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トンデモと科学

―― 『トンデモ本』シリーズに関するある随想 ――


清瀬 六朗




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3.「トンデモ」と現代民主主義

 


ただ、それだけのこと
 私は特殊相対性理論は正しいと信じている。そして、その理由として、特殊相対性理論を検証した実験で、それを否定するような結果が出なかったからだと書いた。

 じゃあ私はそれを検証する実験をやったのか、というと、やっていない。

 マイケルソン−モーレーの実験装置というのはそんなに大がかりなものではないが、やっぱり自宅で作るとなるとそうとうに覚悟がいる。原理的には光源とハーフミラーと鏡があればできるものだが、そこに干渉縞が発生していないことを確認するためにはそれなりの精度が必要だ。精度の悪い機械を使ったらかえってへんな原因で干渉縞が発生してしまったりしかねない(特殊相対性理論の検証)。

 まして、現代物理学理論の多くを検証してきた加速器なんてものは、とても一家に一台とか町内に一台とかいうような程度で設置することはできないものである。CERNがスイスとフランスの国境に持っている加速器で粒子が走る一周の距離は山手線一周に相当するときいたことがある。もちろんそれは現在の加速器のなかではなみはずれて大きいものだが、しかし現代物理学の検証に役立つぐらいの加速器はおいそれとは作れるものではない。放射線医療に使われる機器のなかには加速器と同じ原理を使っているものもあるようだが、それだって高価なものだし、一般人がおいそれと扱うことのできるようなものではない(放射線医療の機械を扱うには資格も必要だ)。

 特殊相対性理論だって一般相対性理論だって量子力学だって、それを証明する実験というのを私は一つもやったことはないのである。

 じゃあなぜそれが正しいと信じているかというと、私が読んだ複数の(「トンデモ」ではない)物理学の本に、それが正しいと書いてあるからだ。

 こういうことを書くと、「それ見ろおまえだって特殊相対性理論の正しさを自分でたしかめたわけではないじゃないか、そういうのをアインシュタインを信奉しているというのだ」と「トンデモ」の人たちはいうであろう。

 まさにそのとおりである。

 だから、私は、「トンデモ」が正当に現代社会のなかに出てくる過程を知りたいのである、と、「正当な」とわざわざ書き加えたのだ。

 もちろん、それを「アインシュタインを信奉している」と言っていいのかどうかはわからない。

 私が「トンデモ」ではなく正統物理学者の言を信じるのは、その物理学者の書いている内容がまず矛盾しないし、私にとって受け入れやすい内容だからである。私は異星人の乗り物を見たことがない。もちろん私には正体をはっきり知ることのできなかった飛行物体らしいものは見たことがある。「UFO」とはほんらいそういうもののことである――と『トンデモ本の逆襲』に書いてあるし、「それが何か確定されていない飛行物体」の略語なんだからやっぱりそうなんだと思う(「UFO」およびユダヤの陰謀)。しかし、それは、飛行機や、夕日が反射した雲の断片であった可能性のほうがはるかに強いと私は思っている。もちろん実験木さんと語り合ったこともない。木に感情があるかどうかは知らない。木が環境に応じて元気になったり木にストレスがたまったりすることはあるだろうと思うけど、それが太陽が熱いか冷たいかとかそういうことを知っているとはあんまり思わない。それよりは、物理学者が書いているマイケルソン−モーレーの実験の結果とかビッグバン仮説とかのほうが真実である蓋然性が高いと感じる。いちおうその本で書かれている現象が、私が「こういうこともありそうだ」という蓋然性が高いと思う範囲内にあり、しかもその本で提示されている理論がそれをきちんと説明していると感じるからである。それだけのことだ。

 もひとつ言うと、私にとってはやっぱりトンデモ物理学より正統科学のほうがスリリングで楽しいのである。だっていわゆる「UFO」とか古文書とかだれかの予言とかユダヤの陰謀とかで宇宙の真理が知れてしまってはなんにもたのしいことはないではないか。それだったら、火・土・風・水のクリスタルの力を使って暗黒の復活と戦うほうがずっとスリリングで楽しい(WWFの奥田氏はFFVでものまねしゴゴ……あ、この話はさっき書いたな)。それに、わざわざ正統科学の外に正統科学の定説を否定するような物言いのものを探さなくても、正統科学の本を読めば、私たちが常識だと思っていたことに思わぬ疑問をつきつけるようなことがいくらでも書いてある。私には「トンデモ」よりそっちのほうが楽しいのである。いわゆる経路積分とかファインマンダイヤグラムとかの基本的な考えかたを、ただ理論物理学に興味があるというだけの人を相手に講義したファインマンの『光と物質の不思議な理論』なんてとっても楽しく読めた。でも、べつに正統科学の本より「UFO」とか古文書とかについて書いた本のほうが楽しいという人がいたってかまわないと思うし、またそういう人がいるから「トンデモ」がこれだけ隆盛する。それだけのことだ。

