2005年度 6B世界史 世界史演習

第3講 イスラーム以後の西アジア(2)

解法T 大きくとらえる

     
作業 オスマン帝国とサファヴィー朝の領域と重要地名をチェック

解法U トルコを中心としたオスマン帝国の成立と発展の詳細をつかむ。

T オスマン帝国の形成 

 
1. オスマン1世 による建国とムラト1世のバルカンへの進出
 1299年 小アジアのa ルーム=セルジューク朝 の衰退に乗じ、西北部に建国。始め都はブルサ。
ビザンツ帝国の衰退に乗じてb バルカン半島 に進出。
 1366年 ムラト1世、ビザンツから奪ったc アドリアノープル を都とする。(トルコ名エディルネ)
 → この頃から、白人奴隷兵士を採用、d イエニチェリ 軍団を編成
 1389年 ムラト1世、e コソヴォの戦い でセルビアなどスラブ人を破る。 → スラブ人のイスラーム化始まる。

2. バヤジット1世  ティムールに敗れる
 1396年   ニコポリスの戦い でバルカン諸国と仏・独の連合軍(十字軍)を撃破。
 1402年   アンカラの戦い  で ティムール朝 に敗れ、一時衰退。

3. メフメト2世   国力を回復。
1453 年   コンスタンティノープル を占領。 c ビザンツ帝国 を滅ぼす。
  →d イスタンブル  と改称、首都とする。
 トプカプ宮殿 :スルタンの宮殿として造営。
  → ビザンツ時代のf ハギア=ソフィア聖堂 もモスクに改修される。

4. セリム1世    シリア・エジプトに進出  
 1514年   チャルディランの戦い でイランのa サファヴィー朝 を破り、シリアに進出。
 1517年   マムルーク朝  を滅ぼし、エジプトを併合。 両聖都メッカ、メディナの保護権を獲得。
 オスマン朝のc スルタン が、カリフ政治の後継者と認められ、宗教的にも
d スンナ派イスラーム教 の擁護者となる。
 → スルタン=カリフ制の起源とされるが疑わしい。

5. スレイマン1世    領土を拡大し、オスマン帝国の全盛期となる。
 1526年  モハーチの戦い でb ハンガリー 軍を破り領土を奪う。
 →c  神聖ローマ帝国  のd カール5世  と対立。 宗教改革期のキリスト教世界を圧迫。
 1529年   ウィーン包囲  (第1次) 1カ月包囲した後に撤退。
 1536年  フランスと同盟、f カピチュレーション  =フランス商人に領内の 居住と通商の自由を認める。
次いでイギリス・オランダにも認める。  
 背景:神聖ローマ帝国(カール5世)の対立していたフランス(g フランソワ1世 )と結ぶ。    
 1538年   プレヴェザの海戦   スペイン、ヴェネツィア、ジェノヴァ連合軍を破る。
 1557年   スレイマン=モスク :イスタンブルに建設。代表的モスク建築。

6.オスマン帝国の停滞 16世紀後半から17世紀
 1571年  レパントの海戦  スペイン、ヴェネツィア、ローマ教皇らの連合海軍に敗れる。
 オスマン帝国の地中海制海権、衰え始める。 → オスマン帝国の衰退      
17世紀頃スルタンの権威衰え、イエニチェリの発言権が強くなる。
 1683年 第2次ウィーン包囲 の失敗 オスマン軍は大軍で包囲したがポーランドなどの援軍があり失敗。
 1699年 カルロヴィッツ条約  オーストリア・ポーランド・ヴェネツィアと結んだ条約で、ハンガリーなどをオーストリアに割譲し、バルカン半島のオスマン領縮小の始まりとなった。    
18世紀以降ロシアの南下政策が強まり、バルカン半島のスラブ人の独立運動も始まる。
エジプトやアラビア半島で、アラブの覚醒といわれる独立運動が始まる。
また、イギリス、フランスの勢力も侵攻が進む。 → 19世紀の「東方問題」
 → オスマン帝国は上からの改革を試みながら存続し、第1次大戦後の1922年まで続く。

