2.清代の中国と隣接諸地域 p.159〜
ア.清朝の統治
清の3代順治帝の清軍を率い、山海関を越え、華北にはいる。b 北京 に遷都。
李自成の乱を平定。呉三桂ら漢人武将を雲南・広東・福建に配置しc 藩王 とする。
▼
B
康煕帝(聖祖) 1661〜1722 17世紀後半から18世紀初め 清朝の全盛期
a 台湾 の領有 独自の文化を持つ現地民族が居住。明代から中国福建省からの漢人の移住が増加。
1661年 明の遺臣b 鄭成功 がオランダ人を駆逐。台湾を拠点として清に抵抗。
1683年 清が厳しい海禁政策で鄭氏を討ち、直轄領とする。福建・広東からの移住増える。
c 三藩の乱 の鎮圧 1673〜81年 清朝の三藩撤廃に反発した呉三桂ら漢人武将の反乱。
1681年 鎮圧に成功。清朝の勢力、中国全土に及ぶ。
ロシアの進出を抑え国境を策定、さらにモンゴル、チベットに勢力を伸ばす。(下掲)
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清朝の皇帝:漢民族に対しては歴代王朝と同じ皇帝として、満州人やモンゴル人に対しては遊牧民の
君主として君臨した。平常は北京のc
紫禁城 
で政務を執り、夏は北方の離宮で過ごした。
政治制度:科挙、官制、儒学の振興など明の制度を受け継ぐ。
→ 中央官制の要職の定員をd 満・漢同数 とした。
地方制度:省・道・州(府)・県。省の統治に巡撫を、数省にまたがる統治に総督を派遣。
軍事制度:e 緑営 を設置、漢人で編成。他に、f 八旗 (満州人、モンゴル人、
漢人の三軍で編成)を要地に駐屯させる。
皇帝直属の諮問機関:雍正帝の時、g 軍機処 、を置く。
編纂事業:h 『康煕字典』 ・i 『古今図書集成』 ・j 『四庫全書』
思想・言論では漢民族の民族主義を抑える。
k 文字の獄 :反満・反清的な文字を使う書物を摘発しその作者を厳しく罰した。
→ さかんにl 禁書 を行う。
m 辮髪令 の発布:満州人の習俗を漢人に強要した。それ以外は長髪といわれ禁止。
白蓮教の弾圧:民間信仰は反権力になる恐れが多いとされ、弾圧された。
▼
イ.清朝支配の拡大
→ 黒竜江(アムール川)上流アルグン川と外興安嶺(スタノヴォイ)山脈を国境とする。
西北モンゴルのc ジュンガル (オイラト系部族)を親征して外モンゴルを支配。
→ チベットにも勢力を伸ばす。
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西部国境を策定し、通商規定を設ける。
▼
C
乾隆帝 タリム盆地のジュンガルを滅ぼし東トルキスタンを全域を占領、
a
新疆 とする。→ 清朝の最大領域形成。現在の中国の原型となる。
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1.清の領土統治
それぞれ現地の支配者を存続させ、清朝は監督官を派遣。習慣や宗教には干渉せず。
モンゴルにはモンゴル王侯が、新疆にはウイグル人有力者(ベク)が存続。
2.チベットの場合
a
チベット仏教 :インドから伝来した仏教が、チベット土着のボン教と融合して成立。
→8世紀、吐蕃の国教となる。元の保護を受け、モンゴルにも拡大→明代に次第に堕落。
改革派をa 黄帽派 、旧来の諸教派を一括して紅帽派(紅教)という。
→次第に有力となり、この派の教主がチベットを実質的に支配するようになる。
▼
教主にa ダライ=ラマ の称号を贈る。ダライは大海、ラマは師の意味。
これに次ぐ高僧をパンチェン=ラマ(大学僧)という。ダライ=ラマなどの高僧は転生ラマである
▲b 活仏 とされる。黄帽派は妻帯禁止なので、高僧の後継者は前任者の遺言した方向でその死後
1年以内に生まれた幼児の中から選ばれる。
▼
C
清朝の支配 18世紀 清朝はモンゴル人・チベット人の支持を得るため、
活仏を利用し、チベット仏教を手厚く保護した。チベット文化の中心地 がa
ラサ 。
a歴代ダライ=ラマの宮殿がb
ポタラ宮殿 (口絵32)
→清代のアジア(18世紀半ば)
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ウ.清朝と東アジア
東アジア・東南アジア諸国の多くは宗主国である清朝に朝貢。清朝はa
属国 として扱う。
1.a
朝鮮 支配層 b
両班 を形成。文班と武班。
大地主など特権階級が官僚を独占する。→16世紀後半、両班による
党争が激しくなる。
17世紀前半、清に服属したが、正統な中国文化の後継者を自認し、両班層は
2.琉球
17世紀 薩摩のa
島津氏 の武力征服を受ける。中国への朝貢は続き両属の形態となる。
3.日本 a