 「それみろ、それだけのことじゃないか」――と「トンデモ」の人たちは言うであろう。そのとおりである。

 私は私が「アインシュタインを信奉」しているとは思っていない。それは、さっき書いたとおり、ちゃんと批判意識を持って読んでいるという自負があるからだ。ホーキングの書いたものも、ファインマンの書いたものも(ところでファインマン物理学を正面切ってとりあげた「トンデモ」ってあんまりきかないな)、湯川秀樹や朝永振一郎のものでも、私は、どこかに矛盾するように思えることを書いていないかどうかを意識しながら読んでいる。でも、楽しみのために読んでいるんだからそんなに厳密に批判しようとして読んでいるわけじゃないし、書いているほうが私よりずっと専門的知識は豊富なんだから、ごまかそうと思えばいくらでもごまかしはきく。もちろん誠実な著者であれば、自分にはよくわからないところはちゃんとよくわからないと書くものだし、そういう著者の誠実さを信頼し、専門知識もあり誠実でもある人が書いているんだからそれは信頼してもよいだろうと思う。

 こう書くと、だったらそれは「木とお話のできる先生の人格が高潔で誠実だからその説がまちがっているはずがない」という「トンデモ」の思いこみとどこがちがうんだということを言われるかも知れない。

 だからそのとおりなんだって!

 もちろん、「木とお話ができる先生」のばあいと、正統科学での説明とではやはりちがいがある。正統科学の誠実さとは、自分では検証できない点について、あるいは自分で自信がない点について、「こういう点の説明がつかない」とみずから公表して、できればそれをどういう方法によれば検証できるかということについても示唆することによって示される。極端にいえば、その人の性格がいかに奇矯なものであっても、正統科学の採用する真理の基準――つまり検証可能性の点で誠実であれば、その科学に対する態度は誠実であると判断しない理由はない。逆に、それ以外の点でいかに人格高潔であっても、検証可能性の面でイイカゲンであけば、残念ながらその著作に科学的な正しさを認めることはできない。

 だから、私が正統科学と「トンデモ」を比較して、正統科学を支持するのには理由があるのである。たしかに検証可能性という基準において「トンデモ」より正統科学がすぐれていると私は考えている。

 でも、ようするに、ただそれだけのことなのだ。

 


ようやく話は本題に……
 私はたしかにいわゆる「UFO」を見たことはない。だが、マイケルソン−モーレーの実験だって体験したことはない。私の日常生活にとって、光速度が不変だろうがエーテルが光を伝達していようが、どっちだってそんなに不都合があるとは思えない。

 いや、相対性理論や量子力学がなければ、私がいまこれを書くのに使っている――あるいは貴方がこれを読んでいるパソコンはなかったであろうし、あるいはこの論文を記録してくれているプロバイダのコンピューターも存在しなかったであろう。ついでにいうと、加速器を使って放射線や素粒子について研究しているCERNという機関がなければ、インターネットだってこんなふうに使えていたかどうか怪しいものなのである。べつにパソコンだけではない。私たちが精密な電子機器を活用して生活していられるのは、現代物理学が「検証可能性」の厳格な基準に合格して産業に応用できるものになっているからなのだ。それがただ「現代物理学の誤った論理の誤りがたまたま発覚しなかった」という偶然のいくつもの組み合わせによって可能になっているというという蓋然性はあんまりなそうである。

 が、ようするにそういうことは「ブラックボックス」に入れて知らなければいいのである。「トンデモ」の著者が、自分が原稿を書いているパソコンやワープロや、自分が食っている飯を炊いているマイコン釜なんかが現代物理学の理論と関係があるかどうかを「わからない」ことにしてしまうのは――調べればいいのである。最初に書いたように、現代物理学の理論でも、「ここのところはどういうふうになっているかわからないけどこういうふうになっているんだからこういうことにしておこう」と、「よくわからないけど正しそうなこと」をステップに含めて議論を進めることは許されている。それを「ブラックボックス」というのであるが、しかし、なんでもかんでも「ブラックボックス」にしてしまっていいわけではない。いくら調べても現代の科学でははっきりしたことがいえないものにかぎって「ブラックボックス」にしていいというだけの話である。

 なんでもいいけど、なかなか本題に到達せんなあ、この文章……。

 まぁそこは妥協するとしよう。現実においても、コンピューターの専門家がすべて現在使われている半導体というものの基礎理論を細かく理解しているわけではないだろうし(半導体の定義ぐらいは知っているだろうけど)、地球科学の専門家とはいっても地震学者がホーキングの時間論についてそれほど通じているともかぎらない。だから「トンデモ」の人が、エーテルが存在しないことを前提に作られたハイテク機器を使って生活していたってかまわないことにするとする。だいたいそれは近代科学の原則を「トンデモ」の人にあてはめるからそういうことが起こるのであって、「トンデモ」は近代科学の原則の外にあるのだから、そんな近代科学の科学者世界のルールなんかにはかかわりなく生きていると考えてもちっともかまわぬのである――し、じっさいそうやって生きている「トンデモ」の人が多いであろう。

