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悪魔の迷宮



藤井隆生

■目  次

プロローグ 悪魔の謎の軍団
第1章 悪魔は身近にいたのだろうか
第2章 悪魔の活躍
第3章 罪の誕生
第4章 悪魔の誕生と敗北
第5章 悪魔の逆襲
第6章 神の勝利
第7章 それでも神に挑戦する者たち
エピローグ 悪魔の迷宮 人はどこに行くのか



プロローグ 悪魔の謎の軍団

 と学会・編「トンデモ本の逆襲」で紹介されたオカルト・ライター佐藤有文(主人公がケロイドに覆われて半獣化したあげく、女風呂をのぞいたチカンに間違われたり、地底魔人やらクローンなどが大活躍するトンデモ小説「骨なし村」の作者)の本文でも紹介されていた「いちばんくわしい世界妖怪図鑑」は私の少年時代(小学校に入る前から)の愛読書であった。ちなみにこの本のシリーズのいちばんくわしい地獄大図鑑(この本もすごく変)も名著である(欲しい。なんで捨ててしまったんだろう)。とんでも本の中ではネーミングのユニークさが話題になっていた世界妖怪図鑑だが、私の頭から離れなかったのはこの本の後半4分の1を占めている悪魔の記述であった。

 ここに出てくる悪魔たちは王国を造り、内閣総理大臣(なぜだ)だとか参謀本部元帥、殺人学校の最高長官、スパイ長官、陸軍大将(中将、少将、大佐らがいる)、軍楽隊の指揮者、怪獣公爵(だから、なぜなんだ)だとかの役職につき軍団を作っている。そしてそれぞれの悪魔について少しずつ説明がついている。もちろん一番偉いのはサタン君であり、その妻にリリス、そして軍団の3大実力者に副王ルキフェル、悪魔の君主アスタロト、地獄帝国の最高長官ベールゼブブ(蠅の王)などがいる。

 悪魔王国の組織

 暗黒の帝王サタン−妻リリス

  ルキフェル

    内閣、参謀本部、第1軍から第7軍を統括

       内閣総理大臣 ルキフグが内閣を指揮

       参謀本部元帥 ネビロスが参謀本部を指揮

         参謀本部内の悪魔

          殺人学校の最高長官 グラシアボラス

          心理作戦の専門家 ナベリウス

          スパイ長官 カイム

       第1軍 軍団最高司令官で第1軍のボス

             サタナキアが指揮

       第2軍 軍団副司令官で第2軍のボス

             アガリアレプトが指揮

       第3軍から第7軍にそれぞれボスがいる。

  アスタロト

    百面相の王子、怪獣公爵、破壊伯爵、財宝公爵ら

        貴族を指揮

  ベールゼブブ

    地獄の魔王、総裁、皇太子、太守ら地獄帝国を指揮

  独立部隊

    ベルフェゴールら、一匹狼の悪魔

 悪魔の説明では、たとえば陸軍大佐のブエルは夜の急襲作戦が得意であるのだが、人間には害が少なく三千種類の薬草の調合法であらゆる病気をなおしてくれる上に、死んでしまった会いたい人がいれば、その人の幽霊に会わせてくれる(どこが悪魔だ)という。又、第7軍を指揮するベールという悪魔はアジア全体を治め、6万の小悪魔を従え大王の位を持っている。また、法律の専門家で、どんな犯罪やひどい殺人者でも、たくみに無罪になる方法を知っている(すごい。誰かさんもこの悪魔に頼めばいいのに、おおっと、その必要もないか)。そして悪魔王国では第一の剣道の達人であるそうだ(他に誰がやっているんだろう)。こういうすばらしい(もしくはしょうもない)記述が続き、他に悪魔の簡単な説明やら、魔術師の紹介(アグリッパ、ファースト、プランシなど)等が載っている。

