1993/10/14

父と家に駆け込むと、ばあちゃんが一人で居間に座っていた。

おおっ、どうして二人連れで帰ってきたつか。どぎゃんして、シツコがおかしかこつば、知ったつね。

かかりつけの医者のメモが食卓に置いてあった。タクシーを呼んで、父が横浜総合病院に向かった。間もなく父から電話。ゲキショウカンエンと診断された。ゲキは、激しいじゃなくて、劇薬の劇。必要な救命装置がここにはないので、装置のある聖マリアンナ病院にこのまま行く。

劇症肝炎なんて聞いたことがない。何かにつけページを繰っては、あんた、この病気かもしれないよとふざけあっていた「家庭の医学」が、とりわけ重い。二日から十日で不幸な最期を迎えることも、八十パーセントの患者が不幸な結果に・・・。ちょっと待ってよ。何これ?なんなの?妹が帰ってきた。劇症肝炎と聞いて、予備知識のあるらしい彼女は蒼い顔をして口をつぐんだ。近所に住んでいる、両親の旧年来の友人大保夫妻が、車で来てくれた。ばあちゃんの世話を大保のおじさんに見てもらうことにして、おばさんの運転で、妹と聖マリアンナに向かう途中、この数時間のいきさつを聞いた。

母が、若い頃、肺浸潤を患って入院していた先の先生が、たまたまご近所で、この数十年来、家のかかりつけ医だった。電話で呼び出されて往診に来たが、ばあちゃん一人ではどうにも動きようがないので、歩いていけるほどの近所に住んでいる、やはり旧年来の両親の友人に先生が連絡し、そこから、大保夫妻のところにも連絡が行った。新宿から電話を入れたときに、医者が「もう間に合わないかもしれない」と言ったのは、救急車で同行する家族としてわたしたちを待ってはいられないという意味だったらしい。かわりに、おばさんたちが救急車に乗り込んで、途中から父に代わって、それぞれ家に戻り、また改めて、帰宅したばかりのおじさんを連れて、来てくれたのだった。

そもそも、かかりつけ医に誰が電話をしたのかというのが、いまだ不明のままだ。電話を受けた先生の奥さんによれば、あの声は、おばあちゃまだったわよ、というし、母は、救急車に乗り込む時点ではすでに意識不明の状態だったそうだし、家人はばあちゃん以外にいなかったのだし、他の誰にも電話できようはずもないのだが、ぼけたばあちゃんに電話などかけられるはずはない、母が最後の力を振り絞って自分で電話をした、と父は信じている。

まだらぼけのばあちゃん、ぼけたふりをしていると怒る父、それをかばう母、そんな軋轢を母から何度か聞いた。あの親子は一卵性親子だからと苦笑していたことのある父。ばあちゃんがぼけているのを認めようとしなかったが、最後の最後のときは、ぼけたばあちゃんの力は借りずに自力で電話したと思いたかったのか、あるいは、もっと早く電話していれば自分が直接声を聞いてもっと早く帰ってこられたかもしれないと悔やんでいたのか。ばあちゃんに留守を任せずに仕事を休んでそばについていさえすれば・・・。

「一人娘がおかしかこつ」になって、母の字で整理されていたアドレス帳をめくり、細目で数字をたどりながら、プッシュホンのボタンを一つ一つ押し、呂律の回らぬ口調で電話の向こうに訴えていたかもしれない姿を想像するたびに思う。事実がどうだったかなんてどうでもいい。


1993/10/15

救急センターに着くと、父がベンチに座っていた。処置室らしきところに運ばれたまま、なんの音沙汰もないと言う。刻々と時間は過ぎていく。救急車が来たのが、午後七時ごろ、病院を移り、わたしたち娘が聖マリアンナに着いたのが、十時頃、待てども待てども、なんの知らせもない。

若い医者に呼ばれた。疲れ切った父の顔を見るなり、開口一番、「なんでこうなるまでほっておいたんだ!」。ドラマみたい。医者の怒りは心の底からのものなのか、常套手段に過ぎないのか。これまでの経緯を聞かれたが、医者に一喝されて、父の頭はさらに混乱した。時の前後がばらばらに、症状を伝えているつもりでも、感情のほうがまさってしまう。あとを引き継いで、知っている限りのこの数日のことを、できるだけ順番通りに話した。発症からわずかな期間で死に至る確率の高い病と知っていて、なぜいまごろ聞くのだろうと思いながら。ここまで待たせた挙げ句に、なんでこうなるまで、と怒鳴った心底を探りながら。

