第13章1節 アジア諸地域の動揺
1 オスマン帝国支配の動揺とアラブのめざめ
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16世紀 a
オスマン帝国 の領土が三大陸に及び、最大となる。
同時にそのころからb
ポルトガル 人のインド洋海域への侵入開始。
17世紀 c
イギリス が進出しインド洋の制海権を握る。
→ 東インド会社の商館をペルシア湾に近いd
バスラ に建設。
1622年 イランのサファヴィー朝e
アッバース1世 、イギリス東インド会社と協力し
b
ポルトガル の勢力をホルムズ島から追い出す。
▼
1683年 オスマン帝国、a
第2次ウィーン包囲 に失敗。オーストリア軍に敗れ、後退。
→ オスマン帝国の衰退の始まり。
1699年 b
カルロヴィッツ条約 :c
ハンガリー ・トランシルヴァニア・
スロヴェニア・クロアチアをd
オーストリア に割譲。
→ オーストリア、多民族国家として東ヨーロッパでの強国となる。
▼
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C
ロシアの侵出 17〜18世紀 オスマン帝国領の黒海北岸に迫る。
1696年 ピョートル大帝 黒海の北につながるa
アゾフ海 に進出
▲補足:18世紀前半のオスマン帝国
オスマン帝国は1711年、ピョートル大帝のロシア軍をプルートの戦いで破り、その南下の勢いをいったんおさえることに成功した。18世紀前半のアフメト3世のもと、フランスの影響で宮廷文化が栄え、チューリップ時代と言われる安定した時期を迎えた。しかし後半になると再びロシアの南下政策が強まり、危機が続いた。
1774年 ロシア(エカチェリーナ2世)と▲b
キュチュク=カイナルジャ条約 締結。
→ クリム=ハン国の支配権を放棄し、黒海でのロシア商船の自由航行権を認める。
1783年 ロシア、c
クリミア半島 を併合。
▼
アジア・アフリカのオスマン帝国内の民族の自立を求めるd
民族主義 の運動強まる。
→ 18〜19世紀、南アジアのインド、東アジアの中国でも民族の自覚が始まる。
→ ヨーロッパ資本主義国の植民地獲得の動きも強まり、
アジア諸地域の動揺続く。

A
ワッハーブ派 の運動 18世紀中頃 アラビア半島で始まった運動
1744年頃 a
イブン=アブドゥル=ワッハーブ 、イスラーム教の改革をとなえる。
→ 中央アラビアの豪族b
サウード家 と結び、c
ワッハーブ王国 を建設。
メッカを一時占領。首都は後に
リヤドに置かれる。(現在の
サウジアラビア王国の前身)
→ オスマン帝国がエジプト太守ムハンマド=アリーに命じて滅ぼす。(後出)
内容:イラン人・トルコ人のd
神秘主義 や聖者崇拝をイスラム教の堕落とみなし、
ムハンマドの教えに帰ることを主張。
→ 現在も続く、e
イスラーム改革運動 の始まりとなり、同時にトルコ人の支配に対する
アラブ民族の民族的自覚をうながした。
▼
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19世紀初め シリアのアラブ人キリスト教徒知識人が始める。
= 言語を通じてアラブ民族意識を高める運動で、現代のアラビア語を確立させた。
→ 19世紀末以降のa
アラブ民族主義運動 につながっていく。
▼
1798年 a
ナポレオン のエジプト遠征 →イギリスとオスマン帝国の連合軍に敗れる。
→ エジプトに対するオスマン帝国の主権が回復。
1805年 b
ムハンマド=アリー エジプトの実権を握る。
1806年 オスマン帝国のカリフからc
エジプト総督(パシャ) の地位を認められる。
→ d
ムハンマド=アリー朝 成立。
・旧勢力のe
マムルーク を一掃する。
・フランスの協力でf
エジプトの近代化 を推進。
内容:陸海軍の創始、造船所・官営工場・印刷所の建設、教育制度の改革など。
1818年 オスマン帝国の要請でアラビア半島に出兵、g
ワッハーブ王国 を滅ぼす。
→ シリア領有を主張。オスマン帝国との対立強まる。
▼
第1次 1831〜33年 フランスがエジプト、ロシアがオスマン帝国を支援。イギリスが干渉。
→ 露土間で、▲b
ウンキャル=スケレッシ条約 を締結、ロシア船の海峡通行を許可。
第2次 1839〜40年 オスマン帝国がシリアに出兵してエジプトに敗北。
1840年 c
ロンドン会議 → 英・露・墺・普が▲d
ロンドン4国条約 締結。
・ムハンマド=アリーは、エジプトとスーダン総督の地位の世襲を認められる。
シリアの領有権は放棄する。
・1841年 ▲e
5国海峡協定 英・露・墺・普・仏
→ b
ウンキャル=スケレッシ条約 を破棄。海峡封鎖の原則に戻る。
1853年 フランス人f
レセップス 、g
スエズ運河 建設 →69年開通。
・1860年代エジプト 近代化政策と戦争のため莫大な債務を抱える。
→ イギリス・フランスの財務管理下におかれ内政の干渉も受け、実質的に植民地化する。
▼
・1881〜82年 エジプトの軍人ウラービー=パシャが指導。
意義:a
エジプト最初の民族革命運動、反植民地闘争である。
= 自由主義憲法の制定を要求。
1882年 イギリスは単独でアレクサンドリアを砲撃、さらに上陸し反乱軍を鎮圧。
→ エジプトはオスマン帝国の宗主権のもと、事実上はb
イギリスの保護国 となる。
・立憲制の要求と「エジプト人のためのエジプト」を掲げたc
ウラービー運動 が続く。
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▼
1839年 a
アブデュル=メジト1世 によるb
西欧化 改革。←エジプト=トルコ戦争
・▲c
「ギュルハネ勅令」 を発布。司法・行政・財政・軍事の西欧化を実施。
イスラム国家から西欧型の法治国家への脱皮をはかる。
→ ヨーロッパの工業製品の流入 → 土着産業の没落 →外国資本への従属強まる。
1853〜56年 d
クリミア戦争 の敗北 → 立憲制の要求強まる。
▼
1876年 宰相a
ミドハト が起草し発布。
意義:b
アジア最初の憲法である。
内容:二院制と責任内閣制。 → 翌年、議会開設。
→ 社会改革の不十分な“上からの改革”に終わる。
▼
1877〜78年 ロシアがバルカンのスラブ民族の反乱を支援し、オスマン帝国に侵攻。
→ a
アブデュル=ハミト2世 、戦争の勃発を口実に憲法を停止。
→ オスマン帝国の敗北。(前出)
1878年 b
ベルリン条約 オスマン帝国、ヨーロッパ側の領土の大半を失う。(前出)
▼
19世紀後半 オスマン帝国は▲c
“瀕死の病人” と言われるようになる。

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1838〜42年 第1次 → アフガニスタンに侵入したイギリス軍がほぼ全滅し、失敗。
1878〜80年 第2次 → イギリスがb
アフガニスタン保護国化 。
(1919年 第3次 アフガニスタンがインドに攻め込みイギリスに独立を承認させる。)
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→ 1907年 英露協商:イラン北部はロシア、南部とアフガニスタンはイギリスが支配。(後出)
