世界史ノート 第10章1節

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第10章 ヨーロッパ主権国家体制の展開

1.重商主義と啓蒙専制主義                  p.188〜 

ア.重商主義

1.<補足>17世紀のヨーロッパ=「a 17世紀の危機 」(テキスト p.185)
 16世紀の経済成長がとまり、凶作、不況、b 人口の停滞 などおこる → ドイツの
 c 三十年戦争 、フランスのd フロンドの乱 、イギリスのe ピューリタン革命 
 ロシアのステンカ=ラージンの反乱、スペインのカタロニアの反乱など、動乱が続く。
2.絶対王政国家の経済政策 a 重商主義  政策 16〜18世紀
 国家(王権)が直接に経済に介入し、富を増大させ、b 官僚制 とc 常備軍 を維持する
 財源とするためにとった経済政策。(自由放任主義の経済政策と対立する概念)
3.その諸形態
 a 重金主義  16世紀のスペイン 金銀の獲得を最大目標とした
 b 貿易差額主義  輸入を抑制し輸出を促進して、貿易収支をよくすることを目指すもの
 c 産業保護主義  輸出を促進するため国内産業を国が保護育成すること
4.英仏の重商主義
 17世紀後半 フランス(ルイ14世時代)の財務総監a コルベール の経済政策
   b 東インド会社 再建・c 特権マニュファクチュア の創設などにみられる。
 18世紀イギリス 革命後、商工業者の発言力強まり国内産業の保護政策がとられる
 →イギリス、フランスとも自国製品の独占的なd 市場 の獲得を目指す →
  e 植民地 獲得競争激しくなる。→18世紀ヨーロッパ 再び成長期となる。 
 

イ.イギリス革命

17世紀のイギリス社会 農村では従来のような領主が没落。代わって成長した階級は、
 ・a ジェントリ(郷紳)  :土着した貴族である大地主。地方から下院議員に選出される
 ・b 独立自営農民(ヨーマン) :一部の富農は毛織物マニュファクチュアを経営。
 都市部では、商工業の発達に伴い、市民層が成長し、自由な経済活動を要求する。
 ジェームズ1世  1603年 スコットランドから入り、a ステュアート朝 を開く。
  スコットランドと同君連合。国王、b 王権神授説  をとなえ、専制政治を展開。
   c 議会 を無視して新税をとりたて、大商人に独占権を与える。 → 議会と対立。
   d 国教会 による統制強化。→カルヴァン派e  ピューリタン  の不満強まる。
  ジェントリ・ヨーマン・商工業者(e ピューリタン が多い)、議会(下院)を支持。
   → 国王による弾圧が強まる。
   →1620年 その北アメリカ移住始まる。ピルグリム=ファーザーズ(後述)
 

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 チャールズ1世    対外戦争の戦費を得るために課税を強行、議会を無視。
  1628年 議会 a 権利の請願 を提出 中心人物 エドワード=コーク
   要点 b 議会の承認なしに課税しないこと・国民を法律によらず逮捕しないことなど  
  →国王、これを無視、議会を閉鎖(〜1640年)
  1639年 c スコットランド の内乱 新教徒の▲d 長老派(プレスビテリアン) 
      が国王の国教会強制に反発し反乱を起こす。
 イギリス革命   の発端  1640年、国王が戦費調達のため議会召集 
   → 議会、課税に反対したので、すぐ解散 = a 短期議会  
  同年、再度議会を召集=b 長期議会  (〜1653年) 国王と議会の対立深まる。
 1941年 議会、国王の国教会強要に対し大抗議文を出し、その宗教政策を批判。
  背景 宗教対立 国王は国教会を強制し、カトリック・ピューリタン・長老派を弾圧。
 ピューリタン革命     1642年
   イ.a 議会派 とロ.b 王党派 の内乱始まる
  イ.ジェントリ・ヨーマンからなるピューリタン各派(東南部に多い)→ 二派に分裂
   c 独立派  :教会の独立を主張 
      ジェントリ・独立自営農・民新興商人   国王との戦いを積極的に進める。
   d 長老派  :長老による教会運営を主張
      商人・保守的ジェントリ。王権に妥協的で立憲王政を主張。
  ロ.b 王党派 =聖職者・特権的大商人・貴族・大地主などの国教会信徒(北西部に多い)
    →  当初はヨークを拠点とした王党派がロンドンを拠点とした議会派より優勢であった。
 
