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ある『エヴァンゲリオン』批判


清瀬 六朗




 私が住んでいる場所は東京である。したがってテレビ東京系のネットの作品はいちばん早い放映時間できっちり見られる。私たちにとって『エヴァンゲリオン』はもう半年以上も前に放映を終了したアニメだ。だが、地方によっては、まさにいま本放送の真最中というところもあるらしい。

 そういう地方に住んでいる昔からの知り合いから電話があった。そして、彼にとってまさにいま放映中の作品である『エヴァンゲリオン』についていろいろ熱っぽく語ってくれた。


 「死海文書とか使徒とか、キリスト教から何の必然性もなく断片的な設定を切り取ってきているのは不愉快だ」、「世界が見えない。裏設定とかはあるんだろうけど、裏設定のレベルで話が完結していて、持ち出された問題がぜんぶ解決されないまま終わってしまいそうなのが不満だ」、「おれは世間で高く評価されている作品はなるべくきびしく評価したいと思ってるんだ」……。

 『エヴァンゲリオン』についてどういう感想を持とうと勝手だ。だからあんまり論駁して益のあるような問題ではない。それに私にこの作品を弁護する義理もない。――そう思ってこれまで『エヴァンゲリオン』について投げかけられる言いがかりをいちいちとりあげて反論することもしなかった。だが、せっかく考えるきっかけをもらったのだ。ここでは、この知り合いへの個人攻撃としてではなく(なんせ彼は私の人生の半分以上の期間の長いつきあいをつづけている相手なのだ)、『エヴァンゲリオン』がどう語られているかということを論ずるために、この感想にモデルになってもらって、これに対する反論を考えてみたい。

 まず、聖書的世界観は『エヴァンゲリオン』の世界全体を支えている世界観であって、けっして断片的にことばだけをキリスト教から引っぱってきているわけではない。ことに、『エヴァンゲリオン』の作中で登場人物が追い求めつづけた問題は、むしろ聖書的世界観となじみやすいものなのではないだろうか。そのことは、たとえば実存主義の祖の一人であるキェルケゴールの知的な基礎がキリスト教神学にあったことを考えれば理解しうるであろう。ん? 理解し得ないかな? まあいいや。ちなみにキェルケゴールの主著のうちの一冊は「死に至る病」である。

 このページに出ている藤井隆生氏の「悪魔の迷宮」や私の Genesis Apocryphon はまさにキリスト教や死海文書から『エヴァンゲリオン』の世界をあぶり出そうとした試みである。もちろんそれが成功しているか否かは読者が判断することだろうが。

 『エヴァンゲリオン』の例にかぎらず、アニメなどで何か特殊なことばや専門的な知識を前提とする設定が持ちこまれると即座に反感をあらわにする者が多い。その裏には、たとえば「庵野のごときが聖書をきちんと理解して作品を作っているわけがない」という思いこみがあるのではないだろうか。『エヴァンゲリオン』放映中に「庵野秀明はほんとにバカなんだ」という言いぐさがやたらと流されたようだ。少なくとも私は複数の人からそういう言いぐさをきいた。『エヴァンゲリオン』という作品を通して見た私の率直な感想を言うと、それは庵野秀明の「バカでなさ」加減に嫉妬した真正の「バカ」が流した中傷としか思えぬ。『エヴァンゲリオン』は思考力の破綻した人間に作れるような作品ではない。ただあえて「愚直な」と表現したくなるほどのある種の誠実さは感じるけどね――とくに破綻した(放映版の)最後の二話からは。その「愚直」を親しみをこめて「バカ」と表現したのならわからぬでもないが。

 裏設定はたしかにいろいろあるようだ。またLDの解説のたぐいが「この作品にはこんなに周到な裏設定があるんだどうだすごいだろう」と見せびらかすことに全力を傾注しているようなフシがあるので、あんまり「裏設定で話が完結しているようだ」という印象を持ってしまった人ばかりを責めるのは酷な気はする。

