1993/10/16・17

茫然としながら、家に入り、大保一家と柿添一家、総勢10人ほどが思い思いに腰を落ち着けた。グラスと氷を用意する。いまのうちにしておかなければならないこと。葬儀の手配が始まる。菩提寺に連絡し、日取りを決める。母の体が戻るのを待って、17日に仮通夜、18日に通夜、19日に葬儀。時計は12時を回っていたが、互助会の葬儀屋にすぐ来てもらうことにした。葬儀屋が聞く。葬儀委員長はどなたが?大保のおじさんが手を挙げて答える。係りはボクです。おじさんと父とは、旧制高校時代からの付き合いで、他の同級生や職場の同僚を交え小さな子どもを引き連れてそれぞれの家で持ち回りで麻雀をしたり、大保一家が都心から引っ越してきてからは、この15年ほど近所付き合いもしていた。祭壇の大きさ、会葬御礼の品、会葬者の数などを予算に応じて矢継ぎ早に細かく決めなければならない。父は周囲の懸念を押し切るようにして、一介の主婦にはそぐわないような規模の段取りをつけた。

明け方まで飲んで、大保一家は、線路向こうの自宅へ、柿添一家は、長男の自宅がある世田谷に帰っていった。このときまで、ばあちゃんがどうしていたのか、さっぱり記憶にない。母の入院以来、常に誰かが側にいてくれたが、私自身はほとんどタッチしていなかった。病院に連れて来てもらったとき、母を見て取り乱し、泣きながら帰っていった姿しか覚えていない。あとから、親戚や両親の友人に話を聞くと、普段とさほど変わらぬ様子だったようだ。昼間は、台所と自分の部屋を行ったり来たりしては、プッププップとおならをするものだから、いつ訃報があるかしれないという張り詰めた家の中に知らず知らずのうちに風穴をあけ、夜は、ご飯を食べ終えると自分の部屋に戻ってよく眠っていたそうだ。ただ、死の知らせを聞いたとき、失禁したという。

人々が引き上げて、家族四人だけになった。少しでも寝ておこうと、それぞれ布団に入り、神経が高ぶっていてすぐには眠れそうになかったが、寝不足と酒の勢いを借りて眠りについた。そのはずだったが、階下から妙な物音が聞こえてきて、ガバと跳ね起きた。階段を走り降りると、階段下の脇にある部屋から、ふすまを開けてばあちゃんが顔を出している。お父さんが、オカシカよぉ。洗面所を覗くと、父が、洗面台のフチに手をつき、腰を折り曲げて、泣いていた。体の奥から沸き上がってくるものを押し殺し、喉を絞り上げるようにして泣いていた。ばあちゃんを部屋に押し戻し、父を見ていた。気づいた父が、言った。ごめん、もう泣かないから。泣いていいから、少しでも眠って。14日の夜から、父は、文字通り一睡もしていない。眠ることなどできなかった。これから先のことを思うと、ほんのひとときだけ訪れたひと気のない静まり返った自分の家で、声を上げて泣いた、そんなふうに思えた。

夜が明けると、来客と電話の嵐だった。応対に大わらわしていたら、病院から電話があった。解剖を予定していたが、日曜日なので担当医がいないから、明日にしてもいいかというなんとも珍妙な問い合わせだ。霊安室に残ると言い張る父を医者たちはどう思っていたのだろうか。電話の主が、昨日ぞろぞろ並んでいた医者の一人であるとは思えないし、ここで喧嘩をしても始まらない。来客でごった返すなか、大声で父に電話の主旨を告げ、断るしかないだろうと電話口に戻り、そんなふうに簡単に延期されてはたまらない、これからすぐ引き取りに行くと返事をした。医学の進歩を妨げたろうか。しかし、さほど相手方に執着がなかったところを見ると、翌日は担当医の不在な日曜日だということなど誰も気づかなかったというよりも、解剖の同意を得るために仰々しく事を構えたものの、口うるさい家族のようだから、やめようか、解剖するの、とでも相談したにちがいないと悪意の解釈がもたげた。大保家の長男の運転で、病院に向かった。霊安室には昨日の看護婦と医者が三人ぐらいいて、一言も口を利かず、ただ入り口に立っていた。

病院付属の葬儀屋がストレッチャーに母を乗せ、うす暗い廊下をくねくねと移動して、病院の裏口に出た。寝台車の置かれている所までの通路は、正面玄関の方向にあたる右手が庇つきのビニールの目隠しで覆われ、外来患者や見舞い客の目を遮るような具合になっていた。昨夜と同じく無言のまま帰途につき、母を仏間に寝かせた。