 地図 ピューリタン革命当時のイギリス
 
 オリヴァ=クロムウェル   の活躍 ジェントリ出身。熱心なピューリタンで独立派
  a 鉄騎隊  (Ironsides)を創設 ジェントリ・ヨーマンを中心とし、ピューリタン
    信仰によって結束した軍隊。さらに、▲b 新型軍  (New Model Army)編成
    =鉄騎隊にならって編成された議会軍。
  1645年 ▲c ネースビーの戦い 新型軍が王党派軍を破る。
  1647年 国王、捕らえられる。
 共和制の成立    1649年 国王a チャールズ1世 を処刑。
    b 共和政 (▲c コモンウェルス )樹立
   → 1649〜1660年の約10年はイギリス史上唯一の王のいなかった時期となる。
      絶対王政が倒され、共和政が実現された。
 

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 クロムウェルの政治  
    中産階級を保護(王党派の土地を没収し地主に与える)、貧農や労働者の要求は抑える
      → a 水平派  (土地の均分、普通選挙を要求)を厳しく弾圧。
    b アイルランド とc スコットランド を征服 → bはカトリックが多く、王党派の
   拠点であるとして征服した。大規模な土地の没収を強行し、植民地とする。
  d 重商主義 政策の推進 →1651年 e 航海法 制定(〜1849年)
    =商品の輸出入をイギリス船または産出国の船だけに限定。→f オランダ と対立。
 英蘭戦争    1652年〜54年(第1次) オランダ海軍を破り、制海権を獲得。
    →65〜67(第2次)、72〜74(第3次)。→新大陸のオランダ領を奪う。
  1664年 ニューアムステルダムを占領しa ニューヨーク と改称する。(後出)
※イギリス革命の意義:特権商人の独占権が廃止され、a 資本主義経済の成立 の素地ができる。
 → b 市民革命 としての一面がある。→ アメリカ独立革命、フランス革命を経て
 c 市民社会 の形成へ。
 

ウ.イギリス議会政治の確立

 クロムウェルの独裁  1653年 a 護国卿  に就任、長期議会を解散させる。
     →b 軍事的独裁体制 への不満強まる。1658年 死去、その子リチャードが嗣ぐ。
 王政復古     1660年a チャールズ2世 が即位。(スチュアート朝の復活)
  再びピューリタン弾圧を強化、カトリックを保護したのに対し、議会が反発。
  1673年 b 審査法  制定 :国教会信者以外の者が公職につくのを禁止。
  1679年 c 人身保護法    制定:法によらぬ逮捕・裁判を禁止。→議会活性化。
 政党の成立     1670年代末 議会内に二つの派が生まれる。
   a トーリ党 :一定の王権と国教会を支持。貴族や大地主に多い。
   b ホイッグ党 :議会の権利尊重、王権の制限を主張、商工業者・進歩的貴族に多い。
 名誉革命     a ジェームズ2世  、カトリックと絶対王政の復活を図る。
   1688年 議会の両党が共同し、国王追放を議決、王女b メアリ (新教徒)と
   その夫オランダ総督c ウィレム をオランダから迎える。国王フランスに亡命。
        ※戦闘も、流血もなく、権力の交替が行われたとして、このように言う。
  1689年 議会 d  権利の宣言     Declaration of Rights 決議。
   →e ウィリアム3世 とf メアリ2世 が承認して即位、共同統治となる。
    〃 年12月 議会 g  権利の章典    Bill of Rights を公布。
   = 国民の諸権利が認められ、議会主権にもとづくh 立憲王政 が確立。
    ピューリタン革命と名誉革命をあわせてi イギリス革命  という。
18世紀 イギリス政党政治の展開
 

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 政党政治     の開始 名誉革命ではトーリ党とホイッグ党が連立内閣を組織。
  ウィリアム3世の晩年、a 議会の多数派が内閣を組織する 政治形態となる。
  1707年 b アン女王 の時 イギリス(イングランド)とスコットランドが合併。
   →c 大ブリテン王国(グレートブリテン) の成立。
 責任内閣制    の開始
  1714年 ドイツのハノーヴァー選帝侯をむかえ、a ジョージ1世  即位
   →b ハノーヴァー朝 (現ウィンザー朝)。英語話せず、政務を大臣に任せる。
  1721年 ホイッグ党 c ウォルポール内閣 の成立 〜42年(初代首相)
   d 内閣は議会に対して責任を負う  =責任内閣制となる。
  → イギリス立憲王政の原則=”▲e 国王は君臨すれども統治せず     
   f 参政権  :地主(ジェントリや貴族)など財産を持つものに限られていた。
※産業革命期(18世紀後半)以降、選挙権の拡大要求強まる。