解法V オスマン帝国の社会の重要語句を理解する。

U オスマン帝国の重要語句 

1.オスマン帝国の政治と社会
 a スルタン=カリフ制 オスマン家のスルタンが、カリフの地位をかねて、政治と宗教の両面で絶対的な権限を持つ専制政治体制。b マムルーク朝  を滅ぼした時、カイロに亡命していたアッバース朝のカリフを保護したのに始まるとされるが確証は無く、明確になるのは18世紀以降である。
17世紀以降はスルタンの権威が衰え、実権は大宰相(ヴェズィラザム)が握るようになる。
 政治と社会の基本 イスラーム教のスンナ派の信仰に基づき、イスラーム法(c シャリーア )にもとづく。
 それを補うものとして、スルタンの勅令や慣例法がカーヌーンとして公布された。
 寛容な宗教政策 非イスラーム教徒のギリシア正教徒、アルメニア教会信徒、ユダヤ教徒はそれぞれd ミッレト  (宗教共同体)をつくり、貢納の義務の代わりに信仰の自由と伝統的社会制度の維持が認められた。
 軍事制度  ティマール制 :スルタンからトルコ人騎兵に土地の徴税権を与える制度。
 イエニチェリ制 :キリスト教徒の子弟を強制的に奴隷兵士として徴兵(g デウシルメ )して編成した常備軍。オスマン帝国を象徴する軍事力として、ヨーロッパ側から恐れられた。

解法W イランを中心としたティムール朝からサファヴィー朝の詳細を理解する。

V ティムール朝とサファヴィー朝 

1. ティムール朝 の建国
14世紀中頃 中央アジアのa チャガタイ=ハン国 、東西分裂。西チャガタイ王国配下のティムールが台頭。
チンギス=ハンの子孫を名乗り、モンゴル・トルコ両民族を統合。
 1370年  ティムール が建国。東西トルキスタンを統一し、c イル=ハン国 滅亡後のイラン、イラクを併合。キプチャク=ハン国(南ロシア)・北インドに侵入。
都d サマルカンド  の繁栄。イスラーム教のモスク、マドラサを多数建設。
  →e トルコ=イスラーム文化 の形成。
 1402年 小アジアに進出しf アンカラの戦い  でオスマン軍を破り、g バヤジット1世 を捕らえる。
 さらに、h 明 (皇帝はi 永楽帝 )への遠征を計画、
 1405年 途中オトラルで病死。

2.ティムール朝の全盛期  トルコ=イスラム文明    イラン人とトルコ人の世界を支配。
 1409年 シャー=ルフ、都をa ヘラート に移す。オスマン帝国と和睦し、学問に力を入れる。
15世紀中頃 ウルグ=ベク 、サマルカンドに天文台建設
→1449年 暗殺され、以後衰退する。
 1507年トルコ系c ウズベク人 に滅ぼされる。
 ウズベク人は西トルキスタンにシャイバニ朝を建国(後のブハラ=ハン国)。
 イランでは1501年、神秘主義教団のサファヴィー教団が独立。

3. サファヴィー朝  の建国 
 1501年a 神秘主義教団 の長のb イスマーイール1世 が建国。国王はc シャー を称す。
 首都 d タブリーズ 。トルコ系遊牧民を騎兵部隊(キジルバジ)として西アジアに進出。
  シーア派のe 十二イマーム派  を国教とする。
  イランの民族意識の高揚に努める。 → スンナ派のオスマン帝国と抗争。  
 1514年  チャルディランの戦いで、オスマン帝国のf セリム1世  と戦い、敗れシリアを失う。
 1534年  オスマン帝国のg スレイマン1世  の遠征でアゼルバイジャンとイラクを失う。

4. アッバース1世(大帝)   全盛期。
16世紀末 a オスマン帝国 からアゼルバイジャンとイラクの一部(バグダード)を奪回。
 1597年 新首都 b イスファハーン の建設。 「c 世界の半分 」と言われて繁栄。
 絨毯など工芸品が盛んになる。
 1622年 d ホルムズ島 のポルトガル人を追い払う。
17世紀後半 次第に衰退。
 1722年アフガン人によって滅ぼされる。 → 18世紀後半、イランにカージャール朝成立。