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トンデモと科学

―― 『トンデモ本』シリーズに関するある随想 ――


清瀬 六朗



はじめに

 このページは、と学会の活動に倣って「トンデモ本」を発見したりそれを系統づけて紹介したり批判したりということを目的にしたものではない。ここでの興味の対象は「トンデモ本」とされた本そのものではない。何がそうした本をこんなにも流布させているのか――その社会的・思想的背景に興味があって考察をめぐらしたのがこのページの文章である。

 あえて言えば「トンデモ本」そのものではなく、と学会の描く「トンデモ本」というもののあり方に興味があるのだ。だから「トンデモ本」とされた本はこれを書くにあたって一冊も読んでいない。

 「トンデモ本」の内容についてはと学会が発表したものに全面的に依拠している。と学会に「トンデモ本」と決めつけられた著書の作者や信奉者の方がたからは「本そのものを読まずにヒハンしている」とヒハンされるかもしれない。だが、繰り返すが、私が興味を感じているのは「と学会が記述した「トンデモ本」という現象」についてなのである。と学会が書いていることに対して批判があるのであれば、このページの作者ではなく、ぜひと学会に対して抗議していただきたい。

 このページの文章は、いわゆる正統科学の発想に依拠して書かれたものであり(というより、そうしたいものだと意識して書いたものであり)、「トンデモ」とされた著者の方がたとはちがった発想の基盤に立って書かれたものである。しかし、「トンデモ」の発想を「理解不能」のものとして、「世の中にはおかしな人たちがいる」というだけで切り捨てるという態度はとっていないはずである(と学会だってそんな立場はとっていないはずだが)。

 これまでの人生に「トンデモ」に属する本はたくさん読んだ。「トンデモ本」の古典である五島勉の『ノストラダムスの大予言』など私に大きな影響を与えた一冊であるといまでも思っている。

 私はどうして「トンデモ」とされる発想が正当に出てくるのかということを明らかにしたいというアプローチで臨んだつもりである。ご理解をお願いしたい次第である。

 なお、「トンデモ」にもいろいろあるが、ここにとりあげるのはいわゆる「擬似科学」系の「トンデモ」が中心である。

 



1.力学人生ボケラッタ

 


物理学はなぜむずかしいか?
 物理学というのはほんとにむずかしい。

 数式がたくさん出てきてそれをいちいち覚えるのはひじょうにわずらわしい。ひとつの公式とその意味を覚えて、でちょっと経つとまた教科書には公式が登場する。またそれを覚えなければならない。めんどうだ。でも「物理学のむずかしさ」とはそれだけの話ではないように思う。

 もちろん数式もむずかしい。そこで使っている数式のレベルは、たとえば力学の初歩あたりでは中学レベルであろう。が、加速度の単位なんか「メートル/秒の2乗」である(cgs単位系だと「センチメートル/秒の2乗」だね)。でも「秒」って時間だろ? で、「2乗」は平方ってやつで、面積を測るときに使うやつだろ? 平方メートルとか立方メートルとかいうのがメートルの2乗とか3乗とかいうのはわかる。一辺がそれだけの面積とか体積とかいうのは簡単にイメージできるし、また立体の容器に水を入れてそれの量を「立方メートル」を基本にした単位――「リットル」とか「cc」とかで表現することも日常的にやっている。でも、平坦に流れていく時間の「2乗」――いわば「平方時間」ということになるわけだけど、時間の「平方」っていったいなんだよ? つまりそれは直角に交わる二方向の「時間」によって構成される平面の面積みたいなものだ。でもそれはいったいどんなものだ? 「長さ」が単位になっている面積や体積が容易にイメージできるのに対して、「時間×時間」で表現される「時間の面積」とか言われたってぜんぜんイメージできない。ましてそれがなぜ「加速度」の単位として登場するのか?

 正解はつぎのとおり――ということになろう。速度の単位は「メートル/秒」である。加速度を計算するときにはそれをさらに「秒」の単位で割る。「メートル/秒」をさらに「秒」の単位で割るのだ。「(メートル÷秒)÷秒」を「メートル÷(秒×秒)」と表現しなおして「メートル/秒の2乗」と表現しているのであって、計算上「平方秒」というのが出現したにすぎない。

 でも、計算上出てくるものだったら、普通にはイメージできない「時間の平方」のようなものをそこに書いていいのか、ってな疑問は残る。

 「太郎さんはリンゴを四個買いました。花子さんはリンゴを3個買いました。太郎さんと花子さんのリンゴをあわせるといくつでしょう?」――これを数式で「4+3=7」と表現する。数式というのはリンゴの数とかそういう具体的なものを表現する手段なのではないのか。数式それ自体をいじくっていたらこんなものが出ちゃいました、まぁなんか具体的にはイメージできないけどそれをとりあえず表現してみました――ってなことが許されるのかどうか。数学みたいに数字の世界そのものを扱う分野だったらまだしも、物理学って具体的なモノの運動とか熱とか、そういうのを扱う分野だろ?

 その疑問には、「物理学ではそれが許されることになっている」と答えるしかない。物理学では、数式上、必要とあらば、だれも見たことのない――見ることのできるわけのない「時間の面積」のようなものも、あると想定して話を進める。それが物理学ってもののの考えかたなのだ。

 物理学の数式がむずかしく感じられるのは、あちこちに2乗がついた数式を暗記したり、mが「質量」(これも「重量」とはちがうんだね)でgが重力加速度だとかそういうことを覚えるのがたいへんだという以上のものがあるように思う。数式そのもののややこしさもさることながら、どうしてその数式が速度・加速度・仕事・エネルギー……を記述したものだと言えるのかという理論をたどるのがひと苦労なのである。

 


「力」を考える
 しかも、その理論を構成する物理学の考えかたというのがけっしてわかりやすいものではない。

 こんなことを書くと全国の理科や物理の先生たちから怒られてしまうかも知れないので言い直すと、すくなくとも私たちが日常的な感覚で把握しやすいものではない(これでも怒る?)。でも、といって、私たちの日常からまったくかけはなれた架空世界についての考えかたというのともちがうのだ。想像上の世界で、火の魔物は冷気に弱く、冷気の魔物は火に弱いとか、そういうのとはちがって、物理学は私たちがげんに生きている世界を対象にした学問である。つまり、私たちが、日々接していることを、日々使っていることばで説明する学問だ。ところがその基本となる考えかたは私たちが日々感じているのとはずいぶんちがったものである。そこが物理学のわけのわからなさをさらに増幅させているところだと思う。

 その点を、物理学にとって基本中の基本である「力」とか「運動」とかいう概念を例にとって考えてみよう。

 私たちは、ふつう、どういうときに力を感じるだろうか?

 まず、殴れらたり蹴られたりしたとき――って日常的に殴られたり蹴られたりすることで「力」を感じているとしたら問題だと思うが、自分の体に触れてそれが痛いとかくすぐったいとかそういう感覚を引き起こしたとき、私たちは「力」を感じる、と言っていいだろう。あるいは、自分で歩いたり、ものを持ち上げたりして、筋肉が痛かったり、息が激しくなったりしたときにも、自分は「力」を使っているという自覚が湧いてくる。「力」とは、私たちにとって、まず、自分が感じる身体感覚的なものとしてある。

 また、ラグビーのスクラムとかタックルとか、陸上競技の選手の疾走とか、そういうのを見ていて「力強さ」を感じることもある。そこで感じる「力」というのは、やっぱり、自分がそれと同じようなことをされたら骨の髄からしびれてしまうほど痛いだろうとか、陸上選手が走っているのの半分ぐらいの運動をしただけで自分は息が上がって立つこともできなくなってしまうにちがいないとか、そういう感じかた――いわば身体的な共感を通して理解しているのではないか。しかも、その「力強さ」感には、そのスポーツ選手の人格やこれまでやってきたにちがいない努力に対する敬意のようなものも伴っている。

