1. アヘン戦争 自由貿易政策をとるイギリスの侵略 | |
1834年 | イギリス、東インド会社のa 中国貿易独占権 を廃止。 →イギリス商人によるインド産b アヘン 流入激増。→c 銀 の国外流出。 →農民の貧困化、中毒の蔓延→納税(地丁銀)・小作領の不払い→ 清朝の財政難。 |
1839年 | 道光帝、d 林則徐 を欽差大臣とし、e 広州 に派遣。アヘンを没収し、廃棄する。 密貿易の取締り、さらにイギリス商館を閉鎖、貿易を禁止する。 →イギリス政府、f 自由貿易 の実現を大義名分に海軍を派遣。 |
g 1840 年 1842年 | イギリス艦隊、厦門、寧波などを砲撃。 → 清軍降伏。 広州郊外の住民、h 平英団 を組織し英軍に抵抗を続ける。 |
2.不平等条約の締結 中国の半植民地化 | |
1842年 | イギリスと清のa 南京条約 締結。 ・b 香港島の割譲 ・c 上海 ・寧波・福州・厦門・広州の5港の開港 ・d 公行の廃止 ・没収アヘンの補償費600万両、e 賠償金 1200万両の支払い。 → 清朝、自由貿易を認める。 = 中国の開国。アヘン密輸は続く。 |
1843年 | 追加条約として、f 五港通商章程 ・g 虎門塞追加条約 締結 。 h 領事裁判権(治外法権) ・i 協定関税(関税自主権の喪失) ・j 最恵国待遇 などを認める。=中国にとっていちじるしく不利なk 不平等条約 。 |
1844年 | アメリカとl 望厦条約 、フランスとm 黄埔条約 を締結。 |
1845年 | 上海にn 租界 (警察・行政権を外国が持つ居留地)を設ける。中国は半植民地となる。 |
1851年 | → 民衆の不満 → o 太平天国の乱 の勃発(後述) |
3. アロー戦争 (第2次アヘン戦争) | |
1856年 | a アロー号事件 :広州で英国船籍の船を中国官憲が臨検し中国人乗組員を逮捕。 |
1857年 | b イギリス(ヴィクトリア朝) がフランスと共同して出兵、広州を占領。 フランスはc フランス人宣教師殺害事件 を口実に出兵。英仏軍、天津に迫る。 |
1858年 | d 天津条約 締結:・公使のe 北京駐在 ・f キリスト教 布教の自由 ・外国人の内地旅行の自由 ・賠償金の支払い ・アヘン貿易の公認 ・開港場の増加(牛荘など沿岸部と、漢口・南京など長江流域の10港)など |
1859年 1860年 | 清軍、批准書交換を阻止、英仏艦を砲撃。戦闘再開。 → 英仏軍、北京占領。g 円明園 を破壊。 |
1860年 | h 北京条約 締結:英・仏・米・露と締結 ・天津条約の批准 ・i 天津 の開港 ・j 九竜半島 の南端をイギリスに割譲 → イギリス領香港の成立。 |
4. ロシア の中国進出 | |
1858年 | a アイグン(愛琿)条約 :ロシアが、アロー戦争の最中に清に圧力をかける。 →b 黒竜江(アムール川) 北岸を領有。c 沿海州 は共同管理とする。 |
1860年 | d 北京条約 締結:ロシアがアロー戦争の講和仲介、その代償として締結。 →c 沿海州 を獲得。e ウラジヴォストーク 港を開く。(総督ムラヴィヨフ) |
1871年 | f イリ事件 (イスラーム教徒の反乱)を機にイリ地方(新疆の最西部)に進出。 → 清は左宗棠を派遣、反乱を鎮圧。ロシア軍なおも撤退せず。 |
1881年 | g イリ条約 :イリ地方を清に返還したが、ロシアは貿易上の利権を得る。 |
1. 太平天国の乱 清朝の満州人支配からの独立と反植民地の民衆蜂起 | |
