かきわりの風景

第二章 承

その数日後、目の自己主張と頭痛がおさまらなくて一睡もできずに夜が明けてしまい、会社を休んで医者に行った。まだ一ヶ月も経っていないと不審気だったが、頭痛は目とは関係ないから、偏頭痛のようなものが続くのであれば脳神経科に診せたほうがいい、点眼を続けて、目薬が朝より夜にしみるのは目を使ったあとだからだろうし、しみない薬もあるが、しみる薬のほうが副作用もないし、しばらく様子を見よう、とにかく、よく眠ること、長時間目を使い続けないこと、でも、眠れないのか、と口ごもったので、精神安定剤、鎮痛剤、睡眠薬、そんなものを出してもらえないかと聞いたら、睡眠薬は眼科では出せないと言う。

町の眼医者や耳鼻咽喉科は、いつも老人や子どもであふれかえっていて、癌治療とは違って、高価な薬や機器を使うこともなく、細々と営んでいるとは思っていた。そのイメージに比べると、通い始めた眼医者は、横顔の端正な、しぐさも物言いもクールな印象で、週に二回は白内障の手術をして、横浜の一等地に眼精疲労センターなるものを併設したビルをどんと建てていて、眼医者事情も変わってきたようだと感慨に耽ったものだが、田舎町の眼医者で不適切な処置をされ大学病院で再治療してもらった人が、あの町医者はヤブだ!と訴えたら、大学病院の眼科医が、大学で一番成績の悪いのが眼医者になるから、と言ったというし、妹が、バセドー氏病の専門医から紹介されて定期的に通っている原宿にビルを構える眼医者で、近頃リンパ腺が腫れているみたいだと訴えたら、眼医者には分からないよぉ、と眼医者に言われたとも言う。

睡眠薬や安定剤の代わりに、ビタミン剤を処方され、眼精疲労センターは、目のケアの仕方などを教えるところだから、しばらく通ってみたらいいと、センターの人手が空いているかどうかを確認してくれた。一年半前、ネットで眼科を探したときに眼精疲労センターとあるのに惹かれたのだが、話が緑内障になってしまってそれきりになっていた。四階に眼医者の受付があり、七階に眼精疲労センターがあって、医者が治療の必要を認め、受付で予約を確認された患者だけが入ることができるようだ。

七階に上がると、入り口からすぐ近くの、アコーディオンカーテンで仕切った部屋に通された。十畳ほどの部屋にマッサージチェアが二つ、仕切を挟んで置いてある。奥のほうに案内されて体を横たえると、下半身にタオルケットがかけられ、日常生活と目のありようについてナースから説明を受ける。説明のあと、部屋の灯りが暗くなり、物憂いBGMが流され、何が始まるのかと思ってドキドキしていると、柄のついた容器を持たされて、目の洗浄をするから目の下に、と言う。水を受ける皿を支える柄を握って目の下にあてがおうとした途端、形も用途もまったく違うのだが、学校での視力検査で持たされた大きなスプーン様のものを思い出して、どこに何をあてたらいいのか迷い、ぐらつく手元にナースの手が添えられた。天井を見るよう言われ、言われる通りに天井を見上げる目に水が注がれる。その直前にティッシュペーパーが差し出され、洗浄後に目元を拭いて持て余していると、洗浄器具を片づけて戻ってきたナースがそっと手を出しティッシュペーパーを取り去る。流れるように段取りが決まっていて、その後のナースのしぐさも言葉も無駄がない。

頭にガーゼをかぶせて、ガーゼを目に移して、椅子の背中に手を入れて肩と首筋を、と、無言のまま肩から上がマッサージされる。背中の後方に、保温庫、タオルケース、シンクなどがあるのだが、扉を開け閉めする音が聞こえ、体を少し起こすよう言われて体を起こすと肩の後ろに大きめなホッカロンのようなものがすっと入る。その温かさに感動していると、目の上にも、と言いながら、温かいタオルが置かれる。足音が右前方に聞こえ、右腕に布様のものをかけて腕や手のひらを指圧し、左前方に移動する気配からまもなく、左腕の指圧が始まる。指圧が終わると、水道から水が流れる音がして、冷たいのに取り替えますと言いながら、目の上に冷たいタオルが置かれ、しばらくそのままに、という声が聞こえて、闇と音楽のなかにひとり残される。厳かな無言劇のように30分が過ぎた。そのうち予約をすること自体が面倒になるかもしれないが、横顔の端正な眼医者に通院してケアの必要を認められる限り、一回わずか数百円でゆったりした時間を過ごせそうだから、当面はできるだけ頻繁に通おうと思って、次の週の土曜日に予約をした。