エ.ルイ14世の時代

 ルイ14世   1661年 宰相マザランが死去、親政を始める。絶対王政の典型。
  a 「朕は国家なり」 と自ら述べ、b 太陽王 と言われる。
   c 王権神授説  ボシュエによって理論化された絶対主義の王権の理論。
d ヴェルサイユ宮殿  を建設。  → フランス絶対王政の全盛期を出現。
  財務総監e コルベール  を登用(前出) 重商主義政策を展開。東インド会社再建。
 侵略戦争の展開    17世紀後半 いずれも大きな成果無く終わる。
  a 南ネーデルラント継承戦争 1667〜68  スペイン領ネーデルランドの継承権を主張して出兵
  b オランダ戦争  1672〜78 南ネーデルラント継承戦争の際のオランダの妨害に対する報復
    c ファルツ戦争 1688〜97 ドイツのファルツ選帝侯領継承権を主張して出兵
 ナントの勅令の廃止  1685年 絶対王政の強化をめざす。
    a ユグノー が大量に国外亡命。フランスの産業発展を阻害。
 スペイン継承戦争    1701〜13年 スペイン=ハプスブルク家の断絶に乗じ、
      孫のa フェリペ5世 をスペイン王位につける。オーストリア(ハプスブルク家)
   が反発、イギリス・オランダと連合してフランスと戦う。
   →新大陸でのb イギリス との植民地戦争▲c アン女王戦争 が同時に起きる。
    1713年 d  ユトレヒト条約  ブルボン家のスペイン王位継承認められる。ただし
   フランスとスペインの合併は永久に禁止される。イギリスは海外領土獲得(後述)
1715年 e  ルイ15世 即位 財政悪化 → フランス革命の勃発
 

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オ.プロイセンとオーストリア

1.プロイセン
 プロイセン王国     ホーエンツォレルン家の支配。
  1701年 a スペイン継承戦争 で神聖ローマ皇帝を助け、王国に昇格。
    18世紀前半 2代b フリードリッヒ=ヴィルヘルム1世    財政・行政の整備、
      軍備の増強をはたす。 → c  絶対王政 の基礎を築く。
 オーストリア継承戦争    1740〜48年 
  a フリードリヒ2世(大王 ) 、オーストリアのb マリア=テレジア 
   ハプスブルク家領土を継承することに反対。c シュレジエン を占領。
   プロイセン・d バイエルン公 ・e フランス 対 オーストリア・f イギリス の戦争となる。
    →プロイセン勝利しシュレジェンの領有認められる。→オーストリアのg 外交革命 
 七年戦争   1756年 フリードリヒ大王、外交革命で孤立し、挽回を策す。
      プロイセン・a イギリス 対  オーストリア・b フランス ・c ロシア の戦争となる。
      →1763年 シュレジェンを確保(領土1.5倍に)。列強としての地位を高める。
 啓蒙専制主義    a フリードリヒ大王 はb 「君主は国家第一の僕」 と称し
   啓蒙思想家c ヴォルテール を招く。d 啓蒙専制君主 として、
    信教の自由の承認、産業の育成、司法改革など近代化政策を進める。
    =e 市民層 の成長が十分でないところでf 君主 が上から主導して行った改革。
   その基盤 g ユンカー が農民をh 農奴 的に使役するグーツヘルシャフトを経営。
   → 彼らが軍隊・官僚機構の支配的地位を占める絶対主義的体制。
2.オーストリア
 1699年 a カルロヴィッツ条約 により、オスマン帝国からb ハンガリー を奪回。
 女王マリア=テレジア    1740年 ハプスブルク家の王位を継承(〜80年)。
  a オーストリア継承戦争 (1740〜48)でプロイセンにシュレジェンを奪われる。
  →b 「外交革命」 :長年の対立を解消してc フランス と結ぶ。
  d 七年戦争 (1756〜63)仏・露と結び普と戦う。内政ではe 啓蒙専制主義 をとる。
 ヨーゼフ2世    1765〜90 前王の子。母の政策を継承しプロイセンに対抗。
     啓蒙専制君主として、宗教寛容政策、農奴解放、教育・医療の充実など、
    上からの近代化をはかるが、貴族層の反対で失敗。
     オーストリア=(a  ハプスブルク 家)の領土:▲b 複合民族国家     の状況。
       c チェック人 (ベーメン)、d マジャール人 (ハンガリー)、
    北イタリア、ベルギー  → 皇帝の画一的改革、各民族の反発を受ける。

