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■山口 宏




  ☆ 山口宏の作品についての批評 ☆

 ・魔法使いTai! CDスペシャル

 ・バウンティ・ソード

 ・機動戦艦ナデシコ(読売新聞版)

 『赤ずきんチャチャ』TVシリーズ



★ 作品論 ★

 私が山口さんの作品に出会ったのは『赤ずきんチャチャ』である。『チャチャ』はじまって以来のシリアスなエピソードだった「アクセス編」のなかの32話(「危険な恋のトライアングル」)――このシリアスな話の展開のなかにあって、最初から最後まで遊びまくっていたこのエピソードはいったい何なんだ? 一部で異常な人気を集め、のちに辻監督自身の演出によるOVAにも登場することになる「マジカルプリンセスのコスプレをした小チャチャ」もこのエピソードが初登場であった。つづく38話(「みんなでアニマル!」)では、私はへとへとに疲れていまにも眠ってしまいそうな体調だったにもかかわらず、このエピソードを見て部屋のなかを転げ回って笑ったために目が醒めてしまった。この二つのエピソードで私は「最初から最後までギャグで快調に飛ばす脚本家」として山口さんをまず認識したのである。

 だから、この脚本家さんがあの『新世紀エヴァンゲリオン』の脚本を書いていることを知ってじつに意外に感じた。まさかシンジやレイやアスカがへんなヤムチャセットで(THE BEASTならともかく)アニマルになるとかいう話ではあるまいな?

 だが、『エヴァンゲリオン』の主人公たちが自分を追いつめるというこの一群のエピソードを見て、私は認識を新たにしなければならなかった。そして、山口さんが自分で監督したSFCゲーム『バウンティ・ソード』をプレイするにいたって、山口さんの作品の世界観を私の流儀で把握することができるにいたったのである。

 山口さんの作品を支えているのは「自分の究極の敵は自分」という発想である――と私は思う。こう表現するとなんかスポ根アニメで「テーマ」としてかっこうをつけているだけの陳腐なもの言いのように聞こえるかも知れない。だが、山口さんの作品は、たんに表面的・情緒的に「自分の敵は自分」と言ってみただけのものではないようだ。

 詳細は『バウンティ・ソード』の評などに譲りたい。要点をいえば、山口さんの作品で「自分の敵は自分」であるというとき、それは「自分のあり方を直視しようとする自分」が「自分のあり方に直面する苦痛を避けてそれをごまかしつづける自分」と対決するという構図を意味する。

 自分というものの存在にはなんらかの苦痛が伴う。もちろん人間は苦痛ばっかり感じて生きているわけではないが、同時に、何かをきっかけとして、自分はここにいていいんだろうか、なぜここにいなくてはならないのだろうかということについて、大きな不安を持つものである。そして、その不安と正面から対決することは、人間にとって大きな苦痛にほかならない。

 そういう人間には二つの選択肢がある。その苦痛に耐えてその不安と正面から向き合うか、それとも苦痛をごまかして生きつづけるか。苦痛をごまかせば、それはその不安と正面から向き合うときの鋭い痛みは感じずにすむ。だが、自分はその苦痛から逃げつづけているということ自体が不安となって自分につきまとう。「自分は逃げつづけている」ということから気をそらすために、こんどは人間はまた何かに自分を投げ入れなければ気がすまない。

 「小さな魔法使い」モスキーちゃん(『赤ずきんチャチャ』59話)は、自分の一族が「小さな魔法使い」であって人からいつも無視されているということからくる苦痛を、「魔法使い世界一」に挑戦することで解消しようとする。しかしモスキーちゃんが世界一になって存在をめぐるそのモスキーちゃんの不安が消えるわけではない。モスキーちゃん自身が「自分は小さな魔法使い」であるということへのこだわりを「小さいことには価値があるのだ」という思いへと変えることなしにはその不安は消えなかったのだ。

 『バウンティ・ソード』の主人公ソードも「自分がこうやって生きつづけていること」へのぼんやりした不安を抱えて生きつづけていた。その不安から逃げるために「成り行きに任せて」「きまぐれに」反乱軍のリーダーを引きうけたソードは、それをきっかけに自分の不安と正面から対決してそれを解決するためのひとつの答えを手にするのだ。

 山口版の愛川茜(『魔法使いTai!』)は「自分にとってのいいことなんてこの世の中にはないのかもしれない、いやそうにちがいない」という不安から逃れるために、今日も「日替わりの恋」を渡り歩いている。

 ――そうやって見ていくと、一見、ただ「ギャグで快調に飛ばしている」だけと映った作品群にも意外とそれに共通するものを感じることができる。山口さんの『チャチャ』には「へんなかっこう」をしてドタバタしている話が多い。32話では例の「コスプレチャチャ」が登場するし、38話ではアニマル、59話では「へんな顔」になったり小さくなったり、67話では寝間着で走り回るし、70話はまだ小さいころのチャチャややっこちゃんが活躍する。53話ではまぁセーラー服姿や体操着がそれに属するだろうか。それをすべて「自分の本来のあり方から逃げている」姿であると解釈するのはあるいは強引かも知れない。が、たとえば、アニマルになったコアラのチャチャは自分たちの姿が嫌いではないのである。ではなぜかわいいコアラではいけないか? それは、「大魔王をやっつけてお父さんとお母さんを助け出す」という自分の「本来」の目的から逃げていることになるからだ。

 32話でしいねちゃんが「現実」から目をそむけつづけるのは知らずにしていることだとしても、45話にはマジカルプリンセスの「自分との対決」そのものが出てくる。

 あるいは、「わたしのなかに入ってこないで!」というようなことばを手がかりに山口さんの作品論を作ることもできるかもしれない。


 山口脚本の作品は、そのほとんどすべてからこうした人間の「本来のあり方」と「そこから逃げているあり方」の相克というテーマを感じることができる。そういう視点からも、またギャグで快調に飛ばすことのできるエンターテイメントの技術を持った脚本家さんとしても、山口さんはいま私のいちばん注目している脚本家だと言ってもいい。

                         (清瀬 六朗)



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