-- Saint Magical Critique --
第59話
「すっごく小さな恋物語」
- 脚本:山口 宏
- 絵コンテ:桜井 弘明
- 演出:下司 泰弘
- 作画監督:小西 洋子
→ ※山口宏さんについて
→ ※桜井弘明さんについて (準備中)
→ ※小西洋子さんについて (準備中)
主なゲストキャラクター
- モスキーちゃん/小山茉美
- シンちゃん・オッスくん/小村哲生
なんだ、そぅっか!
あ゛〜〜、ごめんなさ〜い
「虫」みたいに小さな魔法使いの話である。
チャチャたちはそのモスキーちゃんを侮ったためにとんでもない目にあわされる。ところが、チャチャはそれにも懲りずに『バウンティ・ソード』で妖精テティスを虫呼ばわりしている。あ、作品もキャラクターもちがいましたね。でも脚本を書いた人はいっしょなんである。さては謀ったなぁぁぁっ! ……何を謀ったのかはよくわからないけれど。(→『バウンティ・ソード』のページ(準備中))
というわけで、ひさびさに復活した山口・桜井コンビの快作である。斜め構図、例によって饒舌なギャグと桜井演出の持ち味が存分に味わえる。泣きそうになって涙を飲み込むチャチャは、原作にあったのに2話で使わなかったギャグを桜井さんがどこかで使おうと温めていたものだろう。
また、敵キャラのモスキーちゃんの声にイッちゃったファンもそこここにいると聴く。まあ「そこ」にいるかどうかは知らないけど、ここにはいる。いうまでもない、初代ミンキーモモの小山茉美さんである。とんでもないイヤミな役になりかねない小さな魔法使いを「ちぎっては投げ、ちぎっては投げ」と好演していた。得意げにチャチャを見下したり、怒ったり、ピー助にのぞきこまれておびえたりところころ変わる声は、「見ている世界も小さい」小さな魔法使いのプライドをよく表していたように思う。
・「少数民族」モスキーちゃん
ところで、感情の起伏が激しいという点ではチャチャもモスキーちゃんとたいして変わらない。チャチャのばあいは72話で書くように「その瞬間」だけを生きているからだけれど、モスキーちゃんのばあいはどうか。
モスキーちゃんも動的な時間を生きているとは言えない。ただ、モスキーちゃんのばあいは、「小さな魔法使い」ということでいつも無視されているという怨念を背負っているのがちがう。その怨念をどうにかして解決しないかぎり時間は動き出さないのだ。
小さくない魔法使いの立場からそれを「見ている世界が小さい」と指摘することはかんたんだが、それは何の解決にもならない。モスキーちゃんの「度量の狭さ」にはちゃんとした理由があるのだから。それを解決するにはモスキーちゃん自身が「度量の狭さ」を捨てられる環境を作り、そこにモスキーちゃんを引き込まなければならないのだ。それではじめて、モスキーちゃんと私たちは、いやチャチャたちはおなじ「時間」をともに過ごすことができるようになるのである。
ってなわけで、これはじつにりっぱな少数民族問題そのものの構図ではないか。
まあなんでもいいけれど、ようするに異世界から敵意を持ってやってきた相手を、自分たちと同じような仲間として受け入れるお話である。そして、そのためには、チャチャが自分から小さくなって、モスキーちゃんの世界を共有するということが必要だった。戦っていようがなんであろうが、おんなじ世界を見て、そこで鳥に襲われて逃げ回ったり、「普通」の人間にすぐに見失われたりする(しんちゃんが「普通の人間」かどうかはとりあえず措くとする)。いちどは同じような身体を持って同じ世界を動き回ることが必要だったのである。
そして、その果てに、モスキーちゃんは、チャチャの敵でありながらなんとなくチャチャの仲間にもなってしまっているやっこちゃんやマリンちゃんと同列の仲間として、うらら学園の世界に迎えられるわけだ。
だから、チャチャがモスキーちゃんと戦わなければならなかった事情はよくわかる。わかるんだけれど、変身できなくなったチャチャがあいかわらず戦いつづけるというのは酷ではないだろうか。だいたいまえの話ではチャチャは「戦わない」宣言をしているにもかかわらずである。
……ってなわけで、つぎの話で「世界一」編がおしまいになるわけだ。
ところで今年(1995年)は私は11月になるまで蚊に悩まされた。野宿でなくても虫は容赦なく襲ってくる。ぜひ、うちの蚊たちも、部屋に閉じこもっていないで、モスキーちゃんのようにもっと大きい世界を知ってほしいものだと思う。
■執筆:清瀬 六朗
『WWF13』のページへ戻る