冷凍したり電子レンジで温めたりできるジェルつきの目や腰用のパッドといった、「癒し」グッズが巷にあふれているが、ここでは、湿らせたタオルを温めたり冷やしたりするだけという実にプリミティブなやり方をしている。肩の下に入れたものは、それだけであれほど長く持つとは思えなかったので、その「作り方」を聞いた。タオルを二枚用意して、重ね合わせて水で湿らせる。その絞り加減で、持ちや熱さが違う。適当な大きさに畳んで、スーパーで買い物したときに、肉や魚を入れる、指先が乾燥しているとなかなか口を開けられない薄い半透明の袋に入れて、電子レンジで一分か二分温める。体の下に敷くことで密閉されてしまうので、冷めにくい。布団の中で、肩や腰や足を温めると、とても気持ちがよくて、体がこんなにも冷えているのかと驚かされる。

肩凝りも頭痛も目のかすみも、鶏と卵みたいに、どちらが先か分からない。こんな話を聞いたことがある。血行が悪いから肩が凝るのではない、肩が凝るから血行が悪くなるにすぎず、なぜ肩が凝るのかというと姿勢が悪いからで、マッサージなどで肩凝りが和らいでも、根治にはつながらない、と。とは言うものの、やはり肩が凝ると辛い、頭痛もおさまらないし、目も重い。目が悪いから肩が凝って頭痛になるのかもしれないが、無言ケアに気をよくして、駅前の「てもみん」に行ってみた。「てもみん」なんて馬鹿にしていたが、肩だけ、特に左を中心に30分コースを頼んだら、小柄な女の子が力一杯生きてるふうで好感がもてた。

他日、他の病気で睡眠薬を処方してもらっている友人に睡眠薬は出せないと言われた話をしたら、指示を取り違えて大幅に少な目に服用してきたから売るほどある、少し分けてあげようと、善は急げとばかりに、話を聞いた夜、薬を届けてくれた。お陰で、昼間よく寝すぎて寝そびれる確率の高い日曜日の夜と、目や頭が妙に興奮して寝そびれる確率の高い週半ばの夜と、週に二回、錠剤を半分に割って飲むことにして、それから数週間、寝そびれることもなく、まとまった時間、熟睡できるようになった。

眼精疲労センターと「てもみん」にしばらく通う、二月初旬に再度視野検査をする、眠れぬ夜は眠剤で乗り切るという具合に、当分の見通しが立ったので、昨年の秋から掃除をしたあとのない部屋の中を見回して、妹は私に恩返しをしたいに違いないと思い、電話をして事の次第を話すと、一月中は忙しいから二月初旬の再検査の日に行くという確約を得た。少し間が空いた代わりに、妹は変わった病気の百貨店みたいなところがあるので、ネット情報とともに、色んなツテを辿って、セカンドオピニオンや専門医の情報、白内障についての経験談などを、次々にメールで送ってきた。メールを読もうと思っても、ネットサーフィンをして緑内障について調べようと思っても、ディスプレイであれ、印刷であれ、美しくないフォントでぎっしり横書きされた文章を読む気になれない。

