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九つの絶望、一つの希望

― 『バウンティ・ソード』の世界 ―


清瀬 六朗



 ■「九つの絶望、一つの希望」




= 注意!! =

 この作品はゲームなので、あまりくわしい展開を記してしまうと「ネタばらし」になり、これからプレーしようとする方の興味をそいでしまうことになりかねません。この点には十分に注意しましたが、それにまったく触れずに論評することはむずかしい。

 ゲーム全体についての批評「九つの絶望、一つの希望」では、ゲームの進行にかかわる設定などについて触れることはなるだけ避け、ゲームをプレイしていない方にお読みいただいてもまず「ネタバレ」にはならない程度にしたつもりです。登場する各キャラクターにまつわる設定や世界観に関しては、やや踏みこんで触れた部分もあります。もちろんキャラクターにまつわる設定や世界観はゲームを進めるうえで重要な要素になりますが、直接に手がかりとなるような記述はなるだけ避けたつもりであるのでご了承願いたいと思います。

 他方、「ゲームの感想」と「設定・キャラクターファイル」は、ゲームをある程度までプレイされた方を念頭に置いて書いています。留意していただければ幸いです。




 

九つの絶望、一つの希望



目次
  1.  敵 
  2.  闇 
  3.  光 
  4.  運命 
  5.  友 
  6.  フュリス 
  7.  国 
  8.  希望 



 海を隔てた南方の大陸からの侵略におびえる北方の小さな島国ラインメタル――わずか十年前には軍事力で大陸の強国とも覇を競ったこの「落日の王国」の首都の酒場で、酒を食らって居眠りしている賞金稼ぎの男がいた。この男こそ十年前の大戦で若くして「不敗の聖騎士」の名をほしいままにした「マスター・オブ・ソード」のソードである(実際のゲームでは、登場人物のうち、この主人公ソードと、「謎の少女」フュリスは、プレーヤーが好きに名まえをつけることができる)。

 この十年前の戦争のなかで、ソードは無実の罪を着せられ、「味方殺し」の汚名を浴びせられることとなった。この一連の事件で、ソードは、真実の友とも、ソードをひそかに慕っていた女性とも離ればなれにならなければならなかったというのに、だ。そして、いまは、かつての戦友だった王国の大臣マクベスに賞金稼ぎの仕事を回してもらって暮らしている。稼ぎのよい仕事を引き受け、その稼ぎをぜんぶ酒手に費やしてしまい、飲んで眠るだけという生活を、もうずっとつづけているのである。おそらく、これからも……。

 ――ゲーム『バウンティ・ソード』はこんな場面から始まる。そのソードが、ある仕事を引き受けたのがきっかけで、世界征服を進める「神祖連邦」に対する反乱の戦士たちと行動をともにするようになる。そしてついには「連邦」本国へ乗りこみ、「連邦」皇帝に最後の戦いを挑む――というのが、このゲームのごくかんたんなあらすじである。
 


■ 敵 
 このゲームの主要なキャラクターは、みんな何かに追いつめられている人びととして設定されている。

 主人公のソードは、いま紹介したように、ソード自身が、その信念にもとづき、たいへんな犠牲を払って行ったことをきっかけに、「味方殺し」の汚名を着せられている。ソードに「不敗の聖騎士」の名声を与えたその同じ戦争で、ソードは騎士の位を剥奪された。いまではかつては同じ戦列で戦ったマクベスに仕事を回してもらってなんとか生きながらえているしがない賞金稼ぎだ。マクベスはいまでは王国の大臣である。それが「味方殺し」と呼ばれる不名誉な人物に仕事を回してやるについては、いろいろといやな思いもし、ムリもしているだろう。ソードはそのことを察していながら、「そんな仕事は騎士団に任せればいい」などとうそぶいている。そして、ただ「カネになるから」という理由で仕事を引き受け、それをこなし、得た賞金はぜんぶ飲んで使ってしまう。

 だが、ソードが、「不敗の聖騎士」のプライドを――あるいは自分がかつてそう呼ばれたということの記憶をほんとうに失っているならば、ソードはべつだん追いつめられたキャラクターではない。それこそただの「しがない賞金稼ぎ」だ。ところがそうではないのである。かつて自分が生命をかけて守ろうとした祖国が南からの大国の侵略にさらされようとしているという事実が、ふたたびその「騎士」としての義務感とプライドをくすぐりはじめているのだ。自分ではそんなものを思い出したくないと思っているにもかかわらずである。

 他のキャラクターも似たようなところがある。

 CDドラマ『鋼鉄の龍』にも登場するガンマン「閃光のシュタイア」は、「最愛の妹」を残して戦場に出撃している間に、「連邦」の侵攻軍にその妹を殺された。その思い出からくる苦痛を断ち切るためにシュタイアはソードたちの反乱軍に参加する。

 同じく『鋼鉄の龍』に登場する「超黒の魔道士」(『鋼鉄の龍』では「黒の魔道士」)ファウストは、自分が強大な魔力を持って生まれたことを呪わしく思い、魔力を使わなくてもすむように吟遊詩人として生活していた。たまたま自分に会いに来たソードの世界観・人生観・運命観に惹かれ、たぶん「この人ならば自分をいまの苦しみから解放してくれるかもしれない」と思って反乱軍に参加するのである。

 アテナ・ルーネの姉妹(アテナが妹)にとっては、いずれも、貧しくて不遇だった少女時代の思い出と、その自分たちに「シルバーナイト」の栄誉を与えていた辺境の小国が「連邦」に滅ぼされたという過去が苦痛のみなもとだった。甘えん坊で泣き虫の妹アテナの世話に倦み疲れたルーネは、富と名声を求めてあえて「連邦」に入った。たぶんその姉ルーネを誇りにしていたであろうアテナは、その姉がこともあろうに自分たちの国の敵である「連邦」に節操を売ったことに傷つき、その姉を討つと称して反乱軍側に投じる。

 「辺境の聖女」ミランダはたんに「連邦のやり方に疑問を持った」としか描かれていないが、このミランダが弱い者を容赦なく殺していくことを忌み嫌うのにはやはり何か個人的な背景がありそうである。設定上、ミランダは十歳前後でソードが活躍した「大戦」を経験しているはずだ。そのときに親しい家族や友人に何かがあったのだと考えても不自然ではないと思う。ほかにも「反乱軍」に加わる動機があまりきちんと描かれていない主要キャラは何人かいる。しかし、それぞれ、何か個人的な忌まわしい記憶を持っているのだろうと考えてよいと思う。

 シュタイアは妹のかたきをとれるのか、ルーネ・アテナ姉妹の確執はどうなるのか――というようなことは、ゲームの展開にかかわることなのでここには書かない(すでに知っているという方、ネタバレでもいいという方は →  ※ )。ここで触れたいのは、妹のかたきを討ちたいと参加してくるシュタイアも、ソードの懇請に応じ、ソードの世界観・人生観・運命観に惹かれて参加するファウストも、裏切り者の姉を討ちたいと参加してくるアテナも、そうした表面上の動機とはちょっとちがった動機を持っているということだ。このキャラクターたちが真に対決しているのは、妹への思いを断ちきれない自分であり、持って生まれた強大な魔力を捨てることも思い切って使うこともできない自分であり、姉に頼りきり姉を誇りとしていた自分である。

 つまり「敵」は自分自身なのだ。何か、過去の記憶から来る重圧にとらわれ、それから逃れたいと思っているがゆえにいつまでもそれを吹っ切れずにいる自分自身がソードの仲間たちが戦うほんとうの敵なのである。それはまさにソードが反乱の戦士たちに合流するに至った思いと一致している。

 ここまで来るとこのゲームを貫く世界観が見えてくるはずである。
 


■ 闇 
 このゲームでソードが戦う敵は「連邦」である。そしてその「連邦」は「闇」の勢力として描かれている。

 「光」と「闇」の対立――これはRPGによくある便宜的な二元論である。そのじつ「正義」と「悪」というのとあまり変わりがないように見える。余談であるが、「光」・「闇」に作者として価値判断をつけずに描かれたRPGものの作品に衛藤ヒロユキ氏の『魔法陣グルグル』があった。作者としては価値判断はつけていないが、作中の世界で「光」がどう見られ、「闇」がどう見られているかは、一見して考えるよりもずっと繊細にきっちりと描かれていたし、「光」と「闇」が一般的にどんな性向のちがいを持っているかも描き分けられていた。この点はアニメ版でもかなり忠実に再現されていたと思う。