母に対面したのは、夜中の三時だった。チューブがあちらこちらに差し込まれている。体のほうぼうが痣だらけになっている。唇には血がついている。手首や足首に紫紺の跡。両手も両足もロウのように冷たく黄色い。毒素が全身に回って痛みで暴れたのだそうだ。あまりに激しく暴れるから、両手両足を紐でベッドに括りつけたのだそうだ。薬のせいか暴れなくなったので、紐の結び目は緩められ、布団カバーを布団にとめるのに使うような白紐が、ベッドの枠から垂れ下がっていた。今朝出がけに挨拶したときとはあまりの変わりように、声もない。植物人間になってもいいから、生きて。いまはこれ以上の処置はできない。朝になったら、血漿交換をするので、それまでお引き取りください。

救急センターの入り口の脇に、畳敷きの待合所があり、部屋のあちらこちらに、横になっている人々がいる。そこで一人待機することにして、棚から枕と毛布を取る。父と妹は、大保のおばさんの車で一端自宅に引き上げた。暗い待合所で横になり、いつ呼び出されるか分からないまま、ひっきりなしに到着する救急車のサイレンや廊下を走る人々の足音や声を聞いていた。

早朝、大保のおじさんが、車での通勤途中に、父と妹を乗せて来てくれた。血漿交換は、九時に始まると聞いていた。始まるまで待つよ、と言ってくれたが、案の定と言いたいくらい、九時が過ぎても何の音沙汰もなく、おじさんは、帰りに寄ると言って、会社に向かった。昼近くなって、医者に呼ばれた。遊び着に白衣を羽織ったようなちょび髭が、足を組んで椅子の上にふんぞりかえり、若い研修医を周りにはべらせて、数々のレントゲン写真を見せながら、症状や処置について説明する。多機能障害を起こしている。肝臓も腎臓も収縮してしまって、ほとんど機能していない。医者がのんびり説明する意図も状況も分からず、親子三人して、とんちんかんなことを口にする。肝腎要とはよく言ったもんだ。

血圧が昨日に比べて急激に落ちている。治療中にダメになるかもしれないが、それでもいいか、それでもやりますか。ダメになる?運び込まれた時点でその処置をしていてくれたら、と思うのは、素人の浅はかさか。担当医が朝にならないと来ないからと待っていたこの時間はなんだったんだ、と思うのは、ほんの一握りの家族の我が儘に過ぎないのか。大病院に人質をとられた家族はひたすら平身低頭するしかない。もちろん、早く処置をしてください。逸る気持ちは、周囲の動きを緩慢に見せるのだろうか。では、やりますか、と言われてから、実際の治療が始まるまでの時間の長いこと。人工透析の治療をしている病棟に運ばれ、所狭しとベッドや器具の並べられた部屋にベッドごと押し込められ、全身の血漿交換なる治療の準備が始まるのを待つ。いかにも新人らしいふるまいの医者が支度に手間取っているのを、ガラスの向こうから見ているしかない。

ようやく血漿交換が始まった。母は、時々薄目を開けて、その目をもっと大きく開こうとした、そんな意志を見せた。肩で大きく息をしながら、必死に闘っているように見えた。何か言おうとしているようにも思えた。そんなことを口々に言い合っていると、もう意識はありませんから、と若い医者が言う。どういうことだろう。こんな経験があるのだろうか。意識もなく、痛みも感じず、それでも、一息一息、息をした経験が。

こんなに懸命に息をしているのだから、わたしたちを見ようとしているのだから、途中でダメになるなんてことはないんじゃないか、人のお節介ばかり焼いていたあのパワーを発揮してほしい、今度はこっちから応援しなきゃ、親戚や両親の友人知人が次から次へとお見舞いにきてくれた。これは長期戦になると互いを励まし合って、病院の近くに数部屋を借りて雑魚寝した。母とはそう近くない関係の人たちにまで、力を頂戴などと言って取り憑かれたように電話した。サッカーのワールドカップのアジア予選が白熱していた。アラブ戦だったろうか、せめて引き分ければ、助かる、雨が続いていたが、晴れれば、助かる、ほんの短い間のことだったけれど、滑稽なほど神がかっていた。