 これは人間や動物のばあいにかぎらない。たとえば蒸気機関車が長い貨物列車を引いている姿というのには独特の「力強さ」感がある――もういまの日本人にはあんまり実感できない風景になってしまったかも知れないが。客車を引いているSLというのは秩父鉄道とか真岡とか阿蘇とかにあるが、貨車は引かないもんね。で、たとえ電気機関車のほうが牽引力が強くても蒸気機関車が長大貨物列車を引いているののほうがずっと「力」を強く印象づけてくれる。これは蒸気機関車がドラフトとかシリンダの排気とか煙突からドラフトに合わせて吐き出される煙とかいう、見ている者にその「力強さ」を感じさせる要素が強いからである。「あんな重い貨車を引っぱってがんばってるんだな」という感じがよく伝わってくるのである。これも一種の身体的な共感と言っていいように思う。

 人間とか動物とか、人間の作った道具とかではない自然現象だったらどうだろう? 台風の猛威というようなときも、横殴りの雨のなか、風がきつくて傘もさせないで雨粒が頬に痛みを残すほど激しく当たるのを自分で経験しなくても、木をなぎ倒したり、家をぶっ壊したり、屋根瓦を飛ばしたりした跡をニュースで見て、私たちはそのすさまじさを感じることができる。人間が何人がかりでやればあれだけの被害を出すことができるだろう? まさに人間技じゃない――台風とはおそろしい力を持っているものだ、と私たちは感じる。

 こうやって、私たちが、日常、「力」を感じる局面を考えてみると、それは、第一に、私たち自身の肉体の感覚に強く結びついているということが言えると思う。自分が「力」を受けるにしても、自分が「力」を出すにしても、それは、痛いとかくすぐったいとか、筋肉が痛いとか息が弾むとか、そういう肉体そのもので感じる感覚と深く結びついている。そうした上で、その「力」でどれぐらいのことができるかを見積もり、100メートルを何秒で走るとか、何百トンの貨物列車を引っぱるとか、一夜のうちに街路樹を何本も倒したとかいうのを見る。その自分の「力」ではとてもできないことをやったという「実績」を見て、ああ、この人とか機関車とか台風とかにはものすごい「力」があるんだな、と感じるわけである。

 が、その感じかたの基礎となっているのは、やはり自分自身の肉体の感覚のように思える。そういうことが、「力」ということばに独特の生々しさを生んでいるわけだ。

 


物理学での「力」とは?
 では、物理学でいう「力」とはどういうものだろうか?

 たとえば、バッターが打ち上げたボールというのを考えてみる。このボールには、空気抵抗も加わるし、球場に風が吹いていれば風の影響も受ける。だが、そうしたもの以外に、どういう「力」が働いているだろうか? 言いかえれば、空気抵抗や風の影響を考えに入れないとして、ボールにはどんな「力」が働いているのだろうか? ボールが上昇しているときと下に落ちているときとで考えてみよう。さて正解はつぎのどれでしょう?


  1.  ボールが上に上がっているときには上向きの、下に落ちているときには下向きの力が働いている。

  2.  ボールが上に上がっているときも下に落ちているときもつねに上向きと下向きの両方の力が働いているが、上に上がっているときには上向きの力のほうが強く、下に落ちているときには下向きの力のほうが強くなっている。

  3.  つねに下向きの力しか働いていない。


 正解は「3」です。ボールには下向きの地球の重力しか働いていません。

 実際には、ボールが上昇しているときには下向きに、ボールが落ちているときには上向きに、空気抵抗という「力」が働く――が、それはここでは考えに入れない。

 この答えに対して、つぎのような疑問を持たれた方はいらっしゃらないだろうか?

 え? 上向きに上がっているボールに上向きの力が働いていない?

 じゃあなんでボールは上に上がっているんだよ?

 ――はい、それは、バッターがボールを打ち上げたときの余力――あるいは惰性が残っているからにすぎない。この「惰性」のことを物理学では「慣性」という。だから、過去には――つまりバッターが打ったときには、ボールに上向きの力が働いたことがあるんだね。しかし、いまはその力はもう働いていない。ボールはひたすら地球の重力に引かれて落ちているだけだ、ということになる。

 これでなっとくしました?

 いや、でも、下向きにしか力が働いていないのになんでボールはそれに逆らって上に上がれるんだ?――という疑問に固執しようという方はいらっしゃいません?

 もし「ボールは下向きにしか力を受けていない」という説明に納得なさるのであれば、この疑問にどういう回答を出されます?

 この問題に答えるには、物理学にとっての「力」というものの概念を正確に理解している必要がある。

 物理学で「力」を考えるばあい、じつは、ボールが上を向いて上がっているか、それとも下に落ちているかということはまったく重要ではないのだ。重要なのは、上を向いて上がっているときにはその速度が減りつづけ、下に落ちているときにはその速度が増しつづけているということなのである。上を向く運動の速度を減らすもの、下を向く運動の速度を増すもの――つまり下向きに「加速度」を生じさせているものこそが「力」なのであって、その物体が上向きに動いていても下向きに動いていても関係ないのである。

 物理学にとっての「力」とは、「物体の運動の状態を変化させる作用」のことなのだ。

 うん、わかった。

 ――で、「運動の状態を変化させる」ってどういうことだ?

 ある物体が同じ速さで走りつづけているとする。人間が同じ速さで歩きつづける。でなければ走りつづける。そうすると疲れるし筋肉も痛くなるし息も脈拍も速くなる。あるいは自動車を同じ速さで走らせつづける。たしかにエンジンは回っているしガソリンは減る。それって「力」使ってるよね?

 ということは、同じ速度での運動を持続させつづける――ある速度での運動を続けさせることは、やはり「運動の状態を変化させる」ことなるんだよね? 「力」とは「運動の状態を変化させる作用」にほかならないのなら、「力」が使われているということはそこで起こっていることが「運動の状態の変化」であるはずだ。

 ――これがちがうのである。

 同じ速度で一様に運動しているときには「運動の状態」は変化していないと物理学では考えるのだ。

 といって、物理学的に見て、人間が歩いたり自動車が走ったりするときに「力」が使われていないということではない。物理学的に見てもそれは「力」を使っている。じつは、人間や自動車が同じ速度で走り続けるという状態を維持するのに(物理学的な意味で)「力」が必要なのは、地面との摩擦や空気抵抗や人体・機械の内部でその動きを止めようとする摩擦力・弾性の力などをつねに打ち消すためであって、「力」が同じ速度を維持するために直接に使われているわけではないのだ。というより、人間や自動車が走るにしても、鳥や飛行機が飛ぶにしても、それは地球の表面や空気に接触しながら、しかも生体や機械の内部の機関を駆動させながら動いているのであって、それらのものとたえず「力」のやりとりをしている、非常に複雑な物理現象なのだ――と物理学では考える(運動と速度について)。

 ともかく、物理学では、同じ速度で運動を続けている物体の「運動の状態」は変化していないと考えるのである。ピタッと止まっている物体も――つまり静止している物体も、ある一定の速度で動いている物体も、「運動の状態」が変化していないという点では同じである。その「速度」を変化させる――つまり加速度を生じさせるときにだけ、「運動の状態」は変化したと考えるのだ。

 しかも、「速度」というのがまた註釈の必要な概念だ。自動車で走っていてスピードメーターの針が一定の値を指していたら「速度」が変わっていないことになるかというとそうではない。運動の方向が変化すると「速度」は変わったことになる。同じ方向に、同じ速さで移動しているということが、「速度」が変わらないことの条件なのだ。

 物理学の「力」とか「運動」とかいう概念は、じつは私たちが日常的に感じる「力」とか「運動」とかとはずいぶんとちがっているのである。

 


物理学は「視覚」の学問である
 物理学では、「運動」しているものを外から「観察」していて、その「運動の状態の変化」というものを「観察」によって発見し、そしてそれによってそこに働いている作用を見出す。そしてそれの運動の状態を変化させた作用を「力」と呼ぶのである。

