○窪田清音 『刀装記』 柄の鮫皮は、漆で貼りつけその上から黒漆で塗ったものが最上。 柄糸は、組糸が最上で幅の狭い組糸で菱数を多くした方が手だまりが良い。 菱の形は、四角なのは握り具合いが悪いので、平菱になった方が良い。 篠巻きはよろしくない。 革は、ぬれると固くなり、握り具合いが悪いから、用いるべきではない。 出し目貫は、邪魔になるので良くない。と、ある。
○江戸時代の刀装書 新井白石『本朝軍器考』 栗原信充『刀剣図考』 木原盾臣『刀剣図説』 伊勢貞丈『刀剣問答』 などは、太刀や鞘巻きなどの内容で打刀については、書かれていない。
○西郷さんと村正 西郷南洲さんは、村正を仕込んだ鉄扇をもちいていた。
○肥後鞘の返り角の形 肥後の鞘にある返り角の形は、利休が平伏した姿を写させた形だった。
○熊本と柄巻師 ・西南戦争のころ、熊本藩では、柄巻師のことを「菱巻き師」と言っていた。
○柄巻師の修行 ・糸のし 手さばき、糸さばき。 長さ約一尺五、六寸の柄糸で、手の動きと糸のさばき方を覚える ・菱立て 諸捻りの菱の形を手さばき良く形を整えていく ・菱下 ここで修行して、やっと菱紙の入れ方が始められる 糸のしの修行が終わって、やっと菱立ての修行に入れる。 菱立ての修行が終わって、やっと菱下の修行が始められる。 親方からいただいた最初の糸でここまでできるようになって、 初めて新しい糸をいただくことができたという。
○石州半紙と柄巻 ・重要無形文化財 石州半紙 久保田 彰 氏 江戸時代 商人が商売の記録として使っておりました「大福帳」 この紙 石州半紙が使われておりました。 墨で書いた文字が水に漬けてもにじまず、破れず。丈夫な紙です。 柄巻の「菱紙」には、この石州半紙を良く揉んで使います。 昔の柄には、大福帳を切って菱紙に使っているものが多いです。 手に納まりの良い柄前に仕立てるのには、多いに役立っております。 ※リンクのページに、石州半紙のサイトを掲載しております。
○鮫皮着せ五法 1 短冊着せ 2 前垂れ着せ:「差裏で重ねる」 3 肥後掛け着せ:「前垂れ着せの重ねを棟側で着せる」 4 腹合わせ着せ 5 俵鋲止め:「佩き裏刃方で前垂れ着せ」
○『下げ札』と『折紙』 本阿弥家では ・金五枚以上は、『折紙』 ・金五枚以下は、『下げ札』 と、していた。 下げ札:刀剣鑑定書の一種。 細長く切った紙の札頭を紙捻り(こより)にして、刀に結んだ。
○幕末 江戸の革柄名人 ・山下九左衛門 京橋 太刀売町 柄革の染めは、秘伝中の秘伝とされていた しかし、二代目が大変な怠け者で 革染めの秘伝も、革柄の秘伝も絶えてしまっている。 ※なんとか復活する手立ては無いものでしょうか?