2001/10/3

葬儀が始まり、最後に喪主の挨拶。父の頭のなかは数日前から亡妻のことでいっぱいで、まきば園でのばあちゃんの暮らしについては、昨夜スタッフから聞いたばかりの話や日頃娘たちから聞いたような気がする話を接ぐしかなく、思わず話がばあちゃんの娘のほうに逸れていく。葬儀のみならず、この先、四十九日や香典返しなど、父の言動を見聞きするにつけ、誰を悼んでいるんだろうと思わずにはいられなくなるのだが、一卵性親子だったと祖母と母を評していた父からすれば、母娘混同もやむをえないことかもしれない。ついお母さんの話になっちゃって困ったよ、と苦笑いしていた。

火葬場で待つあいだ、まきば園の園長夫妻と話をしたり、不知火の久子おばちゃんの息子とばあちゃんのアルバムを見たりした。新おじが出征するときの大きな写真には、繰り返し聞いていたばあちゃんの従姉妹やおばさんたちも写っていて、その何人かをよく知っている彼は、涙ぐみながら故郷の人々を懐かしんでいた。骨上げを済ませ、お斎の席で、父が挨拶をした。故人がまきば園にお世話になって久しく、ここは遠方でもあるため、三人だけで密葬にしようかと娘たちとも話していたが、という前置きには、そのような相談を受けた覚えもない娘としては首を傾げたが、ご近所で親しくしていたおばあちゃんが姿を見せなくなり、実は数ヶ月前に亡くなっていたというような話を聞いたり、母の死後、いずれ来るときをどう迎えるかを思いあぐねたりしてきたところに、この数日「葬儀のしきたり」事典などを紐解いて、身寄りの少ない高齢者をどう送るべきかという世間並みのイメージがにわかに父のうちに出来上がっていたのかもしれない。まきば園に駆けつけるさいに持参した「葬儀のしきたり」事典は、その後も活躍する。

父の挨拶が終わり、食事を始めようとすると、新おじが、その前に少し話をさせてくれと言った。義昭さん、ほんとうにいままでありがとう、お疲れ様でした。

五十年ほど前に、兵庫出身の四人兄弟の長男が熊本出身の一人娘と東京で結婚し、戸籍上、婿養子となった。五十過ぎで未亡人になったばあちゃんは、数年熊本で暮らしていたが、二人目の孫が生まれたのを機に上京し、以降、三十年近く同居し、母が亡くなり、それから八年経って、この日を迎えたことになる。

ばあちゃんの弟である新おじの言葉は、父はもちろんのこと、この八年を別の思いで噛みしめていたトミエおばの心にも深く響いた。ああ言ってくれてほんとによかったよかった、とおばは何度も口にした。未亡人になったばあちゃんが熊本にいるあいだ、まだ高校生だった柿添の英昭おじが数年ばあちゃんと暮らしたのだが、英昭おじは母の十歳ほど年下の従弟にあたり、母とは兄弟のようにして育ち、トミエおばはその奥さんだ。トミエおばと母とは血のつながりはないが、母親どうしが同郷の古くからの友人で、ともに父親を若いうちに亡くした一人娘で、姉妹のようにつきあってきた。

そのトミエおばは、母の死に目に合っていない。それどころか、旅行から帰ったとたんに寝込んだことも、救急車で病院に運ばれたことも、突然危篤状態に陥ったことも、亡くなったことはもちろん、通夜から葬儀にいたるまで、リアルタイムでは何も知らなかった。急変が起きたのは、母親とイタリア旅行に出かけたばかりのことだった。ばあちゃんよりはまだ若いとは言え、海外旅行となれば、これが最後の親子旅行になるかもしれない、それを始まったばかりで引き返させるのは酷だ、そんなことを母の夫と従弟は混乱した頭で考え、旅行最後の日になってようやく、国際電話で事の次第を告げた。

瀕死の様子も、死に顔も、お骨も見ていないから、死を実感できない。いつも忙しなく駆け回っていた人が、また長い旅に出たような、そんな気分が、この八年続いた。数週間後にばあちゃんのお香典返しについて電話で相談したとき、おばは、長い夢を振り返るように言った。ばあちゃんを見送って、八年がやっと終わった。だから、四十九日には行かんよ。



祭りのあとさき その一
祭りのあとさき その二
祭りのあとさき その三
祭りのあとさき その四
祭りのあとさき その五
祭りのあとさき その六
祭りのあとさき その八
がまだすじいさん
なんでんよか
ばあちゃんも生きとるよ