 何の話をしていたかというと、つまり、自分の生活を便利にしているハイテク機器がすべてエーテルなんか存在しないという基礎に立って考えられた理論のおかげで存在しているということにまったく頓着しない人にとって、「UFOを見たことがない」ということと「マイケルソン−モーレーの実験なんかやったことがない」ということは何のちがいもないということをいいたかったのである。そして、科学者ではない平均的な人にとって、それはべつに異常なあり方ではないのだ。

 ふう、ようやくちょっと本題に近づいた。

 マイケルソン−モーレーの実験というのは、「平均的な人」にとってはなかなか意味のつかみにくいものである。それは台を回したら反射板に光の縞ができるはずだったのが何度実験してもできなかったというそれだけのことだ。それは光を伝達するエーテルというものの存在を確かめるための実験だった。しかし、そんなこと、べつにエーテル食って生きているわけじゃないのだからやっぱりあんまり関係ない。だが、それが、「だれから見ても光の速度は一定だ」ということになると、ちょっと常識からはずれるような感じがする。さらに、光速の90パーセントで飛んでいる宇宙船どうしがすれちがっても、そのすれ違った速度が光速の1.8倍にはけっしてならないとなると、非常に常識から外れている感じがする。時速90キロの上り列車と下り列車(最近はあんまり「上り・下り」と言わなくなったそうだが)がすれちがっても時速100キロを超えないなら、どうダイヤを組んでいいかまるでわからなくなってしまうだろう――まあほんとはローレンツ変換の公式を使えばいいのだけど。

 もちろん、特殊相対性理論を順を追って理解しようとし、その各段階での矛盾があるかないかを検証していけば、その考え方は高校生の山本少年にもわかる程度のものである。だが、重要なのは、多くの人が高校生の山本少年程度に熱意を持って相対性理論を理解しようとはしないことである。しかも、多くの平均的な人々は、高校生の山本少年ほどでないにしても、宇宙について知りたいという願望はちゃんと持っているのである。

 そうしたとき、自分になじみのない実験を通して得られた理論が、日常生活で感じる常識とはあきらかにちがった結論を導きだしたのを信じるか、「UFO」に教えてもらった真実と称するもののほうを信じるか。論理を順序立てて追えば特殊相対性理論がマイケルソン−モーレーの実験の結果をきちんと説明できていることはわかるはずである。けれども論理を追わないとしたら、あるいは「マイケルソン−モーレーの実験を、何度、どんな精度で繰り返しても干渉縞が見えない」ということの意味をきっちりと捉えようとしないならば、日常生活で感じる常識により合致した結論――つまり光速を超えることは可能だという結論のほうがより正しく感じられるというものではないだろうか。

 


「専門化」の果てに
 最初に書いたように、物理学というのは、私たちの日常のことばを使い、日常に起こる現象を説明しているにもかかわらず、あまり日常的ではない概念の使いかたをする学問である。それが正当であるのは、検証可能性という基準によって、それがだれがどこで実験してもその理論どおりの結果が再現するということによっている。

 たしかに、中学・高校程度の物理であれば、中学・高校の実験室で実験して確認することはできる。できる、とはいうが、それでも誤差範囲になかなか数値がおさまらなくて苦労した記憶が私にはある。初歩の物理学の問題を解くときには、バットで打ち上げたボールは放物線を描いて落ちてくるということにして解くわけだけど、実際には空気があるのでそんなことは起こらない。だいたいボールがバットで打ったのとおんなじ運動量で野手のところに落ちてきては左手が痛くてたまらないだろう(バットで手のひらを思いきりぶったたかれたのと同じ衝撃があるはずなのだ)。スタンドで子どもに当たったりしたら「ファウルボールにご注意ください」じゃすまないはずである。「空気がなければそうなるんだ」っていうけど、空気のないところで野球をやったやつなんかいないんだから要するに「実感」することなんかできはしない。

 中学・高校程度の物理学でもそんな調子だから、もうマイケルソン−モーレーの実験とか粒子加速器での実験結果とかになると、「だれでも、どこでも」実験して確かめるというようなことはできなくなる。それはたとえばアメリカ合衆国の加速器で実験した結果をヨーロッパの加速器で実験し直すことはできるだろう。しかしその実験結果を直接に知ることができるのは――そしてその結果の意味を手順を追って解釈することができるのは、一部の専門の物理学者だけになってくる。

