1993/10/17 | ||||
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家で用意した布団に、病院ご用達の葬儀屋が母を寝かせたあと、その布団を剥ぐこともせず、互助会で依頼した葬儀屋が棺桶を持ってきたとき、母がよく着ていたワンピースに着替えさせる前に改めて清拭することもせず、ただその眠っているような顔に触れたり、その顔を見ているばかりだった。その朝、解剖の延期を打診されて、あれほど怒りに燃えて断ったにもかかわらず、解剖した遺体に手を出してはいけないようになぜか思っていた、と、あとになって、父と話したが、棺桶におさまるまでの寝姿がそんな錯覚を生んだのかもしれない。掛け布団が全体的に盛り上がっていて、術後のケアがされているように見えたのだが、ドライアイスか何かで体が覆われていただけだったのだろう。 枕経をあげに菩提寺の僧が来た。四十年近く前に、ばあちゃんが熊本から墓を移したのは、家の近くの浄土真宗の小さな寺で、大黒さんとともに温和な人柄の住職にばあちゃんはその信仰心を全面的に預けていた。子どもの頃はよく、暮れ近くになると墓掃除をしにばあちゃんに連れて行かれ、その帰りに挨拶に寄ると、コタツのある居間に通されて、どてらを羽織った目の不自由な住職にみかんなどを勧められ、石油ストーブの上でしゅんしゅん音を立てている薬缶を下ろして、大黒さんがお茶を煎れてくださった。その住職も既に鬼籍に入り、市役所だかなんだかに勤めていた息子が跡を継いでいたが、体調が思わしくないらしく、さらにその息子で、どこかの仏教大学を卒業して間もないような若い僧が、なにやら不快そうな顔をして、仏間に入ってきた。 八畳にあとから三畳ほど継ぎ足した仏間に、母を寝かせ、仏壇の前には僧侶の居場所を作っているわけだから、できるだけ荷物を取り払っているとはいえ、かなり狭い空間に、出入り口からはみ出すほど人がぎっしりと居並ぶなか、開口一番、玄関に張ってある「忌中」という言い方は真宗では使わない、だの、真宗は死を忌み嫌うようなことはしない、だの、線香を立てるのは真宗のやり方ではない、だの、「真宗心得」とでも言うべき御託が始まった。仏教界にも、他の業界に漏れず、青年の会のようなものがあって、新しい真宗を、とか、本来の真宗に、とか、意気上がっているらしいのが見てとれたが、本日このときの趣旨を忘れてもらっては困る。演説がいつまでも続くとしたら、足がしびれてかなわない。しびれを切らして、「母の話をしてくださいますか」と演説を遮ると、「死んだ女房を誰も忌まわしいものなどと思っていません」と援護射撃。 一瞬緊張が走ったが、若僧は、ぴりぴりっとした顔をほぐすようにして、面識のない故人について何か言ったあと、経を唱え、無事枕経は終わった。どうなることかと思ったよぉと居合わせた人たちがあとで口々に言うと、お前がそそのかすからだと父に責任を転嫁された。 母に死に化粧をしてくれたのは、父の姪っ子、わたしにとっての従姉にあたるちーちゃんだった。娘たちは碌な化粧品を持っていないし、化粧の仕方もよく知らない。 この仮通夜の日は、ご近所からも遠方からも弔問客があって、延べにして百人ほどだったろうか、玄関に靴が入りきらず、十月半ばの夜だと言うのに、玄関を遅くまで開けっ放しにしていた。両親の兄弟や従弟、母の幼馴染、父の同僚だった方、それぞれの学生時代からの友人など、多くが両親と同年輩で、どこかに体の故障を抱えていて、急を聞いて駆けつけ、いったん座ったところから立ち上がれないでいるといったふうだった。あれから何人の方が亡くなり、何人の方が病床についたことだろう。 夜も更けて、弔問客が三々五々帰途に着き、玄関も閉められるほどになったころ、居間で酒や肴を出して懐古に耽っていると、仏間から泣き声が聞こえてきた。棺桶におさまった母の傍らで、妹が幼子のように泣きじゃくっている。生前の母と必ずしも仲の良い母娘ではなかった妹のそんな様子を見て、父が囃し立てた。「わぁい、お母さん喜んでるぞぉ、そんなにお前が泣いてくれて」妹が人前で声を上げて泣く姿に動揺したのだろうが、泣いている本人を前にして言うのはなんとも子どもっぽい。純粋な泣き声に怒りが混じりそうになってきたので、外に連れ出した。近くの公園でしばらく妹が泣き続けるに任せて、こんなふうにわぁわぁ泣けるのはうらやましい、妹の特権だろうか、子どもの頃、いじめるとすぐ泣き出し、果ては、歯型がつくほど腕に噛みつかれたなぁと思い出していた。 | ||||
