また同日、現在5位の大塚がソニー仙台に2−3(延長Vゴール)で敗れたため、
結局、佐々木仁は1試合も出場しなかった。まぁ常識的に考えても、実戦から遠ざかっている選手を起用しようとは思わないわな。
また、日本ではバンガ・バンドゥカップと表記されているが、ボンゴ・ボンドゥカップと発音するのが正しい。
1986年に創刊された、現存する唯一のアーケードゲーム専門雑誌「ゲーメスト」の出版元、と書けばおわかり頂けるだろうか。
大会の正式名称は「第4回神奈川県サッカー選手権大会 兼 第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会神奈川県代表決定戦」だそうだ。
第1戦は前半でハットトリックを決めて途中交代、第2戦は途中出場で決勝点と、ハーフタイム・プレイヤー(松木)大活躍。
26日、綾瀬市民スポーツセンター陸上競技場で本田技研戦が行われ、2−1で勝利しました。
得点は、松田2(65分、69分)です。
19日、水戸ホーリーホックが、J2参加申請書をJリーグに提出しました。
18日、駒沢陸上競技場で横河電機戦が行われ、1−0で勝利しました。
得点は、藪田(49分)です。
横浜FCがキャンプを行った福島県西白河郡西郷村に、芝の専用グラウンドが設立されることになりました。
来年夏までには完成する見込みで、今後キャンプなどに使用される予定です。
12日、大和スポーツセンター陸上競技場で天皇杯神奈川県代表決定戦の決勝が行われ、
得点は、小野3(45分、49分、79分)です。
横浜FCは11月28日、平塚競技場にて、新潟大学との一回戦に挑むことになります。
8日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会決勝が行われ、
得点は、片岡2(38分、44分) 高橋(99分)です。
JFL選抜というからには横浜FCの選手もひとりは入れておかないと、という意図が見え見えの選出だったので、当然といえば当然か。
ボンゴ・ボンドゥとはバングラデシュの建国の父、シェイク・ムジブル・ラーマンに民衆がつけた愛称で、「ベンガルの友」を意味している。
ムジブル・ラーマンは1971年のバングラデシュ独立を指導して大統領に就任したが、1975年8月15日にクーデターにより殺害された。
ボンゴ・ボンドゥの名は、孤立していた北西部のジョムナ川とガンジス川(ボッダ川)にかけられたジョムナ橋や、
──以上、バングラデシュ人の友人から教わった雑学でした。
7日、新声社、(株)マルゲ屋、新声パブリッシングの三社が破産手続申請の準備を開始しました。
新声社は横浜FCデザインのテレホンカードを作成していました。
マルゲ屋が神田の本店を除いてすべて閉店するなど、その兆しは見えていたのですが……
5日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会準決勝が行われ、
得点は、横瀬(5分) 鈴木(17分) 渡辺(101分)です。
JFL選抜は8日、U-22ガーナ代表との決勝に挑むことになります。
5日、東戸塚のトレセンで天皇杯神奈川県代表決定戦の準決勝が行われ、
横浜FCとの決勝は、12日に大和スポーツセンター陸上競技場で行われます。
3日、横浜FCのキャンプが福島県西白河郡西郷村で始まりました。
キャンプは9日まで行われます。
2日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会予選D組の試合が行われ、
得点は、松木(77分)です。
この結果、JFL選抜は予選リーグ2勝で準決勝に進出しました。
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