 私たちは、それらの学者が発表したことを正しいとして受け入れることしかできない。たしかにだれにだって仮説を立てる権利はある。けれども、加速器を使って実験した結果から当を得た仮説を立てることができるのは、事実上、かなりの専門的知識を持った者に限られてくる。もし、万一、市井の一市民が当を得た仮説を立てたとしても、それを検証する手段はまずない。もしその手段を得ようとすれば、どこかの加速器を持っている機関に「私が仮説を立てました、検証するために加速器を使わせてください」と申し出ても、そこの管理をしている人を説得するだけの専門的な議論に習熟していなければまず加速器を使わせてくれることはない。べつに意地悪でやっているわけではない。加速器なんてものは一回使うだけでものすごい手間が――そしてカネがかかるものなのだ。その手間とカネを費やしても割に合うような仮説かどうかを事前に検証することは、施設をなるべく有効に運用するためにぜひとも必要なのである。

 もちろん科学の分野によっては「しろうと」の参入に対する垣根がそんなに高くないところもある。コンピューターソフトの開発もそういう面があるし、天文学のうち、彗星や流星の観測もそうだ。というより、惑星表面や彗星・流星の観測は、多くのアマチュア天文家の存在を抜きにしては成り立たない分野である。多くの、まあまあの収入があれば買える望遠鏡や双眼鏡が空を観察しているからこそ、大型望遠鏡は安心して大型望遠鏡でしか観測できない対象の研究に専念できる。

 だが、「トンデモ」が好んで対象にしたがる宇宙論とか理論物理学とかはそうではない。アインシュタインが「思考実験」という手段を使っていたことはよく知られているけれど、今日では(というか量子力学が創始されたころからなんだけど)、「思考実験」ですら複雑な統計処理を必要とするものになり、単純に回答を出すことができないものになってしまった。

 「だれでも、どこでも検証できること」が真理性の基準であった。だが、理論物理学の先端理論は、「だれでも、どこでも検証できる」とはいかないものになってしまった。それを知るためには、ある専門知識を身につけ、ある特殊な装置を使わなければならなくなってしまっている。もちろん、その専門知識を身につける機会は各個人に平等に分配されていることになっているし、加速器なり大型望遠鏡なりの使用申請を行うのにべつに資格はいらない。運転免許証の申請よりはずっと間口は広い。ただし、専門知識を持たない者の申請が認められる可能性は運転免許なんか問題にならないほど小さい。

 圧倒的に「平均的な人びと」で構成される「一般市民」は、「だれでも、どこでも検証できる」はずの「正しい」理論について、自分ではないほかの「だれかが、どこかで検証した」結果を間接的に聞くことしかできない。また、それ以上、理論的説明を聞こうなんて思わないのである。そんなしんどいことをしてまで理論物理学の正しさを知って何になる? トップクオークが実在しようがしまいが日常生活には何の関係もないではないか(ところでトップの対はダウンじゃなくてボトムですぜ>前野さん)。それは「一般市民」が無気力なのではない。「私たちの住んでいる世界をなるだけ単純で普遍的に説明したい」という物理学の体系が複雑化したのだ。それも物理学者がイジワルで複雑化させたのではない。「なるだけ単純で普遍的に説明」しようとすると大学院レベルの数学を知らないとその説明が理解できないほどこの世界は複雑であることがわかっただけの話である。それを知ろうとすることは、一般市民が日常生活を送りながらやるには、かなりの情熱なしにはむずかしいことになってしまったのである。

 


やっとめぐってきたブリュメール一八日
 さて、いま私は物理学の話をした。では、近代物理学とは産業化から生まれた双子の関係にある近代民主主義はどうだろうか?

 たしかに私たちは普通選挙制度のもとで選挙権を持っている。また、ある年齢以上であれば被選挙権もある。選挙があれば立候補することもできる。だが当選するのはあまり楽ではない。現在の日本の選挙では、市井の一市民が選挙に立候補して当選するのは不可能に近い。もちろん市井の一市民がある組織や運動や政党の支持を得ることができれば別である。選挙運動にはカネもかかる。カネの問題は選挙制度改革でなんとかなるにしても(というよりぜひなんとかすべきだと思うけど)、選挙に当選するにはまたいろいろなテクニックがある。当選する確率はかぎりなく小さい。聞くところによれば、衆議院の総選挙では「政党本位」になったのでいっそう当選の確率は小さくなったようである。

 また、選挙に当選したからといって何であろう? 当選すれば、自分が掲げた政見どおりの政治ができるだろうか。なかなかそれはむずかしい。むずかしいのは、まあ大部分は実現不可能な政見を公約に掲げて当選したりするからであるが、けっしてそれだけではない。選挙で人民の代表で〜すなどと言って政治の場に乗りこんでみたところで、そこには専門化された知識と技術を持つ官僚がいて、その官僚が独特の仕事のしかたを組み上げ、その仕事については基礎知識も何もない議員なんかに口を出せる余地があるわけもない。

 もちろん専門知識を持った議員というのもいないわけではない。とくに官僚出身の議員はそうである。けれども、そうした議員(「族議員」とよばれる)は、その知識を専門とする省庁の官僚との人脈で政治を動かすことはできても、とても専門知識でもって専門官僚を押さえつけることはできない。そうした議員は、国民の代表として省庁を管理するよりも、その省庁の代理人としてほかの議員と闘う局面のほうが圧倒的に多いであろう。