一睡もできずに会社を休んで医者に行った日に、友人からメールが届いていて、昨年から懸案の新年会の日取りを決めようという内容だったが、たったいまの状況を曲解されないようにメールに書き綴る「目」の状態ではなく、会ってじかに話したいがその気力も沸いてこない、とは言っても、約束を延ばし延ばしにせざるをえないことを伝えておきたい、でも、濃密なメールのやり取りはできそうになかった。ばあちゃんのホームページを通してメル友になった人たちとも、ぽつんぽつんとではあるけれど、ばあちゃんの故郷や老いなどをテーマにしたメールをやり取りしてきたが、そういった「濃い」メールに返事を書く気にもなれない。中島敦の「文字禍」ではないが、文字の線が一本ずつゆらゆらと蠢きだすようで、視界が散漫になり、言葉の意味に集中できず、内容が頭に入らない。職場では大袈裟なまでに言い立てて、できるだけプリントアウトした紙の上で仕事をし、まとまった入力は人に任せるような段取りを整えてもらうようにして、始めてしまったメイリングリストへの書き込みは、まずノートに書きためてからにすることにし、ディスプレイに長時間向かうのを極力控えるようにした。

次の週の土曜日に、眼精疲労センターのあと、てもみんに行き、てもみん独特の前のめりにもたれる椅子ではなくて、ベッドで上半身だけマッサージしてもらうことにした。元金融関係のプログラマーだったという華奢な女性だったが、もみほぐすテンポや強さと途切れなく語りかける低めな声とが心地いい。金融関係のプログラムを組んでいたとなれば女工哀史の世界に他ならず、システム全体の歯車の一枚としてコンピュータの一部と化す仕事とはすっぱり縁を切って、いまは心も体も快調だと言う。この業界に、若い人がオリジナリティを持って育つ環境はなかなかないが、私がいる職場はそうだよと言ったら、いいなぁステキだなぁと褒めてくれた。女工哀史的環境ではなくても、朝から晩までパソコンにへばりついていたら、やっぱり肩は凝る、目もかすむ、頭痛も絶えないわけで、凝りがひどすぎると言いながら、どんなわけでそうなるのか、どこがどう痛いのか、ツボをよくおさえていた。

とても天気のいい日だったので、横浜を歩き回る気になって、直線距離にして家まで3キロほどのところを、二回山越えをして、三時間かけて歩いて帰った。思いがけない所に思いがけない物があったりして、帰ってから勇んで横浜見聞記を書いた。まとめて文章を書いたのは久しぶりだった。その一週間後にてもみんに行くと、指名でスケジュールの埋まっている店長が、30分コースを申し込んだので手の空いたところを埋めるのにちょうどよかったのだろう、上半身を中心にボディケアを頼んだのに、つい腰まで手がいってしまった、これは相当凝っている、揉み甲斐がある、今度は50分コースにしてほしい、と商売上手に囁いた。

こんな具合に、毎週土曜日は「ケアの日」になった。一月最後の月曜日、妹からの情報をもとにネットで調べて、お茶の水にある、セカンドオピニオンも受け付けると謳った緑内障センターを併設する眼科医に予約をした。盛況らしく、二月の半ば過ぎに予約が取れた。昨年の秋、大学の同窓会で会った人が、年明けまもなく当日の写真を送ってくれたが、返事をしそびれていて、やっと返事のハガキを書いた勢いで、メイリングリストに書き込むための下書きもノートに書き殴り、あとで、一気に入力した。「緑内障とは」で始まる文章も綴り始め、眼医者で貰ったパンフレットなどをじっくり読むようにもなった。

緑内障も、白内障と同じように老化現象のひとつである。角膜と水晶体の間は、水晶体に栄養を与える「房水」と呼ばれる液体で満たされていて、不要になった房水はシュレム管なるものから排出されるが、房水の生産が増えすぎたり、排出がうまくいかなかったりすると、眼圧が上がり、目玉の内奥にある視神経細胞が死滅して、徐々に視野が欠け、最悪の場合は失明することになる。ちなみに、母の詩にある「硝子体」は水晶体の後部、眼球の大部分を満たしているジェル状のもので、目の形状を保ち、入ってくる光を屈折させる働きをもつ。

15年前に発表された、40代以上の30人に一人は緑内障で、そのうち八割は緑内障であることに気づいていない潜在患者だという統計がある。何人を対象にして潜在患者を探り当てたのか、「統計」の不思議に目くらましを喰らっているような気もするし、この15年の、テレビ、パソコン、ゲーム、携帯電話などの普及ぶりからすると、潜在患者の率はもっと高まっているようにも思われる。緑内障は中途失明の原因の上位を占め、年に2000人失明しているとも言われるが、そうした統計結果が周知されず、遺伝などで片づけられがちなのはなぜなのだろうか。