 この『バウンティ・ソード』では、『グルグル』とは異なり、「光」が正義で「闇」が悪という位置づけがはっきりしているように見える。すくなくとも主人公の率いる「反乱軍」は一貫して「光」の側の者であり、敵である「連邦」は一貫して「闇」の側の者である。

 もっとも単純な「善/悪」の図式でないことは、「連邦」側のキャラクターのセリフなどからもうかがえるだろう。「連邦」に属するキャラクターは、自分たちが「闇」の行いを遂行していることに自信とプライドを持っている。「連邦」側に身を置くキャラクターにとっては「闇」の実現こそが正義なのだ。

 それは「連邦」のキャラクターが「漫画的」なマッドサイエンティストのごとく「正義」の側からは理解不能の価値基準を持っているからだろう――という解釈もあるかもしれない。だがこのゲームのストーリーを考えればそうとも言えない。ロジャー・ミランダをはじめ多くのメインキャラが連邦軍から「反乱軍」に転じてくる。しかも、それは安易で無原則な転向ではなく、連邦軍で得られなかった答えを見つけようとしてみずから「反乱軍」に投じてくるのだ。それだけではない。じつはゲームが始まった段階では主人公ソード自身も、「闇」に惹かれ、「光」から逃れようとしているようなのである。プレーヤーは、ソードの立場に立って、「闇」に惹かれる立場から「光」の側のリーダーになっていくまでの心の遍歴を体験するはずである。

 序盤のある戦いで、ソードは、「夜の闇」を恋しがり、待ち望んでいる自分を見出す。

 その「夜の闇」とは何か。それは直接にはその場所で対決するアンデッド(ゾンビや骸骨など人間の死体系のモンスター)に力を与えている源だ。だがそれだけではない。それは、すべてを分けへだてなく覆い隠すものなのだ。

 「すべてを分けへだてなく覆い隠すもの」としての闇をそれまでのソードが求めていたのは何もふしぎではない。「不敗の聖騎士」から一転して「味方殺し」の汚名を着せられたソードである。世間の目を避けるためにも、どんなに隠れようとしても自分の姿をくっきりと照らし出してしまう「光」の下にいるよりは、「闇」のなかにまぎれてしまったほうがどんなに気が楽かわからない。いや、それ以前に、ソードは自分で自分の「記憶」を光のもとにさらすことを何より恐れ、忌み嫌っていたのである。それを光のもとにさらし、直視することは、ソードにとって苦しみ以外の何者でもない。その「記憶」に光を当てずに闇に紛れさせておいたほうがずっといいのだ。

 「記憶」と対決してそれを克服するのではなくそれを「闇」に紛れさせるような生きかたは、「記憶」から逃れているようでいてじつはいっそう深く「記憶」にとらわれている。「記憶」と正面から対決する痛みはないが、その「記憶」を対決しないまま「闇」のなかに紛れさせているという思い自体はぼんやりした不安としていつまでもソードを捉えて放さないはずだ。しかし、それでも、ソードは、「光」の下に自分とその「記憶」をさらす苦痛よりもそのぼんやりした不安につきまとわれる生きかたを選んだのである。

 しばらく話は『バウンティ・ソード』からは離れる。このような人間観はじつは近代の哲学にじつはずっとつきまとってきたものであるらしい。自分はなぜここにこうして存在しているのか? 存在していていいのか? こんな苦痛を抱えながらなお存在していなければならないのか?――その不安からなんとか逃れたいと思っている人間というのがすくなくとも一部の近代哲学が抱いている人間の本質的なあり方なのである。もちろん抽象的な人間の「存在」についてこんな「不安」を抱くのは一部の哲学者でなければよほど追いつめられた人間か変わり者なんだろうけど、たとえばソードのように特定の記憶や現在の体験との関係で「どうしてこんな辛い思いをしてまで自分は生きていなければならないのか?」と思ってしまった経験の一つや二つを持っている者はそんなに少なくはあるまい。それが人間の本質的なあり方だというのが、ある種の近代哲学のテーゼなのである。

 これは柄谷行人の受け売りであるが(『言葉と悲劇』だったかな?)、近代初期の哲学者スピノザは、なぜ哲学が必要かという問いに対して、大略、つぎのような答えを持っていたという。

 ――哲学は苦痛を解決することはできない。人生について何を考えたって、その結論によって人生の苦痛がなんら減るわけではないのだ。ただ、人生の苦痛のよって来るところを考えれば、その考えているあいだだけ、人生の苦痛そのものを感じずにすむ。だから人間は哲学を研究するのである。

 そんなバカなと思われるかも知れない。だが、これを、ゾンビマスターのラグガドルが死に際に言い残すように「バ・カ・ナ……」と否定するかどうかは別として、人間を、その存在への不安から来る苦痛をごまかしながら生きている存在として捉えるという発想は、むしろ実存主義の考えにおいては基本的なものに属するのではあるまいか。

 たとえば、ハイデガーは、人の平均的な日常を、その本来的な「存在」のあり方から逃げているものとして捉えている。これをハイデガーは「頽落」と呼ぶ。「頽落」を不正常だとしているのではない。人は「平均的な日常」において「頽落」しているのがあたりまえだというのである(かならずしもそれを肯定しているわけではない)。『バウンティ・ソード』の人間観には、その根本の部分でそうした近代哲学の考えと合致するところがあるのだ。

 また余談に属するかも知れないが、『機動警察パトレイバー2』(劇場版)で、妻子がありながら南雲しのぶと関係を持ち、社会的な名誉を失い個人的な恋愛にも破れた柘植行人は、なぜそれが破滅を約束された任務なのを知りながらPKOに出発したのか? たんなる破れかぶれの行動でなく、しのぶのことをたんに忘れるためでもなく、またたんに高温多湿でかつ十分なバックアップも得られない苛酷な状況下でのレイバーの可能性を実証することで自分の名誉を回復するためでもないとすれば、柘植はなぜ行ったのか? その設問と、この『バウンティ・ソード』の世界観とは通じるものがあるように思う。ちなみに、『バウンティ・ソード』には「まぼろしの市街戦」というタイトルのエピソードがある。これは『パトレイバー2』で柘植行人が「演出」して見せた東京の「戦争」状況のことでもある。

 『バウンティ・ソード』の登場人物たちは、ただその苦痛を「ごまかす」ために生きつづけるのか、それとも何か積極的にその苦痛を解決しようとするのか――という問題は、まずはそれぞれのプレーヤーが感じとるべき問題だろう。ここでは、『バウンティ・ソード』のキャラクターたちは、自分では自覚していないにしても、何かの「不安」――とくにそれぞれの過去に関係する「不安」から来る重圧につねに苦しめられ、その解決を求めている――それがこのゲームの主要なキャラクターをつき動かす根本的な動機になっているということをもういちど確かめておきたい。いや、主要キャラクターのみではない。出てきてその面で殺されてしまう敵の端役キャラクターすらその同じ動機から連邦軍に参加したのかも知れない。それがこのゲームの根本を貫く人間観なのだ。

 そういう人間たちにとって「闇」の世界が心地よいものであることは理解できよう。自分の存在にかかわる疑問を起こさせるような不安な「遠い記憶」を押しこめることでたとえその不安に終始つきまとわれるにしても、それと正面から向き合う痛みにくらべれば何であろうか。
 


■ 光 
 では、ソードが立つ「光」の側とは何なのだろうか。

 まさにその「闇」の反対である。ひとつひとつのものを強い光のもとに逃げ隠れできないようにさらす世界が「光」の側なのだ。ソードは「不敗の聖騎士」の名誉から「味方殺し」に転落した顛末をめぐる記憶と、シュタイアは妹の思い出と、ファウストは強大な魔力をどうしようもなく持ちつづけている自分のあり方と、アテナは姉と、ルーネは富と栄誉と、リュウビは国が滅亡したのに自分が生き延びてしまったという事実と、ミランダは理想としての「平和」と現実の「戦争」に加担している自分との矛盾と――自分の心の中にあって、それから逃れつづけてきたためにかえって絶え間なく自分を苦しめつづけてきたものと、正面から対決することを強いる。それが「光」の世界なのである。

