属器の使用・文字の使用があげられる。地球上にいくつかの文明が発生するが、この4点は共通することである。その内容はそれぞれの文明によって違うが、また互いに影響を受けている場合もある。通常、「四大文明」という言い方をするが、最近ではそれにアメリカ大陸の古代文明を加える場合も多く、また四大文明の周辺の文明にも注意が払われるようになってきている。 
a ナイル川流域 ナイル川は世界最長の川。全長6690km。ヴィクトリア湖から流れる白ナイルとエチオピア高原から流れる青ナイルがスーダンのハルツーム付近で合流し、砂漠地帯を北流してエジプトを流れ、下流に大三角州を作って地中海に注ぐ。古代ギリシアのヘロドトスが「エジプトはナイルのたまもの」と言っているとおり、ナイル川の定期的な氾濫によって形成された肥沃な土壌がエジプト文明を形成した。また人々はナイルの水を利用した灌漑技術を発展させ、高度な文明社会を築き、流域にいくつかの都市国家が生まれ、それらを統合するエジプト王国を出現させた。エジプト王国はたびたびメソポタミア方面まで力を伸ばし、またアッシリア帝国以来西アジアからの勢力の支配を受けることもあった。現在、ナイル川流域は、中・上流にアスワン=ハイダムなどの大規模な灌漑用ダムが建設され、古代遺跡のいくつかが水没することとなったので、移設されるなどの保存措置がとられた。
 → 第1章 1節 エジプト エジプト文明 ナイルのたまもの
b ティグリス・ユーフラテス川 ティグリス・ユーフラテスと並び称されるが、ともに現在のイラク国内を北西から南東に流れ、ティグリス川がイラン側(北東側)でユーフラテス川がサウジ側(南西側)。なお、ティグリス川とユーフラテス川は現在では下流で一つとなり、シャトル・アラブ川となってペルシア湾に注いでいるが、古代メソポタミア文明の時代には、現在より海岸線は内陸にあり、二つの川は別々に海に注いでいた。ギリシア時代からメソポタミアといわれたがそれは「川にはさまれた土地」を意味していた。現在は「二つの川」を意味する「アル・ラフダイン」といわれている。
アルメニアの山岳地帯を源流とする両河は、たびたび大洪水を起こし、その下流に広大な沖積平野を形成した。それがメソポタミア平原である。この大洪水の記憶はメソポタミアの人々に語り継がれ、ギルガメシュ神話となり、さらにそれを継承した『旧約聖書』のノアの箱船の伝承となったものと思われる。このユーフラテス川の下流にはウルウルクなどの古代都市遺跡があり、メソポタミア文明の発祥地であった。中流で両河の間が狭くなる地域にはかつてはバビロンが栄え、現在ではイラクの首都バグダッドがあって、中東の中心地となっている。ティグリス川の上流にはアッシリアのニネヴェなどの遺跡がある。→ 第1章 1節 メソポタミア文明  川のあいだの地方
c インダス川 ヒマラヤ山脈を水源とし、西部インドを北から南に貫流する大河。その上流域をパンジャーブ地方、下流域をシンド地方という。シンド地方のモヘンジョ=ダーロ遺跡、パンジャーブ地方のハラッパー遺跡に代表されるインダス文明がこの流域に展開した。パンジャーブとは、5本の川の意味で、土地が肥沃であり、また東西文化の交流地点でもあった。
 → 第2章 1節 インダス文明
d 黄河・長江 黄河と長江は中国を代表する二つの大河。黄河は、ホワンホー、中国で単に「河」といえば黄河を意味する。長江(チャンチアン)は単に「江」とも言われる。前6000年頃から、黄河流域と長江流域でそれぞれ農耕文明が成立したと考えられている。従来は世界の文明の一つが黄河流域に生まれたととらえ、「黄河文明」と言われていたが、現在は、長江流域での農耕文明の発生も同じ程度に重要であるとされ、黄河と長江の両方を併せて「中国文明」ととらえるようになってきた。
 → 第2章 3節 中国古代文明 中国文明 黄河文明 長江文明
i 文明 → 文明の形成 
e 都市  
