Gregorianish-Hiroko  
   

   グレゴリオ聖歌入門   著者 Dom Saulnier   2003年初版   Solesmes
                  訳者  渡辺宏子    2008年初版   サンパウロ



   裏表紙の著者のメッセージ
      ここ1世紀半にわたって、ソレムの修道士達はグレゴリオ聖歌の再生のために努力して
      きました。修道院は典礼そのものの生活の中でそのメロディーを昼夜を通して歌い続けて
      います。 そしてソレムの音楽古文書学の研究室は、中世の写本を継承者として
      学問的な探究をつづけています。この小さな本は、時空を経てなお古びることなく私たちの
      ところにたどり着いた、グレゴリオ聖歌という美しく、精神性に満ちた世界への小道を
      ひらくでしょう。


   序にかえて〜訳者より〜
      この小さな本は、2003年にソレムより出版された『 Le chant gregorien 』 の日本語訳
      であり、ソレムの元合唱長であり、現在、ヴァチカンの教皇庁立宗教音楽大学の
      グレゴリアンの教授である ドム・ソルニエ師によるグレゴリオ聖歌の入門の本である。
      ただし、具体的な歌い方の本ではなく、グレゴリオ聖歌とは何であるか どういう精神の、 
      ものか、典礼との関わり、音楽学的アプローチ、膨大な数の聖歌の種類別の歴史や説明、
      そして現在の研究段階での状況の紹介などが内容である。わが国では、一般的に、
      キリスト教の典礼、また、カトリックに対する理解といったものが、西欧世界よりずっと
      稀薄であるから、読者は途中で少々難渋されるのではないかと危惧するものである。
      とくに第3章、第4章あたりで投げ出されるのではないかと。第1章、第2章のあと、
      第7章にとび、膨大な数のグレゴリオ聖歌のうち、その馴染みぐあいから、6,5,4,3章と
      戻られるほうが良いかとおもう。いずれにしても、師が、本文中でかかれているとおり、
      グレゴリオ聖歌の本当の復興は日々の典礼の中で歌われることで、机上で理屈を
      こねまわことではない。読者の皆様も、小さな歌からでも、実際に祈り、歌う機会をもって
      いただくことが、師の、また訳者の願いでもある。
 




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カトリック新聞の記事と投稿



      



    











 
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 2004 夏   由比ヶ浜教会月報 投稿   
 




教会・音楽・旅 その1

                               渡辺宏子

 さる813日、「由比ガ浜教会グレゴリアンを歌う会」主催で、「聖母の被昇天、前晩」のミサが捧げられました。被昇天のグレゴリアンミサはもう六回目になります。リピーターのお客様も多く、近隣の教会から、東京、遠く八王子や、立川からと熱心なかたがたのご参加は嬉しい限りです。しかし一方で、由比ガ浜教会にも、いまさらラテン語なんて、グレゴリアンなんてと、否定的はお考えをお持ちの方が多いのも現実です。

 15日のミサのあとのお話しで、ピタウ大司教さまが第二バチカン以前のミサの状態について、だれも理解できない言葉でミサがあげられ、会衆は積極的な参加ではなかった、とお話になりました。そうでしょう、ラテン語は日常的につかわれない死語になって、1000年は経つのですから。ただ、キリスト教の典礼は4世紀からずーとラテン語とともにあったのです。今もバチカンの公式文書はラテン語ですし、ピタウ司教様のお話にもあった典礼憲章のなかに、「グレゴリオ聖歌をローマ典礼に固有な歌としてみとめる。したがってこれは、典礼行為において、他の点からは差異がないものとすれば首位を占めるべきものである。」(第六章―116)とあるのも事実です。