2001/10/1

家に戻って菩提寺で葬式をせずに、園の近くでするつもりなら、今夜のうちに葬儀社を呼んだほうがいい、という園長のアドバイスに従って、業者と相談することにした。ばあちゃんが最初にいた、むぎの部屋で同室だった仲良し三人組のうちの一人の息子さんがやっている葬儀社に連絡してもらい、間もなく、若いあんちゃんが大きな黒い鞄を抱えてやってきた。どう見ても、わたしたちよりも年下に見えたが、いかんせん、童顔のうえにすっぴんのためか、若く見られたのだろう、大事な取り決めをするのにお嬢さん方でいいのか、常識的なことを何も知らないだろうから説明しますとね、といった調子で、葬儀屋をカリカチュアしたときの仕種そのままに、うわっすべりなことばかりしゃべる。縁のない間柄じゃなし、どうして社長が来なかったのか、どうしてもっと上の人間が来なかったのか、園長も渋い顔をしている。夜中近くに呼び出されて出てこられるのは、下っ端しかいなかったのだろう。

細かいことについては、明日、父をはじめ親戚も揃うので、その時に決めたい。いま決めるべきことはなにか。朝、ここの玄関から出棺して、しかるべき式場に移動し、そこで通夜と葬儀を行う。宗派が浄土真宗であるならば、檀家になっているお寺さんに断ったうえで、この近くに真宗の寺を探して、そこからお坊さんに来てもらう手配をしなければならない。この近くには真宗のお寺は少ない、もちろん、手配はわたくしがしますが、まず、菩提寺さんに連絡して、そもそも、それでいいのかお父上に相談されて、などと、どうも、関門がいろいろあるから、それを先にしてもらって、その後、やるべきことはこちらでしますが、できたら、お寺さんへの手配などは他の人に任せられないかなぁとでもいうように逃げ腰だ。そんな変則的なこと、ボクやったことないもん、とは言わなかったが。

父に電話した。開口一番、お前ら二人で決めてくれ。このところ、泌尿器科の強い薬を飲んでいるせいか、そのうえ、酒が入っているからだろう、呂律が回らない。あれこれ考えるのが面倒くさいという口調だ。細かいことまで今すぐには決められない、でも、お寺さんのことだけは決めておかないといけないから、菩提寺の常念寺さんに事情を話して、と言うと、ようやく正気モードに切り替わったらしく、折り返し、園の近くで葬儀を行う承諾を得たという返事。そこでお坊さんについてだが、と、かつての教え子がこの近くの寺に嫁入っているので、そこに頼んだらどうか、と言い始めた。宗派は、真言宗か何かだと言う。それはまずいんじゃないか、と、園長も葬儀屋のあんちゃんも無信心者たちもそれぞれに思う。「反対」のムードは父にはうまく伝わらず、父は教え子に電話をかけたが、宗派を気にしないならこちらで引き受けてもいいが、この近くに真宗のお寺さんもあるはずだ、と先方から諭されたようだ。あれだけ信心深かったばあちゃんの葬儀じゃないかとようやく意見がまとまって、居合わせたみんなでびしっとあんちゃんを見つめたら、腰を上げ、部屋の外に出ていって、成勝寺という真宗の寺に電話をかけ、先方と話をつけてきた。人に聞かれたくない話だったのだろうか。明日、朝のうちに、成勝寺さんに挨拶に行ってください、と念を押すように言う。明日もあなたが担当するわけじゃないですよね、と念を押す前に、明日は他の者が参りますから、とそそくさと帰って行った。

園長夫妻と近くのファミレスに食事に行った。車だし、二人とも飲むほうではないので、妹と二人だけビールを頼んだ。特に食が進まないということはない。遅い晩飯になったからと言って、食欲旺盛ということもなかったが。ヨソのテーブルで、まだ食べかけの皿をウェイトレスが引き上げようとしたのが癪に触ったらしく、大声で怒鳴っているおばさんがいた。ウェイトレスがもじもじしていると、店長らしき男が足早に走り寄って、平謝りに謝っていた。普段なら、もっと好奇心をそそられるか、大声にびくつくかするほど、聞き耳を立てていたかもしれない。さすがに外界のことに鈍感になっていた。食事の最中、何かを忘れたような気がして、慌てて捜し物をして、なんだここにあった、気が動転しちゃって、と言ったら、園長が笑った。落ち着いているように見えて、やっぱりそうじゃないもんだなぁ。目に見えるほど取り乱したりしないのは、周囲の人からすると、拍子抜けかもしれないが、滂沱の涙の期待にはそえそうにない。だからと言って、ばあちゃんのベッド脇で泣いていた若いスタッフたちを、白々と見ていたわけではない。