 「光」のもとでは個物があいまいなまま周囲に埋没しているということは許されない。ソードは薄暗い酒場で酒に溺れているどこにでもいそうなしがない男ではなく、かつての「不敗の聖騎士」そして「味方殺しのソード」その人であることを世界に向かってさらけ出さなければならない。フュリスはその正体がだれであってもかまわない「謎の少女」ではなく「父親を殺す決意を固めた連邦の王女」でいなければならない。アテナは海辺の家でかくれて暮らす少女ではなく、姉ルーネを討つために反乱軍に参加したかつての「シルバーナイト」であることをはっきりさせなければならない。それが「闇」の「連邦」に対して「光」の側に立つ「反乱軍」の戦士の生きかたなのだ。それがどんなに醜い恥ずかしいものであろうとも、自分は自分であって他人ではないという「個」の宣言をすること――そのことこそが「光」の世界に身を置くためには不可欠な条件なのである。

 それはゲームのなかで何度か言及される「名まえ」というもののあり方にもうかがえる。ソードがフュリスに語ったところによれば、名まえというのはそれがだれかを区別できればいいものだという。逆に言うと、ソードにとって、名まえという記号は何よりまずその人がその人であることをはっきりさせるためのものなのである。

 ソードは、ゲームの後半に入ったあたりで、ある強敵に遭遇し、その敵が名まえで呼ばれたのをきいて「名まえがあるということはただのモノだということだ、倒せるぞ」と仲間を激励する。このセリフだけ見ればあまり正しい論理ではない。モノではない、概念とか思想とかいうものにだってそれを指すための名まえは存在する。だがソードが言ったのはそういうことではない。繰り返せばソードにとって名まえとは「そのものがそのものであるということをはっきりさせる」ためのものである。特定の名まえで呼ばれた以上は、「闇」に埋没してしまってそのもの自身と他のものや環境との境界が曖昧になってしまったものではなく、あれは自分たちと同じように他のものや環境とのあいだの境界のはっきりした「個」物なのだ、だから、自分たちの「個人」と同じ条件で戦えるはずだというのがここでのソードの論理なのである。

 『バウンティ・ソード』の主要な「仲間」のキャラクターは、それぞれ自分の選択でこの「光」の側に加わってくる。「過去」や「持って生まれたもの」の重圧を隠したり忘れようとしたりせず、それを世界に向かってさらけ出し、その苦しみから解放されるために戦うのである。そこでの真の「敵」はじつは「連邦」ではなく自分自身だ。その苦しみから「闇」へと逃れようとする自分自身が最終的な敵なのである。「連邦」と戦うことはその手段にすぎない。ある重要な場面でソードが「自分自身」と戦うという試練を課せられるというエピソードはそのことをよく象徴している。

 ところで、「自分の過去をごまかしたり忘れたりすることを許さず、それと否応なく対決することを強いる者としての光」という表現を、ほかで最近見たような気がする方はいらっしゃらないだろうか? そう、このゲームの「光」のあり方をよく表現していたのは、『新世紀エヴァンゲリオン』の弐拾弐話で「使徒」がアスカに放った「精神攻撃」の光である(補足→ ※ )。あの物語ではアスカ自身に自分の過去を思い起こさせることがアスカへの破滅的な攻撃となったのだった。『バウンティ・ソード』の「光」にはじつはそういう苛酷なものとしての側面がある。

 『バウンティ・ソード』では、プレーヤーは、「過去」や「持って生まれたもの」の重圧から逃れようと、自分と他のものや環境との境をあいまいにして「闇」に埋没する生きかたではなく、それを世界の「光」のもとにさらけ出して正面から対決するという生きかたをゲームのなかで選ぶことを強いられる。何かに依存し、埋没し、甘えるのではなく、ほかのすべてのものとの境界をはっきりさせ、自分の醜いところやいやな思い出ともきっちり対決していく――このような生きかたから、「自立」とか「個人主義」とかいうことばが思い浮かぶ。フロイト派の社会心理学者エーリッヒ・フロムは、『自由からの逃走』で、「自立」への不安から逃れようと巨大なものに依存してしまう社会心理こそがナチズムの土壌だと説き、自立した個人が世界にアクティブに働きかけていく生きかたこそが現代社会を健全なものにしていく生きかたなのだと結論した。それを思わせるものがある。だが、『バウンティ・ソード』の「個人主義」は、『自由からの逃走』をただありがたがる戦後啓蒙心酔者流の「個人主義」とは大きく位相の異なる「個人主義」であることに注意しなければならない。
 


■ 運命 
 「超黒の魔道士」ファウストに象徴的に描かれているように、『バウンティ・ソード』の世界は同時に色濃い「運命」論に彩られている。さきほど私はこのゲームの主要キャラクターは自分の選択で「光」の側に立つ反乱軍に入ってくると書いた。だが、その選択はまぎれもなくそれぞれのキャラクター自身のものであるにしても、その選択にキャラクターを導くのは「運命」としか考えようのない偶然の積み重ねである。

 たとえば、「辺境の聖女」ミランダは「連邦」軍での殺戮の日々に嫌気がさして「反乱軍」に参加する。だが「反乱軍」での戦いもまた殺戮また殺戮の繰り返しであった。ミランダはそれに手を貸さなければならないのである(貸させないという選択も可能だが、そのばあいは当然ながらミランダのセリフは見られない)。そのなかで、ミランダは徐々に「戦争で人(やモンスター)を殺す」ということについて、たんに忌み嫌うのでなく、「殺さなければならないという状況で自分はどういう選択をするのか」という方向に考えを深めていく。それを通して、自分が聖職者として仕えている「神」というものに対する考えも変化させていくのである。

 だが、もしミランダが最初に「連邦」ではなく「反乱軍」のほうに参加していたらどうだったか? 「反乱軍」も「連邦」と同じように殺戮を繰り返している軍隊である。ミランダは「反乱軍」での殺戮に嫌気がさして「連邦」に寝返り、そして「連邦」の兵として戦うなかで、「戦争」について、「神」について、まったくちがった結論に達していたかも知れないのだ。最初に「連邦」軍に参加したことが、ミランダを「光」の側の戦士として生きる選択のチャンスを作ったのである。

 主人公ソードにだってその危うさはある。ソードは「謎の少女」フュリスと出会い、そのフュリスのわがままに振り回されることで「反乱軍」に参加するきっかけをつかんだのである。フュリスに出会わなければ、もしかすると、ラインメタルの酒場で酒に溺れているところを侵攻してきた「連邦」にスカウトされて、「闇」の勢力で世界を覆おうとしている「連邦」の戦士となっていたかも知れないのだ。げんに、かつてソードと志を同じくしたはずのキャラクターで、いまは「連邦」の戦士となっている人物は幾人も登場する(ネタバレ可なら→ ※ )。

 「積極的に世界に働きかけていけば世界は明るい」――ここはそういう予定調和とは無縁の世界だ。その世界で、人間は、「個」を貫き主体的な選択によって生きていきながら、はたしていかに「よく」生きることができるのか? いや、どういう生きかたをしたものを「よく」生きたと考えればいいのか? その生きかたを選んだことで、何の報酬が得られるというのか? 「運命」の支配する世界で「個人」はどういうふうに責任をとるべきなのか?