 幸い、現在はそれぞれの母国語でミサが進行するのにすっかり私達は慣れました。ですから、少々ラテン語が入ってもその場面の理解は、以前とくらべ容易だと思います。そもそもミサの次第はラテン語のローマ典礼がまずあって、それが各国語になったのですから手順は同じなのです。そして私がミサの式次第を作るときには、すべてのラテン語に日本語をつけます。チンプンカンプンということはないはずです。私が関係するミサでは、原則的に、参会者がきちんと理解しなくてはいけない当日の三つの祈願、朗読は必ず日本語です。叙唱は神父様次第、神父様が歌ってくださるならラテン語ですが、これも必ず訳はつけます。

 パパさまが若者の集りで、クレド(信仰宣言)とパーテルノステル(主の祈り)をラテン語で歌えるかとお聴きになったそうです。ということは、カトリックの共通言語としてラテン語の役割が残されていると、皆様はお思いになりませんか?“普遍の教会”がより普遍であるために、コンピューターの世界とおなじようにカトリック教会の共通言語に英語がなったほうがよいでしょうか?

 歌が歌えないから厭、とおっしゃるかたもいらっしゃるでしょうが、通常唱のうちキリエ、グロリア、サンクトゥス、アニュスデイは、天使ミサなら、由比ガ浜の方たちはお得意ですから問題ないでしょう。そしてこの類は美しい賛歌がまだ沢山あります。とくにcum jubilo (クムユビロ)といわれるマリアさまのお祝い日に歌う通常唱のセットは、みなさまにぜひ知っていただきたいと思います。今年 100年を迎えた名古屋の主税町教会(由比ガ浜とおなじく被昇天のマリアさまに献堂されているそうです。)は先日、司教さまの司式で、cum jubilo でお祝いのミサをささげたそうですし、お隣の大船教会も今年815日はこのミサ曲でなさったようです。グレゴリアンのクレドはニケア・コンスタンチノーブル信条そのものです。

 ミサの固有唱(入祭唱、昇階唱=答唱詩篇、奉納唱、拝領唱)は、たしかにかなり練習をしなくては歌えません。しかし、これらはどれも、それこそ1000年の余も歌い続けられた深い霊性をたたえた聖歌です。聖歌隊の歌をききながら、その文言の訳なり、朗読の個所を黙想していただければと、思います。きっと善い時をすごしていただけると思います。私自身、真剣に受洗を考えてすごした何ヶ月、いつもグレゴリアンがBGMでしたし、グレゴリアンが、最も深く自分の心の奥に到達する助けになったと感じているからです。ですから、聖歌隊はいい加減な歌を歌ってはいけないのです。いつも、神様と聴いてくださる方とをつなぐ「よい糸」になる覚悟が必要です。どうぞ来年はぜひ参加なさってみてください。

 グレゴリオ聖歌とかかわり始めてそろそろ20年になります。「CANTATE DOMINO」というグレゴリアンを専らとするグループを立ち上げて15年、「由比ガ浜教会グレゴリアンを歌う会」が始まって10年になります。私自身修道生活とは無縁でしたし、お教えを乞える方も知りませんでした。まったく手探りでスタートしたのです。東久留米の「グレゴリオの家」の講習をうけたり、八王子の純心のSr.石川(207のミサ曲の作曲者)のところにご無理をいって押しかけたり、、、。いづれにしても、そんな私についてきて一緒に歩んでくれる仲間がいたことが何よりのささえでした。

 そして、1999年、2002年に続き、今年もグレゴリアンの聖地、ソレムの合唱長、ソルニエ師のサマースクールにいってきました。フランス語の講義はいつまでたっても隔靴掻痒といった感じで、自分のすでに勉強した事、解かっている事は、「ああ、あのことだな」とわかるくらいのことですが、沢山の新しい歌、とくに聖務日課で歌う歌は日本では、経験するチャンスがありませんので、それらを歌い、毎日日替わりのグレゴリアンでミサを挙げ、最終日のコンサートにむけて、歌ったり指揮をしたりの毎日は、まったく自分だけのために使える素晴らしい時間です。こういう場面をあたえてくださった神さま、送り出してくれる家人に感謝です。

