と学会の『トンデモ本の世界』・『トンデモ本の逆襲』は広い読者に迎えられたようである――その「迎え」かたはさまざまだったようだが。
この「トンデモ本」シリーズのインパクトをどう考えるべきだろうか?
「トンデモ本」シリーズが描いたさまざまな「トンデモ本」のあり方は現代日本社会のあり方を如実に反映したものである!――なんて書いてみてもなんかパッとしないなあ。
ともかく、ここでは、「トンデモ本」のなかでももっとも目立つ分野である「擬似科学」系のトンデモを主な考察対象にしてみた。だが、「擬似科学」系のトンデモを対象にするということは、トンデモをトンデモたらしめているものとは何か――あるいは「擬似」科学を「擬似」でない科学から区別しているものとは何か、ということに考察の歩を進めるということでなければならない。なければならないかどうか知らないが、まあそういうふうに考えてみよう。
そうして考えてみると、私たちが生活しているこの世界自体を論じているはずの物理学の発想が、じつは私たちが日常感覚で普通に考える発想とはちょっとちがった体系をなしているのに気づくはずだ。そうしたことに起因するカンチガイもトンデモのなかに散見されるようである
その物理学の発想が正当とされるのはなぜか?
そのことをつきつめていくと、けっきょく、それは近代科学と近代民主主義、そして現代科学と大衆民主主義の問題にまでいきつくことになるのである。
この考察は科学的か?
それとも、この考察自体が物理学の問題と政治・社会の問題をごっちゃにしたトンデモなのか?
――判断するのは読者各位である!