『アーサー・ビナード講演』角筈ホール 2017.9.9

今日は、重陽の節句ですね。

フロリダは原発だらけだと日本のメディアは言わない。テレビは家にないけれど、そんな話、聞きましたか?聞いてないでしょ。

ターキーポイントとセントルーシーにある原発のうち、四基が稼働している。前回のテキサスのハリケーンでも、サウステキサスプロジェクトという原発はあったけれど、今回のハリケーンは速い。とても心配。日本では言わないけれど、フロリダパワーアンドライト社は、原発を止めると発表してシャットダウンの準備中です。ハリケーンに直撃されたら、シャットダウンしても間に合わないけどね。

そんなことも知らずに、いつものように生活している。今朝も、住んでいる熊野町の神社で秋祭りをやってて、通り過ぎようとしたんだけど、つかまっちゃった。知ってる人がいっぱいいて、声かけてくるの。子ども神輿っていうのがあってね、四歳ぐらいの子が担いでると、それはもう可愛くてね。だから、電車では間に合わなくなってタクシーに乗ったんだけれど、ギリギリになってしまって、遅れました。

内閣府が世論調査したんだけど、そうだ、ここでも聞いてみよう。「今の生活に満足していますか?」そうだという人、手を挙げて!そうかぁ、欲がなければ、ハードルは下がるよねぇ。そうそう、でも、今の政治には満足してないでしょ?今の生活という漠然とした言い方、満足とはどういうことか、対象や定義が曖昧な質問をして、なんと、73パーセントが満足と答え、日本人の満足度は過去最高である、と、内閣府の世論調査で結論づけているんだよね。カンフル剤みたいなもの。

この頃、ヨーロッパの名言を思い出します。”Let them eat cake.”誰のいつ頃の言葉か、みなさんご存じですよね。そうです、1700年代、 マリー・アントワネットが、パン、The Bread of Life、命の糧となるパンがないと民衆が暴動を起こした時に、言った言葉です。「だったら、ケーキを食べればいいじゃん。」このことばは、現在の思考停止を分析するのに役立ちます。天然酵母のパンはなかなか手に入らない。無農薬野菜は高い。本物の砂糖が使われた食品は限られている。だったら、ヤマザキでいいじゃん。ニセモノの砂糖でもいいじゃん。マリー・アントワネットは特権階級なんです。だからこんなことも言う。でも、今や、特権階級でもなんでもない、下々の僕ら自身が、こう言ってるんです。汚染されていない食品も環境もない。だったら、テレビ見てゲームすればいいじゃん。思考停止して現実逃避してる。

最新の山手線、乗りましたか?電子掲示板が、ドアの上に二つあって、右側は、次どこに止まるかとか、路線図とか、駅の案内とか、いま必要な情報が表示される。左側のが酷い、思考停止を促す広告が切れ目なしに流れ続ける。路線図を見てても、ふっと広告に目が吸い寄せられる。コマーシャルがしていることは、”Let them eat cake.”「サラ金ならここ。」「借りすぎたら法律事務所に。」「薄毛と脱毛。」そればかり。そんなに誰もが必要としていることですか。命に関わることですか。原発の作業員を募集している、という広告ならいいんです。現状を考えさせられる糸口になる。そんな広告は、一切ありません。テレビがないから、テレビのある家に行くと、ずーっと見ちゃうんです。

広告と文学の境界線ということを考えます。オーストラリアの二人の作家の絵本『この本をかくして』、岩崎書店から出ています。民族の話と言語について書かれています。”our people”訳に苦心しました。「民族」では、限定的。脈々と続いている、古いつながりを持っている、というほうが強い。

脈々と続いているものが、自分たちの社会を支配しています。教育勅語、暗記している人いますか?いないのかー。じゃあ、「荒馬」を踊ったことありますか?あなたも?あなたの学校でも?青森の今別の踊りですよね。イナゴは?荒馬を踊れるなんて、いいじゃない、軽く2〜300年前の人と繋がるよね。僕も、トーマス・ナッシュと気が合うんだ。

僕は、1990年6月に初来日しました。おばあちゃんは、僕の卒業式を楽しみにしてたんだけど、その頃は池袋にいた。22才か23才の頃。それからずっと日本にいるから、納豆や味噌を食べない日はない。それらのない日を思い出せないほど、日本語や日本文化に漬かっている。

民藝の柳宗悦が書いた「光化門」に、教えられるところがあります。当時の朝鮮総督府が、歴史ある景福宮の正門「光化門」を取り壊そうとしたのに反対した文で、「改造」に掲載されています。朝鮮の友に贈る辞、とともに、人々の心を動かしました。

過去の手口を、技術として引き継ぐということを考えます。トルーマンは、原爆について、どんな演説をしたか。「飛行機が落とした。太陽の力が放たれた。」受動態を多用して主語を省いています。原爆ドームに天罰が落とされたかのようです。去年、済州島に行きました。四三事件について学んできました。

去年の五月二十七日。オバマが広島に来ました。オバマの演説はトルーマンを引き継ぎ、さらに悪質になっていました。原爆で第二次大戦を終えた、という定説が揺らぎ始めた、その定説のリブートです。同時通訳をしたことを悔やんでいます。そのまま通訳しないでもよかったのですが、詩人として、その人の言葉をちゃんと伝えたい、デタラメは言えない。”death fell from the sky”直訳すると、「死が空から降ってきた。」ですが、死では抽象的なので、死神と訳しました。「空から死神が舞い降り、世界は一変した。」

