世界史ノート 第8章2節

表示した解答を消去します。 消去した解答を再表示します。 別のウィンドウで表示します。 解答も印刷されます。 


2.清代の中国と隣接諸地域                 p.159〜 

ア.清朝の統治

 清の統一     1644年 明滅亡。明の武将a 呉三桂 、清に降服。
   清の3代順治帝の清軍を率い、山海関を越え、華北にはいる。b 北京 に遷都。
   李自成の乱を平定。呉三桂ら漢人武将を雲南・広東・福建に配置しc 藩王 とする。
 康煕帝(聖祖)    1661〜1722 17世紀後半から18世紀初め 清朝の全盛期
    a 台湾 の領有  独自の文化を持つ現地民族が居住。明代から中国福建省からの漢人の移住が増加。
       1661年 明の遺臣b 鄭成功 がオランダ人を駆逐。台湾を拠点として清に抵抗。
       1683年 清が厳しい海禁政策で鄭氏を討ち、直轄領とする。福建・広東からの移住増える。
   c 三藩の乱 の鎮圧 1673〜81年 清朝の三藩撤廃に反発した呉三桂ら漢人武将の反乱。
   1681年 鎮圧に成功。清朝の勢力、中国全土に及ぶ。
  ロシアの進出を抑え国境を策定、さらにモンゴル、チベットに勢力を伸ばす。(下掲) 
 清朝の全盛期     18世紀 a 雍正帝 (1722〜35) ・b 乾隆帝 (1735〜95)
    清朝の皇帝:漢民族に対しては歴代王朝と同じ皇帝として、満州人やモンゴル人に対しては遊牧民の
   君主として君臨した。平常は北京のc 紫禁城 で政務を執り、夏は北方の離宮で過ごした。
    政治制度:科挙、官制、儒学の振興など明の制度を受け継ぐ。
   → 中央官制の要職の定員をd 満・漢同数  とした。
  地方制度:省・道・州(府)・県。省の統治に巡撫を、数省にまたがる統治に総督を派遣。
    軍事制度:e 緑営  を設置、漢人で編成。他に、f 八旗 (満州人、モンゴル人、
   漢人の三軍で編成)を要地に駐屯させる。
    皇帝直属の諮問機関:雍正帝の時、g 軍機処 、を置く。
    編纂事業:h 『康煕字典』 ・i 『古今図書集成』 ・j 『四庫全書』 
  思想・言論では漢民族の民族主義を抑える。
       k 文字の獄 :反満・反清的な文字を使う書物を摘発しその作者を厳しく罰した。
          → さかんにl 禁書 を行う。
     m 辮髪令 の発布:満州人の習俗を漢人に強要した。それ以外は長髪といわれ禁止。
    白蓮教の弾圧:民間信仰は反権力になる恐れが多いとされ、弾圧された。

イ.清朝支配の拡大

 康煕帝   1689年 ロシア(a ピョートル大帝 )と戦いb ネルチンスク条約 を締結。
         → 黒竜江(アムール川)上流アルグン川と外興安嶺(スタノヴォイ)山脈を国境とする。
   西北モンゴルのc ジュンガル (オイラト系部族)を親征して外モンゴルを支配。
      → チベットにも勢力を伸ばす。
 雍正帝   1727年 a キャフタ条約  ネルチンスク条約で未定であったロシアとの
      西部国境を策定し、通商規定を設ける。
 乾隆帝   タリム盆地のジュンガルを滅ぼし東トルキスタンを全域を占領、
    a 新疆 とする。→ 清朝の最大領域形成。現在の中国の原型となる。
 

