b オスマン帝国 の支配下にある中近東のスラブ系民族などなどの独立運動強まる。 → それに干渉するヨーロッパの強国の対立問題をA 東方問題 いう。
・c ロシア のd 南下政策 、e 不凍港 などを目指す。→英、仏、墺と対立。
第1次 1831年 エジプトがオスマン帝国に対し領土を要求し、開戦。(後出) b フランス がエジプトを、c ロシア がオスマン帝国を支援。イギリスが介入。 1833年 ウンキャル=スケレッシ条約 ロシアはトルコからダーダネルス=ボスフォラス海峡の航行を認めさせる。
第2次 1839年 英・普・墺・仏の圧力を受けたトルコがその約束を破棄、再び交戦。
→ 1841年 5国海峡協定 ウンキャル=スケレッシ条約を破棄。(後出)
※聖地イェルサレムの管理権は16世紀以来、フランスが持っていたが、1851年にギリシア正教会に移った。
ナポレオン3世がその回復を要求し、1853年にオスマン帝国がそれを認めたので、ロシアはそれを不満とした。
1853年 ロシアのb ニコライ1世 、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護を口実に侵入。
c フランス ・d イギリス が対抗し、トルコ支援のため出兵。e クリミア半島 が戦場となる。
→ ロシア孤立し、フランス・イギリス・トルコ連合軍に敗れる。一時後退。
1856年 f パリ条約 :gダーダネスル・ボスフォラス両海峡 の閉鎖確認、h 黒海の中立化 約束他
→ ロシアの南下政策の挫折。フランスが、ナポレオン戦争後、再び強国として登場。
b 農奴解放令 :1861年 農奴(人口の約3の1)の身分的自由、土地所有権を認める。
→土地は農村共同体(c ミール )に引き渡されることが多く、改革は不徹底であった。
1861年 d ポーランドの反乱 後、再び専制政治を強化。
1870年代 都市の知識人(a インテリゲンツィア )が改革の担い手になる。
社会主義の影響を受け、農民への働きかけを必要と考え、b ”ヴ=ナロード”(人民の中へ)
を標語に農村に入り込んだが、保守的な農民を動かすことが出来ず、行き詰まる。
絶望した一部はc テロリズム 、またはd ニヒリズム に走る。
一方でe アナーキズム が起こる(プルードン、バクーニン、クロポトキンら)。
1877年 ギリシア正教徒の反乱を支援してトルコと開戦し、勝利。
戦後b サン=ステファノ条約 でバルカン諸国を独立させ、ロシアの勢力伸びる。
英、墺の反発を受けドイツの調停でc ベルリン会議 → ロシアの進出挫折(後出)
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大英帝国の繁栄 =その象徴的できごとが1851年のb ロンドン万国博覧会 開催。 → c ヴィクトリア朝 、イギリス第二帝国とも言われる。
の二党が、交互に政権を担当するようになる。 → 議会政党政治の典型となる。 aのc ディズレーリ 基盤は地主階級、主張は保護貿易主義に近い。 bのd グラッドストン 基盤は産業ブルジョアジー、主張は自由貿易主義に近い。
1867年a 第2回選挙法改正 :b 都市労働者 に拡大(有権者、135万→247万)
1884年c 第3回選挙法改正 :d 農業労働者 に拡大(同、440万に増える) → 男子普通選挙に近づく(グラッドストン内閣)
その他 1870年 e 教育法 → 初等教育の整備。国民教育の進展。
1871年 f 労働組合法 → 労働組合の合法化
→ 「グレート=ブリテンおよびアイルランド連合王国」となる。国旗ユニオンジャックの使用。
1829年 カトリック教徒解放法 カトリックの信仰は認められたが自治は認められず。
1840年代 ▲a ジャガイモ飢饉 →多数のアイルランド人がb アメリカ移民 となる。
1870年 ▲c アイルランド土地法 (グラッドストン内閣) 小作権の安定をはかる。
1880年代 グラッドストン内閣のd アイルランド自治法案 は議会で否決される。
▲支持基盤 b カトリック教会 の協力 労働者・社会主義の進出を恐れるc 資本家
フランスの栄光の再現を期待するd 農民・小市民
e パリ万国博覧会 1855年(第2回)と1867年(日本も参加)の2回開催。
首都f パリ の大改造 1853〜70年 セーヌ県知事オスマンに指示。
→ ロシアがギリシア正教徒の保護を要求しオスマン帝国と開戦。
イギリス、サルデーニャとともにオスマン帝国を支援、→ ロシアを破る。
→ 1856年 パリ条約(前出) → ナポレオン3世の名声上がる。
1858〜67年 b インドシナ出兵 → フランス領インドシナの成立(後述p.168)。
1859〜60年 c イタリア統一戦争 :サルデーニャの独立戦争支援(後述p.152)。
1861〜67年 d メキシコ出兵 :内乱に干渉して出兵。▲e マクシミリアン を皇帝に。
→アメリカの南北戦争に乗じて中米に進出をもくろむも、失敗(後述p.182)。 →人気急落
この間、f レセップス によるg スエズ運河 建設を進める。 1869年開通(後述p.163)。
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1870年 a ビスマルク の挑発(エムス電報事件)にのり開戦したが劣勢に陥る。
→b セダンの戦い で捕虜になる。9月 パリ市民が蜂起。c 第二帝政 終わる。
→ 1871年1月 パリ開城。d ヴェルサイユ宮殿 でドイツ皇帝即位式を挙行。 → 2月に講和。ボルドーで国民議会成立。共和派のe ティエール が組閣。
→ f 臨時政府 成立。対独講和を進め、パリ国民軍の武装解除を命令。
社会主義者が政権に参加しパリ掌握。=意義:b 世界史上最初の労働者自治政権