19世紀中頃 | アヘン戦争の敗北 →a アヘン輸入 ・b 銀流出 の増大・c 賠償金の支払い → 銀の高騰 → 税の増大 → 民衆の生活苦 |
1844年 | d 洪秀全 ら、e 拝上帝会 を組織。f キリスト教信仰 をもとに、 上帝(ヤーヴェ)を崇拝。社会的平等を説き、儒教を攻撃く。 → 華南地方のg 客家 ※に広がる。 ※華北から華南地方の山間部に移住し小作人・炭焼き・きこり・鉱山労働者などになった人々。 |
h 1851 年 | i 太平天国 を建国 広西省j 金田村 で挙兵。独自の国家を建設。 |
1853年 | 南京を占領、k 天京 と改め首都とし、l 滅満興漢 をスローガンとする。 清朝が強制したm 辮髪 をやめてn 長髪族 、髪匪ともいわれた。 政策 o 天朝田畝制度 :男女の別なく土地を均等に分けて、財産を共有とし、 兵農一体となった信仰で結ばれる組織を社会の基本とする。 旧弊の廃止:p アヘン吸飲 の禁止・q 纒足 の禁止・女性の官吏登用など。 |
1853〜 68年 | ★同時期の清朝に対する反乱 華北の農民のr 捻軍 の反乱 もとは遊侠集団。太平天国とも一時連携した。 西北、雲南地方のs イスラーム教徒 、南西部の少数民族t ミャオ族 の反乱。 |
2.太平天国の滅亡 | |
太平天国軍、一時は北征や西征の軍を進めるが、内部分裂が起こり、理想的政策が実現 されず、次第に民衆の支持をなくす。 a 郷勇 :漢民族の義勇軍。地方有力者に指揮官となり、農民を兵士として雇う。 | |
1853年 1862年 | b 曽国藩 がc 湘軍(湘勇) を組織。読書人層を指揮官、農民を兵士とする。 部下のd 李鴻章 がe 淮軍 を組織。 |
1860年 | イギリスなど各国、アロー戦争で清朝を屈服させからは太平天国の鎮圧に向かう。 f ウォード ・g ゴードン らがh 常勝軍 を組織、太平軍を攻撃。 |
1864年 | 天京(南京)陥落。太平天国滅亡。 → i 漢人官僚 の勢力が伸びる。 |
3. 洋務運動 清朝の漢人官僚による、西洋技術の摂取をめざした運動 | |
1861年 | 清朝、恭親王をa 総理各国事務衙門 (総理衙門)に任命。外交事務を担当。 |
1862年 | 清朝のb 同治帝 、実権は母のc 西太后 が握る。 漢人官僚のd 曽国藩 ・e 李鴻章 ・f 左宗棠 らg 洋務派 ら登用し、 積極的にヨーロッパの文化の摂取に務め、富国強兵と経済再建を図る。 内容 海軍・兵器工場・鉄道・繊維工場などの建設、鉱山の開発など推進。 |
その理念はh 中体西用 =i 中国の伝統的道徳倫理を根本とし、西洋の技術を利用しようとすること。 → 西洋の議会政治や資本主義など政治・社会制度の導入は否定した。 | |
〜74年 | → 比較的政治が安定し、j 同治の中興 と言われる。日本の明治維新の時期に当たる。 |
4.東アジアでの清朝の後退 | |
1868年 | 日本の明治維新 明治政府と清朝、日清修好条規を締結(1871年)=対等条約。 |
1872年 | 琉球帰属問題:日本が琉球藩設置、74年日本がa 台湾出兵 、b 琉球処分 。 → 朝鮮をめぐる日清の対立:清は朝鮮に対し、c 宗主国 の立場をとる。 |
1884年 | 朝鮮のd 甲申政変 :親日派(独立党)のクーデタ。親清派の閔氏が政権維持。 → e 天津条約 :双方の撤退と将来の出兵に際しては相互に通知する。 |
同年 | ベトナムでのf 清仏戦争 で敗北。ベトナムの宗主権を放棄しフランスの支配確立。 |