この本ではこんなすごいやつら(本当にすごいのか)が、なぜ軍団を作っているのか。誰と戦っているのか。又、こんなにすごいのに悪魔が世界を支配出来ないのはなぜか(この本の説明では6600万の悪魔がいるのに、ちなみに悪魔の数について他の説では740万とか11兆とかの説がある。そんなにいてどうすんだとつっこみたくなる)。これらの疑問には何ら答えず、又、少年だった私もそんな疑問を思いつかず、ひたすらこの愉快な悪魔たちが気に入ってしまったのであった(軍団なんか作ってかっこいいと考えたような気がする)。その後、私はそんな悪魔を求めて他にこんな本はないかと捜して本屋をふらふらして過ごすことになったがそんな変な本は見つからず、いたく失望したものだった。それから20年を過ぎた今、ちまたでは悪魔の本があふれるようになった。そればかりではなく、天使や神の本、オカルトの本が氾濫している。少年の頃の夢が実現した今、悪魔について、いや悪魔ばかりでなく、天使や神について、さらに闇の思想について書けることについて書いてみたいと思う。最後には「エヴァンゲリオン」に繋がるかもしれない。



第1章 悪魔は身近にいたのだろうか

 まず、自分のまわりのメディアに登場した悪魔について私の乏しい知識(本当に乏しいので批判しなように)で書いてみようと思う。はたして悪魔について世の中全体(私以外の日本)は今まで関心を持っていたのだろうか。

 テレビの実写では、初期の頃の子供向け特撮ものがある。水木しげるの「悪魔くん」、悪魔くんと呼ばれる少年がおり、魔法陣によって呼び出される悪魔がメフィストフェレス(ゲーテ等の「ファースト」伝説で呼び出される悪魔)である。まあ、チョコレートが好きな(後半の方かな)人のいい悪魔である。この2人がコンビになって妖怪を退治する話(夜中にマネキンが動いたり、手の長い雪女が出てきたりした)である。他には、同じく水木しげるの「河童の三平」でサタン夫婦(ただの悪魔かもしれない)が敵役で登場した。最後に奥さんの裏切りで悪魔側が負けたような気がする。実写で登場する悪魔はこのくらいでその後、吸血鬼とか(岸田森とか堀内正美とかがやった)は登場したが悪魔は登場しない(言い切って大丈夫か)。

 アニメだとやはり水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」で時々、悪魔がゲスト出演している。とにかく人気のあるシリーズで現在放映しているものが第4シリーズである。最初が実写の雰囲気がある白黒のアニメ(妖怪レースとか吸血エリートの話がよかたなあ)、次のシリーズが高度成長期の放映で公害批判や文明批判が色濃く出ていた(原始さんとか)。第3シリーズがバブル期で美少女が出てくることからも分かるようにエンターテイメントしていた(妖怪は友達になった)。バブル崩壊後の第4シリーズはどうなるのだろうか(朝早くで見ることが出来ないからこう言って逃げておこう)。とにかくこのシリーズも悪魔が時々登場するのである(もっとも原作に登場するのがそのまま登場するだけだが)。

 たとえばブエル(世界妖怪図鑑では陸軍大佐のいいやつ)、私が観た記憶がある第2シリーズの話を取り上げると、確か、少年がどこかの店先から追い出されるシーンから始まる。店主「金の卵だってお前みたいな奴はいらねー」、その金の卵という言葉にひかれたねずみ男が少年に親切にする。実は少年は片方の手がなく、怪しげな人から手をもらったとのこと。しかしその手がいつも失敗ばかりするので追い出されたのだ。金の卵というのは当時人手不足で学校を出たての若年労働者をそう言うのに過ぎない。そう知ったねずみ男はあっさり少年を見捨てて、手をくれた人物を金儲けの種だと訪ねていく。そうすると逆に手を取られてしまう。部屋中に手がぶらさっがっている様子が気持ちいい。