 しかし、だ。この作品は裏設定を知らなければ理解できないような話にはなっていないはずである。私たちは、「エヴァンゲリオン」が「福音」の意味であることも知っているし、イスラフェルとかサンダルフォンなどという「使徒」名が聖書外典(カトリックやプロテスタントの立場からの)に出てくる天使の名まえに基づいていることも知っている。しかし知らなくてもいっこうに差し支えない。「死海文書」というのがあって、それが隠匿されており、それが「使徒」の出現やエヴァンゲリオンの存在と関係があるらしいということがわかればとりあえず作品を楽しめるはずであるし、それは作品を見ていれば読みとれるはずである(ちなみに「死海文書」は実在の文書だがこの作品で言及されているような内容の文書はフィクションである)。「アダム」が旧約聖書で神の作った最初の人間の名であることすらべつに知らなくても差し支えないのだ。気になったらあとは自分で調べりゃいい。自分で調べることで新しい興味の持ちかたもできるのだ――『エヴァンゲリオン』についてもこの世界のほかのものごとについても。

 それに作品の「表」も「裏」もぜんぶさらけ出す必要がどこにあるだろう? 『御先祖様万々歳!』の麿子のセリフじゃないが最後まで明かされない謎があって何が悪い?

 なんだか知らないが、作品世界について何から何まで作者から説明してもらわなければ気がすまないという手合いが多いんじゃないかという印象を受ける。『魔法使いTai!』にも世界観が不明だとかキャラクター設定が場当たり的だというヒハンが出ていると間接的に聞いた。ツリガネの正体だとかこの世界の「魔法」の位置づけとか、そうした説明をいっさい省いて高倉・油壷・沙絵・七香の関係の描写だけに集中したのが『魔法使いTai!』第一話である。どうして「作品の中で描いていること」をちゃんと見て論評するまえに「作品で描かれていないこと」を探して、それが描かれていないことに不満を述べようとするのだろう? 私には理解できない。

 「世間で評判が高い作品は厳しく批判することにしている」という言いぐさもいろんなところできいた。だがこれも意味不明の論理である。一個の鑑賞者として作品と対するときにどうして「世間の評判」などというものが入りこんでくる余地があるというのか? もちろん、一個の鑑賞者として作品に対するのではなく、批評者として人に作品の印象を話すときには、他の人が思いつかないような論点を提示することは必要だろう。そして、その作品が世間で無批判に絶賛されているもののばあい、「他の人が思いつかないような論点」はその作品を貶すようなものになる傾向はあるかも知れない。

 だが、第一に、たんに作品の感想を言うのに批評者として話す必要はどこにもありはしない。また、批評者として話すのならば無責任な印象批評は避けるのが良識だと私は思う。批評とはそれだけの知識や教養や論理的構成力がある者が言論に責任を持って語るものという了解があるから、批評者は「たんに感想を言う者」より尊敬されるのである。「世間で評判が高い作品は厳しく批判することにしている」という態度は、批評者としての責任を回避しながら、批評者という資格で語っているというステータスだけは手にしたいという身勝手な態度だと私は解することにしている。もちろん個別にその批評を聴いてみて傾聴に値するものであれば、その個別の批評について見解を修正するに吝かではないが――残念ながらそんな機会にはあんまり恵まれていない。

 ついでに言うと、「少数意見」でさえあればそれは「正義」を反映した正しい意見なのだという発想をする人びとがいる。民主主義社会において少数意見が尊重されなければならないのはたしかだ。その点には私はすこしも異論はない。だが、それは、少数意見に正義が存する可能性があるからであって、少数意見でありさえすればなんでも正義を反映しているからではない。少数意見が不適切なものである可能性も大いにあり得るのだ。とくに熟考を経ない思いつきだけの「少数意見」ならば誤謬を冒している可能性が高いだろう。この点の峻別がつかないすてきなミンシュ主義者がどうも多いように感じる。

 あるいは、「ガイナックスというええかげんな制作集団がええかげんに作った『エヴァンゲリオン』とかいうつまらぬ作品が評価されるために、真に良心的な作者が作った真に良質の作品が注目されない。それが不当だから私は『エヴァンゲリオン』を非難するのだ」という立場を主張する人もいるらしい。だがこれも通らぬ理屈だ。『エヴァンゲリオン』を非難したからといって、「良心的」に作られた「良質」のアニメにそれだけ世間の注目が集まってくれるわけではないからだ。すくなくとも、『エヴァンゲリオン』を貶すのに使う手間と時間とスペースがあるなら、それをその「良質」アニメのよさを宣伝するために使ったほうがどれほど効果が上がるかわからない。

