会社を休んで、お茶の水の眼科まで出かけた。日程変更に伴い、予約も9時から10時半に変わっていた。アテネフランセに通じる道沿いにあり、隣に、母が通っていたかもしれない三楽病院があった。お茶の水は、子どもの頃から何かと縁のある場所だった。小学生のとき、歯の噛み合わせが上下反対の受け口で、矯正のために医科歯科大学に通っていたし、駿台予備校、アテネフランセ、三省堂、古本屋、日販、後楽園球場など、何かにつけ、お茶の水や水道橋でよく乗り降りしていた。 |
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受付を済ませ、ナースに、点眼薬やビタミン剤の名前を告げ、中距離用の眼鏡を渡すと、しばらくして視力検査室に入るよう言われた。かなり広いスペースに電気仕掛けの視力検査表が5、6本あったが、先客が一人いるだけだった。眼鏡を調べながら、ナースが検査用レンズのセッティングなどをしているのを待っているうち、先にいた人も検査を終え、静まりかえった検査室で視力検査を受けていると、何やら賑やかにおじいさんが入ってきて、二つ置いた隣に座った。俺は失明してしまったのかもしれんなあ。もうよく見えないんだ。左眼が。白内障の手術は昔したが、視野のほとんどが欠けちまってさあと喚いていた。目がよく見えなくなると、大きな声を出せば見えてくるような気がして、こんなふうに大声になるのかもしれない。このあと、何かの検査をしては待合室で待ち、また検査をしては待って、その間、二回診察を受け、という具合に式次第は進む。「一日ですべての検査をして診断結果を出します」との謳い文句だったが、これからどんな検査を受けて、どんな診断が下るのだろう、こんなふうに、白衣のナースに右へ左へと導かれていると、迷える子羊になった気分だ。 |
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待合室で、検査のための目薬を差されて目を閉じて待っていたら、長年通っているらしいおばさんやおじさんたちが、わらわらと寄って、ひそひそ話を始めた。「ヒソヒソ…去年の大晦日の、しかも夜にですよ、診察日を変えてくれと電話がありましてね。そうそう、突然でしたよね。橋田先生だったんですが。うちもそうですよ。○○先生、○○先生、橋田先生、と来て、今度は、若い女医さんでしょ。ヒソヒソ…」橋田先生はどこに行ったのか気になるところだが、話が核心に迫るかと思われるころ、診察室に呼ばれて詳細は分からずに終わった。くだんの若い女医さんは、ジャージに白衣を羽織った跳ねっ返りふうで、求められればいくらでも理屈を歯切れ良く説明し続けそうな女性だった。まだ経験は浅いだろうし、縦社会では何かとあるだろうし、経験豊富なナースに見下されることもあるだろうし、理屈が勝つと、信頼はできても、百戦錬磨の強者たちとしては全面的に「目」を預けるわけにはいかないというようなことも出てくるだろう。 |
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明るい診察室に入り、しばらく問診したあと、部屋を暗くして、光をあてて左右の眼を順繰りに覗き込んでいたかと思うと、ちょっと違和感ありますが、眼に直接レンズをあてますと言われ、ぎょっとしてのけぞったら、後ろに控えていたナースに後頭部を押され、額を受ける器具にグイッと押しつけられるやいなや、まぶたがこじあけられ目玉にびたっと何かを押しつけられた。『時計仕掛けのオレンジ』のワンシーンを思い出した。右眼に続いて左眼もとなると、そもそも弱り目でもあるし、ついさっきの経験が邪魔をするのか、右眼ほどスムーズにいかず、少々手間取っていたのは気の毒だったが、条件反射のようにまぶたが閉じてしまうのだから仕方がない。両目をべたりと覗き込まれた後、視野検査をすることになった。 |
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目玉に直接押しつけたレンズにはジェルのようなものが付いていたのだろう、目玉がべとべとしていて、瞬きをするたびに両まぶたがひっつく。点眼薬を差す風にしてナースに洗眼されたあと、眼の周りを拭ったティッシュペーパーに黄色いシミがついた。視野検査室に案内され、暗く、静かな部屋の奥に置かれた視野検査器の前に座ると、別のナースが検査について説明しようとした。やり方は知っているが、目がべとべとしていて気持ち悪い、このままでいいのかと聞くと、洗浄液を取ってきて、普通に瞬きができるくらいまで洗ってくれ、片眼ずつ検査する他方の眼をガーゼで覆い、検査が始まった。検査器そのものは同じではなかったし、検査環境も随分違っていたが、左眼の内側に、点滅する光を捕らえられないところがあるのは同じだった。 |
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また待合室で待っていると、瞳を大きくする「散瞳」について書かれたチラシを渡され、4~6時間、眩しかったり焦点が合わなかったりするから、その間、車を運転してはいけないと説明を受けたあと、瞳孔を開く目薬をした。免許証など持っていないが、そのように言う決まりなのだろう。窓の外に見える、白っぽい壁がまぶしくて正視できなくなってきた。十分に瞳孔が開いているかどうか調べてから、いわば死んだ目で暗がりの検査室まで引っ張っていかれる。眼底写真を撮るためにたかれるフラッシュの眩しさは尋常ではない。条件反射に抗いながらまぶたに力を入れて目を見開いたが、記念写真のように片眼ずつ二枚は撮っただろうか、そのあとで、ちゃんと撮れているかどうか確認すると言われたときには、すべて白状しますと言いたくなった。幸いにもそれ以上「拷問」は続かなかったが。 |
