sage's scribbles
about YOKOHAMA FC

26日、綾瀬市民スポーツセンター陸上競技場で本田技研戦が行われ、2−1で勝利しました。
得点は、松田2(65分、69分)です。
99.9.27
19日、水戸ホーリーホックが、J2参加申請書をJリーグに提出しました。
99.9.20
18日、駒沢陸上競技場で横河電機戦が行われ、1−0で勝利しました。
得点は、藪田(49分)です。

また同日、現在5位の大塚がソニー仙台に2−3(延長Vゴール)で敗れたため、横浜FCの今季4位以内が確定し、来季からJFL正会員として承認されることが内定しました。

99.9.19
横浜FCがキャンプを行った福島県西白河郡西郷村に、芝の専用グラウンドが設立されることになりました。
来年夏までには完成する見込みで、今後キャンプなどに使用される予定です。
99.9.13
12日、大和スポーツセンター陸上競技場で天皇杯神奈川県代表決定戦の決勝が行われ、横浜FCが横浜F・マリノスユースに3−1で勝利しました。
得点は、小野3(45分、49分、79分)です。
横浜FCは11月28日、平塚競技場にて、新潟大学との一回戦に挑むことになります。
99.9.13
8日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会決勝が行われ、JFL選抜はU-22ガーナ代表に3−2(延長Vゴール)で勝利し、優勝を果たしました。
得点は、片岡2(38分、44分) 高橋(99分)です。

結局、佐々木仁は1試合も出場しなかった。まぁ常識的に考えても、実戦から遠ざかっている選手を起用しようとは思わないわな。
JFL選抜というからには横浜FCの選手もひとりは入れておかないと、という意図が見え見えの選出だったので、当然といえば当然か。

また、日本ではバンガ・バンドゥカップと表記されているが、ボンゴ・ボンドゥカップと発音するのが正しい。
ボンゴ・ボンドゥとはバングラデシュの建国の父、シェイク・ムジブル・ラーマンに民衆がつけた愛称で、「ベンガルの友」を意味している。
ムジブル・ラーマンは1971年のバングラデシュ独立を指導して大統領に就任したが、1975年8月15日にクーデターにより殺害された。
ボンゴ・ボンドゥの名は、孤立していた北西部のジョムナ川とガンジス川(ボッダ川)にかけられたジョムナ橋や、1998年に営業を開始した第三の民間航空会社、GMG航空が所有するカナダ製の37人乗りDash-8型機二機のうちの一機などにも見られる。
──以上、バングラデシュ人の友人から教わった雑学でした。

99.9.9
7日、新声社、(株)マルゲ屋、新声パブリッシングの三社が破産手続申請の準備を開始しました。
新声社は横浜FCデザインのテレホンカードを作成していました。

1986年に創刊された、現存する唯一のアーケードゲーム専門雑誌「ゲーメスト」の出版元、と書けばおわかり頂けるだろうか。
マルゲ屋が神田の本店を除いてすべて閉店するなど、その兆しは見えていたのですが……

99.9.7
5日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会準決勝が行われ、JFL選抜はU-18韓国代表に3−2(延長Vゴール)で勝利しました。
得点は、横瀬(5分) 鈴木(17分) 渡辺(101分)です。
JFL選抜は8日、U-22ガーナ代表との決勝に挑むことになります。
99.9.6
5日、東戸塚のトレセンで天皇杯神奈川県代表決定戦の準決勝が行われ、横浜F・マリノスユースが神奈川大学に2−0で勝利しました。
横浜FCとの決勝は、12日に大和スポーツセンター陸上競技場で行われます。

大会の正式名称は「第4回神奈川県サッカー選手権大会 兼 第79回天皇杯全日本サッカー選手権大会神奈川県代表決定戦」だそうだ。

99.9.6
3日、横浜FCのキャンプが福島県西白河郡西郷村で始まりました。
キャンプは9日まで行われます。
99.9.4
2日、バンガ・バンドゥカップ国際サッカー大会予選D組の試合が行われ、JFL選抜はU-19クウェート代表に1−0で勝利しました。
得点は、松木(77分)です。
この結果、JFL選抜は予選リーグ2勝で準決勝に進出しました。

第1戦は前半でハットトリックを決めて途中交代、第2戦は途中出場で決勝点と、ハーフタイム・プレイヤー(松木)大活躍。

99.9.3

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