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カ.バルト海の覇者

ロシア帝国の発展
 ピョートル1世(大帝)   1682〜1725 a ロマノフ朝 のロシア・ツァーリ
    自ら西欧諸国を視察し、b 西欧化政策 を押し進めた。さらに領土拡張進める。
     東方:シベリア経営を推進 → 中国(清王朝)との国境紛争起こる。
           1689年 c ネルチンスク条約 清(d 康煕帝 )と国境を定める。
            デンマーク人▲e ベーリング にカムチャツカ探検を命じる。
      南方:f オスマン帝国 を圧迫して、アゾフ海に進出。
   北方:g 北方戦争 1700〜21年  スウェーデンのh カール12世 即位(15歳)
        → ロシアがポーランド、デンマークと結びスウェーデンを攻撃。
        → スウェーデン(h カール12世 )を破り、ロシアがi バルト海 の覇権獲得。
     1703年 j ペテルブルク (後にレニングラードに改称、現在旧称に戻る)建設。
   →1712年より 首都とされる。(ロシアの西欧化進む。)
 エカチェリーナ2世    1762〜96 ピョートル3世の妃でドイツ生まれ。
      啓蒙専制君主として上からの近代化をはかる。ヴォルテール、ディドロとも交遊。
    1773〜75年 a  プガチョフの農民反乱  を鎮圧 → b 農奴制 を強化。
   南方 黒海方面への進出 オスマン帝国からc クリミア半島 を獲得。1783年。
      東方  1792年 d ラクスマン を日本に派遣。(江戸幕府、交渉拒否)
      西方 1772〜95年 e ポーランド分割 に加わり、領土を拡大。

キ.ポーランド分割

a ポーランド 16世紀後半b ヤゲウォ朝 断絶、c 選挙王制 のもとで貴族の抗争続く
 → 隣接する大国、プロイセン、オーストリア、ロシアが介入し、d ポーランド分割 
 第1回分割    1772年 プロイセン王が提案し、それぞれ領土を奪う。
  a プロイセン(フリードリヒ2世) ・b オーストリア(ヨーゼフ2世)・
  c ロシア(エカチェリーナ2世)  による第1回分割。
      → ポーランドは反発、憲法制定など近代化を試みる。
 第2回分割    1793年 ロシア・プロイセンによる第2回分割
     a フランス革命 が起こり、西欧諸国の関心がポーランドから離れる。
    b コシューシコ ら義勇兵を率いて戦うも、ロシア軍に敗れる。
 第3回分割    1795年 プロイセン・オーストリア・ロシア三国により  
   → ポーランドの残りの国土の分割。→ a ポーランド滅亡  
第1次世界大戦後の独立まで、外国支配のもとにおかれる。
 

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まとめ:18世紀の絶対主義諸国の抗争
 北方戦争  1700年 ロシアのa ピョートル大帝 、バルト海進出をめざす。→
   b ロシア・ポーランド・デンマーク  VS c スウェーデン 
 スペイン継承戦争   1701〜13年 フランスのa ルイ14世 の領土拡大策
   b フランス  VS c オーストリア・イギリス・オランダ・プロイセン  
    新大陸での英仏の植民地戦争(d アン女王戦争 )が同時に起きる。
   1713年 e  ユトレヒト条約  ブルボン家のスペイン王位継承認められる、他。
 オーストリア継承戦争  1740〜48年 プロイセンのa フリードリヒ2世 
      オーストリアのb マリア=テレジア の即位に異議を申し立て、出兵。
   c プロイセン・フランス・バイエルン公国  VS d オーストリア・イギリス 
        新大陸での英仏の植民地戦争(e ジョージ王戦争 )が同時に起きる。
   1756年 オーストリア、フランスと結ぶ = e 外交革命 
 七年戦争    1756〜63年 プロイセンのa フリードリヒ2世 が起こす。
      b  オーストリア・フランス・ロシア  VS c プロイセン・イギリス 
      並行して北米大陸でd フレンチ=インディアン戦争 、インドでe プラッシーの戦い 
    → フベルトゥスベルク条約、パリ条約で終結
 ポーランド分割    1772〜1795年
  a プロイセン・オーストリア・ロシア による分割 → ポーランド国家消滅する。
   → この間、アメリカの独立革命・フランス革命が展開される。(大西洋革命)