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-- Saint Magical Critique --

第67話

「恐怖! 12日の金曜日」




主なゲストキャラクター



つかれたつかれた ……あんたが言うか!



 いまさら何を言う必要があろう脚本山口宏・演出桜井弘明の黄金コンビの作品であーる山口さんがLDの解説に自分で書いてらっしゃるように「全編、激しい追いかけっこ」がみどころである『チャチャ』ここに極まれりといった作品であーる女の子キャラはメアリーちゃんにいたるまで見せ場があるししいねちゃんはしーねちゃんのすけべーと斉唱されるし至れり尽くせりであってこれ以上私が何を言う必要があろうか

 ま〜じかるぷりんせす〜〜くろずきんちゃ〜ちゃ(アイキャッチです)。

 ――ってなわけで、いたってオーソドックスな『チャチャ』である。テレビでこの話を流しながら抱腹絶倒そのあたりを転げ回っていればよろしい。『チャチャ』のひとつの到達点と言えるだろう。

 山口脚本・桜井演出の話はみんなそうだが女の子キャラの使いかたが絶品だ。キャラクターだけではなく、それを演じる声優さんの特性までちゃんと把握して演出がなされている。お鈴ちゃんとやっこちゃんのどさくさまぎれの会話「水ですーぅ」「あんたが出したんでしょーーっ!」、原作には出ないマリンちゃんの「ほっかむり」、尾鰭をうちわで乾かすマリンちゃんまで配慮が行き届いている。また、「セラヴィー先生の手作り」で目に火が入って「明るい」やっこちゃん(2話)や「ボートで棒・戸」(21話)で「棒戸の図」といったこれまでの話のネタもちゃんと入れられている。やっこちゃんがセラヴィー先生への「押し花」をチャチャの枕投げに妨害される場面では、やっこちゃんが仕返しにチャチャの鼻を「押し鼻」するが、これは、二話でチャチャが「お花」ではなく「お鼻の束」でセラヴィー(とエリザベス)を驚かせたことへのやっこちゃんによる仕返しと見ることもできよう。ともかくこの話について「注目の場面」なんて拾いだしたらきりがない。まさに『チャチャ』職人の職人芸といってもよい出来である。

 また、つぎの山口・桜井作品である七〇話でもそうだが、この話では主な女の子キャラが(男の子キャラも)いつもとはちがう服装で暴れまわるというところもひとつの特徴だ。

 原作とちがうのは、「落とし物」がやっこちゃんのイヤリングではなく、チャチャのブレスレットだということ(スポンサーやプロデューサーが怒らなかったのかしら?)、注意して見ていればどこで落としたかもわかるようになっていることだろう。それにしても、チャチャの新しいアイテムは、『チャチャ』らしい話ほどまともな使われかたをしていないような気がする。66話でも72話でもそうだった。

 「ジェイション」の話をきいて恐怖に駆られ、それがもとで起こった騒動でブレスレットをなくし、そのブレスレットがもとで「ジェイション」じつは口べたのお面マニアの木こりが出現してそれを見てチャチャたちはさらに恐怖に駆られて逃げ回る。逃げるためには、アンモナイトダイナマイトを先生たちの部屋に投げ込んだり、薬を混ぜて爆発させて湖を蒸発させてしまったり、水トンの術と称して秒あたりトン単位の水を噴出させたり、海から堤防を持ってきたり、民家のドアを突き破ったりという、「多少」のめちゃくちゃは「緊急避難」として許容されるであろう、当事者たちの意識としては。そして、逃げ回った結果として、チャチャ・やっこ・マリン・お鈴のやったことは、のちのち「ジェイションのしわざ」として記憶されることになる。じつはチャチャたちこそがジェイションだったのだ!

 ある「恐怖」がもとになって「事件」が起こり、その「事件」がまた「恐怖」感を通して解釈されることで「恐怖」のほんとうらしさはさらに強化される。そして、「恐怖」を避けようとして必死に逃げ回るものが、じつは「恐怖」そのものを補強するのに少なからぬ本質的な役割を果たしているのだ。そうした「恐怖」物語の構造がよく出ていたと思う。
 
 同時に、何か正体不明の恐ろしいものから「必死」で逃げ回るという行為は、当事者たちにはあらゆる「破壊」を正当化するけれども、その行為の外側にいるものにとってはそれはどうやっても正当化できない理解不能な「破壊」以上のなにものでもないという、「テロ」としての「恐怖」の本質も衝いている。相対論の基礎が教えるように、すさまじい速度で運動している者の属している時間と空間は歪んでいるのだ。つまり相対論の世紀はテロの世紀でもあったのだ〜〜!(→補説) 何をわけのわからんことを……。

 それにしても山口脚本の話ってのはなんでこう今日的で政治的なんだろう。五九話は少数民族問題、そしてこの六七話はテロリズムの話である。冷戦後の世界の行方を占うための絶好の作品――それが山口・桜井版の『チャチャ』なのだ! はっはっは……。

 ……冗談です。

 でも、冗談ではありません。

 山口さんは自分の書いた脚本を政治的だと言われるとは思ってもいなかったろう。もしかすると自分はそんな「せーじてき」なものを書いた覚えはないと激怒なさるかも知れない。

 そんなことは百も承知だ。政治的なのは山口さんや桜井さんではなくて、じつは作品を解釈している私である(量子力学的世界観では観察者はもはや現象に無関係な存在ではありえない!)。私が言いたいのは、すぐれた作品は、それを通して鑑賞者自身の住んでいる社会の姿をよりよく見せてくれる鑑になりうるということだ。

