sage's scribbles
about YOKOHAMA FLUGELS

29日、アジアカップに向けた合宿に参加する、日本代表候補22人が発表されました。
フリューゲルスに在籍していた選手では、三浦淳宏が選ばれました。

10月2日、中田英寿がセリエAに専念するために、日本代表候補を辞退。代わって、北島秀朗が追加招集される。

JOMOカップ
10月4日のワールド・ドリームス(Jリーグ外国籍選手選抜)戦は、2−0で勝利した。三浦淳宏は45分から途中出場した。
得点は松田直樹、高原直泰。

ストイコビッチ、ニーノ・ブーレ、洪明甫、柳想鐵、盧延潤、尹晶煥が、それぞれ代表に選出されたため、出場を辞退。
前日には、アレックス、ビスコンティ、ポポヴィッチまでもが、負傷を理由に出場を辞退。
昨年に引き続いて、ロベルト・バッジオをゲストとして招いたとはいえ、ワールド・ドリームスを名乗れるメンバーではなかったね。

国際親善試合
10月8日のパリ・サンジェルマン戦は、1−1で引き分け。三浦淳宏は84分から途中出場した。
得点は森島寛晃。

00.9.30
シドニーの病院で再検査を受けた楢崎正剛が、全治2ヶ月と診断されました。

20日のブラジル戦で、腰を強打して戦列を離れていた中田浩二も、右第三腰椎横突起骨折で全治3〜4週間と診断されたそうで……

00.9.28
23日のアメリカ戦で、楢崎正剛が中澤佑二と空中で交錯した際に、左前頭骨を骨折しました。
27日にも再検査を受けることになりますが、アジアカップの日本代表は辞退することになりそうです。

試合が再開されても出血は止まらず、ユニフォームが鮮血に染まっていたので、間違いなく骨折はしているだろうと思ったが……
中澤佑二がヘディングでクリアすべきボールに、判断を誤った楢崎正剛が遅れて飛び込んだわけで、責めるのは筋違いだしなぁ。

00.9.24
13日、シドニー五輪開会式よりも一足早く、サッカー競技が開幕しました。

グループリーグ
南アフリカ戦は2−1で勝利した。楢崎正剛はフル出場、三浦淳宏は出場しなかった。
得点は高原直泰2。

スロバキア戦は2−1で勝利した。楢崎正剛はフル出場、三浦淳宏はフル出場、1アシスト。
得点は中田英寿、稲本潤一。

ブラジル戦は0−1で敗戦した。楢崎正剛、三浦淳宏ともにフル出場した。

第2ラウンド
アメリカ戦は2−2で引き分け(PK戦により、アメリカが準決勝進出)。楢崎正剛はフル出場、三浦淳宏は65分から途中出場した。
得点は柳沢敦、高原直泰。

00.9.14
13日、アジアカップに向けた合宿に参加する、日本代表候補30人が発表されました。
フリューゲルスに在籍していた選手では、楢崎正剛、三浦淳宏が選ばれました。

30人のうち、シドニー五輪に登録されている選手が13人いるので、合宿に参加するのは17人ということになります。

00.9.14
スポルティボ・ルケーニョ(パラグアイ)のアマリージャ監督が、成績不振の責任を取って辞任しました。
00.9.6

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