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再び診察室に入ると、それらの検査結果をずらりと並べて、へぇっ、と言ったあと、通常の視野検査に出ている視野欠損の部分と、写真などに見られる視神経が薄くなっているところとが一致するので、確かに緑内障の初期であるときっぱりと診断が下った。眼底写真を近くで見たかったし、医者も見せたそうな様子だったが、まぶしくてライトの下に顔を出して物を見る気になれず、離れたところから医者の手元を眺めていた。緑内障は、大別すると、房水の出口である線維柱帯が徐々に目詰まりして眼圧が上昇する「開放隅角緑内障」と、水晶体と虹彩の触れ合う隅角が狭くなり、線維柱帯がふさがれて、房水の流れが妨げられて眼圧が上昇する「閉塞隅角緑内障」とに分けられ、後者が、併用できる薬の制限が多く、急性の場合には、ある日突然失明するものであるらしい。わたしは、前者の「開放隅角緑内障」で、眼圧は、左眼が「20」、右眼が「21」だった。 |
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他の医者で低眼圧緑内障とされたようだが、治療していてこの数値では正常範囲内とは言えない。もっと眼圧を下げるべきだ。この先のことを考えると、通いやすい所に通い続けたほうがいいだろう。いま処方されている点眼薬は、血の巡りをよくするもので、眼圧を下げることを治療目標にしているなら、そういう薬を処方する意図がいまひとつ分からない。眼圧を下げることを主眼にした点眼薬は一部の人には効かないとは言うが、定期的に検診して眼圧の推移などを見ながら、薬を変えるようなこともあるだろう。ここには数ヶ月後にでもまた来ればいい。今度は、眼圧が高いときに診せたほうがいいわよ。 |
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あらかじめセカンドオピニオンを求めに来たと申告したのが、若い女医に方針を決めさせていたのかもしれない。患者が何を知りたがっているのか、どのように言われたがっているのか。 |
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横浜からお茶の水くんだりまで、予約して通院するのは、手間や負担が大きい。大きな専門医だけあって、広い待合室にかなり患者が待っていて、初診だからやむをえないにしても、10時半の予約で、終わったのが1時だった。今まで、視力検査も視野検査も疲れるので、週日よりも遅めに起きてゆっくりしていられる土曜日に行くようにしてきた。でも、それでは、要支援の認定を受けて、二週に一回ヘルパーさんに掃除をしに来てもらっている父が、その直前に片づけ物をしたりするのと同じことかもしれない。睡眠不足の続いた挙げ句に検査すると眼圧が高目に出るということも分かったし、眼圧を下げるのに有効な薬の名前もちゃんとメモしたし、今度は、普段通りに起きて、目を使ったり幾分睡眠が足りていないような状態で、眼医者に行くことになるだろう。 |
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セカンドオピニオン医に、日頃、コンピュータ画面を見つめてばかりいるから、やはり目を酷使するのはよくないのかと聞くと、実際のところ、原因は分かっていないと言う。子どものころから、指などを使わずに、右眼と左眼が入れ替わりそうなぐらいに力強く寄り目をするのが得意で、それがいけなかったかと尋ねると、それは関係ないだろうと笑われた。「開放隅角緑内障」と断言され、開放型だから「ドリエル」を飲んでもかまわないと太鼓判を押されて、ほっとした。セカンドオピニオンを受けた収穫はこの二点だったと言ってもいい。 |
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眼圧の正常値については、セカンドオピニオン医が、さもありなんというようなことを話した。何をして正常というのか、正常と区分することに意味があるのか、一般的には正常の範囲内であっても、個々人にとっての適正な値というのは個別なのではないか。だから、学説としては「正常眼圧緑内障」と区別はしない方向に向かっているという。 |
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血圧はどうだろう。キリンは血圧が高いという話だ。どうやって測ったのか想像もつかないけれど、キリンが高いなら、頭の大きな人や背の高い人もある程度高血圧のほうがよさそうだ。そう考えると小柄な人が高血圧であるのは辛いかもしれないが、体重40キロもなかった祖母はかなりの高血圧だったが特に治療することもなく94まで生きて老衰で死んだわけだし、無理に血圧を下げると頭に血が巡らなくなる人もいるんじゃなかろうか。長年高血圧の治療を受けているヘビースモーカーの巨頭の持ち主がいるが、巨頭の高血圧にはタバコがよい!という学説は出てこないものか。癌も、癌細胞と正常細胞が密着している以上、切った張ったではなくて、癌細胞を子宮のようなものでくるんでしまって増殖を食い止め、共存するというような道はないのだろうか、などと連想ゲームに拍車がかかる。 |