 それは、徹頭徹尾、「運動」しているものの外から「観察」して――つまり「視覚」によって見ることによって構成される概念なのだ。自分自身が(視覚以外の)身体の感覚によって感じるものではないのである。むしろ自分の身体の感覚といったものを持ちこんではいけないのだ。物理学で「力」を見つけようとするものは、その「運動」の外にあって、それを冷静に観察していなければならない。それが最低条件である。もし自分が運動の主体になるのであれば、だれかに外にいて観察していてもらわなければならない。そうでなければそこで起こった運動や力を正確に記述できないことになる。

 自分で「力」を受けたり、「力」を出したりするのではないし、自分で「運動」するのでもない。物理学で「力」や「運動」を記述できるのは絶対の他人事としてそれを見ているばあいだけなのだ。身体で感じるものではなく、外から見て、視覚を通じてのみ感じ、考察されるもの――それが物理学の「力」や「運動」なのである。

 ひとつ註釈を入れておくと、この立場は古典物理学でのみ正当であり得る。相対性理論(特殊相対論も一般相対論も)と量子力学が現代物理学にとって衝撃であったのは、それが観察者自身を物理現象にとっての一要素にしてしまったからでもある(量子力学の「シュレジンガーの猫」とか有名だね)。

 「力」や「運動」という、私たちにとって身近なことばを使っていながら、それを考える発想の基本がぜんぜんちがう体系――それが物理学なのだ。哲学について、「日本の哲学用語は日常的なことばからかけはなれているから哲学は難解だと思われるのだ」という物言いがよくきかれる。しかしこれはあまり正当ではない。物理学は日常的なことばを使っているが、やはり難解である。むしろ物理学では日常的なことばが使われているぶんよけいに難解なのである。他人事として「力」や「運動」を感じるというのは、自分のこととしてハイデッガーの「頽落」やヘーゲルの「アン・ウント・フュア・ジッヒ」を感じるのと同じぐらいむずかしい。ちなみに、柄谷行人がどこかで書いていたことによると、ヨーロッパでは、日本と逆に「哲学が日常的なことばを哲学用語として採用しているから哲学はわかりにくいのだ」という批判があるそうである。

 物理学にとっては、じつは。私たちの日常世界こそ、非常に変わった、特殊な条件の積み重なった世界なのだ。

 まず、そこで起こるどんな物理現象も、すぐ近くにある地球というでっかいものの重力によって作用を受けてしまう。空気がある。地面がある。空気も地面も物体の運動を妨げる働きをする。重力に空気抵抗に地磁気に空気中の湿気に蛍光灯の放電にエアコンのコンプレッサーの発する電磁波に教室の机の上の凹凸まで、地球上で単純な物理現象を観察しようとしても、それを複雑にする要素ばっかりである。近くに星もブラックホールもなく、ガスも宇宙線粒子も飛んでこない、そんな場所が、物理学にとってはノーマルな場所として想定されるのだ。そういう空間で「運動」を「観察」し、そこから「力」の作用を見出すことが、物理学にとっては理想なのである。もちろんそんなことはできないから、地上でなるだけそれに近い環境を作ってやって運動を観察し、それに働く重力やら空気抵抗やらの影響(=力)を計算して取り除いてやって、誤差が出ても一定範囲だったら許容してやって、それをもとに「力」の作用を考察したり、「力」の作用から逆にその物体の性質を探ったりする。それが物理学の実験というものだし、その実験をもとにし、あるいは「そういう実験をしてみたら」ということを想定しつつ、物理学の体系は組み立てられている。

 


「地球を回すエンジン」の問題
 じゃ、ちょっと練習問題ね。

 「トンデモ本」シリーズに、地球を太陽のまわりの軌道上で動かしているエンジンは何か、とか、電子が原子核の周囲を止まらずに回りつづけているのは物理学が否定している「永久運動」ではないのか、などということを書いた本のことが紹介されている。もちろんそれは「トンデモ」な発想として捉えられているのだ。では、それはなぜ「トンデモ」なのか? 地球が太陽のまわりの軌道上をまわりつづけるのにはエンジンは必要でないとか、電子の動きはべつに現代物理学の基本法則に反したものではないとかいうことを断言する根拠は何か?

 答えは本を見れば書いてあるから最初にばらしてしまうと、それは「慣性」である。つまり最初から回っているんだから、それを止めようとする力(「運動の状態を変える作用」だよ!)が働かないかぎり、回りつづける。それこそが物理学の立場に合致しているのであって、なんにもしないのに地球が止まったり電子が止まったりしたらそれこそ物理学の基本法則が破れていることになってしまうのだ(さらに詳しく)。

 とは言っても、だよ――。

 コマだってルーレットだってゆで卵だって回せばとまるじゃないか。いったん回したものをそのままほうっておいたら止まるというのが私たちの日常生活の常識である。そこから考えると、太陽のまわりを回ったまま止まらない地球の運動とか、原子核のまわりを回りつづける電子の運動はたしかに異常に感じられる。

 それはじつは地球の上の環境が物理学の考えている環境からすると特殊だからなのだ。地面でコマを回せば、地面とのあいだで摩擦が発生する。テーブルの上でゆで卵を回してもテーブルとのあいだに摩擦が発生する。ルーレットだって軸とのあいだで摩擦が発生している。それが回転を止めてしまうのだ。そばに星もなく宇宙線も飛んでこない宇宙空間でコマを回せばそれは回りつづけていつまで経っても止まらないはずである――止めようとする力を加えないかぎり。で、地球上では回りつづけるものを止めようとする力が否応なしに働いてしまうのだ。

 地球が太陽のまわりを回っているのは、45億年前、太陽系が形成されたときの原始太陽系星雲が回転していたその運動をいまだに受け継いでいるからだ。じつは、地球は、それ以来、その運動を徐々に止められつつある。宇宙空間に存在する塵や、地球のそばを通過したり地球に落ちたりする隕石や彗星は、地球が太陽のまわりを回る運動に影響を与えている。他の惑星の重力もすこしずつ影響を与えているはずだ。しかし、地球の公転運動がいくら止まりつつあっても、太陽がなくなるまえにそれが止まってしまうことはないであろう。

 電子が原子核の周囲を回りつづけているというほうはもうすこしやっかいだ。電子は自分から電磁波を出してその回転を止める「力」とすることができる。そうやって回転の緩くなった電子は原子核に引っぱられて原子核に向かって落ちていく。じっさい、何かからエネルギーを受けて原子核から遠くに飛ばされた電子は、そうやって電磁波を放出することで回転をすこしゆるめ、原子核の近くの軌道に移ったりする。じゃあどうしてすべての電子がそうやって電磁波を放出して回転を止めて原子核に落ちてしまったりしないのか?

 原子核の外のほうの電子は、外から「力」を受けたり、外に「力」を与えたりして、比較的自由に軌道を変えている。それがさまざまな化学反応の正体だ。ところが内側の電子は、「力」を出して回転を止め、原子核に落ちていこうとしない。たまに原子核に落ちて原子核につかまってしまう電子というのもある(K捕獲)がそれはじつに稀な現象だ。なぜなのか?