 ――それが、『バウンティ・ソード』の世界で、ソードとその仲間たちが考えなければならないはずの問題である。

 特撮やアニメのヒーローものや少女戦士もの・SFものなどで、よく「罪を憎んで人を憎まず」的なパターンが使われる。悪者がいて、主人公がその悪者をやっつける。すると、悪者と見えたそのキャラクターはじつは何かの「悪」に操られるかとりつかれるかしていて、本人はただ操られているだけだったとわかる。それでその「もと悪者」も何かの「悪」の犠牲者だったと許してしまうというパターンである。

 こういう構成がアニメでよく使われるのは、主人公が戦わないとカッコよくない――というよりミもフタもない言いかたをしてしまえばスポンサーの商品宣伝にならない――ということと、子どもが見るアニメの主人公に人殺しをさせるわけにいかないということとの両面から来る要請をなんとか両立させるためであろう。あまり便宜的にこのパターンが採られるので、逆に、「罪を憎んで人を憎まず」的なパターンを採っているというだけで作品に非難を浴びせる風潮もあるようだ。

 だが、この考えかた自体をどう捉えるにしても、それは多くの人びとが同じ現代社会のなかで生きていくために必要とされている考えかた(フィクション)であるということには注意しておいたほうがいい。近代の刑事システムもこの考えに基づいて設計されている部分が大きい。人を殺すという取り返しのつかない罪を犯した犯罪者も、監獄で何年かを過ごし、矯正されれば、ほかの人間と同じ社会に復帰できるというわけだ。近代医療も同様である。病原体そのものを排除し、場合によっては病巣を摘出すれば、それで病気は治ったということになる。人間は、どんな犯罪を犯した者でも、その人間を犯罪に導いた「悪」をその人間から切り離してしまえば、すくなくとも一般の社会で一般人として生きていくのに必要な程度には善良な人間に戻ることができる。身体に宿った病原体や病気に侵された部分を排除すれば人間はふつうの人間に戻る。それが、平等で同質な人間によって構成されていることになっている近代社会のなかで犯罪者や病者を扱うためには効率のよい考えかたなのである。(→刑事政策や伝染病に関する補足

 『ナースエンジェルりりかSOS』では、やはり「病原体を病者から分離する」という行為がナースエンジェルりりかの「お手当て」の基本になっていた(初期『りりか』については微妙だが)。これはりりかが現代の看護婦をモデルとした「ナースエンジェル」であることと整合している。こう書くとまた「医療と看護はちがう」というような話になるのだが、これ以上は触れない。

 では、『バウンティ・ソード』ではどうなのか。

 『バウンティ・ソード』でも、個人が悪霊や何かの悪しき思いにとりつかれることはあるという設定になっている。だが、それを選択したことについては、その個人から悪霊や「悪しき思い」を取り除けばそれでいいという考えにはなっていない。その個人は、その「悪」を受け入れたという選択については責任があり、その責任をきっちりととるべきだというのが『バウンティ・ソード』の主人公ソードの考えかたなのだ。

 その結果として殺されなければならないキャラクターもいるし、その悪霊や「悪しき思い」を選んだ動機をさらに追い求めるチャンスを与えるために「反乱軍」への参加を許されるキャラクターもいる。いずれにしても、自分が「悪」とされるものを選んだことをあいまいにしてしまうような生きかたをソードは許さない。

 それは、その「悪」を選んだ動機の如何を問わない。むしろ、高い理想を実現しようという純粋な思いからあえて「悪」とされる行いを選んだ相手に対して、ソードはいっそう苛烈である。

 なぜか? それは「悪を憎む」というだけの動機とは思えない。だいたい何を「善」とし何を「悪」とするのかという基準のあいまいさはソード自身がよく知っているはずである。連邦の行いは、いまのソードにとっては「悪」であるが、かつて「闇」に紛れたいと願っていたときのソードにとっては「悪」ではなかった。ソードが連邦の行いを「悪」だと判断したから反乱軍のリーダーになったのではない、偶然か運命かは知らないがともかくフュリスに導かれロジャーとミランダにめぐりあい、その二人に懇願されてソードは連邦軍のリーダーになり、そしてその立場から見るとき、「連邦」は「悪」となったのである。そもそも、自分の信念に従って行ったことが、祖国の人びとによって「味方殺し」の悪行として迎えられた経験があるソードである。善悪を、そうかんたんに、またそう客観的に決めることなどできないことはよく知っているはずだ。

 そうではない。何かの純粋な動機であえて「悪」を選んだり、結果として「悪」に利用されたりした「個人」は、その「悪」を受け入れたことについて責任をとらなければならない――なぜならそれがより「よく生きる」ことだからである。それがソードの考えなのだ。

 人間は運命に翻弄されるだけの小さくはかない存在である。だか、その小さくはかない存在にも、自分で何かを選択する数少ない機会が訪れる。その機会に選択したことについて責任を回避せず、それが何かの「悪」をもたらしたとすればそれについてきっちり責任をとることが「よく生きる」ことだというのである。そのことによって、小さくはかない存在である人間の生は、意味を得、また尊厳を得るのだというわけだ(ちなみに、単なる「生きる」ことと「よく生きる」ことをはっきりと別物だと区別し、「よく生きる」ためにあえて肉体的な死を選ぶという論理を立ててそれを実践した哲学者の一人がソクラテスである)。

 戦後啓蒙心酔者流の「個人主義」のように個人にはあらかじめ「価値」や「尊厳」が備わっているというわけではない。個人は運命に翻弄されているのだ。もともと「価値」も「尊厳」もあったものではない。戦場でぼろぼろ無惨に死んでいく、そういう存在なのだ。ただ、その運命によって選択を可能とされた数少ないチャンスに選択を行い、その選択の結果には最後まで責任を負う。そこからはじめて個人としての価値や尊厳というものが生まれる。それが『バウンティ・ソード』の個人主義なのである。

 もちろん、選択する機会が数少なくて、しかもそれが重大な意味を持つのは、RPGのシステム上の制約という面が強いであろう。このゲームは、その制約をゲームの特質としてよく活かした構成になっていると言えば言えるかも知れない。

 「光」の立場に立ったソードは、いかによい意図から始めたことであれ、それが「悪」い結果をもたらしたならば、その者を容赦なく苛烈に追いつめてその初志を貫徹させることこそがその人間の「価値」や「尊厳」を尊重することなのだと考えている。ソードの態度は、物語の終わりのほうで登場する「敵」になるほど厳しくなっていくが、それはソードがその「敵」たちを憎んでいるからではない。その「敵」たちの生きかたを認め、それを尊重しているからこそ、その「敵」と厳しく対決するのだ(ただあんまり容赦なく殺しているとお宝を取り損ねることもある)。
 


■ 友 
 しかし、人の行いの善悪の判断基準があいまいなことを知っているソードが、そもそもどうやって他人の行いを「悪」と断じてそれを追いつめることができるのだろう?

 その問いは徐々に考えていくことにしよう。まず、そうして人を追いつめ、場合によっては死に至らせる資格を持つのはどういう者なのかということから考えてみたい。

 『バウンティ・ソード』では、ある人間の行いが善であるか悪であるかを判定する資格があるとされるのはまず「友」である。「友」というのは、あるときにはともに戦った戦友ということにもなるし、もと上官と部下かも知れないし、アテナ・ルーネ姉妹のように骨肉であるばあいもある。その人がたんによく知っている相手というだけではない。その人の生きかたや価値観をよく理解している相手であり、また何よりその人の「友」でいることを誇りに思えるような相手である。

 『バウンティ・ソード』には、「友」であった者どうしが敵味方に分かれて登場する例が多い。むしろそれがテーマではないかと感じるほどである。運命によって敵と味方に分かれてしまった「友」どうしが、たんに「友」であるというだけでまた戦線の同じ側に立つことはソードもその「友」も認めない。「友」であれば対決しなければならないときにはそれを避けずに対決するものだ――それが『バウンティ・ソード』の倫理観なのである。

 かつてソードの「友」で、いまでは敵に身をおいている者のなかには、自分にとっての一世一代の事業の現場にわざわざソードを立ち会わせようとする者がいる。ソードにとってはそれを阻止することがやはり一世一代の事業だとわかっているのに、である。ソードの知らないうちにそれをやってしまうことはできるはずなのだ。これらのキャラクターはソードにわざわざ自分の一世一代の事業を妨害するチャンスを与えているのである。

 それこそが『バウンティ・ソード』の世界での「友情」なのである。運命によって翻弄され、そのときどきの選択によって、「友」が戦線の向こうとこちらとに分かれてしまうことはしかたがない。そのときに「友」でありつづけることの証は、自分がいちばんたいせつに思っていることをなすときにその「友」を立ち会わせることである。その「友」がそれを認めないならば、剣にかけてそれを阻止するチャンスを与える。これが、運命論の支配する『バウンティ・ソード』の世界の「友情」のあり方なのである。