−99−


 
1.清の領土統治
  皇帝の直轄領 = 中国内地・東北地方(満州)・台湾
  a 藩部 =b モンゴル ・c 青海 ・d チベット ・e 新疆 →f 理藩院 が統括
   それぞれ現地の支配者を存続させ、清朝は監督官を派遣。習慣や宗教には干渉せず。
    モンゴルにはモンゴル王侯が、新疆にはウイグル人有力者(ベク)が存続。  
2.チベットの場合
 a チベット仏教 :インドから伝来した仏教が、チベット土着のボン教と融合して成立。
  →8世紀、吐蕃の国教となる。元の保護を受け、モンゴルにも拡大→明代に次第に堕落。
 ツォンカパの改革     14世紀末〜15世紀始め 厳しい戒律を設ける。
  改革派をa 黄帽派  、旧来の諸教派を一括して紅帽派(紅教)という。
  →次第に有力となり、この派の教主がチベットを実質的に支配するようになる。
 アルタンの支配   16世紀後半 モンゴルを支配 黄帽派に帰依。
     教主にa ダライ=ラマ  の称号を贈る。ダライは大海、ラマは師の意味。
     これに次ぐ高僧をパンチェン=ラマ(大学僧)という。ダライ=ラマなどの高僧は転生ラマである
   ▲b  活仏  とされる。黄帽派は妻帯禁止なので、高僧の後継者は前任者の遺言した方向でその死後
   1年以内に生まれた幼児の中から選ばれる。
 清朝の支配    18世紀 清朝はモンゴル人・チベット人の支持を得るため、
  活仏を利用し、チベット仏教を手厚く保護した。チベット文化の中心地 がa ラサ 
  a歴代ダライ=ラマの宮殿がb ポタラ宮殿  (口絵32) 

   →清代のアジア(18世紀半ば)

−100−


 

ウ.清朝と東アジア

 東アジア・東南アジア諸国の多くは宗主国である清朝に朝貢。清朝はa 属国 として扱う。
1.a 朝鮮   支配層 b 両班 を形成。文班と武班。
  大地主など特権階級が官僚を独占する。→16世紀後半、両班による党争が激しくなる。 
 17世紀前半、清に服属したが、正統な中国文化の後継者を自認し、両班層は
  c 儒教 の儀礼を厳格に守った。
2.琉球  
 17世紀 薩摩のa 島津氏  の武力征服を受ける。中国への朝貢は続き両属の形態となる。
3.日本  a 江戸幕府 、1639年から鎖国政策をとる。
  鎖国時代の日本の対外関係
   長崎での中国(清)とオランダとの貿易。(和蘭風説書の幕府への提出。)
   対馬を通じての朝鮮との関係
     → 将軍代替わりごとを原則とした▲b 朝鮮通信使 の来日。
   琉球を通じての中国との関係。

エ.清朝と東南アジア

18世紀の清朝と東南アジア諸国の関係
1.a ヴェトナム  :黎朝南北に分裂。→ 部将の鄭氏と阮氏が争う。
  1773年 西山党の乱(地方有力者の反乱) → 1778年 西山朝成立。
  1802年 b 阮福映 が西山朝を倒し、阮朝を建てる。
   →フランス人宣教師ピニョーの支援。 国号を越南国とする。<第13章2節>
2.a ミャンマー  :トゥングー朝 中国人の反乱で滅びる。
  1752年 ビルマ人のアラウンパヤーが統一回復、b コンバウン朝 を建てる。
   → 1767年 タイのアユタヤ朝も滅ぼし、一時タイを支配。
3.a タイ : トンブリー朝のタークシン、独立を回復。
  1782年 b チャクリ (ラーマ1世)、c ラタナコーシン(チャクリ)朝 建国。
   → 都の名からd バンコク 朝ともいう。 → 現在のタイ王室。