 この疑問が量子論の出発点のひとつになっている。矢追さんの目のつけどころはべつにそんなにハズレたものではなかったのである。結論はハズレてるけど。

 じゃあ矢追さんの結論のどこがハズレているかというと、「永久運動」と「永久機関」をごっちゃにしているところである。物理学は「永久運動」は否定していない。というより、運動の状態を変化させなければ――ということは力を加えなければと言うのと同じことであるが――いつまでもそのときの運動を持続するというのが物理学の大原則なのである。

 物理学が否定しているのは「永久機関」だ。永久に運動しつづけているものから「力」を取り出してエネルギー源として使うことができるというのが「永久機関」である。が、運動しているものから「力」を取り出すということは、運動しているものにこちらに「力」を加えさせるということである。「力」というのは相互的な作用である(したがって物理学では端的に「相互作用」と表現される)。こちらに「力」――つまり「運動の状態を変える作用」を与えるならば、与えた側の運動も変わってしまう。

 永久機関が可能なように見えるのは、物理学があくまで「見る」ことによって記述されることを忘れがちなところに生ずる錯覚である。私たちは「永久運動」をしている物体を見続けることはできる。しかし、そこに自分からかかわってエネルギーを自分のほうに取り出すと、その「永久運動」自体を変えてしまうことになるのだ。「運動」のいまのままの姿を変えたくなかったらけっして手を出してはならない。そっと見ているしかないのである。もしちょっとでも手を出せば「永久運動」の楽園はすぐに崩れてしまうのだ。

 「永久運動」をしているのをただ見てその状態を記述することはできても、そこに手をだしてその運動をつづけさせながらエネルギーを取り出すことはできない。ところがその点が峻別しにくい。そこから「永久機関」が可能だという幻想が生まれるのである(なお、熱力学の第二法則の裏をかいて「永久機関」が可能になる――第二種永久機関といったかな?――のではないかという「マックスウェルの悪魔」の問題もあるが、これについては省略する。興味のある人は熱力学に関する本を読んでください)。

 


物理学の発想はなぜ正当なのか?
 「力」とは自分で感じるものではない。「運動」は自分がやるものではない。自分は「運動」している物体を外から見ていて、その「運動」の変化を観察することではじめて「力」という作用が働いていることを知る。自分の身体で感じるのではなく、「視覚」を通じてのみ「力」が働いていることを知る。それが物理学という体系にとって正しい感じかたなのである。

 また、コマでもルーレットでもゆで卵でも、回したものは見ているあいだに止まってしまう。それが私たちの地球上の日常世界での常識である。しかし物理学の常識はちがう。太陽のまわりを回りはじめた惑星は40億年以上もそこを回りつづけるのだ。物理学にとっては、私たちが日常を送っているこの地球上は、重力は強いし、運動のじゃまをする空気は存在するし、地磁気はあるしと、よほど特殊で非常識な場所なのである。おかげでそこでは物体はいろいろな力の影響を受けて複雑な運動をする。私たち人類が人工的な生命維持装置なしに生きていける世界はいまのところこの地球上しか見つかっていないのだが、その地球上は物理学にとっては非常に例外的な環境だということになるのだ。

 このような物理学の発想がなぜ正当なのか?

 私たちの「常識」とはちがった突飛な発想を基礎におき、しかも私たちが生きている環境での運動を非常に例外的な運動として捉えるような物理学の発想が、なぜ正当なのであろうか?

 「トンデモ」を考えるためには、そのことをぜひとも考える必要があるように思う。



 



2.近代科学と近代民主主義

 


理論はなぜ正しいか?
 ちょっと大げさに書きすぎたかも知れない。

 物理学の発想がなぜ正当とされるのかというと、それはその理論によって現実が説明できるからだ。ある理論があって、こういうことをすれば、あるいはこういう現象が起こればこんな結果が出るはずだと予測する。それを実験で確かめてみる。あるいは天体観測などで確認してみる。そして、その理論が予測したとおりの結果が出れば、いちおうその理論は正しかったことになる。

 しかし、その理論の予測どおりの結果が得られたのが一度だけだとしたら、それはまだ十分に理論を検証したとはいえない。偶然にそうなったのかも知れないからである。その理論が予測したとおりの結果がいつでも再現しなければその理論は正しいとはいえない。

 もちろん、実験設備に問題があったり、実験の結果に影響を与えるべつの力が働いていたりしたりすると実験結果は理論の予測どおりにならない。そこで、理論の予測とちがった結果が出たばあい、それが理論の欠陥によるのか、それとも実験に問題があるのかを慎重に検討しなければならない。それも、たとえば実験に問題があったとしても、その問題がどこにあるのかが一度で判明することは稀だろう。いろいろな条件を変えて実験を重ねてその問題点を追究する必要がある。天体観測でも同様である。天体現象は実験とちがって人間が条件をいじるわけにいかないだけになおのことむずかしい。いろいろな要素を考えあわせて、理論と観測結果のズレを解釈してみる必要がある。もちろん理論どおりの結果が出た場合も同じような検討は必要だ。ほんらいは理論はまちがっているのに、たまたま理論どおりの結果が出るような条件がほかにあって、その理論どおりの結果が出たのかも知れないからである。

 だいたいの理論はそれで検証できる。しかし、何度も検証したはずの理論がまちがっていたり、何度も実験してみて否定された理論が正しかったりということがまれに起こる。

 地動説にしたってそうなのだ。地動説が唱えられた初期には有力な反論が存在した。地球が太陽のまわりを回っているのであれば、星空に対する地球の相対位置が季節によって変わるはずだ。したがって星空の見えかたが変わるはずじゃないか。この、地球が太陽のまわりを回っていることによって起こる星の見える位置のずれのことを「年周視差」という。で、この年周視差がないことが、地動説がまちがっている証拠として唱えられたわけだ。

 ところが、それは当時の観測技術が未熟だったから年周視差が発見できなかっただけの話だったのである。恒星がそのころに考えられていたよりずっと遠いところにあったというのがポイントであった。恒星が太陽系から遠くにありすぎたので年周視差が小さく、初期の観測技術では発見できなかったのだ。現在では、太陽系の近くの天体については年周視差が実際に観測され、それが逆に地動説の正しさを立証するための論拠として使われている(ちなみに『トンデモ本の逆襲』249頁のコンノ氏のいう現象は「光行差現象」じゃなくて「年周視差」のことじゃないですか?)。

 実験の条件や観測に問題があっても、その問題に気づくのに長い時間がかかるということもあり得るのだ。

 だからどのような理論も絶対に正しいとは言えないのである。言えるのは、その理論を否定するような信頼できる実験結果や観測結果が出ていないということだけだ。そして、そういう理論をいちおう私たちは「正しい」理論と呼んでいるわけである。

 そのかわり、理論の途中に常識ではあまり考えられないような想定を組みこんでいるとしても、その理論の予測したとおりの結果がつねに出るならば、その理論は正しいものと考えなければならない。

 いや、もうすこし言えば、「正しい」理論にはもうひとつ条件がある。それはなるだけ単純に現象を説明できているということだ。一つの数式でいえることを、必要以上に場合分けして二つや三つの数式で表現した理論は「正しい」理論ではない(だから物理学者は「統一理論」に固執するのである!)。世界は単純な理論で説明できるように平明にできているものである――というのが物理学の世界観なのだ。信頼できる実験結果や観測結果を矛盾なく説明できて、しかもなるだけ普遍的にあてはまる、なるだけ単純な理論ということが「正しい」理論の要件なのである。

 「トンデモ」に共通する特徴として、世界はだれにでもわかるように単純にできているものだという思いこみがあると指摘されている。しかし、それはじつは物理学の基本思想でもあるのだ。ただ、物理学が、物理学の考える「単純さ」によってこの世界を単純に平明に叙述しようとすれば、「トンデモ」の人たちには理解できないぐらいに複雑になってしまうというだけの話なのである。逆に、物理学の採る「単純さ」の基準からすれば、「ユダヤの陰謀」などというものは複雑すぎて採用できない基準になってしまう。

 「トンデモ」の人たちのなかは、正統物理学の世界では相対性理論がまるで疑われることなく信奉されていると考えている人が多いようだ。しかしそれはとんでもないまちがいである。一般相対性理論ですらいまだにそれを検証するための実験が繰り返されているし、あえていえば一般相対性理論はまだ現代物理学において「正しい」理論の地位を十分に確保したとすら言えない面がある。相対性理論より理論構成の複雑な量子力学にいたってはその基本的な理論についてすら繰り返し繰り返し再検討が加えられている。