 その人から遠い存在や人間を超越した存在――たとえば「神」などに、その人の生きかたの「正しさ」を決める第一の資格があるのではない。この世界では、同じ人間であり、しかもその人をよく知り、その人をよく知っていることを誇りに思っている者にこそ、その人の行いの善悪を判断し、剣にかけてその人の行いを裁く第一の資格があるのだ。だが、「小さくはかない」存在である人間のどこにそんな価値があるのだろうか? 問いはやはりそこに戻っていかなければならない。
 


■ フュリス 
 すでに見たように、『バウンティ・ソード』の世界で人間に価値を与えているのは「神」など人間を超越した存在ではない。もちろん政治権力でもない。人間自身である。それも漠然とした「人間」ではなく、個々の人間が、自分で自分の選択に一貫して責任を持って生きようとするときに、そこに人間の価値や尊厳が生み出される。それが『バウンティ・ソード』の倫理観なのである。

 立場に制約され、運命によって与えられたわずかなチャンスに行った選択に対して一貫した責任を負うことでしか自分の価値を生み出すことのできない人間が他の人間を裁く。立場に制約された自分の価値基準に実力で相手を服従させる。自分をその立場においた「運命」というものの背後に、人間の力や知恵をはるかに超えた「神」という存在を想定しないのであれば、その基準は、けっきょく「自分」自身しかない。そして、ソードの仲間たちは、そういう超越したものとしての「神」という考えかたを、エピソードがすすむにつれて変えていくのである。

 つまり、『バウンティ・ソード』で、ソードやその仲間が他のすべての存在を解釈し、裁く基準は、そのキャラクター自身のなかにしかないのである。しかも何かによって正当化された「自分」ではない。立場に制約され、運命に翻弄される小さくはかない存在としての「自分」である。

 このゲームのあるエピソードで、ある呪いをかけられてソードを除く全キャラクターが身動きできなくなる場面がある。この呪いはソードがあることをすることで解けることになっている。このとき、それぞれのキャラクターは、自分で呪いを破ろうとした結果、呪いが破れたのだと解釈するし、ゲームの進行をプレーヤーに解説してくれる役の妖精テティスもそう説明してくれる。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか? もしかすると、ソードがあることをすることによって呪いが無効になり、ほかのキャラクターも動けるようになったのではないのか。そのどちらが正解かはたぶんだれにもわからない。だが、自分が呪いを解こうと力の限りを尽くした、そうすると呪いが解けた――そのときに、それが「神意」や偶然ではなく自分が自分の力で解いたと思いこんでしまう、また思いこむことができるからこそ人間の価値がある。そのことがこの場面で描かれていると読むべきではないか。

 それは「神」や「自然」というものを人間を超越する何者かとして想定すれば人間の傲慢にほかならない「自己満足」だということになる。「自分には人間としての価値や尊厳がある」と判断する根拠は自分自身のなかにしかないのだから。いや、自分についての判断ならまだしも、他人についてその善悪を判断したり、「神」とは何かを考えたりする根拠も自分自身のなかにしか求められない。

 『バウンティ・ソード』の世界の倫理観では、人間が「神」や「自然」に対して傲慢になることとセットでなければ、人間は人間の価値など認められないのである。「神」を「ただの道具」とまで言い切ってしまう人間の価値・尊厳――それはしょせん「自己満足」の体系だ。だが、人間は二つの道しか選択できない。個人や個性などといった「個」の主張を取り下げてすべてがあいまいな「闇」のなかで生き、「神」にすべてを委ねてしまうか、それとも「自己満足」によって「神」を蔑ろにしてでも自分の価値や尊厳を確信して生きるか。『バウンティ・ソード』の世界はその二者択一を人間に――画面のこちらがわの人間もふくめて――強いてくるのである。

 これは「わがままなお姫さま」フュリスの心へといたるソードの旅でもある。ソードの戦いは、ゲーム中盤のある場面から「フュリスを迎えに行く旅」という位置づけになる。それはただフュリスのいるところまで敵を排除しながら進む旅というだけのものではない。フュリスの「わがまま」を理解するためのソードの心の旅でもあるのだ。

 フュリスはひじょうにわがままなお姫さまである。

 最初にソードに救われたときですら、感謝のことばを口にするどころか、初対面の相手に「あなたは血のにおいがする」などと言う。その血は結果的にフュリスを救うことになった戦いで流された血だというのにだ。しかも、いきなり「見たところ賞金稼ぎね。街まで護衛して行きなさい」などと命令するのである。

 フュリスが父である「神祖皇帝」エリュシオンを討とうと決意した理由も、天下万民のためとか、「連邦」に踏みにじられて殺された人びとを見かねて、とかいう崇高なものではない。自分の親しかった衛兵がいなくなったり、自分の遊んでいたきれいな庭が兵器置き場にされたりするのががまんならなかったからだという。すくなくとも自分ではそう説明する(『鋼鉄の龍』ではそれ以上の動機が設定されているようだが)。「連邦」に踏みにじられた人びとや罪もなく焼かれた村のことを考えに入れるようになるのは、自分でそれをじっさいに見てからのことだ。自分が自分で体験したと自信を持って言えることだけを判断の基準にして何かの目的を定め、そしてその目的のためには他人を思いのままにこき使う。フュリスはそういうお姫さまだ。

 余談ながら、ラジオドラマ『鋼鉄の龍』ではこのフュリスの声を聞いたとき、それまで「憎めないいい子」の役しかやらないと思っていた鈴木真仁がこの役を演じているのをきいて度肝を抜かれたのは私だけだろうか。じつはフュリスの誕生日は(ゲーム本体ではチェックする機会がないが)鈴木真仁さんの誕生日である7月14日に設定されている。おそらく『赤ずきんチャチャ』でこの声優さんにめぐりあった監督の趣味である。ところでじつはこのゲームにはこのフュリスと同じ誕生日の女性キャラが設定されている。ソフトを持っている人はそれがだれか探してみるといいだろう(ネタバレ可なら→ ※ )。

 ソードは、最初、フュリスの「わがまま」を理解せず、軽く見ていたフシがある。その心境は「辺境の火山島」に向かう船での会話ではすこし変わってきているようだが、まだフュリスの心境を完全に理解するにはいたっていない。自分に何かを考えさせてくれるきっかけであることは感じとっていたにせよ、ソードが別れの瞬間までフュリスを「手間のかかるわがままなお姫さま」と思っているのはたしかなようだ。それが、再会の場面では、じつは幾多の苦難を乗り越えた自分が「お姫さま」のフュリスの気もちを自分の気もちとして理解できる境地に達していたことにソードは気づかされるのである。
 


■ 国 
 さて、この『バウンティ・ソード』では、個人にとって「国」とはどういうものかということも、再三、描かれている。

 ソードは「国」を捨てた男である。祖国のために戦い、祖国のためにあえて行ったことをきっかけに汚名を着せられて以来、ソードは祖国に思いを致すことをいつも避けている。賞金稼ぎの仕事をしているのも、その「国」と対等の関係で契約して行うことのできる仕事だからだろう。

 だが、「バウンティ・ハンター」のソードは、国の外に出れば、やはり「ラインメタル王国第一七独立騎団」のリーダーをつとめた「不敗の聖騎士」ソードとして見られる。自分では縁を切ったつもりでも、「ラインメタル王国の」ということばはいつまでもソードにくっついてくるのである。

 ソードのように避けている者にもついて回る「国」というものは、それ以外の多くのキャラクターにもやはり運命的につきまとう。アテナとルーネの「国」は「連邦」に滅ぼされた。その痛みからルーネは「連邦」に走った。アテナはそれを祖国への裏切りと解してその姉を討とうと決意した。シュタイアは、自分の「国」のために前線で戦っている隙に敵に自分の妹を殺された。「国」を滅ぼされたということもさることながら、「国」のために戦っている隙に最愛の妹の命を奪われたということがシュタイアを動かす動機となっている。「国」が滅んでも生き延びたということを恥としている「寸断のリュウビ」の気もちにも「国」というものが絡みついている。ソードにとっての「最後の敵」も、祖国を思うまじめな心が昂じてついに「悪神」にとりつかれたというかたちで登場する。