f 階級社会 農耕・牧畜という生産経済段階になり、私有財産が発生し、原始共産制社会から階級社会に移行したと大筋では考えることができる。最初の階級社会のあり方は奴隷制社会であるが、古代国家と奴隷のあり方は一律ではなく、それぞれの文明社会の中での違いも認められる。 
g 金属器 まず、メソポタミアにおいて7000年前に銅の鉱石を溶かして銅器を造ることが知られていた。そして4500年ほど前、メソポタミアで銅に錫(スズ)を加えて、より堅い青銅器を造ることが始まったらしい。この銅、青銅の製造技術はしだいに周辺に広がり、中国文明でも4000年前から青銅器が造られるようになる。またインダス文明も青銅器文明であった。このような冶金技術はすぐれた専門性を有する集団が存在したことを推定させ、またその用途は実用よりも祭祀用具とされたことと合わせ、金属器の出現とともに社会が複雑に分化し宗教的な権威も出現したことが考えられ、いわゆる「文明の形成」段階の指標とされる。西アジアの鉄器は遺跡としては5000年前にメソポタミアに現れているが、本格的に使用したことが確認されるのは、3400年前ごろ小アジアに出現したヒッタイトである。ヒッタイトに始まる鉄器文化は3000年前頃にはメソポタミア全域に及ぶ。さらに中央アジアのスキタイを通じて東方に伝えられ、中国では2700年前の春秋時代から鉄器が現れてくる。鉄器の出現は、武器や農具として実用的であり、生産力を高め、国家の統一を進めることとなった。 
h 文字 文字の最初は絵文字であり、前3200年前頃、西アジアのシュメール人の都市ウルクで使い始めた絵文字が最も古いとされている。モノそのものを表す絵文字から、ある観念を表すことの出来る表意文字生まれた。前3000年頃にメソポタミアで楔形文字が普及した。他に前3000年頃のエジプトの象形文字(ヒエログリフ)、前13世紀頃の中国の甲骨文字から発達した漢字、などである。このような表意文字の発生は人類の「文明」段階の重要な指標となる。文字は徴税記録や王統の記録など国家権力にとって必要なものとしてつくられてきたのである。次いで、文明圏を超えた交易が始まるようになると、より普遍的な利用が可能な表音文字が現れてくる。西アジアに始まったフェニキア人のアルファベット、アラム人のアラム文字はさまざまなバリエーションを生み出しながらそれぞれ東西に広がっていく。漢字は東アジアに広がり、周辺諸民族は10世紀頃、そろって漢字をもとにして自らの文字を作った。契丹文字、西夏文字、女真文字がそれであり、日本の仮名文字も漢字をもとにして作られた表音文字である。また文字には、インカ文明で用いられたキープのように、平面的な形でないものもある。
文字に先行するトークン:なお、最近は文字の前段階にあると考えられる「トークン」が注目されている。メソポタミアの遺跡から出土する小さな粘土の塊に記号のような模様がほどこされているもので、何らかの意味を伝達、記録する「文字」として使用され、そこから絵文字に転化したのではないかと考えられている。最古のトークンは前8000年にさかのぼるとされるが、メソポタミアのどこかはわかっていない。前4400年ごろには多様化し、前3500年ごろに多数作られた。ついで前3200年ごろにウルクで絵文字が現れてくる。<小林登志子『シュメル−人類最古の文明』2005 中公新書 p.34-37>
5000年前(紀元前3000年)  
ウ.人種と語族の分化 
a 人種 人類を身長・頭の形・皮膚の色・毛髪の色・目の色などの生物学的特徴で分類したもの。およそ、白色人種(コーカソイド)・黄色人種(モンゴロイド)・黒色人種(ネグロイド)に分けられる。
 コーカソイド  
 モンゴロイド  
 ネグロイド  
b 民族 言語・宗教・習慣など文化的特徴を共有していると意識している人びとの集団。必ずしも人種、語族とは一致しない。