 講習会の場所は、フォントブロウ(フォンテンブローではありません)という12世紀に建てられた古い大修道院の跡で、今は補修をしながら文化センターとして使われています。ロワールの古城めぐりをした方、多いと思いますが、シノン城の近くで、薬草園にかこまれたそれは美しいところです。アリエノール(1120?~1204)というフランスとイギリス両方の王妃になった人がいます。彼女が晩年女子修道院長をつとめ、代々貴族の女子が修道院長になり、王族の娘たちの寄宿学校でもあったところです。昔の施療院がホテルになっていて、そこで講習生は10日すごします。

 最終日にコンサートをする大聖堂は、今はもう聖堂としては使われていず、それだけになんの飾りもない清清しい巨大な石の構造物で、すばらしい響を持ちます。毎晩、先生方と講習生以外誰もいないその場所で歌う終課は美しいものです。男声と女声が向き合って立ち、いくつかの詩篇を交唱し、最後がサルヴェレジーナです。歌声は誰のためでもなく、ただただ、神様とマリア様への讃美として立ち昇り、石の空間にひろがります。

 講習生はその年によりちがいますが25~30人、半分から2/3 がフランス人、残りは色々な国の人です。アジア人は、いつも私だけでした。日本人一人だけというのは、心細いですが、ひどい英語でも、単語を並べるだけみたいな幼稚な仏語でも、恥も外聞もなく使えますから、また使わなくてはやっていけませんから、それはそれでいいものです。

 講習会のあとにいつも主人と旅をするのですが、長くなりましたのでそれは来月に。

 

 

教会・音楽・旅 その2

                            渡辺宏子

 グレゴリアンの講習会に出かけるときは、いつも一人旅です。ツアーコンダクターの言うまま動けばよい旅行の経験しかなかったのですから、始めての時はそれは心細かったものです。旅の第1夜は必ずパリです。双葉のパリの宿泊所“ニコラ・バレーの家”というところにご厄介になります。教会の山崎さまに教えて頂いて、それ以来いつもそこです。学生が引率されて泊まるような、質素なところですが、セーブルバビロンというとても足場のよいところにあります。機内食でお腹はすいていませんから真ん前のボンマルシェで、果物と一寸したものを買って最初の夕食にしてしまいます。

 翌日はモンパルナスの駅からTGVでルマン(自動車の耐久レースで有名な)までゆき、在来線に乗り換えてサブレーまで。あとはタクシーでソレムにゆきます。講習会の前に3日ほど、ソレムで本物のグレゴリアンを聴くためです。サブレーといえば、鳩サブレーの本家です。豊島屋さんは多分ご存知でしょうが、そもそも、さくさくした焼き菓子を最初に作ったたのがこの町、サブレーなのだそうです。

 ソレムはベネディクト会が19世紀にグレゴリアンの復興をはたしたところなのです。ヨーロッパ各地の修道院に伝わっていたグレゴリアンを集め、研究し、単純な歌としてあまり重きをおかれていなかったものを、ピオ十世の後押しもあり、カトリック教会ローマ典礼の第一の聖歌として復権したところです。現在も、サンピエール修道院の古文書研究所で研究が続けられていて、現在使われているグレゴリオ聖歌集はみなこのソレムの出版物です。

 ソレムにはサントセシールという女子修道会もあります。ミサとかなりの聖務日課を公開していますから、2つの修道院の聖堂を行き来して、グレゴリアンを、変な言葉ですが、聴きまくるのです。修道院というところは、ヌルシアの聖ベネディクト以来、1日に8回、聖務日課として祈りを捧げ(特に今もここは観想修道会ですから)、ミサを少なくとも1回は挙げる、というのは、知識としては知っていても、実際に、格子の向こうでさっき40分くらいお勤めをして、修院に引き揚げたと思ったら、またすぐに、次のお勤めに集り、ただ、ひたすら詩篇を歌い、賛歌を歌い神様に捧げる、それを目の当たりにすると、1500年と言う時空を超えて連綿と継続されている行為を思い、神様の召命の神秘というものに想いがいたります。特にサントセシールのほうは残響が多くて、言葉が聞き取れないのですが、歌っている彼女たちにとって、神様に歌っているのですから、横で、聞いている人間なんていてもいなくても同じなのでしょう。天上的に美しく、祈りに満ちたものを受け取ることが出来ます。サンピエールのほうは、これぞグレゴリアン、これぞラテン語という明確、明瞭なお手本を聴くことが出来ます。