 「国」は運命的に個々人に絡みついてくる。だが、その「絡みつきかた」はキャラクターによってさまざまだ。「国」のためには命をも顧みずに戦うのがその「国」の戦士の義務であり、それを尽くすのが戦士の誇りであり、そしてその戦士の義務を尽くせば世界には平和がもたらされるものと若き日のソードは信じていた。だがそんな単純なものではなかった。「国」はそのソードの期待を裏切った。それでも「国」――「祖国ラインメタル王国」はソードを捉えて放さない。ルーネにとっては、祖国は、そこに自分の求めたものを得られなかった場所であり、その同じものを求めてルーネは「連邦」に入る。いわばルーネを「連邦」に走らせる槓杆の役割をしたのである。アテナにとってはそのルーネを討ちたいという気もちの源になっているのがそのおなじ「国」なのだ。このキャラクターたちにとって、「国」とは、一様に忠誠を捧げるべき対象などではありえない。

 他方、「国」の存在は、世界平和にとっては有害無益なものだという見かたも『バウンティ・ソード』の世界には存在する。ソードが活躍した十年前の大戦は大国間の国境紛争が発端だった。「国」がその境界を主張することは残酷な殺しあいに発展する。

 辺境の小国だったオルドバ王国が「神祖連邦」を称して世界征服に乗り出したのも、小国であったがために大国の紛争に巻き込まれた悲惨な体験があったから、ということのようである。そして、「連邦」は、世界が「神祖連邦」の支配のもとに統一されればもう国境紛争も起こらず、世界の人びとは平和に幸せに暮らせるはずだというイデオロギーのもとに戦っている。

 「国」も「個」であるかぎり、「個人」と同じように自分の境界を明確にしようと主張する。とくに近代においてはそうだ。それは、ソードをめぐる「光」と「闇」でいえば「光」の論理である。そして、それは無数の戦乱を生んできた論理でもあるのだ。

 「神祖連邦」は、「国」が自己主張することが世界平和にとっての大きな妨げであるとして、その「はっきりした境界」をなくしてしまうために古代兵器を発掘して世界征服に乗り出した。一つの国、そして一つの超越した力を持つ神――それに服従することでたがいの境界を「闇」のなかに紛れさせてしまうことこそが世界平和の実現にとって肝要だというのが「連邦」のイデオロギーなのだ。この点でも「連邦」は「闇」の勢力なのである。

 これをRPGらしい絵空事と笑うことは、「連邦崩壊後」の世界に生きている私たちにはできないはずである。大まじめに国民生活の改善と「連邦」の復活とを同時に唱えた政治家が選挙で高率の支持を集めた国が私たちの国のすぐとなりに存在することを忘れてはいけない。事実において、「連邦」の崩壊――この「連邦」はもともと世界政府として樹立された政府だった――と、「神」ではないがある不動の絶対的な社会的な信念の消滅とは、世界のいたるところに収拾のしようのない紛争を再発させた。私たちがいま生きているのはそういう世界である。

 それは、このゲームの最後の局面でソードと仲間たちが選択するのがどういう世界かということをも示唆している。国境もなく宗教のちがいもない平和な世界か、それとも「国」に満ちあふれ、それぞれがそれぞれの信ずるところに従って「神」を信仰し、したがって世界のあらゆるところに紛争の火種が存在している戦争の世界か? ソードはここで私たちが住んでいる世界――つまりほかのどこでもないこの「連邦崩壊後の世界」を選択するのだ。それは、人間が「自己満足」によってのみ自分の価値や尊厳を見出すことのできる世界にとっては必然の選択なのである。

 したがって、このゲームの終幕で、それぞれの国の再建を誓って散っていくそれぞれの「反乱軍」メンバーの国――ソードの国・アテナの国・シュタイアの国、それにフュリスの国が、数年後にはまた敵対してまたどうしようもない紛争を起こさないという保障はどこにもない。このキャラクターたちはむしろそういう世界をこそ選びとったのである――「絶対的な平和」の世界ではなく絶えざる戦争の世界をこそ!
 


■ 希望 
 そう考えるとこのゲーム『バウンティ・ソード』に世界に希望はあるのか、という疑いが頭をもたげる。再三死線をくぐり抜けて到達した世界が「絶えざる戦争」の世界であったとすれば、このキャラクターたちの戦いとはいったい何だったのか?

 いや、それ以前に、このソードとその仲間たちの戦いが希望となるのかという疑問もある。たしかに「連邦」に勝ったのだからいいではないかということにもなる。ソードは「味方殺し」の汚名を雪いで、今回は期待された役割を最後まで完遂することができた。シュタイアもアテナもそれぞれのかたちで自分につきまとっていた忌まわしい「遠い記憶」の重圧から解放された。それでいいではないか。

 ――たしかにゲームを最後までクリアすれば、プレーヤーはそういうハッピーエンドを必然的に迎えることになる(こうならないエンディングもあるのかしら?)。

 けれども、運命によって与えられた契機にひとつちがった選択をしただけで、ソードたちとはちがった末路をたどらなければならないキャラクターもまた数多いのだ。その未来を見通すことができたうえでの選択ならばまだなっとくも行くだろう。だが、ソードがこのハッピーエンドを迎えることができた原因が、ソードにとっては偶然のフュリスとのめぐりあいであり、さらにはソードが気まぐれでフュリスの「わがまま」な「依頼」を受けたことにあるように、これらのキャラクターにとっての選択もまた偶然の機会にすぎなかったであろう。運命によって与えられた機会に「気まぐれ」に何かの選択をしたことがソードたちを至福の勝利の瞬間に導いたのと同じように、あるキャラクターは同じように選択した結果としてソードたちに殺されていく側に回ってしまったかも知れないのだ。「連邦」軍の殺戮行為がいやになって逃げ出し、「反乱軍」の一員としてその勝利の瞬間を迎えたミランダと、「反乱軍」の殺戮の惨たらしさを見て「連邦」軍に参加し、ソードのハイパーソニックで殺されていった「もう一人のミランダ」(そういう具体的なキャラはいないが、どこかの面で何気なく殺した敵ビショップはあるいはそういう経歴の持ち主かもしれないではないか)のあいだに何のちがいがあるわけでもない。運命がミランダが生き敵ビショップが死ぬようにできていた――そう考えるしかないのである。

 運命に流されながら、運命の与えてくれる数少ない機会に、将来がどうなるかもわからないままに選択し、そしてその選択には命をかけて一貫して責任を持つ――その生きかたが幸福な結末をもたらしてくれるとはだれも保障していないのだ。

 ソード・ロジャー・ミランダ……が集って最後の勝利を迎えられたことはひとつの奇跡である。それぞれのキャラクターが、運命に弄ばれるなかで偶然に手にした機会に、偶然に、気まぐれに選択し、その選択を貫く。その「自己満足」に徹した結果、最後の勝利の機会に居合わせることができたわけだ。だが、その裏では、何十人何百人の「もう一人のソード」・「もう一人のロジャー」・「もう一人のミランダ」……が「反乱軍」に斬られて死んでいっているのである。この「反乱軍」のメンバーは同じように「自己満足」に徹した何十人何百人のなかでのほんの一握りの偶然の生き残りにすぎない。「奇跡」と表現したのはそういうことだ(※補足→RPG上の「奇跡」の意味)。

 このエンディングは、まさに最後の決戦のBGMにつけられているタイトルのとおり「九つの絶望」を乗り越えた向こうの「一つの希望」なのである。

 だが、この「九つの絶望」を乗り越えて到達した「一つの希望」はソードと仲間たちにとって永遠の祝福であり得たろうか。

 そうではなさそうである。さきに書いたとおり、ソードと仲間たちが最後に選んだのは、「一つの国、一つの宗教」による平和の国ではなかった。個々人がそれぞれの幻想を国家に託し、それぞれの信じるところにしたがって神を信仰する、絶えざる戦争の世界であったのだ。ゲーム中でソードが「自分たちのことを後世の歴史家はどう書き記すだろう」と独白する場面があるが、もしかすると統一を破壊して戦乱の時代を開いた歴史の大罪人として記録される可能性だってある。げんにとなりの国で「連邦」を崩壊させた人物がいま世界でどういう評価を受けているかを考えてみればいい。そうならなかったとしても、その絶えざる戦争の世界で、「反乱軍」に集ったそれぞれのキャラクターがみんな幸福でいられるという保障はどこにもない。それに……「非常時」だったからよかったものの、戦争が終わってみるとあの「わがまま」な性格は苦労するぞ、フュリス……(「よけいなお世話よ」って「フュリス声」で言われそうだな)。

 ・ネタバレ可なら→「絶えざる戦争の世界」に「平和」は可能か?

