ばあちゃんがまきば園で新生活を始めたのは、おととしの4月15日だった。
その日、テロが起こるかもしれないというデマが流れて、途中通った都心は空いていた。
長い道中、見慣れぬ車外の景色に緊張していたばあちゃんを、まきば園のスタッフは、昔からの馴染みのように、笑顔で大らかに迎え入れた。
—ようこそ、いらっしゃいました。お待ちしてました。エツさんのお部屋はこちらですよ。
看護婦さんと若いケアスタッフが、ばあちゃんの肩を抱くようにして二階に誘導した。
取り残された孫娘二人。落ち着くまで様子を見ることにして、同世代の園長夫婦にコーヒーをご馳走になった。
夕飯が終わったころ、ばあちゃんに会いに行く。「むぎ」の部屋。四人部屋で、必要ならばカーテンで仕切れるようになっている。カーテンも床も淡いピンクで統一され、ベッドの両脇に背の低い箪笥とテレビ台が置いてある。
ばあちゃんは、旅の疲れと思わぬ展開に、ベッドに座って呆然としていた。
ここは、どこね。なんでこぎゃんところにおっとね。
もう遅くなったから、今日はここに泊まろう。わたしたちも泊まるから。
うちに帰りたかぁ。でも、もう日が暮れよっとねぇ。あんたたちもおるとね。
四つのベッドのうち一つが空いている。
あそこに泊まるとよかよ。
ふたりで一つのベッドっていうわけにはいかないよ。
でも、泊まるところのあるとか?
部屋を用意してくれたから、今夜はそこに泊まる。また明日の朝、ここに来るから。
そうね、なんかさびしかねぇ。
じゃあ、おやすみ。
もう帰るとね。
泊まるから、明日また来るって。
泊まっとね、それなら安心たい。そこに泊まるとよかよ。
半泣きになりそうな顔を残して、「むぎ」の部屋をあとにした。
翌朝、朝食のとき、ばあちゃんのところに行くと、びっくりしたような顔をした。
来たとか。いつ来たつね?
昨日ここに泊まったんだよ。どう、よく眠れた?
よう眠ったよ。じゃけん、ここはどこね。
二三日、まきば園に泊まって、非常時に備えた。会いに行くたびに、ここはどこか、なぜここにいるのか、と繰り返したが、規則正しい「食う」に影響されてか、「寝る」「出す」も順調のようだった。
三ヵ月が勝負だ、と言われた。三ヵ月のうちにここの生活に慣れるかどうかで、その後のばあちゃんの成り行きもおのずと決まってくる。
家にいると、園長から電話があった。
エツさんがお話になりたいそうなので、とだけ前置きして、ばあちゃんが電話口に出た。
○○おばさんが亡くなっただろ?
え?
葬式に出なきゃならんと思うて、用意ばしてきた。車で迎えに来てくれんね。
ちょっと待って。誰おばさんだって?
○○おばさんばってん。
ええと、このあいだお会いしたけど、お元気そうだったよ。
そうね、おかしかねぇ。
誰にその話聞いたの?
誰だったかねぇ。
じゃあ、電話して聞いてみるよ。
ああ、そうしてくれ。
多分、お元気だと思うよ。
そうね。それなら安心たい。
身の回りのものをシルバーカーに押し込んで、ばたばたと階下に降りてきたらしい。
○○おばさん、というのは、もうとうの昔に亡くなっているが、うちに帰りたいという気持ちが、その訃報に接したときの思い出につながったのだろう。
電話の前半では、息せいているばあちゃんの姿が見えるようだった。 あとを代わった園長が言った。
—お話されて、すっかり落ち着かれたようです。また何かあったらお電話します。
その後、そういった電話はない。
妹とばあちゃんに会いに行った。ぼうっとベッドに座っていた顔がハッとして、どんどん険しくなっていった。
おお、何かあったつか。
え、遊びに来たんだよ。ばあちゃんの顔を見に来たの。
うんにゃぁ、そんなことはあるまい。ふたりづれで来たのは、なんかあったとだろ?
ふたりとも仕事が休みで都合がついたから、一緒に来ただけだよ。
そぎゃんことはなかろ。何があったつね。
ところでどう、ここの暮らしは。
ここの暮らしっちゅうて、なんでこぎゃんところにおらにゃならんとね。
わしはなんばしよっとじゃろか。
遊びに来てるんだよ。ゆっくりしてればいいじゃん。
うちに帰りたかぁ。ふたりで連れて帰ってくれよ。
もう遅いじゃない。これから夕飯でしょ。さあ、ご飯食べに行こう。
そうか、ふたりで連れて行ってくるるか。荷物はよかか。
まずはご飯を食べてから、わたしたちも一緒に食べるから。
ばあちゃんを挟んで両脇に座り、食事を始めるが、ばあちゃんの攻勢はおさまらない。
もうメシはよかから、連れて帰ってくれ。
こんな時間に外に出られないよ。うちまで遠いんだから、今日はここに泊まろう。
遅くてもよかじゃなかね。
それよりも、ご飯食べてよ。あとでお腹空くよ。
エツさ〜ん、どうしたの? 食べないの?
おお、あんたか、胸につかえよっとよ。固か話ばしてるけん。
うまいこと言うねぇ。お孫さんたちと、難しそうな話してるね。何があったの、聞かせて?
ううん、あんたに分かるかねぇ。
エツさんとわたしの仲じゃない、なんでも話してよ。
あんたが、わしの面倒ば見てくるるとか。
そうだよ、わたしに任せて。
あんたが、金ば出すっとか。
ええ、お金? お金欲しいなぁ。わたしも。
どうしてもうちに連れて帰らんって言うのか。じゃあ、小遣いを置いていってくれ。
小遣いって?
あれこれ必要じゃけん。こん人にも小遣いばやらにゃならんし。
冗談ですよぉ。お小遣いなんていりませんよぉ。
ほれ、金ば出さんね。
はい、これでいい?
シェン円か。こぎゃん要るじゃろか。
多いにこしたことはなかろ。何かあったときに使って。
心配だったら、このお姉さんに預かってもらえば?
そぎゃんねぇ。これで安心たい。いつ連れて帰っとね。
今日はもう遅いでしょ。
エツさん、わたしと一緒にお部屋に戻りましょう。
部屋に戻るのはよかばってん、あんたたちはどうすっとね。
さあ、行きましょう。
まだ、娘たちがおっとよ。ああ、別れば言わにゃぁ。
1時間ほどすると、ばあちゃんを部屋に連れて行ったケアスタッフが戻ってきた。
エレベーターの中では、悪態をついていたらしい。挨拶もしていないのに、無理矢理引き離して、と。
しかし、部屋に戻るまでのあいだに、トイレが間に合わず、少し汚してしまった下着を洗濯して、どこに干そうかと相談し合っているうちに、孫娘たちのことは忘れようだ。
わざわざ刺激することもないので、そのままばあちゃんには会わずに帰った。