 特殊相対性理論はもとより、一般相対性理論は現在のところさまざまな物理現象を矛盾なく説明することに成功している。有名なのは水星の近日点移動と日食の際の「光は曲がる」という観測結果であろう。それまでの古典力学ではどう説明してもうまくいかなかった現象を一般相対性理論が説明したことにより、一般相対性理論が正しいという蓋然性が高くなり、「正しい」理論とされるにいたったわけだ(相対性理論について)。

 それにもかかわらず一般相対性理論の正しさがいまだに疑われるのは、その理論の基礎に実証されていない仮定を持ちこんでいることによる。マイケルソン−モーレーの実験の解釈で有名な光速度不変の原理と並んで相対性理論の基本とされる等価原理がその「実証されていない仮定」である。慣性力――つまり人間がボールを投げたりロケットを打ち上げたりして加速度を生じさせる力と万有引力は同じものだという推定が「等価原理」なのだが、それぞれ加速度を生じさせる仕組みがちがっているわけで、それを同じと見ていいのかどうか。その点についてはいまだに検証のための実験が繰り返されているのである。

 


「科学」と「トンデモ」はどこがちがうか?
 だからして、正統科学の研究者はアインシュタインを崇拝しているとか、アインシュタインの無謬性を信じているとかいうのはまったくの誤りである。まともな物理学者であれば、アインシュタインはもちろん、ニュートン以来の古典力学の大原則とされている法則だっていつでも疑う用意を持っているはずである。アインシュタインを疑うのは一部の「トンデモ」学者だけの特権ではないのだ――残念ながら。アインシュタインの誤りの可能性について真剣に考え、その検証を繰り返し行っているのは正統物理学者だって決して「トンデモ」の後塵を拝してはいない。

 では、正統科学と「トンデモ」のどこがちがうのか?

 いま書いたように、正統科学の正しさを保証しているのは検証可能性である。つまり、理想的に言えば、すべての実験結果・観測結果がその理論に合致していることが理論の正しさを保証する、という考えかただ。もちろん実験や観測の条件しだいでは理論に合致しない結果が出ることがあるが――地球上は物理学にとってはとっても特殊な場所なのだ!――、その結果を歪めた条件をきちんと説明できるならば、そのばあいでも実験結果・観測結果が理論と合致したとみなされる。

 重要なのは、だれがどこでやっても同じ結果が出るということである。「どこでやっても」といっても、海でしか実験できないものは沙漠で実験するわけにもいかないし、たとえば日食などの天体観測はある限られたところでしか観測できないのが普通である。また、ニュートリノの観測なんかは、地上ではいろんなところからニュートリノが飛びこんでくるのでどれがどこから来たニュートリノか判別できないので観測にならない。地下深くにもぐらないことにはニュートリノの観測はできない。

 だから、たとえば、ニュートリノ観測施設が日本の神岡にしかないのだったら、神岡の観測結果には一定の疑問がつきまとうであろう。神岡の研究者がうそをついていないとしても、私たちの知らないニュートリノの発生源が神岡の近くにあるかも知れないからだ(もちろん、神岡鉱山のニュートリノ観測装置をはじめ、世界中のニュートリノ観測装置は、近くに考えられるかぎりのニュートリノ発生源がなく、しかも観測に支障を来すよけいな放射線が入ってくることもない場所が選ばれているはずである)。しかし、世界には神岡のほかにいくつもニュートリノ観測装置があって、それらで同じ結果が出れば、神岡の結果はまず信用できるものとして扱われる。もしどこかほかにニュートリノ観測装置があったとしても、そこで神岡ほか地球上すべての観測装置とちがう結果が出ることはまず考えられないからである。

 ともかく、世界のどこでだれが実験・観測しても同じ結果が得られるというほぼ確実な見通しがないかぎり――「絶対確実」ということはあり得ないしそれは科学者もちゃんとわきまえている――、正統科学ではある理論を正しいものとして扱うことはしないのである。

 対して「トンデモ」はどうか。

 「トンデモ」にもいろいろあるだろうが、検証可能性という点での厳密性は、「トンデモ」は残念ながら正統科学に及ばないように思える。宇宙人から正しいことを教えてもらったと称する人がいたとする。しかし、その宇宙人からのテレパシーがほかの人間に届かないかぎり、それは検証することは不可能である。さらに宇宙人が正しいと思っていることがほんとうに正しいのか(宇宙人だってまちがうかも知れない)、とか、それが悪い霊が人間を混乱させるために正しい宇宙人を偽装して送ったテレパシーではないのかというところも検証しなければとても科学としての検証に耐え得たとは言えない。ハムレットだって父王の亡霊のことばをそのまま信用したりはしなかった。ちゃんと実験してその正しさについて自分で確証を得てから、はじめてその父王のことばを信じたのである。それぐらいの懐疑心はあっていいはずだし、正統科学の理論家はまともな理論家であればみんなそれぐらいの懐疑心を持っている。

 植物と会話ができるとまじめに誠実に主張する先生がいるなら、それはその先生にとって真実なのであろう。しかし、ほかのだれかが、同じ装置を使って植物と会話し、それによって同じ結果を得られなければ、それは科学の理論として検証に耐え得たとはいえない。あるいは、第四次元を時間として、それを超える第五だか第六だかの次元として「心」の次元があるなどと主張するのもかまわない。でもそれを検証できなければやはりそれは科学の理論として意味はない。一般相対性理論が疑わしい科学理論であるとしても、そういう「トンデモ」科学理論は、残念ながら、一般相対性理論の一万倍や一億倍は優に疑わしいのである。

 


社会が決める「真実性の基準」
 こういう表現をすると、「あの先生はとても清廉潔白でうそをつくような方ではない、その先生がこうだとおっしゃっていることがうそであるわけがない」という反論をなさる方がいらっしゃるかも知れない。しかし、人間はうそをつく気はなくてもまちがうことはあり得るのである。

 そう言うと、あの先生だけにまちがう可能性があるのか、という反論が「トンデモ」(とされた本の)信奉者からは寄せられるかも知れない。そのとおり! まちがい得るのはその先生一人だけではない。世界は相対的なのだ! 全世界の人がまちがう可能性だってある。もしかするとその先生と信奉者という少数の人たちだけが正しくて、ほかのすべての人がまちがっている可能性だって私は否定しない。そしてそれが重要な点なのである。

 だが、あれも真実かも知れない、でもこっちの人が言ってるこれも真実かも知れない、というのでは、この世界について考えつくかぎりの可能性を検討しなければならなくなってしまう。それでは何の研究も進まない。そこで、私たちの社会には、「こういうものをこの社会の真実にしよう」という基準ができている。言いかたを変えれば、社会がその真実についての基準に適合していると認めたものだけがこの社会では真実として認められるのだ。

 その基準はじつは時代によって地域によってまた文化によってさまざまだ。過去のある社会ではどこかの神殿で得てきた神託だったかも知れない(それでもソクラテスはいちおうその神託の検証というのをやっているぞ)。教皇のおっしゃることだから――教皇は誤謬をおかすことなどあり得ないのだから、それが真実だとされていた社会もある。だが、私たちの社会はそういう基準を採用してはいない。では、私たちの社会が真実性の基準としているのは何か?