○柄糸師 ・享保(1716)ごろの御用職人: 数奇屋町二丁目 雑賀八右衛門 『御組糸師』 ・元文(1736)ごろ: 尾張町一丁目 中村十左衛門 『御柄糸師御下緒師』 この人は幕末まで続いた ・天保(1830)ごろ:三〜四分糸 ○柄糸の本場は、京都 ・貞享(1684)ごろ: 宝町下立売リ上ル町 鶴屋宗伝法橋 鼠屋和泉掾 小川元誓願寺下ル町 近江大掾の店 ・万治(1658)ごろ江戸:御用達の糸屋 通町一丁目 二郎左衛門 本町四丁目 太兵衛
○柄糸の巾のはやり ・江戸初期ごろ:三〜四分糸 ・享保(1716)ごろ:五分糸 その後、しだいに細くなり三〜四分糸 ・寛政(1789)ごろ:五分糸 ・天保(1830)ごろ:三〜四分糸
○江戸時代の白銀師 初めは、銀細工または銀細工師と言っていた。 ・宝永(1704)ごろの白銀師 幕府おかかえの白銀師 安田又五郎、田村作右衛門:御腰物白銀師(二百俵十五人扶持) 松村弥三郎:御太刀白銀師(二百石) ・幕末ごろ 安田家:御金具・御彫物師兼帯 田村家:御金具師 松村家:御太刀金具師 と、各々改称している
○彫柄の名人 柄甚 柄甚こと、森田甚之助 ・彫柄 小倉織りの布で作った柄糸を巻き 漆を塗って固め、それに小刀で革しぼのような模様を彫った柄 ・小倉織りは、近年に復活している 復活させたのは、染織家の築城則子さん
○塗師と鞘塗師の区別 元禄(1688年)ごろ 刀の鞘に変わり塗りなど凝るようになって、区別された ・幕末の御塗師兼蒔絵師の棟梁 鈴木美作、沢山孫四郎の扶持人として 幸阿弥因幡、栗本豊次郎、栗本祐之丞、菱田八十八、素良六佐、 鈴木伊賀など ・有名な塗師に、玉楮象谷がいた ・明治には、橋本市蔵、鈴木嘉助がいた
○幕末まで続いた『御鐔師』 享保(1716年)ごろ 江戸銀町 正阿弥、奈良小四郎 新橋竹川町 鉄人 滝山町 長六 芝三島町 埋忠彦右衛門 備前町 松村又左衛門 ・伊藤甚五右衛門は、六代将軍 家宣の時代から幕末まで 『御鐔師』をやっていた ・吉岡、平田、尾崎は、『御彫物師』
○拵所(拵請取所、御大小拵所、御刀脇指拵所 とも言う) 文政元年(1818年)ごろ 江戸日本橋 村松町 いわつきや仁右衛門、柏屋三郎兵衛、柏屋三次郎 などの大きな拵所があった 今で言う広告が残っている 江戸浅草の旅籠町二丁目の鞘塗師 山本作治郎のだしたものだ ・鞘塗り:19種と柄巻:2種などの広告だ
○籠釣瓶(かごつるべ) 柳生連也の差料の目貫に『かごつるべ』とある 『かごつるべ』とは、切れ味がすごいことをあらわす刀号 中心(茎)に、『肥後守泰光 かごつるべ』と銘がある 他にも、河内守国助作の中心にも、『籠釣瓶二ツ胴』と金象嵌 陸奥守包保にもかごつるべをあらわす文字が入っている
○海部拵の柄 阿波の海部付近で用いられていた拵 形式には陸上用(鉈柄)と海上用(船鉈)の二種類ある ・陸上用は、竹や木を伐るため、欅の柄木に鮫を着せ、 漆をかけ麻糸で巻いた 鉄製の縁頭をつけ柄の中央には鉄製の輪をはめていた ・海上専用刃、鮫皮を着せ漆を塗った柄前に、棟方・刃方に籐をあて その上を籐で巻いている
○鮫(皮)の目利き 江戸時代 鮫の輸入は長崎でした 輸入された鮫皮の良否を鑑定し、等級を決める役を 鮫屋から任命されて行なっていた ・寛文12年(1672年)…四名 ・天明3年(1783年)…五名 久右衛門、辰次郎、伝左衛門、利兵衛、源七郎 ・同年 見習い…二名 三郎次、新吉
○朴の木 古くは、上州沼田産 幕末頃は、奥州会津産 尾張では、虎斑のある、木曽産が喜ばれたそうです。
○徳川家康が関が原の合戦に連れて行った、柄巻師 ・小島玄斎 幕末まで十代甚一郎まで、柄巻師として続いた 切米百俵 八人扶持 (江戸時代、同心が三十俵二人扶持でした)
○切米百俵を加増された、柄巻師 ・入江作左衛門 元和七年(1621年)五人扶持 寛永六年(1627年)切米百俵を加増される 幕末まで六代作左衛門まで続いた
○貞享元年(1984年)頃の江戸・京都の柄巻師 江戸:上野黒門町…伝左衛門 銀町二丁目…三郎右衛門 伝通院………伝右衛門 山下町………黒崎権左衛門 黒崎権右衛門 京都:二条西洞院西……佐伯、岩田、徳田、沢田、三上、佐内 油小路二条上ル…羽田、伊田 松原富小路西……竹部甚右衛門 小川御池上ル……清水作兵衛
○頭(角製・漆塗り)に糸を“掛け巻き(巻き掛け)”するに対して、 頭(金属・鵐目付)に糸を通すことを“引き通し”と言う