一般によく知られている白内障が、目玉の表側が徐々に白濁し、昨今では日帰り手術で比較的安全かつ簡単に改善され、「今まですりガラスを通して物を見ていたのか、世の中がこんなにくっきり美しいなんて!」と、コペ転的展開を見せるのに対して、緑内障は、視神経細胞に支障が起こるのだから、脳神経外科の分野とも言うべきもので、放置しておくとかなり悲劇的な結末を迎えるものの、一介の眼医者には容易に手をつけられず、患者の生活習慣の改善ならびに日々欠かさぬ点眼を主たる治療とするしかない。慢性的に症状が進んでいると、人間ドックなどで特別に視野検査を申し込んだりしない限り発見されにくい。急性の場合は、発症したときにはもう時既に遅く失明していかねない。こうした事情から、遺伝的要素が強いなどとして一般の目からは遠ざけられ、ここ10年ほど、白内障ばかりがクローズアップされ、白内障の権威と知られる眼医者は大きく綺麗なビルを建てられるという仕組みになっているのではないか。

このようなことを考えるうちに、癌医療が何かと脚光を浴びる理由もおぼろげながら分かってきた。風邪や各種成人病や原因不明の難病やおいそれと手を出せない人体の構造に関わる部位の罹患とは違って、発生のメカニズムも要因も何も分かっていないながら、目に見える形で癌細胞なるものがある。それをターゲットにして、特に西洋医学では、いかに攻撃を加えるか、ダメージを与えるか、患部だけを切り取るかだけを考えて、治療法や薬や手術を験せば験すほど、医療関係者が儲かるという仕組みになっているからではないだろうか。

閑話休題。

眼圧の正常範囲は10~21mmHgと言われ、正常範囲内であっても緑内障になる人が欧米に比べて日本人には多く、全緑内障患者のなかの六割を占めるという調査結果もある。急性の場合は、それまで視野欠損などなかったにも関わらず、ある日、突然、失明することもあるというが、視神経の束が、上昇した眼圧を均等に受けて同時に死滅するのだろうか。症状の種類によっては手術もあるが、多くの場合、日々点眼をして眼圧の上昇をおさえることによって、視神経細胞の死滅を防ぐのが主たる治療となる。

「眼圧」というのが正式な専門用語で、正常値もあって、その高低が緑内障に深く関係していると知って驚いた。「眼圧検査」なるものは実際に何度かしているが、視力とは違い自分の数値を知らない。若い頃、暗がりで本を読んだり、何本も立て続けに洋画を見たり、徹夜で細かいモノを見る作業をしたりしたとき、目玉が飛び出しそうな、目玉がぱんぱんに張っているような気がして、眼圧が上がった!なんて言うと、眼圧って何?そんなの測ったことあるの?測れるの?どういうこと?などと友人と言い合っては、眼圧という言葉そのものについて、実感に乏しい、素人の気分的な造語だと思っていた。今まで、眼鏡を作るためと結膜炎以外、眼医者に通ったことがなく、子どもの頃は、空気のかたまりを目の表面にあてる眼圧検査、気球が真ん中に写っている風景写真を見せられる何かの検査、電気仕掛けの視力検査などなかったはずだ。

空気を吹きつけてその弾みぐあいで「圧」を測るのか、目玉や水晶体の大きさには個人差があるだろうに、実際のところ「眼圧」とはどういうことかと思って、部屋の掃除を妹に任せて視野の再検査に行った日に医者に聞いたら、眼の硬さだという。気分としては「眼の張り具合」というようなことだろうか。一ヶ月点眼するなどのケアをして、現在の数値は、左眼が「17」になり、ケアをしていないが今のところ視野欠損の兆しのない右眼は「19」だそうで、薬効を期待して左眼の値が「15」になるのを目標にしたいと言う。