c 語族 言語の違いにはグループと、系統があり、同一の系統にある人びとを○○語族という。人類の代表的な語族には、西アジアの文明を作りだしたセム語族・ハム語族、ユーラシア西部と南部に広く分布するインド=ヨーロッパ語族、アジアのウラル語族、アルタイ語族、シナ=チベット語族、太平洋島嶼部のマレー=ポリネシア語族などがある。
d 国民 17世紀以降、ヨーロッパで形成された、国民国家(主権国家)を構成する構成員。一つの国家と法的に権利・義務関係を結んでいる人びとのことで、人種・民族・語族と一致しない。多くの民族から一つの国民が形成されている場合もあるし、一つの民族がいくつかの国民に別れている場合もある。
a インド=ヨーロッパ語族  → 第1章 1節 インド=ヨーロッパ語族
b セム語族  → 第1章 1節 セム系 
c ハム語族  → 第1章 1節 ハム系
d ウラル語族 ユーラシア大陸北部に広がる、フィンランド語、エストニア語、ハンガリー語など。かつてはアルタイ語と同系とされ、ウラル=アルタイ語族と言われたが、現在はこの両者は別系統とされている。なお、ロシア語はウラル語族ではなくインド=ヨーロッパ語のスラブ語派。 
e アルタイ語族 トルコ語、モンゴル語、ツングース語がアルタイ語族とされる。アルタイとは、モンゴル高原と中央アジアの境界にあるアルタイ山脈から名付けられた。古来、その周辺にはトルコ系、モンゴル系、ツングース系の遊牧民・狩猟民が活動し、彼らの言葉に共通する要素があることから、アルタイ語族とされた。共通要素には、膠着語(語幹と接辞の接合のしかたが膠(にかわ)で付けたようにつながる)であること、母音調和(同一語の中に同一系統の母音しかつかわれない)があることなどがあげられている。朝鮮語(韓族)と日本語をこの系統に加えるのが有力である。なお、かつてはウラル語との近親性が認められるとして、ウラル=アルタイ語族という分類が行われたが、現在は否定されている。
f シナ=チベット語族 東アジアに広がる、中国(漢)語・タイ語(シナ=タイ語とも言う)、チベット語・ビルマ語(合わせてチベット=ビルマ語という)などが含まれる。
g マレー=ポリネシア語族(オーストロネシア語) ドイツのフンボルト(ヴィルヘルム=フォン=フンベルト、ベルリン大学の創設者で言語学者)は19世紀の初め、インド洋・マレー半島・インドネシア・南太平洋の言語の共通性に着目してそれらをマレー=ポリネシア語族と名づけた。現在ではオーストロネシア語族ということが多く、非常に広範囲にわたっており、インドネシア語系とオセアニア系に分かれる。
・インドネシア語系 マレー語、インドネシア語、フィリピンのタガログ語 他にベトナムやカンボジアの一部、さらにインド洋の西のマダガスカル語など
・オセアニア語系 ニュージーランドのマオリ語、メラネシア(パプア)、ミクロネシア、ポリネシア(タヒチ語、ハワイ語など)
h 南アジア語族(オーストロアジア語) インドシナ半島のモン=クメール語、ベトナム語、インド東北部のムンダー語などを含む語族。南アジアという意味でオ−ストロアジア語族ともいう。最近の研究ではオーストロネシア語族との関係も指摘されている。
i ドラヴィダ語族 インド=ヨーロッパ語族にも、南アジア語族にも属さない。アーリア人が侵入する以前にインドに文明を築いていたドラヴィダ人の言葉で、現在は南インドのタミル人のタミル語などに残っている。 
・原始宗教 