マヤカシの技術が、脈々と引き継がれています。神話が劣化してきたので、再起動するために、おたんこなすでアンポンタンの日本人に、そのような言葉で語ったのです。米政府の下請けをやっている永田町にも、同じ穴のムジナの松井広島市長にも、受動態症候群は受け継がれています。「広島の空に”絶対悪”が放たれ、立ち昇ったきのこ雲の下で何が起こったかを、思い浮かべてみませんか。」

かっこつきの絶対悪、絶対悪なーんちゃって、です。意図的に抽象化している。主語が分からない。遠い昔のことだし。自虐的歴史観の例文は、これだよ!こういう演説を聞くたびに、違和感を覚える。違和感を覚えさせられる言葉を浴びせられて、スルーしていると、慣らされていく。

違和感をとことん突き詰めれば、自分の言葉で物語を作るということを考えられるようになります。

安倍も受動態を引き継いでいます。「今から七十二年前の、あの朝、一発の原子爆弾がここ広島に投下され、十数万ともいわれる数多の貴い命が失われました。」アメリカは不在です。「オバマ大統領が、現職の米国大統領として初めて、この地を訪れ、被爆の実相に触れ、核を保有する国々に対して、核兵器のない世界を追求する勇気を持とうと、力強く呼びかけました。」

ああ、そう、学校で、受動態にはby以下が必要だと習いましたか?そういう教育は下々に施される。私たちには、悪質な詐欺はできない。そういうご身分じゃないから。

祖父はアイルランド人でアメリカに移住して、財をなしました。息子である私の父は、僕が十二歳の時に事故で亡くなりました。それからと言うもの、他の兄弟やいとこたちとは違う話を、祖父から聞かされるようになりました。祖父は偏った政治思想を持っていたわけではありません。企業人として、こう言っていました。「戦争は金儲けのためにやる。正義はショーウィンドウの飾り。」

オバマも、ほとぼりが冷めたら、小泉と同じように出てきて、綺麗事を言うでしょう。サミットのあった伊勢志摩から、広島に行く前、岩国にいました。ここでの滞在時間は圧倒的に長いんです。自衛隊を前に長々と演説をして、オスプレイを従えて広島に入った。自分は安全性の高いマリンワンに乗って。

原爆の実相に触れたそうです。七分、平和資料館にいただけで?あっ、そうか、森さんにハグしたのが、実相に触れたということか。「我が国のように核を持っている国々は、恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけません。」七年前のプラハ演説では、アメリカが核なき世界の平和と安全を追求する、と言っています。非核保有国のコスタリカやニュージーランドの首長が言うならいいんです。

言葉の技術。

あんな通訳をしてしまって、償うためにはどれほどのことをしなくてはならないのか。中国地方局のテレビで解説を頼まれ、その時、同時通訳も頼まれてしまいました。オバマの広島訪問は、安部のパールハーバー訪問と差し引きゼロ。安部がどんなに支持率を落としても、改憲するまで安部にやらせるというのが、米政府のスケジュールです。東京オリンピックの2020年までに、日本は憲法という足場を失い、僕も娑婆にいられる保証はありません。

デーブ・バリューというコラムニストが1991年に来日したのは、海部総理の時代でした。自分たちの物語を自分たちで作る営みに関わらなければ、日本の伝統も文化も歴史も政治も形骸化してしまうだろうと言っています。

実態や仕組み、落とした側の企みを見抜かなければいけない。三歩歩けば追悼碑に当たるくらい、碑があるけれど、その場所で亡くなった方の被爆者名簿しかありません。沖縄の摩文仁に行くと、平和の礎には、誰もの名前が石に刻まれています。なぜ広島に平和の礎を作らないのか。ある身分より上で、広島で被爆した人は、少ない。韓国出身の誰々、日本の何々、など、米国に抵抗しそうな人たちが集められていたのではないか。日米双方にとって厄介な不安の種になるような人々が処分されたのではないか。それが明確にならないように、平和の礎を作らないのではないか。それは陰謀説だと言われるかもしれませんが、定説と言われているものは矛盾だらけです。

知らなかった戦争というテーマで、強く印象に残っているインタビューがあります。真珠湾攻撃に加わるはずだった原田要さんという人の話です。幼稚園を作り、園児に語り続けてきました。「自分の仕事だと思っていたのに、真珠湾攻撃から外され、日本の空母を守るよう命ぜられた。真珠湾に空母はいなかったと、帰ってきた飛行士から聞いた。」自分でも真珠湾の軍備がどうなっていたかを調べたことがあります。まともな空母はなかった。うさんくさい話だと思っていました。

当時も今も、広告に踊らされている。1938年東京五輪返上。1939年永井松三IOC委員。1940年東京五輪も札幌五輪もやりますと大いに宣伝して、直前に辞退。2020年はやらないんじゃないか。1940年方式か、1964年方式か。立ち上がって止めろ!

八丈島には出征軍人健康祈願の碑が、神社の石段の途中にあった。以前はもっとあっちこっちにあったんじゃないでしょうか。それらは、日露戦争の頃に作られたものでした。明治37年から昭和20年のあいだに、変わってしまった。それまでの日本は、一億総玉砕でも何でもなかったのです。権力組織と企業が仕掛けたんです。十年ぐらいのあいだに、そうすりこまれた。

物語を乗っ取られると、そういうことになる。身近な人たちの話を、全く聞いていない。そういうところから物語を拾い集めて、自分たちの物語を作りましょう。


その1
その2
その3
その4
その5


ばあちゃんも生きとるよ
なんでんよか!
還暦記念