 では、ソードと仲間たちのこの勝利は無意味だったのか?

 この問いは、『新世紀エヴァンゲリオン』の(TV放映版)最終回で果たしてシンジは救われたのかという問いと似ている。「人類補完計画」の思想を自分の心の中でたどってみることで、シンジは「自分はここにいていい」という結論に到達し、全世界から祝福を受けて物語は終わる。だが、それでシンジは自分の存在をめぐる不安をすべて解消して、明日から楽しく生活することができるようになったのか?

 『エヴァンゲリオン』の作者はあるいはそういうメッセージを伝えたかったのかも知れない。だが、私は、あの答えでシンジが自分の存在をめぐる不安を完全に打ち消すことができたとは思わない。「お父さん」や「お母さん」をめぐる不安はあるいは解消したかも知れないが、またべつのかたちで存在への不安は少年を襲うだろう。そこには姿を消したはずの「お父さん」や「お母さん」をめぐる不安の幻影がまた登場してくるかも知れない。

 だが、自分が解決しようとした問題の正体を掴み、それを解決し得たという昂揚感を体験したことは、シンジにとっては――そして『バウンティ・ソード』のソードと仲間たちにとっても、なお喜ぶべき、意味のあることだったと思う。あえていえば、解決したあとに残ったその結論が重要だったのではない。解決の過程を一度でもたどってみたことが重要なのだ。

 たとえばはじめて道に迷ったとする。最初はどうしていいか見当もつかない。そのうち、人に道をきいたり、太陽を見てだいたいの方角の見当をつけたりする。もちろん通行人は嘘を教えるかも知れないし、曇っていて太陽は見えないかもしれない。だがともかく自分の思いつく限りの方法を駆使して最寄りの駅まで到達して家に帰ったとする。そのときの体験は、同じところでまた迷ったときに役に立つのは当然として、まったくべつのところで道に迷ったときにも役に立つ。どういう人に道をきくのが確実か、どういう手段で方角を確認するのがいいのかというような点について、その体験は大きな手がかりを与えてくれるはずである。

 ソードとその仲間たちが選びとったのは絶えざる戦争の世界である。ソードたちはその生涯にまた戦争に巻きこまれるかも知れない。そして、そこで、こんどの戦いでは直面しなかったような難問に直面することになるかも知れない。だが、こんどの戦いを戦い抜いて最後の勝利に到達したことは、つぎの状況と戦うための手段として大きな意味を持つことになるだろう。

 一度きりの救いで完全に救済してもらえるほど私たちの「原罪」は浅くないのではなかろうか。ちょっと昨今でははやらない表現だが、「一度きりの救い」を「一度きりの革命」と言い換えてもいい。一度、救済されたという恍惚感を体験したあとは、また救済されない猜疑と苦しみの「日常」というやつに戻らなければならず、また新しい救済を求めて生きていかなければならない。

 でも、そういう「日常」だからこそ、生きていて辛いとともに、また生きていておもしろいのではないだろうか?

 そして、「救済」はそういうものだからこそ意味があるのではないだろうか?

 九つの絶望を超えて一つの希望にたどり着き、勝利の鐘の音を耳にすることができたことは、そういう意味で祝福であり得たのである――と私は思う。

                    ―― 本文終 ――



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これよりネタバレ地帯!


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■ あのキャラはどうなるの? 
アテナとルーネ
 第三章、ハイランドの「影との戦い」につづく「宿命:Sisters」のエピソードで、パーティーにアテナがいれば、この面で連邦軍部隊の隊長を務めるルーネは仲間になる。かならずしもアテナを直接にルーネと戦わせる必要はない。
 ここのパーティーは「賢者の里」を出発したあとに編成したままで変更できないので、その時点でアテナをパーティーに加えていなければならない。私は、「ワルキューレの騎行:Valkyries」の場面でルーネが登場してからはアテナを下げないでふたたびルーネと出会うのを待ったが、このあいだの戦いでアテナを戦いに出したほうがいいかどうかは、アテナの職などの条件によるだろう。

シュタイアの妹の敵
 第三章、「絶望の湖」の「銃声、鳴りやまず:Rapid Fire」のエピソードの敵の隊長として登場する。出会ったときにシュタイアと会話のイベントがある。どちらにしてもシュタイアは「だが妹は帰らない」というようなコメントを残すが、自分で討ち取った場合にはもうすこし長いセリフを言う。ここで「おれの旅は終わった」とかいうので、ここでシュタイアは仲間からはずれるのかと思ったのだが、そういうことはない。
 シュタイアを仲間に入れなければこのような会話はないのだろうと思うがためしたことはない。この面は敵が敵だけにシュタイアを入れずに勝つのはしんどいかも(強くなっていれば、マイア・ビーンでも可能かと思うが)。

かつてのソードの仲間たち(第一七独立騎団)のその後
  • アジャックス:連邦軍(条件次第で仲間になる)。
  • ダニエル:連邦軍。「追憶の戦場:Friendship」の章に登場。仲間にはならない。
  • ノルン:前大戦でソードをかばって戦死。
  • マクベス:ラインメタル王国大臣としてゲーム展開の鍵を握る人物。
 


 ■『エヴァンゲリオン』と『バウンティ・ソード』
 もちろん、『エヴァンゲリオン』の第弐拾弐話は、『バウンティ・ソード』の監督である山口宏さんが脚本を書いた作品である。

 『エヴァンゲリオン』への山口さんの参加は、第拾六話・第弐拾弐話・第弐拾参話の合計3話である(もし、来年に発表される新作の完結編二作にかかわらないのであれば)。このうち、拾六話はシンジの、弐拾弐話はアスカの、弐拾参話はレイの「自分自身との対決」の要素を含むエピソードであったのは興味深い。

 『赤ずきんチャチャ』の第四拾伍話――じゃなかった45話「本物はだれなのー?」も山口さんの脚本作品である。このエピソードは、『バウンティ・ソード』にはない「ダンジョン探索」というゲームの定番場面を使った作品で、床のスイッチを踏んでへんなところに迷いこんだり、チャチャが溶岩の上に落ちたりという作品であった。この作でも、最後にマジカルプリンセス(変身後のチャチャ)は自分のコピーである「暗黒プリンセス」と対決するという構成になっている。ここでは、すべての能力が同じである敵と対決することで(敵はそれに加えてモンスターとしてもともと持っていた能力も持っている)、チャチャは相手にはなくて自分にだけある、ほんとに自分だけのもの――親友としてリーヤとしいねちゃんがいつもそばにいてくれること――に気づくのである。

 ちなみに『赤ずきんチャチャ』の「王女さま」チャチャ役の鈴木真仁さんが『バウンティ・ソード』のフュリス役に想定され、『鋼鉄の龍』に登場している。

 


 ■刑事政策と「死」の問題、治癒困難な伝染病
 このように書くと刑事政策も医療もそうかんたんなものではないという反論が来そうだ。そのことは承知している。とくに死が関係する問題ではこの考えかたの限界が露呈する。

 一方では、死刑という制度をどう考えるかという問題が生じる。「悪」をその個人から分離しようとしても、分離できないほど「悪」に染まっていると判断されたときには、個人の生命ごと奪ってもかまわないのか。かりに人間にそういう権利があるとしても、それを執行するのはだれなのか。個人でそれを執行することはできないという点では近代法でははっきりしている(決闘は犯罪になる)。では、国家にそのような権力が賦与されているのか?