原始宗教 人類の精神活動の特徴である、超自然的なものに対する崇拝や、死後の世界に対するおそれなどを総称して原始宗教という。文明の形成以前にすでに死後の世界の観念が存在したことは、旧人のネアンデルタール人の遺跡に人為的に埋葬された人骨が見つかっていることなどから推測される。新人段階になるとクロマニヨン人の洞穴絵画などから、自然の恵みに対する畏敬の念を抱いていたことがわかる。新石器時代に農耕牧畜が始まると集落が形成され、次第に宗教的権威をもったものが首長の地位を占めるようになった。様々な儀式や儀礼を通して共同体を維持し、また生産力の低さは自然の力に依存することが絶対であったので、穀物や家畜の成長を太陽や月などに祈る自然崇拝が行われた。新石器時代の遺跡である環状列石やドルメンなどの巨石文化はそのような宗教儀礼と関係があったものと思われる。そしてその儀礼を司る祭司が特別の階級を形成し、やがて民族ごとの原始的な宗教教団が形成されていった。そのような民族性、地域性の強い共同体ごとの宗教である原始宗教は、各地で生まれたが、普遍的な教義や経典を持たないことなどで、後の民族宗教(ユダヤ教やヒンドゥー教、日本の神道など)の前段階といえる。
アニミズム 原始宗教に広く見ることのできる霊魂あるいは精霊に対する信仰をアニミズムという。ことばは霊魂を意味するラテン語のアニマからきている。原始宗教では人間だけでなく、動物や無機物にも精霊の存在を認めている。例えば山の神や大きな岩に精霊が宿っているなどと言うのがそれである。このようなアニミズムが宗教の最も原始的な携帯であると考えられている。アニミズムは各地の民族宗教の中にも生きており、中国の道教の不老不死の仙人を信じることなどに見られる。
トーテミズム 特定の動物や植物をトーテムとし、ある集団を象徴する神(多くの場合祖先神)として崇拝することをトーテミズムという。原始宗教の一つの形態として各地の文化にその名残を見ることができる。トーテムはアメリカ大陸のインディアンの言葉で、トーテムとされる動植物を彫刻した柱(トーテムポール)を集落の周囲に建てられることが行われていた。またトーテムとされた動植物を食べたり害を加えることは共同体の中で禁止されている。ポリネシアなどで広く見られるこのような禁忌をタブーという。トーテムとタブーは宗教であると共に一つの社会制度として機能していた。
神話 原始宗教ではまとまった教義や経典はもっていないが、長い間に儀式を執り行う際に、その意義付けを神話というかたちで先祖から継承してきた。神話には一般的に、天地創造や神々の系譜、人間や動物の起源、霊力もった主人公によって共同体が護られてきた物語などを含んでおり、「法律」や「歴史」を持っていたかった時代の人間の倫理綱領であり集団のアイデンティティのよりどころとなる機能を持っていた。また各地の神話はその構造や関係性に近似するものが多く、「文化人類学」の研究対象として重要である。神話は長く口承されてきたが、その一部が文明の形成期に文章化、記録化された。ホメロスによって記録されたギリシア神話、日本では稗田阿礼が口承したものを太安万侶が記録した『古事記』などである。
シャマニズム シャマニズムとは、特別な能力を持つシャーマン(呪術者)を通じて神々とつながっていると考える原始宗教の一つの形態で、アニミズムから発展したものと考えられる。シャーマンは多くは女性で、日本で言えば巫女にあたる。神がかりして神の言葉を人々に伝える事のできる特別な人間であり、時として大きな力を持った。特に狩猟民族では狩りや戦いの正否を占いによって決することが広く行われ、その際にシャーマンは重要な役割をになった。ツングース系の民族での巫女をシャマンというところからシャマニズムという用語が一般化した。
神意を占うと言うことは文明段階になってからも「神権政治」として継承され、ギリシアではペルシア戦争の時代まで「デルフォイの神託」はポリスの政治や戦争の際に決定的な役割を担っていたことはヘロドトスの『歴史』を見るとよくわかる。物事を神託によって決し、神意をただすために犠牲獣を捧げることは中国のみならずアレクサンドロス時代から、ゲルマン民族まで広く見られる。日本においては『魏志倭人伝』の伝える邪馬台国の卑弥呼が「よく鬼道に事(つか)え」というのもシャマニズムの要素が認められ、後の天皇制の儀礼につながっている。