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晴れ晴れした気分で外に出たが、曇り空なのに横断歩道の白線すらもまぶしくて、慌てて地下に潜った。もちろん、地下街が真っ暗なはずもなく、ただ、自然光よりも人工光のほうが眩しさも和らいだ。昼食を摂ったあと、上野に移動して唐招提寺展を見に行った。駅から展示会場まで、敷き詰められた砂利も壁も空も白いシャツも眩しくて目のやり場がない。常設展には目もくれずに会場に入ると、最初の部屋に、盧舎那仏、梵天・帝釈天像、四天王立像が、その間を人が経巡れるように安置してある。盧舎那仏の右後頭部の螺髪が一部そぎ落とされたように欠けていた。ラテンダンスを踊っているような増長天の腰つきが色っぽかった。より暗いほうへ順路を進むと、通路沿いに障壁画が右に左にと陳列されている。薄い紙に写し取った複製画を背後から光を当てて際立たせているのか、薄暗がりのなかにあるとは言え、まぶしくてしかたがない。人々がいちいち近寄っていってはその案内文や細部を見ているから、著名な画家によるものなのだろうが、いかにも近年の画風と思われ、鑑真のいにしえとはつながらない。まるで東山魁夷の絵みたいで、こんなもの見る目も気もないと、目を伏せながら通路を足早に通り抜けようとするが、障壁画は果てしなく続くようで、いつになったら出口に出られるのかと焦り始める。 |
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ようやく障壁画が途切れて、人だかりのしているところに、ガラスケースに囲われた、鑑真和上像が鎮座していた。背後まで回ることはできなかったが、いつか教科書で見たようなあのお顔がすぐそこにあって、正面から、右斜め前から、左横からと位置を変えてしばらく拝顔した。何の予習もせずに上野駅からここに至るまで、目が見えない、目が見たくもない、と急かされるような思いでいたが、やっととうとう鑑真和上にお目にかかれてほっとした。出口に、修復のための寄付を募っている旨のパンフレットが置かれていた。駅まで戻ると、東京文化会館の前の掲示板だったかに、唐招提寺展で展示されているものがリストアップされていて、その点数の一番多かったのが、東山魁夷による障壁画の複製だった。己の眼力、というか、拒絶感、というかが、不当なものではなかったことを知り、我ながら感心した。 |
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まだまだ外はまぶしいので映画館を探したが、アダルト映画、チャイルド映画、国粋映画のようなものしかなく、喫茶店で新聞を見て、噂だけ聞いていた『パッチギ』を有楽町でやっているのを知り、時間も丁度よかったので、有楽町に移動した。マリオンのなかにあるような大手ではない、目指す映画館がどこにあるのか、駅の駐在に指を差されてそちらを見ても、まぶしさに駐在の言葉が頭に入らない。ビッグカメラのなんて言ってたっけ、と思いながら、案内版を探すと、七階にシネマと見えた。白壁白天井の館内でエレベーターの表示は見つけられず、中央のエスカレーターを上がれるだけ上がったが、思った通り売り場フロアからさらに上は階段を上るようになっている。階段脇の壁にはヤンキー風の高校生のポートレートが張ってあり、この映画についても何の予習もしていなかったので、こんな子たちが出てくる映画を見るのかとやや鼻白みながら、ぎりぎりセーフで席につく。 |
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昭和四十年代の京都、在日朝鮮人と日本人の高校生、喧嘩と喧嘩と喧嘩とフォークソング、そんな舞台設定らしかったが、冒頭から乱闘シーンが多く、汚く、痛そうで、指を御簾にして目の前に垂らしたりして、思わず腰を上げそうになった。だが、眩しい目が幸いして暗い館内に押し止まった甲斐はあった。ロケ地の風物、四コマ漫画的な場面展開、当時の青少年にしては綺麗すぎる顔立ち、人々の機微を語っているようでいて何のオブラートもない単純さ、といった荒っぽさが目についたけれど、喧嘩の痛さや関西弁混じりのハングル、一杯呑み屋や焼肉屋の食い物や天井が低く間口の狭い家屋に住む在日朝鮮人の暮らしぶりなどには実感がこもっていて懐かしい匂いまで漂ってくるようだった。あざとくじわじわと泣かされるのとは違って、ストレートに涙が出た。余計な房水も押し流されたのではなかろうか。 |
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ようやく眼が光に慣れたころ、外は暗くなっていて、昨年から約束していた、遠方から来たあまり酒を飲まない友人たちに上野で会って、同世代の話題らしく、病気の話に花を咲かせて、ホットな緑内障を話題に上せた。帰宅後、早く快復しますようにとメールが入っていて、人の話を聞いてなかったんかい、元通りにはならないの、現状維持、それがどれだけ大変なことか、と部屋の中を見回してため息をついた。 |