 ソレムでの宿は、サントセシールのシスターのなさっている宿泊所です。旅篭といった風情のアットホームなこれまた簡素な宿です。お安いし女主人のSr.マリアは面白くて、英語が上手ですし、いうことないのですが、ベットがねーー。100年はたったかという、ふかふかの真中が沈むマットで、腰に悪いのです、、、。次回は始めから床に寝ようかと思います。

 講習が始まる日、また電車にのり、アンジェで乗り換えて、ソミュールまで、あとはタクシーでフォントブロウに着くのです。いつもソレムで買いこんだ本や楽譜が重くて、やっこらさの一人旅です。講習会のことは先月書きましたからこれからはその後のことです。

 私の講習が終る頃、主人がやってきて少し旅をするというのがいつものことです。1999年のときはオルレアンで落ち合ってレンタカーで南仏まで走りました。プーランクが「黒い聖母のリタニエ」という女声合唱の名曲を書いていますが、そのリタニエの唱えられていたロカマドールの黒いマリアにお参りしたり、ロートレックの生まれたアルビの町やゴッホのアルル、セザンヌのサントヴィクトワール山なども見にゆきました。また、サンサバンの古い教会、カタリ派の異端騒動で有名なカルカッソンヌ、セナンクの修道院なども訪ねました。レンタカーでのドライブは大変ですが、本当に自分たちの興味のあるものを訪れることはたしかにできます。

 2002年の時は、主人が今度はスイスだ、というので、私は自分の心臓が不具合だなどということを露ほども知らず、標高3000mのあたりを、たっぷりトレッキングなどしました。そのあと2003年のグレゴリアンのフェスティバルにCANTATE DOMINOと参加するための打ち合わせと、ブルージュの古楽フェスティバルを聴くためにベルギーにゆきました。フェスティバルの途中で主人につきあって北海を見にいったオステンドの近くの村で、サンチャゴデコンポステッラ参りの巡礼の出発する教会をみつけました。ちゃんと帆立貝のしるしがついた14世紀の教会でした。

 今回は、主人にフォントブロウを一度見てほしかったので、コンサートの前日に合流してもらいました。1999年には、英語なんてと口を開こうとしない人が殆どだったのですが今回はずいぶん違いました。やはりコンピューター社会になって、否応無しにフランス人も英語になじまざるを得ないのでしょうか、主人と英語で、おしゃべりをしてくれる人がたくさんでした。やはり21世紀の時代の風というものを感じました。

 主人にコンサート(今回は講習生にどちらかというと学者が多く、よい歌い手が少なかったので、私はあっちもこっちもソロやら、ソリやらで大変でした)を聴いてもらい、翌朝、派手な緑色のプジョーのレンタカーで出発しました。もちろんマニュアル、、、。運転も、ナヴィも大変です。出発がロアール中流ですからブルターニュとノルマンディーをまわることになっていました。日本を発つまで、私はひどく忙しくて、旅行の計画は全て、主人にまかせていましたので、なんの予備知識もなしに旅は始まりました。