前回の診察では、まだ緑内障とは断定できないが、と言っていたのに、診察前の検査でナースからナースに手渡されたカルテには、既に低眼圧緑内障という赤いスタンプが押されていた。一年半前、先月、今回と検査結果を見比べながら、「視野が欠けたりしますか、なんてそんなのは日常分からないね」などと、クールな雰囲気に似合わぬ頼りないことを言う。医者の口からは緑内障だとはっきり言われていないような気がするが、それも今度お茶の水の眼科に行けば分かることだし、場合によっては、眼医者を乗り換えてもいい、とにかく点眼さえ続ければいいのだ、そう思いながら、七階で三度目の無言劇ケアを受けたあと、てもみんに寄って、店長に勧められたように50分コースを頼んだが、経験の浅そうな揉み手で、金や時間を損したような気がした。

この日は誕生日で、その翌日、誕生祝いをしたいと言ってきた父と三人で、したたか飲んだ。週明けの火曜日にも、四年近い付き合いになるのにまだ一度も飲んだことがなかった取引先の人たちと、したたか飲んだ。風邪やインフルエンザが職場に蔓延し始めていたが、芯のところが緊張していたのか、寝込むようなことにはならなかった。むしろ、眠れない夜に眠れなくなった。というのも、睡眠薬を医者で出してもらえないなら、老人の多くは、なんだかんだとその種の薬を処方してもらっているようなので、父や両親の友人たちからも少しずつ分けてもらおうと思っていたが、市販の導眠剤「ドリエル」があることに気づき、買って帰ると、緑内障の人は医者に相談すること、と注意書きがされていて、それ以降、お茶の水の眼科に行くまでは、友人にもらった眠剤もドリエルも控えることにしたからだ。

眠れぬ夜には、もし失明したらどうなるだろう、そんなことになる前に、パソコンもテレビも携帯電話もプレステ2も、全部捨ててしまおうかなど悶々としはじめた。昨年秋から読書をしなくなっていたが、何かを書く気力も、人と語らう気分も、どこかに出かける弾みもなかろうが、通勤電車のなか、トイレや風呂のなか、寝床のなかまで本を持ち込み、つい夜が明けてしまうことなど、珍しくもなかったし、眠れないなら、深夜映画やビデオを見たり、ゲームでもしていれば、そのうち眠くなるし、少々の寝不足も、なんてことないと思ってきた。でも、目を使わないようにして闇の中にいるだけでは、妄想が駆けめぐるばかりで睡魔はなかなか襲ってこない。受験生時代は「ながら族」だったし、20代の頃は、モーツァルトのレクイエムやバッハのマタイ受難曲を睡眠薬代わりにしていたものの、ラジオもCDもほとんど聞かなくなって久しい。暇つぶしに目が使えないというのは、かなり退屈で、休日など、散歩をしたり料理をしたりするだけでは、暇を持て余す。朦朧としたまま会社に行って、いかに仕事が佳境に入っていようが、パソコンがなくては仕事にならないような職場でこの先やっていける自信もない。

お茶の水の眼科から予約日の一週間前に電話があった。担当医の都合が悪くなったので、日を変えてくれと言う。担当医も何も初診なのだが、日を変えろと言うなら変えざるをえない。その翌日なら時間を取れるが、すごく混み合うがいいか、その日がダメなら三月にずれ込むと言う。混み合うがいいかも何も、三月まで不眠の夜を過ごしたくなかったので、混み合うとはどういうことか、検査が雑になるのかと思って聞くと、待ち時間が長くなると言われて、翌日の変更を了解した。最初に電話で予約したとき、朝9時からだが大丈夫かと聞かれて、頑張ります!と答えたら笑ってくれた、と妹に携帯メールで伝えると、受付が明るいというのは、ほぼいい医者だと言っていい、V!と返事を送ってきたが、いよいよ風雲急を告げるのか。その週末にお茶の水に行くことになっていた週の月曜日に、久しぶりに職場に顔を出した、古くからの友人でもあり、仕事での付き合いもある人を交えて飲みに行ったが、寝不足と暗雲の予感に意気が上がらない。