オ.清代の社会経済と文化

1.清朝の貿易統制策
 三藩の乱鎮圧・台湾占領 → 清朝の支配安定 →a 海禁を解除 
  → 海上貿易の活発化
  生糸・陶磁器・茶などを輸出し、その代価として銀(メキシコ銀が増加)が流入。
 b 南洋華僑 :福建や広東の人々が貿易相手の東南アジアに移住。(清朝は禁令を発す)
 1757年 乾隆帝 交易港をc 広州  1港に限定。
    → d 公行 (特許商人の組合)に交易を独占させる。
2.税制:1711年 盛世滋生人丁 この年以後の増加人丁には丁銀を課税しない。
 1717年 e 地丁銀制   康煕帝から実施、雍正帝時代までに全国に普及。
  明のf 一条鞭法 を廃止し、丁銀(g 丁税 =人頭税)を地銀(土地税=田畑に
   かかる税)にくみこんだ税制。
  → これで古来の人頭税が無くなり、税制が簡素化される。
3.産業の発展 茶、陶磁器、絹織物、綿織物などで、h 工場制手工業 が始まる。
  → そのほか、タバコ・藍・甘蔗・とうもろこし・落花生などの商品作物の生産増える。 
 

−101−


 
3.清の文化
 要点 1.征服王朝である清朝の支配のもと思想統制が行われたが、制度や官僚は
      満州人と漢人が併用され、次第に漢文化に同化していった。
    2.儒学では朱子学・陽明学の観念論に代わり実証研究を旨とする考証学が成立。
      清末には社会改革を目指す公羊学派が起こる。
    3.宮廷文化が栄える一方で、明代に続き庶民文化の発展が続き、白話小説が盛行。
      三大小説が生まれたり、京劇が流行したり、現在の中国文化の基礎ができた。
    4.キリスト教は典礼問題を機に衰え、宣教師は技術面だけの顧問となる。   
 儒学 a 考証学  明末清初の混乱の中から、空理空論ではなく実証的な文献研究を重視する
   学問が起こる。 b 顧炎武 黄宗羲など。
    → 清朝による漢人学者の優遇 → 考証学が多くの学問分野で盛んになる。
   乾隆帝時代のc 銭大マ などが活躍。→ 次第に実学としての性格は薄れる。
  d 公羊学  乾隆帝時代の後半、考証学に飽きたらず、経世実用を主張した学派。
   『春秋』の「公羊伝」を正当とし、清末に隆盛、改革派の理念となる。
 庶民文化 明末に続き発達
  白話小説 e 『紅楼夢』 、f 『儒林外史』 、g 『聊斎志異』 など。
  戯曲 『長生殿伝奇』、『桃花扇伝奇』など
  絵画 南宋画の隆盛 ヨーロッパ風の明暗法・遠近法の採用。
4.宣教師の活動と文化の交流
 清代の宣教師の活動   
 明末清初 a アダム=シャール (湯若望):明末に徐光啓らと『崇禎暦書』を作成、
        清代に入り天文台の長官となる。
 康煕帝 b フェルビースト (南懐仁) :暦法改訂、大砲鋳造に活躍、天文台副長官。
     c ブーヴェ  (白進):中国全図『皇輿全覧図』作成に協力
 乾隆帝 d カスティリオーネ  (郎世寧):e 円明園  の設計に加わる。
    雍正帝の離宮。乾隆帝が増築した中国最初の西洋風建築。 
  → 宣教師の活動により、ヨーロッパ文化が中国に紹介されただけでなく、中国の文化や
    思想、造園術や建造物の装飾がヨーロッパに影響を与えた※。
 典礼問題   
  a イエズス会  の宣教師が、布教に際して中国の伝統的儀礼(孔子の崇拝、先祖の
  祭祀など)を認めたのに対し、他派の宣教師がローマ教皇に告訴した問題。
   1704年 教皇クレメンス11世はイエズス派の伝道方法を異端として禁止。
   →b 康煕帝 イエズス会以外の典礼を拒否する会派の伝道と入国を禁止。
 キリスト教布教禁止   
  1724年 a 雍正帝 、キリスト教の布教を禁止する。宣教師の国外追放はせず。
   → そのため、宣教師は学者・芸術家として宮廷で用いられた。
  1757年 b 乾隆帝 、外国船の来航をc 広州 1港に制限。
※18世紀 西欧への影響:宣教師によって伝えられた中国文明(儒教・科挙など)は、
 貿易によってもたらされた陶磁器・絹織物などとともに、西欧の知識人に東洋への関心を
 呼び起こした。 → 中国趣味(d シノワズリ )の流行。
 

−102−