 また、選挙はたしかにその社会のメンバーに与えられた、政治に対する検証の機会である。だが、私たちが政治の何を判断できるだろう? 原子力政策と、薬害エイズと、O-157と、消費税と官僚機構改革と、パレスチナ和平と、朝鮮半島情勢と、日米安保体制と、地震対策と……のすべてについて専門的な知識でもって政治を判断しうる有権者が日本に一人でもいるだろうか? そのすべてが判断にあたって概略をつかむだけでもかなりの専門性を要求される問題点なのである。

 私たちが政治をどういうふうに判断して投票してきたかということについてはいろいろ研究があるはずだから参照してほしい。ともかく、気づいてみると、政治を動かしているのは、私たちの投票結果ではないという事態がそこにあった。政治を動かしているのは執行権力(つまり行政当局)であり、専門的な知識と技術を身につけた官僚であり、その官僚によって構成される官僚制だったのである。これは日本でその傾向が著しく、たとえばアメリカ合衆国なんかでは専門官僚の地位というのはあんまり高くないなど、国によって「傾向」のちがいはある。しかし、現代民主主義は本質的にこの官僚制支配の問題を抱えているというのはたしかなことだ。マルクスは、『ルイ・ボナパルトのブリュメール一八日』で、代議制民主主義は執行権力の専制に屈服せざるを得ないことを論証した。そして、その執行権力の専制の問題を唯一解決できるのがプロレタリアート革命だとしたのだ。マルクスの理論は、プロレタリアート革命においてではなく、執行権力の専制において実現を見てしまった。

 官僚制支配の是非についてはここでは論じない。専門技術者による支配を人民による支配(つまり民主主義)よりすぐれたものとしてとりあげた思想家にヴェブレンという人がいるそうである。そのへんのことはファイナルファンタジーVのものまねしゴゴを倒した奥田氏に譲るとしよう。

 近代民主主義の原理は、その社会のメンバーがだれでもその社会をよくする方法を考えついてそれを実行するチャンスを与えられるというところに立脚していた。たしかに今日の社会もその原理を否定してはいない。だれだって専門的知識と技術を持った官僚になることはできるはずだからである――原理的には。しかし、近代民主主義にとってもっとも重要であるはずの選挙という制度は、とっくの昔に、「こうすれば社会はよくなる」という考えを提唱してそれを実行するチャンスを与えてもらえるかどうかを選挙で判断してもらうための制度ではなくなってしまった。そこでは、「政治の主人公は国民」だとか「市民を主人公とする政治」とかいう、啓蒙専制君主だって口にしたようなスローガンばかりが横行する。べつにそういうスローガンしか出せない政党を非難しているわけではない――わけではないけれど、しかしそうなってむりからぬ状況があることを見過ごしてはいない。民主主義政治はとっくの昔に私たちにとってみずから参加するものではなくなってしまった。それはテレビで解説してもらうものであり、尽きせぬスキャンダルの提供源であり、ようするに「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかの大部分にとってそれは「見る」ものにすぎなくなってしまった。

 政治の「専門化」は、近代民主主義の基本をなす発想をまったく形骸化させてしまった。それは、政治を行う役割を少数の専門官僚に集中させ、その他の多くの「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかをその政治を見て楽しむだけの立場に落ちつかせてしまったのである。

 ちょうど、物理学の「専門化」が、物理学にとっての真理の基準を形骸化させ、理論を立てて実験を行う少数の専門物理学者と、それについての情報を受け取って楽しむだけの立場に落ちつかせてしまったのと同様に。

 


お疲れさまでした
 だが、問題はそういうことではないのだ。

 政治の主役を少数の専門官僚に譲ってしまった「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかは、しかし、その政治を見ているだけの自分がなお政治の主役だと思っている――もしくは思いこみたがっている。

 ことわっておくが私はそのことを非難しているのではない。もし「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかが自分こそが政治の主人公だという思いこみを失ってしまったら、政治は選挙結果という不確定要素によってかき乱される機会を失い、沈澱して淀みきってしまうしまうだろう。ただでさえ淀んで腐敗が進行している部分があるというのに。

 もちろん、「国民」とか「市民」とか「人民」とか「民衆」とかいう人たちが「自分こそが政治の主人公だ」と思って、政治の見物人に過ぎない自分に多大な権力があるように思いこんでしまうこともよいことだとは思わない。なぜなら、見物人に権力がないからではなくて、見物人には権力がありすぎるからである。しかも、近代民主主義では、選挙民が選挙の際に揮う権力であっても、立法府の権力であっても執行権力(行政)であっても政治権力はその権力に対して責任を持つものとされる。だが「見物人」の権力は何に対しても責任を負わない。実行に対してまったく責任を負わず、ただ強大なだけの権力というものほど危険なものはない。