そう言えば、このあいだの診察では、医者が、話をする途中で、傍らに置いてあったスタバかどこかのコーヒーカップを口に寄せたりして、あれは、緊張で喉が渇いていたのではないかと思いつくや、珍妙な妄想は止まらない。一年半前に既にその兆しはあったのに、いまごろ治療を始めてももう手遅れだ、緑内障末期だ、誤診だ、訴えられるぞ、なんて思ってたんじゃないか。そうだ、症状の程度も先の見通しもパンフレットに書かれているような種類もはっきりと言わなかったのは、命とられるわけじゃないが、致「明」的なことになっているんじゃないか。でも、左眼の内側の一部分だけがグレイになっていただけで、右眼にはなんの兆しもなく、検査している最中にも、左眼の違和感を感じただけだ。もしかすると、あの医者は、白内障の権威ではあるようだが、水晶体にメスを入れる器用さは持っていても、緑内障にはあまり詳しくないのかもしれない。眼精疲労センターでは、30分無言劇ケアのほかに鍼灸治療もしているらしく、補聴器の調整もしているようだし、高齢者専門の医者なのではないか。

待合室は二面窓で、水槽や絵を飾ってあり、受付が終わるとさほど待たせずに、入り口にほど近いところで眼圧検査などをする。入り口にドアはなく、大きな部屋が二つに仕切られ、右半分は天井に明かりがなく暗室のようになっていて、手前に背の低いパーティションがあり、右の壁に沿って長いベンチが置かれている。左半分は正反対に明るく、奥の壁に電気仕掛けの視力検査表が二つ取り付けられていて、手前に椅子と荷物置きと検査用の器具が二つずつ置かれている。その後方の席で待っているあいだ、たくさんいるナースが誰一人暇暮らしせずに動き回っているのをぼんやり眺める。視力検査が終わると、必要ならば視野検査をして、その後、「明」から「暗」へと案内され、他の人が診察を受けている背中を見ながら、三つのブースに分かれた診察コーナーの前で、壁際のベンチに腰掛けて順番を待つ。名前を呼ばれてブースの出口に置かれた椅子に座ると、デスクライトだけを灯して左手のデスクに向かって座っている同年配の院長が端正な横顔を見せながら、問診をしたり検査結果を説明したりする。眼を診るためのスライド式の器具が眼の前に引き出され、それらしきところに顎を乗せて額をつけると、双眼鏡のようなものが眼の前に来るよう高さを調整してレンズを通して両眼を診て、器具を元の場所にするすると戻すと、ライトを消して、懐中電灯用のものを眼に当てながら、さらに眼を診る。

初診のとき、最後の会計に至るまで、待ち時間に患者をイライラさせないような、ゆったりとして、かつ、システマチックな動きに感動したし、その後の診察でも、前の人との会話を漏れ聞くと、じいちゃんばあちゃんの訴えに対して、べたべたとしゃべるでもなく、冷たく突き放すでもなく、冷静かつ穏やかに受け答えしている様子にほっとさせられるようなところもあったが、眼の診察には暗闇が必要だとは言え、何もかもが、あくまでも白内障の老人向けに設計されているのではないだろうか。

緑内障の発見に欠かせない視野検査をする老人はほとんどなく、ぽつんと片隅に置かれた検査器の前に座ると、多少の物音や振動は検査には無関係と思うのか、検査するたびに、検査器をセットしたナースが、検査のあいだ、被検者たる私の頭越しに他のナースと話をしたり、カルテに必要なサインでもしているのか、検査器ないしは検査器の置かれた台の上で何か書いたりしていて、視野検査は他の検査と違って検査料が高くつくというのに、緊張感がない。

視力検査にしても、まばたき沢山してください、なんとなくどこが開いているか分かればいいんですよ、言ってみてください、などとしつこく迫られて、見えているんだか勘なんだか記憶なんだか分からないような気分で答えると、はい、いいですよ、では、次、などというふうに進んでいき、見えているのに見えないふりをする人を突き止める方法はなかなかないそうだが、自分の体なんだからいいじゃないか、いや、わざわざそんなことをする人がいるだろうか、あ、そうか老人はそういうことをしたがるから、そういうナース教育が行き届いているのか、などと疑いの芽は膨らむばかりだ。

第二章
第一章
かきわりの風景