 私たちの社会の真実性の基準――それこそが検証可能性なのである。だから、どんなに人格高潔清廉潔白な先生が真実だと信じ、その先生がそれを広めることが自分の義務だと思って私財をなげうって尽力している理論であったとしても、それが、だれがどこで実験・観測しても同じ結論にたどり着くという確証がないものであれば、それは社会にとっての真実だということにはならないのである。

 それは、ある意味で、社会が宇宙の真実を知るチャンスを失うことにつながるかも知れない。くりかえすが、「ある人だけが特権的に真実を知っている」という考えかたをしりぞけ、だれがどこで調べても真実であると検証できることのみを真実と認めるというのは、それは社会の制度なのである。この社会の制度が人間に絶対の真実を知ることを保証しているかというとそれはけっしてそんなことはない。かつての神殿の神託や教皇のことばと同様にそれはまちがっているかも知れないのだ。

 にもかかわらず、それを私たちの社会が真実と認めているのは、そのことで宇宙の真実を知らずに過ごしてしまうことのリスクを冒しても、そういう真実性の基準をとることによって社会が手にする利益のほうがはるかに多いと考えているからなのである。

 


ここで唐突だが近代社会について考えてみる
 さて、近代物理学が確立されてくる過程というのは、近代社会そのものが確立されてくる過程と軌を一にしている。

 ヨーロッパ中世においては、ギリシアのエンペドクレス(月のクレーターに名まえを残している)が提唱した四元素説が一般に信じられていた。この世界は、火・土・風・水の四元素で構成されているという、「ファイナルファンタジー」シリーズとかで有名なあれである。WWFの奥田氏はファイナルファンタジーVで「ものまねしゴゴ」を倒したというのが自慢だそうだ。ちなみに、天上はべつの第五元素によって構成されているという説があり、その第五元素につけられた名まえが「トンデモ」界で有名な「エーテル」であった。

 中世ヨーロッパでは「原子」説などというのはほとんど忘れられた異端の説であった。近代哲学のうち「大陸合理論」の祖とされるデカルトも原子説を否定している。中世西欧に「トンデモ本」シリーズがあったならば、まちがいなく原子説の信奉者は今日のコンノケンイチ氏や矢追氏の地位をその本のなかで占めていたであろう。ちなみに、『共産党宣言』とかで有名なマルクスの学位論文は、その忘れられた古典古代の原子論についての研究であった。

 そこから、コペルニクス・ガリレオ・ケプラーによって近代的な天体運動の理論が生み出され、ニュートンの業績によって古典力学が確立し、ドルトンによって近代原子論の基礎が固められ、ほかにもボイル−シャールの法則とかアボガドロの法則とかホイヘンスの原理とかそういうのが実験によって確認されていくなかで、17−19世紀のヨーロッパで近代物理学は成熟していく。

 それは、まさに同じ社会において「近代」が成熟していく過程でもあった。

 「近代」とは何かというようなことを論じはじめたらきりがないし、それを論じる用意もない。ただ、唐突なようであるが、その近代社会のひとつの到達点に、政治的な近代民主主義と、それを支える近代民主主義的な文化があるということをここではとりあげたいのである。

 もちろん「近代イコール民主主義の時代」ではない。民主主義は近代の長い時期において例外的な思想であり、危険思想ですらあった。ヨーロッパの大国としては早い時期に「共和制」を実現したフランスですら民主主義はやはり秩序を破壊するものとして忌み嫌われていた。そのフランスからまだ建国百年にすらなっていなかったアメリカ合衆国に渡った貴族アレクシス・ド・トクヴィルが、今後の政治世界を支配する原理が民主主義になっていくことをいやいやながら認めたのは19世紀に入ってからだいぶ経ってのことである。ましてそれが現実のものとなるのは西ヨーロッパでも19世紀も末期に入ってからであった。日本にはまだまだ「日本は民主主義の歴史が浅い」というコンプレックスを持っている人も多いようだ。しかし、政治体制として、そしてそれを支える思想としての近代民主主義の歴史が浅いのは日本だけではない。世界のどこをとっても大同小異である。

 だが、近代政治と社会の到達点のひとつが近代民主主義であるということは、現時点においてはなおたしかであるように思われる。現在の社会において、共和制の国家はもちろん、君主制の国家においても、民主主義の要素を政治の基本原理にとりいれていない国家はごく少数であろう。現実には独裁政治が行われている国家であっても、その独裁政権が近代民主制的な原理で構成されているという体裁を整えていないものは少ない(「近代民主主義」について)。

 


産業化、自由主義、近代民主主義
 なぜ近代民主主義が近代の政治的な面での到達点になったかという問題も単純に解答を出せるものではない。ただ、それが、産業化とそれに伴う都市化と密接に関係するものであったのはたしかであろう。

 もともと、西ヨーロッパでの商業社会の成熟と、西ヨーロッパに地球の全域から物資が集中したことが、伝統貴族の身分の外に政治的有力者が増加する契機となった。それに絶対王政とそれを支えていた貴族制が対応できなかったところにフランス革命が起こり、また、伝統貴族の身分制から自由な植民地において、植民者たちが一種の契約国家としてアメリカ合衆国を設立した。同時に、蒸気機関が広く実用化され、世界の産業化が一挙に進展した。産業化は近代的な都市化を必然的に進行させることとなった。都市化は都市だけの問題ではない。それは都市に人口を奪われることとなった村落での伝統的秩序の漸次的な崩壊と変質も引き起こした(近代化と共同体の崩壊)。その社会の変化に応じるかたちで新しい社会の組織原理としてまず西ヨーロッパとアメリカ合衆国で採用されたのが、経済的自由主義に対応する政治的自由主義であり、立憲制であった。

 そして代議制を柱とする立憲制の「代表」(つまり国会議員)選出の基盤を全国民(ただしこの時点では特定年齢以上の男子国民)に広げたのが政治的民主主義である。自由主義は、結果の不平等は認めるが、機会については、身分や血筋による格差を設けずに均等に与えられるべきだと考えるものである。その「機会の平等」を求めて行き着いたのが普通選挙(男子普通選挙だよ)による近代民主主義の政治体制であった。いわゆるマルクス主義は、代議制を構成原理とする近代民主主義体制は必然的に矛盾に逢着して崩壊するものと考えたが、その実践においては、近代民主主義の原理から離れることはついにできなかった。かえってみずから「執行権力の専制」の迷路に迷いこんでしまったのである。

 絶対主義を支えた社会を政治的民主主義へと移行させた重要な条件となったのは産業化であった。そして、その産業化は、近代科学を確立させる大きな動力ともなったのである。

 もっとも物理学・化学を含む近代科学が最初から産業化と密接な関係があったわけではない。たとえば雷が電気であることを発見したベンジャミン・フランクリンは、アメリカ合衆国建国のイデオロギーに大きな影響を与えた思想家であり、やがて産業化を推進させることになる経済的・政治的自由主義の思想を持った人物であった。けれども当時の科学者がみんなそうだったわけではない。この時代の科学者のなかには、イギリスの貴族もいたし、フランスで反革命の容疑で殺された役人もいた。

 しかし、近代科学がその草創期から採用していた真理の基準――すなわち検証可能性は、産業化された社会においては非常に重要な意味を持ちはじめたのである。それはたんに科学とか物理学とか哲学とかの「サイエンス」の枠をこえはじめた。あるいは、検証可能性を真理の基準とする科学が社会と新しいかたちの関係を持ちはじめたのだ。

 


検証可能性と自由主義
 ギルドによって生産がきびしく統制され、人びとにとって信仰が何よりもたいせつだった時代には、真理の基準が教皇のことばであったとしても不思議ではない。だが、生産に成功するかどうかということが自分の経済的な成功不成功に――ひいては社会的な成功不成功に直接に響いてくる産業化された近代においては、真理の基準が検証可能性におかれるようになったのはむしろ自然であった。いかに教皇のことばやその人の人格に裏づけられた理論であっても、それを産業に応用して役に立たなければ、産業化された社会では意味がないのである。ここに、近代科学の真理についての基準が産業化された社会の要請と一致したのであった。

 もちろん、真理の基準が検証可能性でなければ困るのは、産業化社会で成功者であろうとする人たちである。つまり企業家自身であり、それは自由主義の担い手となった階級――ごくおおまかに総称してブルジョワジーと重なることが多かったであろう。当時の社会においてはまだまだブルジョワジーは全社会のごく一部を占める特権階級にすぎなかった。それ以下の、小ブルジョワジーと総称される都市の職人とか小商店主とか農民とかにとって、まして労働者にとって、真理の基準なんか検証可能性であろうが何であろうが知ったことではない。だが、ごく一部であっても、その社会を主導することになった階級の文化が、全社会のものの考えかたを規定してしまうのはごく自然なことである。