 そして、それと同じように、専門の物理学者がやった結果に対する見物人にすぎない平均的な人々も、自分で手応えを感じながら宇宙を――宇宙を支配する法則に到達したいという願望を持ち、しかも自分にはその資格があると信じているのである。

 もちろん、それは近代民主主義において形式的には主権者がなお人民であるように、たしかに形式的にはその資格はあるのである。ただし、それは「物理学の発想をきちんと理解し、それを裏打ちする数学をきちんと理解して、学説を批判する」権利として具体的に現れるのであって、そういう過程をとばして宇宙を支配する法則に到達する権利なんて近代科学はだれにも認めてはいない。

 こう書くと、物理学に数式を使うのは数式バカとかいう批判をする「トンデモ」があるらしいからいちおう書いておく。物理学にとって数式が不可欠なのは、それが、世界のものごとからいっさいの個別的・具体的なものを取り去って、普遍的に単純に表現する手段だからである。太郎さんがリンゴ4個を買い、花子さんがリンゴ3個を買って来たなら、リンゴは合わせて7個だ――まえに買ったリンゴが残っていたり、帰る途中で食ってしまったりしなければ、であるが。で、紗南ちゃんが写真を4枚撮り、秋人君が写真を3枚撮れば、写真は合わせて7枚である――まえに撮った写真を秋人くんが隠していたり、紗南ちゃんがどこかで写真を落っことしたりしないかぎり。ここから、リンゴだとか写真だとか太郎さんとか花子さんとか紗南ちゃんとか秋人くんとかいう個別性・具体性を取り去ったところに残るのが4+3=7という数式である。それが世界を普遍的に単純に説明するにはいちばん適しているのだ。なぜ適しているといえるかというと、それはそういう説明によって矛盾が出る蓋然性をいちばん低く抑えられると社会では考えられているから――つまり検証可能性という真理の基準に適合しているからなのである。

 とはいうものの、である。「物理学の発想をきちんと理解し、それを裏打ちする数学をきちんと理解して、学説を批判する」ことができるような人は、普通は物理学のたんなる見物人になったりはしない。もちろんそういう人もいるであろう。しかし、物理学のたんなる見物人のなかでそういう人はかなりの少数派である。

 多くの人は、物理学のたんなる見物人であり、しかも物理学というものがどういう考えかたをするかもほとんど知らないで、しかも物理学的に宇宙の真理を知ろうとする。だが、正統科学はもともとそんな横着を認めてはいない。

 しかし、物理学を自称しながら、「これが宇宙の真理だ」ということを提示することはできる。もちろん受け手の側は物理学の発想などというものにはいっさい拘束されない。知らないか、むしろ物理学の発想というものに反感を持っているかも知れない。かくいうこんな文章を書いている私だって中学高校のころにはずいぶん物理って科目に苦しめられた――私を教えてくださった先生方には失礼だけど、中学生・高校生のころに物理がおもしろいと思ったことなんかほとんどない。だから、もし、ファインマンの『光と物質の不思議な理論』とかそのほかのいろんな本に出会うことがなかったとすれば、私は物理学を理解せずに反感を持ち続けていただけかも知れない。そんなわけで、私は「物理学で数式をありがたがるのは数式バカだ」と決めつける文章を読んだらじつに爽快に感じる、その気分を理解できないわけじゃない。よく理解できるのだ(ちなみにファインマンの『光と物質の不思議な理論』ではほとんど数式らしい数式は使っていないはずである)。

 物理学的に見れば「ユダヤの陰謀」なんて単純な説明でもなんでもない。どうしてユダヤがそういう陰謀を企てるのか、どうして裏切り者からその裏事情がそのまま露見するということがないのか、またどうして陰謀だとしてそれが相対性理論のような物理学理論として現れなければならないのか――そうしたことのすべてを、単純に、普遍的に説明できないことには、それは実証された仮説とはいわないのである。そしてそれはほぼ不可能である。

 だが、物理学の発想を知らない者、あるいは物理学の発想そのものを理由をつけて拒否する者には、そちらのほうがずっと単純に映る。相対性理論を理解するには、それが高校生の山本少年に可能なことであっても、まずニュートンの古典力学で、速度の概念をおぼえ、加速度の概念を覚え……というステップを積み重ねなければならない。しかし、「これが宇宙の真実だ→われわれが複雑な理論を聞かされているのはユダヤの陰謀だ」とか、「これが宇宙の真実だ、なぜなら宇宙人がそれが正しいと語ったから」とかいうものであれば、証明のステップは二つですむ。もちろんそれは科学的には証明にも何にもならないが、その科学的発想を拒否する者にはそんな物言いはそもそも通じない。

