かきわりの風景

第一章

この夏、父の友人が亡くなった。旧制高校時代からのつきあいで、特に、母が死んでから、一年に一、二回は「囲碁旅行」に出かけるような間柄だったが、入院して、病状が思わしくないことを父が知ったのは春、それから数ヶ月後の訃報だった。この秋、母の友人が亡くなった。幼稚園からのつきあいで、母の死後は、なんとなく疎遠になっていたが、若い頃は、互いに子どもができる前から夫婦で行き来していた仲で、病床についたその人を父が見舞い、それから数週間後の訃報だった。

いずれも七十代。

二人に、直接、接点はなかったが、いずれも、死の床についてから、自分の死をとことんまで想像して、死後のことまで考えつくしたふうに思われる。幼馴染や友人の見舞いを遠慮し、訃報を友人や知人にすぐに知らせて通夜や葬儀をするといった一切のことを拒み、家人もその遺志を尊重し、父に死の知らせが届いたのは、いずれも亡くなって日が経ってからのことだった。

母は、誰もが意外と思うほどのスピードで唐突に死んだので、自分の死をリアルタイムに見つめる時間はなかっただろうが、死んでしばらくしてから、数年前に書いた日記のなかに、遺書と題された文章があるのを見つけた。その骨子は、先の二人の遺言にとても似ていた。

いまから31年前、中学時代の友人が十五歳で亡くなった。既に小学校高学年で発病していたが、重い病であることを人に悟らせないほど軽やかに笑う彼女と中学二年のときに親しくなり、クラスの分かれた三年の三学期に彼女は何度目かの入院をし、私が高校一年になった春、訃報が届いた。中学から高校にあがる春休みに、人の噂が回り回ってきて彼女の病名を知り、泣いた。病院にいる彼女と電話で話をしたり、手紙をやり取りしたが、ついぞ一度も見舞いに行かなかった。通夜の席で聞いた母上の話によると、痛みでうなされて私の名前を呼んだので、来てもらおうかと尋ねたら、いい、治ってから会うと答えたそうだ。

なぜ見舞いに行かなかったのだろう、なぜ会わないと言ったのだろう、なぜ無理にでも行かせてくれなかったのか、なぜ無理にでも会わせてくれなかったのか。そんなことをずうっと考えている。

自分の死に対する潔い考え方が、いま生きていれば七十代半ばを迎える母に芽生えたのは、いつのことだったか。

母は詩を書いており、一周忌に合わせて遺稿詩集を自費出版したとき、生前ご縁のあった作家や詩人などに追悼文を寄せてもらった。以下、一編の詩「祈る」と、三人の方の追悼の言葉を載せて、この稿を終わりたい。



祈る

一九四五年八月九日 十五歳の肺病やみの私に 未来はなかった 憧れや幼い恋は遠い白い雲となり その日 雲は 巨大な黒いきのこに化けて 紺碧の空を覆うた 火薬工場から 強制送還されたとき 肺は痛くも痒くもなかった 疼くのはこころだけ みんな戦っているのに みんな飢えているのに みんな家に帰りたいのに

敗戦の真夜中 用水路のほとりにうずくまって 私は泣いた あした 何を信じて どうすればよいのか 抗いようもない濁流に押され 葉かげにひっそりと咲いていた菱の 白い小さな花が よるべを失って 流れていった

四十七年経った今も 戦火に追われて逃げまどう人々や 痩せ衰えて お腹ばかり膨らんだ子供たちや 被爆の痛みと悲しみを訴える人々の映像に 胸は疼く 平和は私の肺に似ている 細胞の一部が潰えても 細々と 息を吸ったり吐いたり だからといって 完全に生きてもいないし 死んでもいない

地球の片側では 「今まで生きてきた中でいちばん幸せです」あどけない顔で答える十五歳の 少女の頬に涙があふれ 世界中から集まった選手たちが技を競い 弾け散る花火は かりそめの平和を夜空に描き メロディにあわせて観客の波が揺れ オリンピックは終わった

何がなし こころ弾まない一日の終わりに 暮れなずむ空を仰ぎながら 私は祈る 平安が地球を満たすことができないならば せめて 息絶えることなく どこかで花火が打ち上げられ 力いっぱい生きてきてよかったと 少女に歓びの涙を流させてください



母と同世代の作家の「時代の青あざ」から

私と世代を同じゅうする人間に共通の、どうしようもない後遺症が色濃く翳を落としている。戦争という時代が少年少女の心に残した青いあざを、繁栄のさなかにも黙ってひっそりと保ちつづけていたのだろう。



母より8才年長の、外地で敗戦を迎えた詩人のことばから

(筆者注:この詩人が、多くの詩に特徴的な〈思いやりの抒情〉とも言うべき)抒情を表出する場合、ほとんどいつも、冷静な眼が視つめた周囲の風景なり風俗などが的確に描写されており、抒情と描写のバランスにある美しさ、ある真実の感じられることが印象的である。

こうした詩法を成立させた根底の動機は、やはり敗戦ならびにその直前の切実な体験を語った散文詩「祈る」あたりに強く感じられるようだ。そこでは、原爆の巨大な茸雲が空に見えた日、詩人は肺患のために火薬工場から強制送還されるが、「疼くのはこころだけ みんな戦っているのに みんな飢えているのに みんな家に帰りたいのに」としか思わないのである。



戦後生まれの友人のことばから

存在そのものが根源的にもつ「悲しみ」のようなもの、様々な文脈では「存在」とか「孤独」とか、時には「原罪」とか呼ばれるもの、あるいは「背負い水」とか「眼の奥に広がる海」とか喩えられたりするもの、そこから世界を見つめた時にもたらされる、どうしようもない慈しみのような感覚、それを抒情と言ってもいいのですが、その感覚が通奏低音のように、静かに響いているのを感じます。

それは決して湿った音ではなく、むしろ明るく、また程良く乾いていて、まるで静かな諦念のようにひとを励ます性質のものです。

(筆者注:「祈る」三連目の「平和」についての喩えは)「平和」のみならず、私たちの魂の比喩ではないでしょうか。




第二章
かきわりの風景