2001/10/3 | ||||
ばあちゃんの通夜で、一番悲しみに暮れていたのは、死の直前まで身近にいた、まきば園のスタッフだったろう。六年半前に老人ホームに入った時点で、現実の日常生活のなかから、ばあちゃんは姿を消した。まきば園での生活も、現実だし、日常ではあるが、家にいたとき以上に外界との接点がなくなり、老人ホームの時間のなかで生きていて、外界にいる人々からはさらにいっそう遠い存在となった。 母の時と同じように、遥々関西から駆けつけてくれたおじちゃんやおばちゃんたちに、母の時と同じような切迫感はなかった。会社の帰りに足を伸ばしてくれたハトコたちにも、ゆとりがあった。葬儀屋も、緊張感のない遺族たちに心を許していたようだったし。 危篤状態という知らせを聞いて、最期を見届けようかと迷って遅れた熊本のおじとおばにしても、こんな日が来るという覚悟はいつしかすんなり腑に落ちていて、ああ、とうとうその日が来たかという感慨こそあれ、「死んだこと」自体に悲嘆したりはしなかっただろう。生き生きと生きていたときの姿を思い出して、その死を悼んだとしても。 ボケてからのばあちゃんだけを知っているスタッフたちが、その六年半のうちに蓄えた思い出を現実のように語るのを聞いても、いや、それは現実なのだけれど、ボケる前のばあちゃんだけを知っている親戚にしてみれば、異世界での出来事のようにしか思えない。あとはボケた人を身近に見知っていたという経験則で、異世界のばあちゃんを推し量るしかない。 熊本のおじとおばは、何度か、まきば園にばあちゃんを見舞ってくれた。そのたびに、どんどん現実離れしていくばあちゃんに涙したり、熊本弁を聞いてふと現実に戻ってくるばあちゃんに喜んだりした。そのあいだ、ばあちゃんの一人娘であった母が死んでから八年、ばあちゃんはいつまで生きるんだろうかと思わずにはいられなかったにちがいない。 母の死の前後に立ち会えなかったトミエおばが、やっと八年が終わった、と言ったように、父や妹や私にとっても、それぞれに何かが終わった。 ちーちゃんの車と、行田で借りたレンタカーで、帰路に着いた。途中で夕飯を済ませ、高速道路を何度か乗り換えて、行田から川崎まで突っ走る。先導したちーちゃんの車は、車体の高いRV車で、そのスピードたるや、後続する六十才を過ぎたオジにとっては、追いつくのに精一杯の冷や冷やドライブだったらしい。携帯電話がしきりに鳴って、もっとゆっくり行ってくれ、そんなにスピード出してないよ、などの応酬が続くなか、六年半前に、同じ道を逆に辿ってばあちゃんをまきば園に連れて行ったときのことを思い出していた。当時のことを、この六年あまりのうちに、何度思い出したろう。 老人ホームに入って数年は、月に一、二回、顔を見に行くたびに、「わしば連れて帰っとか、早く帰りたかぁ」と言われては、なだめすかして、帰る道々泣きべそをかいたものだ。家の前に車が止まり、車を降りようとして、あんなに帰りたがっていた家にやっと帰ってきたね、骨になって、と思った瞬間、誤解されたくないので堪えていた嗚咽を闇の中に漏らしてしまった。誤解というより、泣きたい思いの中身を人に勝手に想像されたくなかったというべきか。その声を聞いて、「誰か泣いてるのかぁ」と囃したのは父だった。感傷はどこ吹く風で、ムカッとして、「誰が泣こうと勝手でしょ!」と声を張り上げたつもりが、あとから聞くと、すぐ近くにいたはずの妹にも聞こえなかったらしい。声の小さいのは得なのか損なのか分からないが、カッとしたついでに人々が荷物を引き上げたり、茶の用意などをしているのをよそに、寝室に閉じこもって、友人に電話をかけた。動揺するとはしゃぐというのは、B型だからだろうか、男の子だからだろうか、などと愚痴をこぼして。 | ||||
祭りのあとさき その一 | ||||
祭りのあとさき その二 | ||||
祭りのあとさき その三 | ||||
祭りのあとさき その四 | ||||
祭りのあとさき その五 | ||||
祭りのあとさき その六 | ||||
祭りのあとさき その七 | ||||
がまだすじいさん | ||||
なんでんよか | ||||
ばあちゃんも生きとるよ |