 近代民主主義を支える民主主義的文化が近代民主主義の原則を忠実に受け入れたものであれば、近代民主主義の原則とは近代科学の原理にほかならないわけだから、そうしたものは例外現象にとどまったであろう。だが、さきに指摘しておいたように、それは近代民主主義の理性的理解として受け入れられたのではなかった。近代民主主義は、19−20世紀までの社会を構成していたいろいろな共同体と共同体原理が、社会の産業化によって崩壊や変質を経験したときに、民衆の「民衆はいつも正しい」という感情に適合したことで民衆世界に受け入れられたのである。だから、それは、近代民主主義を民衆世界の論理に沿う局面においてのみ受け入れられた。民衆はいつも正しい、政治家と官僚は「国民」(とか「市民」とか……以下略)に「国民」の望むとおりの生活を実現する義務があるだけでなく(それはたしかにある、ただし「可能なかぎりにおいて」である)、それはつねに完全に可能である。政府は、税金を安くし、小さな政府を実現し、しかも高度福祉国家を実現しなければならない。なぜなら、安い税金、小さな政府、高度福祉国家は、すべて「国民」の望むものだからだ!

 民衆を一方的に責めているのではない。それは、執行権力の専制という実態にはまことにお似合いの政治意識である。執行権力は国民の意思をそれほど重視することなく執行権力自身がいちばんよいと判断したことを執行し(たとえそれが非加熱製剤の非回収などという国民の生命にかかわることであっても)、国民は執行権力に何が可能かを考えることもなく何もかも自分の望むものを執行権力に求め、それが実現できなかったらその執行権力や執行権力の走狗に成り下がった政党や政党内閣に悪口を浴びせる。これは二つでワンセットになった現象なのだ。それは現代民主主義の病理なのではない。すくなくともこの国の現代民主主義にとって正当なあり方なのである。

 そして、その同じ民主主義文化の産物として、正当に生み出されたのが「トンデモ」なのである。

 


デモクラシーとサイエンス――ではなく!
 古い「礼教」支配に抗して政治・社会・文化の近代化を求めて起こった中国の五四運動期の思想は「デモクラシーとサイエンス」であった。意図したのかどうかは知らない。それがジョン・デューイ(知り合いにナースエンジェルはいないと思うぞ)の思想の影響下にあったのはたしかである。ともかく、古い「礼教」にかわる新しい社会の支柱を、変革期の中国の進歩的な人士は、産業化の生んだ双子――近代科学と近代民主主義に求めたのだった。

 隣国の「人民」や「民」(人民共和国と民国――それぞれの国号にはそういうことばが入っている)がはたして近代科学と近代民主主義を手にするにいたったのかどうかはよく知らない。ともかく、私たちは、その隣国の「人民」や「民」よりはるかに有利な条件で近代科学と近代民主主義を手にしたはずだった。

 だが、気づいてみると、それはそうではなかった。

 手のなかにあったのは、近代民主主義ではなく、大衆民主主義と執行権力の専制のセットであり、そして「トンデモ」だったのだ。

 私はさきほど民主主義文化においては社会を主導する階級の文化とそうではない民衆の文化とを分かつ所以はなくなった、それが産業化の結果である都市化・大衆化の帰結だと書いた。

 だが、じつはそれは不正確だったのである。

 たしかに、従来の民俗学が対象とした民衆文化というのは、民主主義文化の浸透や、産業化・都市化の直接の影響下に消えて行きつつある。だが、その民主主義文化自体が、近代民主主義と近代科学の想定ではすくいきれない部分を大量に残していた。それが、従来の民俗学が対象とした民衆文化が消滅したあとの領域を埋めることになった。

 民主主義文化は近代民主主義の浸透とともに形成されたものだ。だが、それは、近代科学の精神と共通する発想において理解されたのではなかった。その民主主義は「民衆はいつも正しい」という信念において受け入れられた。そして、産業化と民主主義がもたらす成果としての言論や政治行動のスタイルがその民衆のもとに届けられるようになると、が「民衆はいつも正しい」という信念に直結して理解されるようになった。その理解に必要なはずの近代民主主義の過程についての理解を形式にとどめたままである。

 そこではだれもが自分の議論に十分な責任を持たずに発言することができるようになった。たしかに今日でも人とちがうことを言うのにはそれなりの勇気はいる。が、匿名の発言ならばいくらでもできる。さらにパソコン通信は匿名で発言できる場を飛躍的に広げることになった。

 そうして、民主主義文化のなか、近代民主主義で拾いきれない部分に残ったもののなかに、たとえば擬似学問としての「オタク」現象があり、そして「トンデモ」がある。

 「トンデモ」は古くからあった。そして、それに対する対応は、「あれは科学を知らない者が書いたばかばかしい本だ、あんな本をよんではいけない」とか「あんな本を読んで信じているのはオオバカモノだ」と罵倒するというものであった。