 まず、ブルターニュのケルト文化の名残りというものを見ました、巨石がならんでいるストーンサークル、また高い塀をめぐらし、なかに聖堂、洗礼堂、鐘楼などがならび、カルヴェールというキリストの一代記をかたる石の彫刻群などを囲い込んだあまりほかの地方では見ない教会をいくつか見ました。カンペールという大きな町ではお祭りの最終日で民族音楽と民族舞踊のフェスティバルに遭遇しました。いろいろな村々から、その村独特のレース飾りの帽子、刺繍のドレス、エプロンの人々が入れ替わり立ち代り登場し,面白いものでした。音楽はバッグパイプとチャルメラのようなけたたましい音のラッパの音の洪水です。ダンスは上半身はほとんど動かさず、複雑なステップで、隊形を色々変化させるものが多く、いま注目のアイルランドのケルティクダンスの原型のようなものがたくさんありました。ブルターニュのケルトとアイルランドのケルトでは、ずいぶん前に分離したのでしょうに、はっきりと同根だということを感じさせるものでした。 

 沢山の観光客で賑わう、サンマロとモンサンミッシェルにも泊まり、観光客にまじって同じように感心したり、驚いたりもしました。

 主人の選んだ今回の旅のテーマの一つは、印象派の画家達のかかわったところを訪ねるというのがあったようで、ポンタベンで、ゴーギャンの“黄色いキリストのある自画像”に画かれた黄色のキリスト像のある教会を訪ねました。その教会もポンタベンという町自体も、とても素敵でした。そこここに日本産のアジサイが美しく咲いていました。モネの“印象・日の出”のオンフルール港の横のホテルにも泊まりました。朝、丁度、日の出をみたのですが、さわやかな夏の朝で、澄み切った空気に中にまっかな太陽があり、モネのもやもやした印象とはまったくちがったあっけらかんとした日の出でした。それよりこの町で印象的だったのはサントカトリーヌという教会でした。お城をつくるのに石を全部使ってしまい、教会はそこいらにいっぱいあったノルマンディーの森の木と船大工の技術でつくったそうで、それはめずらしい木作りの聖堂でした。天井はまったく船底をさかさにしたような形態の大変面白いものでした。その教会の掲示板に朝ミサが山の上の教会である、とあったので、出かけたのですが、かなりの山道で、やっとたどりついたら、ミサは終ってしまっていました。が、上品なおばさまが数人で、静かにロザリオの祈りを唱えていらっしゃいました。ああ、うちの教会の佐藤ご姉妹とロザリオのお仲間みたいだなーと、由比ガ浜を思い出しました。

 エトルタで“ノルマンディーの白い崖”をながめ、“ルーアンの大聖堂”(本当に大きかったです)横のホテルに泊まり、ドライブの最終日は、ジベルニーでモネの睡蓮の池や庭をながめ、オーヴェルスュルオワーズで、ゴッホがゆらゆらと画いた教会を見るというものでした。 8日間で異国を1500キロ走るというのは、初老のカップル(主人はりっぱな中老ですが)にはかなり大変なドライブでしたが、最後の打ち止めの大変はパリ、ルーブルの地下駐車場のハーツに車を返すという大仕事でした。主人が一方通行など綿密に調べていたのですがそれでも大騒動で、返し終わった時には二人とも実際のところへとへとでした。

 最後にパリで2泊。“ニコラ・バレーの家”は夏季休暇中とのことで、サンジェルマンデプレのサンスュルピス教会の隣りのホテルでした。おかげで、土曜日曜と早朝のミサにあずかるのに便利でした。司式、助祭ふくめて5人の司祭とあいましたが、白人は一人、黒人が一人、3人がアジア系でした。参会者もじつに様々な人種で、日本も、いずれこのような時代が来るのかなと考えさせられたミサでした。本当は、ノートルダムの主日のメインのミサにゆきたかったのですが(グレゴリアンを多分歌っていたでしょうから)、主人の旅行計画とドライブの労を多として、最後はオルセー美術館で締めようと思ったのです。いろいろ見てきたものを画家の手をとおしてもう一度眺め、私は久しぶりに大好きな“日傘をさす女”に会いました。

 主人はもう少しゆっくり旅がしたかったようですが、813日や秋の準備がまちかまえており、そうゆっくりもしておられず、都合3週間の旅行でした。全く個人的な旅の印象記を最後までお読みくださった方、感謝です。ありがとうございました。
 WATOU