 もひとつついでに言うと、『エヴァンゲリオン』を貶すのはけっして「少数意見」ではないぞ。

 まあ、そんなことで、『エヴァンゲリオン』にいっぱい不満があるらしいこの知り合いに「そんなに不満だったら見るのやめたら」と私が言うと、「一パーセントでも希望が残っている以上は最後まで見る」んだという。これも「良心的なファン」からはよく聞かれる言いぐさだ。

 「希望」だって? まともに『エヴァンゲリオン』を見ていた人間なら、そして日本語を解する能力があるのであれば、「希望」ということばが『エヴァンゲリオン』のテーマとして意識的に扱われていたのはわかるよね? それはともかく、「希望」っていうのは、「これは不満だ」「これはイヤだ」といつも軽蔑しバカにしている対象から見出されるものなのだろうか? 「希望」ってのがそんなに安易なシロモノなのだったら、『エヴァンゲリオン』なんて作品は作られる必要もなかったし、まして見る必要もないのだ。

 もういちど念を押しておくと、これはこの知り合いだけの例なのではない。さらに言えば『エヴァンゲリオン』だけの例でもない。『王立宇宙軍』に対するヒハンにも、最近では『魔法使いTai!』についてのヒハンにも同様のことを感じる。

 それはともかく、私が興味深いと思ったのは、『エヴァンゲリオン』叩きが横行したアニメフォーラムとは関係のないところで『エヴァンゲリオン』を同じような論理で叩く見かたが現れたということである。彼は、パソコン通信のIDは持っているようだが、「アニメフォーラム」というものの存在すら知らないようだった。それゆえにこそ、彼のおしゃべりは興味深かったのである。

 へーげる奥田氏によると、挌闘技の初心者が技をかけられたときには、みんな同じような逃げかたをするんだという。有効な逃げかたをするにはある程度の技術がないとだめだというのだ(こないだのカニ食い旅行で札幌でかるーく実演してもらった)。それと同様に、ある作品を批評するばあいでも、批評の技術や批評に必要なだけの情報を持っていない者は、みんな同じような論理で批判するんだなということがよくわかった(これも奥田氏がどこかで書いていたように思うが)。この人びとのばあい、「人とはちがったこと」を言っているつもりでみんなおんなじような論理に陥っているのが興味深いところである。

 もっとも挌闘技のばあいとこの場合では大きなちがいがある。挌闘技の初心者が技から無効な逃げかたをしたら痛いだけだし、ばあいによっては体を傷めることすらありうる。苦痛が伴うのだ。だが、ある作品についてだれもかれも同じような論理でヒハンしたところで、ヒハンした当人は何の痛痒も感じない。おそらく幾ばくかの満足感が残るのであろう。だから、自分の技術に自信がないのに路上でだれかれなしに挌闘技をしかける者は多くはないだろうが、何の工夫もないヒハンはいよいよ増殖するばかりである。

 あるいは、「独立のところから同じような論理が出てきたということは、まぎれもなくその論理が正しいという証明であって、それが論理の稚拙さの現れだなどと見るのはくやしまぎれの言いがかりだ、オオワライである!」というような言いぐさが出てくるかも知れぬ。たしかに、ダーウィンとウォーレスは独立に進化論を思いついたといわれるし、進化論はいまでも妥当とされる論理であってけっして稚拙な論理ではない。うーむ、まぜっかえすための論理まで教えてしまうとは太っ腹なページだ。とりあえずダーウィンもウォーレスも十分に知的な訓練を経た研究者であって、当時の知的世界が達していた水準をもとに進化論を発想したのだということは言っておきたいけどね。

 そう思って自分の論理の正しさを確信するのであればそれでいい。挌闘の場合はとりあえず相手を撃退して勝つことが目的になるが、評論にはべつに決まった目的はない。いや、私はすくなくとも公の場所に出される評論には定まった目的があるべきだと考えているけれど、私の考えを人に押しつける権利も義務も私にはない。私はそうしたヒハンには満足できない――けっきょくのところそれだけの話である。

 いやあ。ヒョーロンってほんとに楽しいですね。
 じゃまた。


 <関連アーティクル>
 ・「えらそうな人びと」(へーげる奥田)
 ・「えらそうな人びと」へのコメント(清瀬 六朗)




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