江戸幕府 、1639年から鎖国政策をとる。
鎖国時代の日本の対外関係
長崎での中国(清)とオランダとの貿易。(和蘭風説書の幕府への提出。)
対馬を通じての朝鮮との関係
→ 将軍代替わりごとを原則とした▲b
朝鮮通信使 の来日。
琉球を通じての中国との関係。
エ.清朝と東南アジア
18世紀の清朝と東南アジア諸国の関係
1.a
ヴェトナム :黎朝南北に分裂。→ 部将の鄭氏と阮氏が争う。
1773年
西山党の乱(地方有力者の反乱) → 1778年
西山朝成立。
1802年 b
阮福映 が西山朝を倒し、
阮朝を建てる。
→フランス人宣教師
ピニョーの支援。 国号を
越南国とする。<第13章2節>
→ 1767年 タイのアユタヤ朝も滅ぼし、一時タイを支配。
オ.清代の社会経済と文化
1.清朝の貿易統制策
三藩の乱鎮圧・台湾占領 → 清朝の支配安定 →a
海禁を解除
→ 海上貿易の活発化
生糸・陶磁器・茶などを輸出し、その代価として銀(
メキシコ銀が増加)が流入。
b
南洋華僑 :福建や広東の人々が貿易相手の東南アジアに移住。(清朝は禁令を発す)
1757年 乾隆帝 交易港をc
広州 1港に限定。
→ d
公行 (特許商人の組合)に交易を独占させる。
2.税制:1711年
盛世滋生人丁 この年以後の増加人丁には丁銀を課税しない。
1717年 e
地丁銀制 康煕帝から実施、雍正帝時代までに全国に普及。
明のf
一条鞭法 を廃止し、丁銀(g
丁税 =人頭税)を地銀(土地税=田畑に
かかる税)にくみこんだ税制。
→ これで古来の人頭税が無くなり、税制が簡素化される。
3.産業の発展 茶、陶磁器、絹織物、綿織物などで、h
工場制手工業 が始まる。
→ そのほか、タバコ・藍・甘蔗・とうもろこし・落花生などの
商品作物の生産増える。
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3.清の文化
要点 1.征服王朝である清朝の支配のもと思想統制が行われたが、制度や官僚は
満州人と漢人が併用され、次第に漢文化に同化していった。
2.儒学では朱子学・陽明学の観念論に代わり実証研究を旨とする考証学が成立。
清末には社会改革を目指す公羊学派が起こる。
3.宮廷文化が栄える一方で、明代に続き庶民文化の発展が続き、白話小説が盛行。
三大小説が生まれたり、京劇が流行したり、現在の中国文化の基礎ができた。
4.キリスト教は典礼問題を機に衰え、宣教師は技術面だけの顧問となる。
儒学 a
考証学 明末清初の混乱の中から、空理空論ではなく実証的な文献研究を重視する
→ 清朝による漢人学者の優遇 → 考証学が多くの学問分野で盛んになる。
乾隆帝時代のc
銭大マ などが活躍。→ 次第に実学としての性格は薄れる。
d
公羊学 乾隆帝時代の後半、考証学に飽きたらず、
経世実用を主張した学派。
『春秋』の「公羊伝」を正当とし、清末に隆盛、改革派の理念となる。
庶民文化 明末に続き発達
戯曲 『長生殿伝奇』、『桃花扇伝奇』など
絵画 南宋画の隆盛 ヨーロッパ風の明暗法・遠近法の採用。
4.宣教師の活動と文化の交流
明末清初 a アダム=シャール (湯若望):明末に徐光啓らと『崇禎暦書』を作成、
清代に入り天文台の長官となる。
康煕帝 b フェルビースト (南懐仁) :暦法改訂、大砲鋳造に活躍、天文台副長官。
c ブーヴェ (白進):中国全図『皇輿全覧図』作成に協力
乾隆帝 d カスティリオーネ (郎世寧):e 円明園 の設計に加わる。
雍正帝の離宮。乾隆帝が増築した中国最初の西洋風建築。
→ 宣教師の活動により、ヨーロッパ文化が中国に紹介されただけでなく、中国の文化や
思想、造園術や建造物の装飾がヨーロッパに影響を与えた※。
▼
a イエズス会 の宣教師が、布教に際して中国の伝統的儀礼(孔子の崇拝、先祖の
祭祀など)を認めたのに対し、他派の宣教師がローマ教皇に告訴した問題。
1704年 教皇クレメンス11世はイエズス派の伝道方法を異端として禁止。
→b 康煕帝 イエズス会以外の典礼を拒否する会派の伝道と入国を禁止。
▼
1724年 a
雍正帝 、キリスト教の布教を禁止する。宣教師の国外追放はせず。
→ そのため、宣教師は学者・芸術家として宮廷で用いられた。
1757年 b
乾隆帝 、外国船の来航をc
広州 1港に制限。
※18世紀 西欧への影響:宣教師によって伝えられた中国文明(儒教・科挙など)は、
貿易によってもたらされた陶磁器・絹織物などとともに、西欧の知識人に東洋への関心を
呼び起こした。 → 中国趣味(d
シノワズリ )の流行。
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