 と、「ごく自然なことである」と書いたわけだが、もちろんその見かたではこぼれ落ちてしまう要素がある。その社会を主導する一部集団の文化を社会の文化としてしまっていいのか、社会を主導する立場などにはけっして立つことのない「民衆」の文化こそがその社会の文化として重要ではないのか。このような立場から構想される一群の学問もある。日本の民俗学はそうした学問のひとつである。一つ目小僧とかだいだら坊とかいういうことは社会を主導する階級が社会に影響を与える局面で見せる文化とはあまり縁がない(もちろん社会を主導する階級の人が、その本業以外の局面で「民衆」の文化に目をとめることは少なくなかった。日本の民俗学草創期に農相石黒忠篤や渋沢栄一の孫の渋沢敬三が大きな役割を果たしていることを考えるとそのことは了解できよう)。

 しかしそういうものこそ重要だというアプローチをとる学問が民俗学なのである。いわゆる考現学――「路上観察」とかも含めてであるが、それもそうしたアプローチを採る。ヨーロッパでは非キリスト教圏を研究する方法として文化人類学が早い時期からあったが、ヨーロッパ社会自身の「民衆」社会を対象とする方法として社会史の方法論が生み出された。また、そうした民俗学的な「民衆」世界と、全社会規模の政治や経済の接点にあたる部分を考察する、民衆史のようなアプローチもある(色川大吉氏の研究とかが有名だね)。

 が、ここでは、こうしたアプローチが存在することを示唆するにとどめたい。そうでないと話が広がりすぎるからだ。ともかく、ここでの話の要点は、経済的・政治的自由主義の担い手となった産業資本家階級――すなわちいわゆるブルジョワジーにとって、近代科学の「検証可能性」という真理の基準はたいへん相性のよい考えかただったということである。

 そして、検証可能性という真理の基準は、そのまま近代民主主義を支える発想として受け継がれることとなった。

 


近代民主主義の原理は検証可能性の応用である
 検証可能性を真理の基準にする社会とはどんなものだろうか? まず、そこでは、だれもが、それが真理であるかどうかを検証し、判断する資格を持つ。のみならず、だれもが、自分が「これこそは真理である」と考えることを世間に呈示して、それが真理かどうかを社会のすべての人に判断してもらう資格をも持つ。すべての人が「真理」についての仮説を提唱する権利を持ち、しかもすべての人がそれを検証する権利を持つ。もしだれかが提唱した真理についての仮説を自分で検証してみて、その仮説どおりの結果が出なかったとしたら、それは真理ではない、まちがった理論であると主張する権利をすべての人が持つ。ただしその検証のための実験が厳正に行われたものであることが条件である。

 これが自由主義にもまして民主主義に適合する真理の基準であると考えることはそれほど不自然ではあるまい。そりゃそうだ、ものすごく不自然だと思ったら最初から書いちゃいない。

 近代民主主義とはどういう制度かというと、その社会(国家とか自治体とか)に属する人の一人ひとりが、その社会の政治がよいものであるかどうかを判断する権利を持つという仕組みである。のみならず、そこでは、「こうやればこの社会はよくなる」と考えたメンバーがいれば、だれでも、その社会の政治を自分に任せてくれと主張する権利を持っている。そして、「こうやればこの社会はよくなる」と言って政権の座についた者が、まぁその「公約」を実行しないなんてのは論外として(ってその「論外」がよくあるんだこれが)、その考えどおりにやってみてだめだったとわかると、その社会に属する者ならだれでもその過ちを指摘してそいつを政権の座から引きずり下ろす権利を有する。ただし、それはやはり正当な批判の過程を経たものであることが必要で、ただ「あいつは気にいらん」とか「あんなやつにまともな政治ができるわけがない」とかいうだけではダメである。その批判の正当性を確保するために近代民主主義に考えられた制度が選挙であり、ばあいによってはリコールとかイニシアチブとかレファレンダム(国民投票)とかであるわけだ。

 つまりこの近代民主主義の制度は「検証可能性」という真理の制度を政治に応用したものなのである。科学における「真理についての仮説」が、政治では「こうすれば社会はよくなる」という政見としてあらわれる。その仮説の提唱がすなわち立候補ということになるわけだ。そして、政権を執って実際に政治を行うのは、その真理を検証する実験の過程と考えてよい。もちろん社会なんて日常生活の場を舞台にいいかげんな実験をされては困るという感情はあるだろうが、しかし、代議制民主主義というのは本質的にそういう制度なのである。だからこそ、むちゃで未熟な理論の持ち主が社会を舞台に無責任な実験をやったりしないように監視する義務が国民や自治体の住民には課せられているわけである(だから選挙で棄権してはいけないとされるのだ)。そして、その政権担当の成果、つまり実験の結果によって、その政見が適切なものであったかどうかということを、正当な手続によって、その社会のメンバーによって判断してもらう。これがつまり実験結果による仮説の検証である。近代民主主義社会では、いろいろ制約はあるが、その社会のメンバーであれば、原則としてだれもが選挙権を持つし、だれが立候補してもいいことになっている。年齢などの一定の資格を例外として(ある時期までは性別が重要な資格になっていたのだが)、血筋とか信仰とか身分とか職業とか、そういうもので政治的権利にちがいが生ずることはない、いや、そういうことがあってはならないとするのが近代民主主義である。それは近代科学と同様だ。近代科学でも、だれにだって仮説を唱える権利はあるし、仮説を疑う権利もある。

 


近代民主主義の社会的基盤
 しかも、近代民主主義は、たんにそういう政治制度があります、というだけのものではない。その近代民主主義的なものの考えかた――ときには「近代」を取っ払った「民主主義」的な考えかた――は私たちの日常にまで染みとおっている。

 ――なんてかくと、おや、筆者はさっき言ったことと逆のことを言っているぞ、というようなことを感じた人もいらっしゃるかも知れない。いや、そう感じていただければ筆者としちゃあたいへんうれしいんだけど。

 私は、さっき、自由主義について書いたときに、べつだん社会全体が自由主義の考えかたを受け入れたわけではないが、なお自由主義はその当時の社会を主導する思想であり得たということを書いた。ということは、近代民主主義についても同じことが言えるのではないか? 政治制度として民主主義がある。だからといって、それを採用している社会が民主主義の文化に染まっているとは言えないのではないか?

 そのとおりである。

 そして、実際、政治制度として近代民主主義の制度を持っていながら、社会的にその考えが浸透していない社会というのはこの地球上にはいくらも存在する。まあ具体的な名まえを挙げると差し障りがあるかもしれないから、自分で任意の国家や地域について考えてみてください。

 だが、いわゆる西側の先進国――いまとなっては「旧西側」というべきだろうか――の社会についていえば、いろいろ問題はあるにせよ(そしてその「いろいろ問題」の一部をこれからとりあげて行くわけだけれど)、いちおう民主主義的な文化が社会に浸透していると考えていい(「先進国」という表現が気に入らない人いません?)。

 自由主義では「自由主義の考えかたが社会に浸透していたとはかぎらない」と言っておきながら、近代民主主義については、近代民主主義の考えかた自体がすでに社会に浸透していると私が言うのはなぜか?