 結論は、つぎのとおり。

 ジェイションって、ほんとにこわいですね。

 後のことになるが、すけべなしいねちゃんの武装姿は新選組ソウシくん(『飛べ!イサミ』)を思わせるものがあります。

 あ、知っている人は、このアーティクルの最初の部分は山口宏原作・脚本のラジオドラマ(CD化して発売中)『バウンティ・ソード』のあらすじ紹介ふうに読んでください。知らない人は買ってね――と宣伝しておくことにしよう。

 ちなみに、この『バウンティ・ソード』の主人公の娘フュリスは、7月14日生まれ、血液型O型だそうだが、どうも『チャチャ』のキャストのなかにそういうプロフィールの方がいたような気がしてならない(「何よわざとらしい」と赤土’さんの声で言ってみよう)。

 ところで「餃子が一皿たんない」のがなぜ「かいだん」なのか、わかる人は教えてね。
 教えてね:→WWF編集部





■執筆:清瀬 六朗




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 【補説】

 特殊相対論では空間的に隔たった場所での「同時性」が相対化され、一般相対論では「空間」そのものが重力の影響を受けていると論じられた。このアインシュタインの相対論のもたらした知見の一つの大きな意義は、だれがいつどこから見ても同じニュートン的な「絶対空間」がじつは存在しないということを明らかにしたことだった。

 諸「トンデモ」が執拗に相対性理論を攻撃するのは、相対性理論が「トンデモ」の著者たちにとって「難解」であることのほかに、「絶対空間」が存在しないという発想法が受け入れがたいということがあるのではなかろうか。

 ニュートン的な絶対空間では、空間は空間として存在し、物体は物体としてたんに空間のなかに存在する。そして観察者もその空間のなかに存在する物体の一つにすぎない。まちがっても、空間のなかに存在する物体が空間そのものに影響を与えるなどということはありえない。また、空間の中のどこに視点をとるかによって、空間のなかの物体の見えかたが変わるのは当然だが、それが時間の「見えかた」まで変えるということはありえない。光(光子が伝える電磁相互作用)も、物体を伝わる現象である以上、空間のあり方に従属し、「光の速度」というようなものが空間を従属させることなどけっしてありえない。

 しかし、相対性理論は、そうした、だれにとっても真実の基準であるような「絶対空間」が、じつは都合よく「想定されたもの」にすぎないことを暴露してしまった。

 さらに、相対性理論とともに20世紀を代表する物理学の理論となった量子力学は、こんどは、量子レベルでの物理現象を論じるには「観察者」自身がその現象の確定にかかわらざるを得ないことを明らかにした。

 何人も「客観的な観察者」ではいられない。それが20世紀の科学が私たちに与えてくれた知見である。

 そして、西・中欧を中心とし、西・中欧が理想とする国家体制こそが世界の理想の政治のありかたであるというのが20世紀初頭の政治についての考えかただった。じつはイギリス・フランス・ドイツ・イタリア、それにアメリカ合衆国とそれぞれだいぶ政治のあり方はちがっていたが、しかしたとえばドイツのマックス・ウェーバーの政治論は他の西・中欧諸国をも叙述し得ていた。

 しかし、ロシア革命と、「非西欧」諸国の世界政治への参入が、そうした「政治の絶対空間」のあり方を根本から覆してしまった。

 テロリズムはむかしから存在した。フランス革命にも恐怖政治の時期があったし、19世紀ロシアにもテロリズムは存在した。しかし、「20世紀の世界政治」の開幕、ことに「民族主義」の正統なものとしての登場は、テロリズムの基礎をなす考えかたを大きく変化させてしまった――というべきなのではないだろうか。

 そして、この「20世紀の世界政治」は「少数民族」という問題をも生み出した。「少数民族」はむかしから存在したし、それが「問題」とされてきたのもたしかだが、その「問題」のされかたは、「民族自決」という発想が基礎におかれていたかどうかで大きくちがっている。「20世紀の世界政治」は「民族自決」を発想の基本枠組とした「少数民族」の問題を生み出したのである。

 この点に触れたのが、じつは同じ山口−桜井組の作品である59話なのだ(→59話)。

 なお、非トンデモ正統科学の名誉のために付言しておく。まず、特殊相対性理論は現在ではほぼ疑いを差し挟まれることがなく、すでに古典力学の一部とされている。ところが、一般相対性理論は、水星の近日点移動や日食観測で実証されているとはいえ、万有引力と運動を加えられたことによって感じられる重力(慣性質量っていったっけ?)とが同じものだという「等価原理」が直接に確認されたわけではなく、それを検証する作業がいまでもつづけられている。重力は、他の相互作用にくらべて極端に弱いので、重力を相手とする検証作業はむずかしいものなのだ。相互作用を伝える粒子のうち、存在が発見されていないのは、原子核内部から引き離すことのできないグルーオンをのぞけば重力を伝えるグラビトンだけである。また、量子力学も、考えかたとしては確立しているが、細かい部分ではまだ検証を要する部分があり、じっさいに検証がつづけられているらしい(アインシュタインがその基本的な考えかたを認めようとせずにそれを検証するための思考実験を提案したのは有名な話である)。

 じつは、正統科学が、その基礎となる理論の根本となる部分につねに疑いを持ち続け、それに対する検証をつづけていることは、正統科学がデタラメな科学体系であるという証拠ではなくて、逆に正統科学が科学としての健全さを失っていないということの証明なのである。「トンデモ」科学の研究者やその信奉者の方がたにはその点をよく考えていただきたいと思う。



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