 だが、それでは「トンデモ」には十分に対応できていなかったのである。

 『トンデモ本』シリーズは、そうしたものを系統的に収拾し、分類し、そしてその特徴を列挙するという方法で対応した。つまり民俗学の方法である。

 意図したことかどうかは知らないが、と学会の『トンデモ本』シリーズの成果は、その方法にこそあったのだ(この点についてはファイナルファンタジーVでものまねしゴゴを倒した奥田氏の示唆に負うところが大きい。シールドドラゴンの倒しかたを教えていただいたことと並べて深く感謝したいところである。ところで例の相手にグラビデ効かないぞ)。

 


最後に
 では、最後の疑問――って、なぜ映画は終わらなければならないか、という疑問と同様に、なぜ論文には結びがなければならないのか書いている私にもよくわからない。理由があるとすれば書いている私がいいかげん疲れてきたということだけである。

 で、「最後の疑問」である。

 と学会は、「トンデモ」を敵視したり撃滅しようとしたりしてはならない、ただ笑って楽しむのである、という姿勢で「トンデモ」に臨んでいる。この姿勢は正しいか?

 ひとつ言えることは、「トンデモ」は敵視したり撃滅しようとしたりしても、執行権力の専制と対になった大衆民主主義の民主主義文化があるかぎり、いくらでも湧いてくるものだということである。

 とくにそれを正統科学の方法論によって否定しようとするほど無意味なことはない。なぜなら、それは、「トンデモ」を信じるものに正統科学の権威主義のイヤらしさばかりを印象づけることになるからである。もし正統科学が「トンデモ」と対話するのであれば、その基本をなす発想から討論を積み重ねなければならないだろう。そのことによって「トンデモ」の信奉者を立派な正統科学の考えを身につけた科学者に転向させることは可能であろう。「トンデモ」も科学であることを装うかぎり、たとえば真理の基準としての検証可能性というような論理を論理としては否定することはしていないからである――もちろんその論理の内容を正確に理解しているかというとそんなことはないのだけれど。だが、一人の「トンデモ」信奉者を変えるあいだに、おそらく十人以上の新しい「トンデモ」信奉者が生まれていることであろう。そのなかには科学者からの「トンデモ」への転向者も二人や三人はまじっていることであろう。

 これはあくまで私の印象論であり、しかも、たとえば一部トンデモに敵視されているらしい佐藤文隆氏など多くの例外があることをきちんと断ってから申し上げたいのであるが、日本の正統科学には「トンデモ」に優越感を持って臨むほどの余裕があるようには思われないのである。日本の正統科学自体が、たとえば、冒頭に指摘したような、物理学の発想が私たちの日常の発想に似ているようでじつはぜんぜんちがう体系を持ったものであるというようなことについて――つまり正統科学自身の発想の特徴についての自覚を十分に持てているかというと、どうしてもそうは感じられぬのだ。正統科学に従事する科学者自身が、あんがい正統科学自体の発想についての内省を持っておらないのではないか。だから正統科学界から「トンデモ」に転向する人たちが続出するのではないかと私は疑うのである。

 この点、異論がある方はどんどん反論していただきたい。私はその反論を待っているのだ。なぜなら、私は正統科学界から「トンデモ」への転向に構造的な原因があるなんていう私の仮説がまちがいであることを希望しているからである。ぜひともそれを検証可能性という判断基準に耐えうる事実でもって覆していただきたいのだ。

 笑っていればいいのかというと、それは笑えるやつは笑えばいいと思う。ただ、『トンデモ本』シリーズをほんとうに笑って楽しむことができるのは、相当に知的訓練を経た人たちだろうというのが私が私の周囲の反応から感じる感想である(これもどんどん論駁していただきたい)。私の周囲には、WWF各位のようにこれを読んで笑えたという人は少数派で、自分が信じていた何かの理論がここで笑われているのを知ってショックを受けたり、不快だという感想を述べたりするか、それともたんなる優越感の道具としてこの本を持っているかという人が非常に多かった。

 本をどう受け取るかということはそれぞれの読者しだいである。それは一般論としても言えることではあるが、この本については、そうならざるを得ない一面がある。

 それは、この本が一種の民俗誌だからだ。

 繰り返すが、この本の画期性は、「トンデモ」の一つひとつの論理に拘泥して論破するというスタイルではなく(再反論が『逆襲』にひとつ入っているが)、どういう「トンデモ」があるかを量的に拾い上げ、それを分類して作者自身が楽しんでしまったという点にある。なぜと学会の人たちがこの本を読んで笑えたのかということの説明は、「わかるやつにはわかる」という程度にしかなされていない。「相対性理論はまちがいだという説はまちがいだ」とは書いてあるが、それがどうまちがいなのかはほとんど解説されていないのである(ただ実験結果と相対性理論が矛盾しないということが出ているだけ)。

 なぜそれが笑えるのかは読んだ一人ひとりが考えろ!――というのがこの本のスタンスなのだ。また、それだからこそ、この本には意味があるのである。

 大衆民主主義の社会のなかで「科学」というものがどんな現れかたをするのかを読み解くのは、まだまだ読者である私たち自身の仕事として残されているはずだ。



                         ―― 終 ――



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