 それは、近代民主主義が伴った社会の大衆化というもののおかげである。

 社会の大衆化はそれこそ産業化の直接の成果であると言っていい。その基盤は初期の産業化が引き起こした都市への人口集中――すなわち都市化であったと考えてよいだろう。

 その社会に初等教育が普及した。初等教育の普及にはもちろん中央集権的な強力な国家権力が不可欠である。そうでなければ、子どもを勉強させるよりは小さいうちから働かせたほうが実践的な教育にもなるし収入にもなるしそっちのほうがよっぽどいい、ガッコウの勉強なんか金持ちの坊ちゃん嬢ちゃんに任せておけばいい――と考える親が多数だっただろうし、実際、少なからぬ「発展途上国」ではいまだにそうである(もちろん社会の親たちが子どもを学校に通わせる経済的余裕が社会全体にないという問題も大きい)。そうした親を学校教育に向かわせたのは、国家権力と、その学校教育の階梯を昇りつめた場合に約束される社会的・経済的成功の夢であった(「末は博士か大臣か」――っていまさらこんなことば使わないよねぇ)。しかし、それを可能としたのは、全国民の子女を通わせる学校を作り、そこで使われる教材を印刷し、電気を供給し……ということを可能にした社会の産業化であった。また、すくなくともいまの「先進国」に初等教育が普及した時期には、子どもを非生産的な学校教育の場に投げこんでも親が経済的に困窮することのない程度まで社会の生産効率が上がり、親の収入が確保されていたということである。それは産業化の成果であった。それによって、一国内で一様なことばをしゃべり、共通の知識の基礎を身につけ、しかも同じぐらいの程度まで字(単語)を読んだり書いたりすることができ、同じくらいまでの計算技術を持った、それまでの社会では考えられなかった均質な人間が社会に出ていくことになったのである。

 社会の大衆化を促したのはそればかりではない。印刷術の普及、交通・通信技術の発達は、全国の――ひいては全世界の人びとに均質な(かならずしも「同じ」ではない)情報を提供することとなった。電波メディアの普及は、その社会の教養を均質化しただけではなく、たとえば娯楽の形態の均質化にまで影響を与えた。前近代社会の遠く離れた某所と某所でまったく同じ民謡が歌われていることはあまりなかった(もっとも前近代社会の情報交換能力を甘く見てはいけないが)が、いまでは北海道の人と東京の人のあいだで『赤ずきんチャチャ』を共通の話題として話すことができる。

 そして、その大衆化された社会は、政治的民主主義を制度として持っていることが多かった(大衆化と政治的民主主義)。それは、たとえば選挙というような、そこに住む者すべてを巻きこむことになっているものが、社会の隅々にまで行われることで浸透していった。もちろん、出版・放送などのメディアや、学校教育の果たした役割も小さくない。日本の戦後民主主義のばあい、やはり学校教育の比重が大きいのではあるまいか。

 


大衆社会のなかの近代民主主義
 もちろん大衆社会が原理的な近代民主主義をそのまま受け入れたのではない。それは、大衆社会に受け入れられる過程で、極端に単純化されたり、既存の社会制度や慣習と融合したりしながら、大衆社会に浸透していった。しかし、大衆社会が民主主義をトータルに拒絶することはまずなかったのではないだろうか。

 それは、時代を超越したある発想と民主主義とが非常に近い関係にあったからである。その「時代を超越した発想」とは、つまりは世界は普通の人びとのものである、民衆はいつも正しいという発想である。

 これはべつに近代民主主義に特有の論理ではない。というよりそれは近代民主主義の論理にとっては不当な単純化である。近代民主主義は人民はまちがった選択をすることもあるということを前提とした制度だ。選挙民も、選挙民に選ばれた政権担当者も、まちがうことはある。そのまちがいに気づいたときにはそれを修正する機会を最初から制度的に作っておく。その制度が選挙だ――というのが近代民主主義の仕組みなのだ。

 この「民衆は常に正しい」という信念は、「神」とか「天」とかいう「超越」的なものを信じているか信じていないかということによって必ずしも規定されるわけではない。神の意志は民衆のなかにこそ体現されるものであって、為政者が民衆に圧制的にふるまったりすれば、その為政者は神の意志を蔑ろにしているのである――というかたちで、その発想は現れうるし、また、実際に、世界各地の数々の宗教戦争や民衆反乱、「千年王国運動」と呼ばれるようなもの、あるいは日本の「一揆」などといったもののなかに出現してきた。『水戸黄門』の世界だって「民主主義」的であり得る。民衆を虐げる悪代官は黄門さまご一行の葵のご紋の権威によって(まあそれだけじゃないが)打ち払われる。無力でおとなしい民衆はいつも正しいのだ(また蛇足だ)。

 かくして、いつの時代でも、「民衆が主人公の政治」という殺し文句はどんなに政治不信が募っても――いやそれが募るほど乱発され、しかも一定の成果を挙げるものなのだ。せいぜい、「民衆」というところに「人民」ということばが入ったり、「人民」が古くなったらそれが「国民」になったり「市民」になったりという、それだけのことである。「民」がついているそれらしいことばならばなんでもいいのだ。

 しつこいようだが、「民衆が政治の主人公」という表現は、古代民主主義についてならともかく、近代民主主義にとっては不当な単純化である――まあべつに選挙のためのキャッチフレーズなんだから単純化しようが何しようがかまわないようなものであるが。『トンデモ本の逆襲』の表現を借りれば、新幹線のひかりが光速で走っていなくても、タイガーバームの成分に虎が入っていなくても、べつにそれは不当表示ではないのだ。

 だが、重要なことは、かつて古代民主主義を支え、「神」や「天」や「皇帝」や「教皇」の時代にも民衆社会の信念として形を変えて保たれつづけた「民衆はつねに正しい」という思いこみにとって、近代民主主義は、一見、非常に受け入れやすい発想だったというのも事実なのである。要は、近代民主主義が「民衆が政治の主人公」であるという思想であるということだけを受け入れるにとどめて(そんなことは啓蒙専制君主だって口にしたことばなのだが)、それが民衆の意思というものを政治社会でどのように反映させる仕組みを持っているのかということまで考えなければ、あるいは選挙権によって民衆は万能であるのだと信じこむならば、それでいいのだ。

 ならば、前世紀まで近代民主主義が受け入れられず、かえって危険思想視されたのはなぜかというと、ひとつには近代民主主義そのものが未成熟だったからである。それはたかだか西欧の一地域の都市民のある階級の生活様式に根ざした政治思想にすぎなかった。それが、やはりヨーロッパ各地の身分制議会の伝統やら教会の投票の伝統やら進化論やら社会主義者からの批判やら政治社会のアウトサイダーとされた人たちからの挑戦やらと接触するうちに、いま見るような近代民主主義ができあがってきたのである。また、そのころには、村落には村落共同体の秩序があり、非農業民にも独特の秩序意識があって、近代民主主義のような思想が体系的に入っていく余地が少なかったからである。その社会の「民衆」は、一揆とかシャリヴァリ(制度化された民衆的いやがらせ)とかいう反抗手段で民衆の「正しさ」を示していればよかったので、べつに近代民主主義は必要なかったのである。やはり産業化に伴う都市化でそういう規範が弛み、しかも村落共同体の側でも新しい組織原理を求めていたところに、自由主義とそれにつづく近代民主主義が流入したのだ。

 ともかく、社会が産業化によって大衆化してきたところに、その社会にはるか昔から受け継がれてきた「民衆はつねに正しい」という考えに一見すると適合的に見える近代民主主義というものが入ってきた。そういう条件のもとで、近代の先進国は、民主主義的な文化を持つことになったのである。

 


民主主義社会にとって「トンデモ」は病理現象か?
 私たちの社会は、民主主義的文化に支えられた、近代民主主義を政治原理とする社会である。そして、その近代民主主義の原理は、近代科学の真理の基準を政治に適用したものという性格を持っていた。

 その近代科学の真理の基準に挑戦するもの――それこそが「トンデモ」である。

 では、「トンデモ」の大量発生は何を意味するのか?

 「トンデモ」が一部の狭い範囲での現象ではなく、社会に広く受け入れられ、物理学のトンデモ本が書店で平積みになって正統科学の概説書を圧迫している事態を私たちはどう考えればいいのか?

 それは民主主義文化に支えられた社会にとって、その原理を根本から否定するような病理現象なのだろうか?

 それとも、それは、近代科学の発想を、ひいては近代民主主義の発想を否定する者にも「言論の自由」を認めるという民主主義文化の誇るべき成果なのだろうか?。

 私たちは現象としての「トンデモ本」をどう考えたらいいのか?

 問題はようやくそこに帰ってきた。



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