 近代国家の民主主義においては――立憲君主制国家においても多くは――、国家権力は国民に由来するのであるから、人を死刑にする権利を与えるも与えないも基本的には国民の判断に委ねられている(もちろん、あまりに恣意的な運用を許したり、本国国民には甘く外国人には厳しく適用されたりしたばあいには、国際的な干渉は正当に行われうるであろう)。ここで、国家に、人を死刑にする権力を与えるとすると、いくつか問題が生じる。まず、国家にその権力を与えるも国家がその権力を濫用することはないのか、という問題がある。これはフランス革命の「恐怖政治」で問題となった点である。また、死刑が執行された後、その人が無実であるとわかったばあいにはそれをどう救済するのかという問題が生じる。

 他方、かりに死刑を廃止した場合、残虐・冷酷な殺人者(身代金目的の誘拐殺人など)や、何人もの人を殺した犯罪者、直接に手を下さなくても麻薬の密売などで結果的に多くの人間を破滅に追いやった者をどうするのかということが深刻な問題になるだろう。「この犯罪を犯してつかまれば死刑になる」ということがわかっているのと、「どんなひどいことをしても死刑にはならない」というのとでは、原理的に考えて、犯罪の抑止効果もちがってくるであろう。それだけではなく、犯罪の被害者やその周囲の人びと、とくに殺人事件の被害者の心情を考えれば、自分にとってたいせつな人を残酷な方法で殺した相手が生きているということはずいぶんな苦痛を与えるものである。また、ある殺人を、国家機関である裁判所が「犯人に同情すべき点もある」と解したのに対して、被害者の遺族がその国家の判断を受け入れなければならない根拠は何なのか? こんどは国家に「殺人犯を生かしておく(殺人犯に同情して情状酌量する)ことをその被害者の遺族に強制的に受け入れさせる権利」があるのかという問題も生ずる(もちろん刑法ではあることになっている)。

 生命というのがいちど奪うと取り返しのつかないものであるために、この問題は、被疑者(とくにそれが冤罪であったり政治裁判の犠牲者であったりしたばあい)の権利と、被害者の生きる権利や心情との両方を考慮して判断しなければならない深刻な問題になっている。

 また、危険な病原体を分離してしまえば健康に戻るという考えかたのもとでは、病原体を分離できない「治療の困難な伝染病」の患者に社会のなかでどういう地位を与えるかということがかえってむずかしい問題になる。しかも、いちど「治療の困難な伝染病」という位置づけが与えられてしまうと、医学的にその治療法か確立されても「あれは業病だ」という社会的偏見がなかなか解消されないことになりかねない。治療法がかなり以前に確率されていたにもかかわらず、「らい予防法」が廃止されたのはつい先頃のことだ。エイズ患者と社会のなかでどう共存していくのかということも問題になっていくだろう。恐ろしい病原体であるとはいえ、治療可能なO−157でさえ、感染力のない患者や、集団感染地域の住人であるというだけで忌避されるという事態が一部に起こったほどなのである。

 


 ■フュリスと同じ誕生日の女性キャラは?
 ちなみにフュリスと誕生日が同じなのはノルンである。「夢」の場面で確認してみましょう。
 つまりフュリスはソードにとってはノルンの生まれ変わりにもなるわけで、それがソードのフュリスへの想いに影響を与えていると解することもできる(もちろんそんなことはないと解することもできる)。
 しかし声をあてるとしたらノルンも鈴木真仁か?
 それだとおもしろかったかも知れないが――でも「もう勝手に決めないでよ」と「フュリス声」で言われると困るなぁ……。
 


 ■RPG上の「奇跡」の宿命

 もちろんゲームを進めていけばこの結末は奇跡でもなんでもなくて必然である。こまかい部分では、たとえば反乱軍の顔ぶれがちがうなどの差はあるかもしれないし、もしかすると私が知っている以外のエンディングがあるのかも知れない(攻略本にはあると書いてあるのだが)。しかし、ともかくソードが連邦の皇帝を倒すところまでは行くはずである。

 ゲームである以上はこういう矛盾はつきものだ。だれでも平易に達することのできるゴールをめざしてゲームを楽しむ者はない。それが、たとえそれが十分に可能なようにプログラムされていることであっても、なにがしかの「奇跡」を起こす道を追体験することがゲームの楽しみなのだ。とりわけRPGにおいてはその傾向が強い。「いろいろやったけどけっきょく主人公は無駄死にでした」で終わるRPGで納得するプレーヤーはまずいないだろうと思う。たいていのRPGでは、それが標準的にプレーしていれば到達できるように設計されているにもかかわらず、そのエンディングは「奇跡」として到達されるものなのである。

 RPGで、プレーヤーの分身または化身とされるゲームの主人公の「動機」または「目的」と、プレーヤー自身がゲームをプレイする「動機」または「目的」とが、じつはぜんぜん無縁のものである――とかいうような話を読みたい人は、押井守『注文の多い傭兵たち』(メディアワークス)がいいんじゃないかな。もっとも、読んでRPGやるのがつまらなくなった――って人がいても知らないけど。
 


 ■「絶えざる戦争の世界」に「平和」は可能か?

 もちろん「絶えざる戦争の世界」だからといって、人類絶滅まで戦争をつづけるように運命づけられているのかというと、それはよくわからない。

 ソードたちの「究極の敵」はそう考えたようだ。これまでは「絶えざる戦争の世界」でもそれが人類滅亡にまでいたらずにすんだ。しかし、いまの時代にはそれではだめなのではないか。技術がこんなに進歩したのだから、世界を「絶えざる戦争の世界」として放置しておけば、ちょっとしたまちがいが世界滅亡につながるかも知れない。このゲームのある登場人物のそんな危機感を、私たちは妄想として片づけることなどできない。ましてや、私たちの頭上を狙っている「核兵器」というやつは、一つの都市を破壊しておきながらたった5人のパーティーの集中攻撃にやられるほどロマンチックな兵器ではないのだ。

 だが、ソードは、「絶えざる戦争の世界」には――いや、その「絶えざる戦争の世界」にこそ希望があるのだという。わがままで、自分勝手で、全体を見渡す能力を持たない一人ひとりの人間は――そして、そういう人間から構成される、わがままで、自分勝手で、全世界を見渡す能力を持たない一つひとつの利己的な国家は、同時に世界の平和を願っているはずだ。だからこそ、「平和」への希望はあるのだという。

 それは、ゲーム内の論理として見れば、ソードたち「反乱軍」が自分たちの戦いで身を持って体得した原理であった。とくに、ミランダは、争いに満ちた世界に平和を実現するために、「反乱軍」の殺戮に加担してきたのだ。ルーネとアテナの姉妹も、「連邦」が起こした(と二人が考える)「無益な争い」をやめさせるために、という目的で一致して「反乱軍」に加わる。その体験を通して得た確信をソードは語っているのだ。同時に、この「反乱」の殺戮を戦い抜いたのちに「平和」がなければ、ミランダもルーネもアテナもそのやったことが無に帰してしまうことになる。それを無にしないためにも、ソードは、「絶えざる戦争の世界」を構成する人間こそが同時に「平和」を築き得るんだということを主張しなければならない。

 そう、このソードの主張はふたたび「自己満足」だ。人間は「自己満足」に生きる者なんだから平和が実現されるんだという論理自体が、それ以外に根拠を持たない「自己満足」なのである。ソードの論理は、「これまではそうだったかも知れない、だが、これからはそれでは人類の生存はあぶないんだ」という「敵」の論理を反駁し切れていない。

 現実の歴史を見ても、「戦争を終わらせるための戦争」という甘美でロマンチックな設定は、第一次世界大戦でみごとに裏切られた――国際労働運動による世界平和実現の可能性というもうひとつの甘美でロマンチックな設定を巻き添えにして。その第一次大戦の戦争収拾過程は、民族や「国民」のエゴイズムをさらにかき立て、それにさらに新しい正統性を与えすらした(「民族自決」というイデオロギーによって)。

 しかし、では、「究極の敵」が構想したように、強力な世界政府が全世界を管理し、それぞれの民族や個人のエゴイズムを撲滅しつつ生存するのが、世界平和にとって有効な方法なんだろうか?

 この、「冷戦後」の私たちには切実な問題への解答は、ゲームのなかでは示されていない。

 答えを出すのは私たち自身である。




















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