 その人物こそが悪魔ブエル(病気関係を直すのに共通点があるのか)で、日本侵略を狙っていたのだ。ブエルの部下の悪魔軍団(ただし軍団というよりたいしたことがない悪魔たちがただ集団で空を飛ぶだけ)が日本に来るという。これはいけないと聖域の山奥(洞穴かな)からなんでも吸い込んでしまうというバクを連れだし吸い込ませる。悪魔たちを吸い尽くすと他のものまで吸い込んでしまおうとする。やめさせるには聖域から連れ出させた鬼太郎を吸いこまなければならない。最後は目玉のおやじが自分の寿命を短くするのと引き替えで鬼太郎は救われる(それは吸血列車の話か)。それからベリエルという悪魔の話は、まあ、これ以上やっても何なので(大きな球体で手だらけや足だらけ、目だらけ、鼻だらけ、口だらけ、耳だらけのものが攻めてくる映像を記憶している方もいるかもしれない)、さすがに水木しげるなのでまともな悪魔が登場するが(といっても他の妖怪と変わらないが)、この悪魔たちは単体中心で行動している(ブエルには部下がたくさんいたがその他大勢というどうでもいい扱いだった)。他には「悪魔くん」もアニメ化されているが、水木しげるというよりは当時はやっていたビックリマンカードみたいなのりだった(これで説明がつくのか)。そして永井豪の「デビルマン」、デビルマンに出てくる悪魔たち、デーモン族は、感じからいうと、悪魔よりもっと根源的な悪そのものような気がする。自分の知っている悪魔とは違うのである。凶暴で、突き抜けていて、もちろん、悪魔もそうなのだが、西洋の悪魔というより、永井豪の悪魔なのである。西洋の悪魔が陰であれば、永井豪の悪魔は陽で、悪が楽しくて仕方がないという感じなのである。西洋の悪魔はほくそ笑む感じなのに対し、永井豪の悪魔は大笑いである。この突き抜けた感じは何なのだろうか。同じく永井豪の「ドロロンえん魔くん」、ここには悪魔は出てこなかったと思う。

 洋画では「エクソシスト」、「オーメン」、「エンゼルハート」等、悪魔の登場するオカルト映画がある。これらの悪魔のやっていることはすごく地道である。まわりの身近な人間を残酷に殺すか、首を半回転させる(オ、チャ、メ)ぐらいである。一人の人間を追いつめるのに精一杯であったりする。第一、普通の人間と戦って、危うく負けそうになるんだから情けない。世界征服の野望とか、天変地異でも起こせよと言いたくなる。せいぜいやって大統領補佐官になるぐらいだから、本当に地道である(それじゃ一般人と変わらないじゃないか)。実を言えば、これが西洋の悪魔の実態である。終末が来るまでの悪魔の働きは人を惑わし、弄ぶことだけである。

 SF小説だと、光瀬龍の「百億の昼と千億の夜」、悪魔は直接出てこないが神と人間との関係、神に従うもの(イエスや天使などがいる)と、神に逆らうもの(阿修羅王、ブッダ、プラトン)との葛藤が中心に出てくる。イエス・キリストもさらなる全能者に従う一つの道具に過ぎない。山田正紀の「神狩り」も神と闘う者についての話である。この小説の中では処女受胎の正体が出てくる(ああ神様、ご無体な)。アーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」ではズバリ悪魔の正体が出てくる。悪魔の姿の正体というべきか(人を導く存在が、人を人でなくしてしまう。その姿が実は)。

 ざっとみてきたが、悪魔が主役をはることはほとんどなかった。まして私が少年の頃知った、あの変な悪魔は出てこない。その中で悪魔に好意的だったものはアニメの原作を初めとするマンガである。悪魔に関心があるのはオカルト映画と水木しげる他のマンガだけであった。そしてマンガの中では人を惑わすだけでない、世界と対決する悪魔が登場するのである。また、変な悪魔たちもここで登場するのである。


第2章 悪魔の活躍

 悪魔の登場するマンガ(例)−順不同−

 水木しげる「悪魔くん千年王国」

 永井豪「魔王ダンテ」、「デビルマン」

 日渡早紀「アクマくんシリーズ」

 池田悦子、あしばゆうほ「悪魔の花嫁」

 天城小百合「魔天道ソナタ」

 魔夜峰央「パタリロ」(22巻から23巻)

 巻来功士「ゴットサイダー」(これは変なマンガだった)