ばあちゃんが寝かされている、このあいだ酒盛りした部屋に夜通しいるのは心身ともにこたえそうだったので、ケアハウスの一室で空き部屋になっているところを借りた。風呂に入って、昨日の残りの焼酎を飲みながら、二人で、ばあちゃんを思いだし、父がどうしているかを想像し、明日からの祭りに思いを馳せた。使いっ走りの葬儀屋のあんちゃんに話題が及んだとき、妹が言った。ねえちゃん、いつ怒鳴りだすかとハラハラしたよ、だんだん口数少なくなって、黙り込んじゃうんだもの。うん、危ないところだった、と笑った。ばあちゃんに会いに行くと、今にも目を開けそうだった。


2001/10/2

早朝、携帯電話が鳴った。ばあちゃんの弟の新おじだった。窓の外を見ると、霧が一面に立ちこめていた。部屋は三階にあったが、周辺がまったく見渡せないほど、あたりは真っ白だ。布団を畳み、荷物をまとめ、昨日買ったパンを牛乳で流し込んで、下に降りた。どの窓からも玄関のガラス戸からも、外の景色は見えず、まきば園は霧に包まれて、天上にいるような気分だ。ケアハウスの人たちもそれぞれの部屋から出て、朝の支度をしている。スタッフと話し込んでいる人もいる。タバコを吸いに、特養のロビーに行った。長い廊下の突き当たりに、椅子と灰皿が置かれている。その斜め前に、四人掛けのベンチがあって、そのテーブルの上にも、煙を吸う装置のついた灰皿がある。テーブルのほうには何人か座っていたので、突き当たりの椅子に腰かけた。六時ごろだったろうか。もうとっくに朝は始まっていた。昼間や夕方よりも、誰もが生き生きとしていた。映画の「レナードの朝」で、特効薬によって長い眠りから覚めた患者たちが、思い思いに体を動かし始める一風景を思い出した。あれは一時的なことだったけれど、いま見ている風景は、人の移り変わりはあろうとも、きっと、ずっと続いてきたし、これから先も、続くだろう。

木の実で作ったような首飾りをかけたおじいさんが、中庭を取り巻く廊下を何度も車椅子で回って、一回りして顔を合わせるたびにおはようと声をかける。タバコを吸うわけでもなくぼんやりとベンチに座っていたおばあさんの前を、おじいさんが、スタッフから貰ったタバコを手にうろうろして、ついにおばあさんをベンチから追い出してしまい、ベンチに座って、タバコをくゆらしている。ばあちゃんと同い年の、園に来る直前まで現役で働いていたという力持ちの鍛冶さんが、ベンチのもう一方に腰掛けて、新聞挟みから前日の新聞を外して新しい新聞に綴じ直す作業をしている。もう何年も前から顔見知りの上村イトコさんが、車椅子でわたしたちのほうに近づいてきた。小山さんのお孫さんでしょ。いつもいつもよく来てくれるわね。イトコさんの日頃の状態はよく知らない。ほとんど話をしたこともない。ばあちゃんと同室だったこともないはずだ。食事の席が同じだったことがあるのかもしれない。名前をしっかり覚えておられるのに驚いた。

熊本から電話があった。ばあちゃんの甥の宏昭おじちゃんと五子おばちゃんからだった。そっちには行けないけれど、おばさんなぁ、いままでよう頑張りなすったねぇ、あぁたがたも、ようやりんしゃったぁ。電話を置くか置かないかというところに、父の声が響いた。父が、姪の、わたしたちにとっては、従姉の車で着いた。事務室が開くか開かないかの八時過ぎだったからだろう、おおい、おおい、と喚く。おいおい、となだめたいところだ。薬と酒と寝不足と車の長旅で興奮している。九時半近く、ほとんどのスタッフが手を休めて、玄関前に集まってくれた。八年前、母は病院の裏口から人知れず出ていかされた。ばあちゃんは、六年半前に迎え入れられた玄関から、多くの人々に見送られて、園を後にした。



祭りのあとさき その一
祭りのあとさき その二
祭りのあとさき その四
がまだすじいさん
なんでんよか
ばあちゃんも生きとるよ