施策:全役職の直接選挙、諸会議決定の公開、汚職は死刑などを実施。
→共和政府はドイツ軍の協力で弾圧 5月21日〜28日の“c 血の週間 ”によって崩壊。
パリ=コミューン鎮圧後、王党派と共和派が争い、次第に共和派が勢力を伸ばす。
1875年 a 第三共和政憲法 成立:三権分立 普通選挙 大統領制を規定。
大統領は両院で選出し任期7年、名目的元首。内閣が行政権を握る。議会は二院制。
1848年 帰国し、1849年 b ローマ共和国 設立。フランス軍に弾圧され失敗。 同年、サルデーニャ王国のカルロ=アルベルト王、オーストリアと戦い敗れる。
国王a ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 1852年 b カヴール を首相に任命。c クリミア戦争 に参加、国際的地位高める。
→ c ナポレオン3世 との同盟(▲d プロンビエール密約 )成立。
→ サルデーニャが有利に進めるが、ナポレオン3世が単独講和(ヴィラフランカ条約) → サルデーニャはb ロンバルディア 獲得にとどまる。
1860年 c サヴォイア ・d ニース をフランスに割譲、e 中部イタリア併合
同年 青年イタリアのf ガリバルディ 赤シャツ隊を率いてg シチリア占領 、
さらにh ナポリ王国 を征服し、両シチリア王国をサルデーニャ王に献上。
1861年成立 a ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 を国王とする。 1866年 b ヴェネツィア併合 普墺戦争でプロイセンを支援、勝利によって獲得。
1870年 普仏戦争の際、c ローマ教皇領を占領 。教皇「ヴァチカンの囚人」となる。
d 1871 年 e ローマ を首都とし、イタリアの統一完成。→ 南北の格差残る。
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1834年 b オーストリア を除く諸邦で発足。▲c リスト の保護貿易主義の影響。 → 商工業者が望むドイツの経済的統一をほぼ実現。 → 政治的統一に進む。
a 大ドイツ主義 :オーストリアのドイツ人居住地域を含む統一を主張。
b 小ドイツ主義 :オーストリアを含まず、プロイセンを中心とした統一を主張。
→ 統一失敗。 自由主義運動は後退しc ユンカー階級 による統一運動に替わる。
=b 鉄血政策 :c “言論や多数決でなく、鉄と血によってのみ解決される”と演説
1864年 デンマーク戦争 d シュレスヴィヒ・ホルシュタイン を併合
1866年 e プロイセン=オーストリア戦争 7週間で圧勝、ドイツ連邦を解体。
1867年 プロイセンを盟主とするf 北ドイツ連邦 を結成
→ 南ドイツ諸邦も同調しドイツ統一完成に近づく。→g オーストリア ※は排除される。
→ 9月 b セダンの戦い でa ナポレオン3世 を捕虜とする。さらにパリを包囲。
1871年 c アルザス・ロレーヌ の両州と賠償金を獲得。
フランスのc ヴェルサイユ宮殿 で即位式を挙行。
プロイセン王がドイツ皇帝を兼ねる22の君主国と3自由国からなる連邦国家。
d ユンカー 階級が官僚・軍隊の要職を占め、議会は男子普通選挙が行われたが弱体。
・a 文化闘争 中央集権強化に反対する南西ドイツのb カトリック勢力 を弾圧。
・c 社会主義運動 の活発化 工業発展とともに労働者階級が増大。専制政治への批判強める。 1860年代 d ラサール らが社会主義、e ベーベル らがマルクス主義を組織。 1875年 ゴータ大会で合同、f ドイツ社会主義労働者党 ※を結成。 ※後の1890年にg ドイツ社会民主党 に改称。 ・ビスマルクのh 社会政策 = i アメとムチ と言われる。 1878年 j 社会主義者鎮圧法 を制定。社会主義政党を非合法として弾圧。
一方で、k 社会保険制度 :災害保険・疾病保険・養老保険などを実施。
・1879年 l 保護関税法 :ユンカーの農場経営とドイツ重工業を保護するため制定。
1873年 a 三帝同盟 b ドイツ ・c オーストリア ・d ロシア の軍事同盟。
→ ロシアはe パン=スラブ主義 をとり、バルカンでオーストリアと鋭く対立。
1877年 f ロシア=トルコ戦争(露土戦争) ロシアの圧倒的勝利となる。
→ g サン=ステファノ条約 ブルガリアを保護下におくなど、ロシアに有利であった。
→ h イギリス ・c オーストリア が反発。ビスマルク、調停に乗りだす。
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b 「公正なる仲介人」 を自称する。
c ベルリン条約 締結 → d サン=ステファノ条約 は廃棄。
・e ルーマニア 、f セルビア 、g モンテネグロ の独立の承認。
・h ブルガリア はオスマン帝国内の自治国とする。
・イギリスはオスマン帝国からi キプロス を獲得。 →中東進出を狙う。 ・オーストリアはj ボスニア・ヘルツェゴヴィナ の統治権を認められる。
→c ロシア の南下政策が抑えられ、中央アジア・東アジア方面に向かう。
→ フランスのチュニジア進出を警戒するa イタリア を抱き込みフランス包囲網を形成。
1882年 b ドイツ ・c オーストリア ・a イタリア の秘密軍事同盟。
87年 バルカンでのc オーストリア とd ロシア の対立激化 →三帝同盟解体。
→同年 b ドイツ ・c ロシア がc 再保障条約 締結。
ドイツの安全を図る同盟関係=e ビスマルク体制 という。
地図 イタリアとドイツの統一
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