 萩原一至「バスタード」

 荻野真「孔雀王」

 元々、ドラエもん以来、普通の世界に異人が紛れ込むような話はマンガの一つのパターンである。まあ、宇宙人だったり、アンドロイドだったり、女神様だったりする。タイムトラベラー(詐欺師かもしれない)もいた(あれはアニメか)、その中で天使や悪魔が登場する。悪魔と比べると天使の場合が多いのではないか。

 ちなみに天使の3大スターは

 ミカエル、ラファエル、ガブリエル(これにウリエルを入れると4大天使)

 さらに悪魔の3大スターは

 サタン(またの名は堕天使ルシファー、悪魔王、こいつが登場すると物語も終盤、後は神様との対決だけになる)、ベールゼブブ(蠅の王でサタンの腹心といった役どころが多い)、アスタロト(大公爵様)

 これらの名は天使、悪魔が登場する時、よく使われる。

 たとえば、日渡早紀「アクマくん マジックビター」では天界の大天使としてミカエル、ラファエル、ガブリエルが登場するが、悪魔の方はアクマくん等、独自の人たちである。つまり、天使や悪魔の知識を使って独自の世界像を造っているわけである。まあ、どのマンガもそうなのだが。どのくらいの知識が反映するかで作品の色合いが変わってくる。ただ天使、悪魔が登場するだけだったりする場合も多い。後は作者の好きなように魔界とか天界を造ればいいのである。

 その中でやはり独自の世界を造ったのは水木しげると永井豪である。

 水木しげるの「悪魔くん千年王国」では、確かに悪魔も出てくるが、それ以上に悪魔くんという異能の少年がいかにして地上を救うか(千年王国の実現)、救えないかが強烈な印象を残す。やっていることはキリストと同じである。キーワードは使徒と千年王国、そして復活である。ラスト、聖書のキリストと同じように悪魔くんは一度殺された後、復活する。ここで悪魔くんこそ救世主であることが分かって物語は終わる。ここでは悪魔の印象は少ない。悪魔は聖書と同じように人を誘惑をする役目を負わされているに過ぎない。

 永井豪の「魔王ダンテ」「デビルマン」は確かに悪魔が主人公である。魔王ダンテでは名前だけではアスタロト、ベールゼブブ、バール(ベールのこと)が登場するが、そんなことはどうでもよく、世界の成り立ちの理由、神(ここでは宇宙からの侵略者)と悪魔(正当な地球人)の対決が問題となる。そして人とは侵略者である神の末裔であり、悪魔と人との最終戦争を、さらに言えば人類の滅亡を予感させて話は終わる。「デビルマン」では、物語はさらに発展する。終末(ハルマゲドン)となだれ込み黙示録的な世界が展開するのである。その中で人類の破滅が語られ、人間こそが悪魔そのものであり、神こそが美名の元、殺戮を繰り返す、この世の破壊者であることが証明される。そして、人である読者を絶望に導く(しかしこれが本当に絶望なのか。すごい甘い誘惑のような気もする)。読者の希望は人を越えた存在であるデビルマンに託されるが、真の悪魔であり、神の反逆者であったサタンに倒される。もうこうなるとあの愉快な悪魔たちはどこにもいない。連載開始は1972年であり、悪魔の登場するマンガはいきなり、シリアスを極めるのである。悪魔はただ人間を誘惑する者ではなく、世界の中に自己を主張する存在になったのである。

 それではあの変な悪魔はどこに行ったのだろうか。「パタリロ」の中盤(1984年のころの連載分)にあの変な悪魔と再会することが出来た。主役はアスタロト、この悪魔の大公爵がパタリロのご先祖様と大活躍する話である。そして登場する悪魔は世界妖怪図鑑そのままであり、オールスターキャストとという趣である。この世界では、3大実力者に剣道の達人ベール(このマンガの中では剣道はしないが、当たり前か)を加え、4大実力者としている。そしてサタンとベールの対立、ベールの片腕ベールゼブブとアスタロトのだましあい、と話が盛り上がったところで話はいきなり終わる(この作者はよくそうやる)。ここでの注目は登場する悪魔(他の悪魔ではマルコキアス、パイモン、ベリト等が登場する)の絵柄がまるきり図鑑と同じであることである。これは確実に元ネタがあると確信させるものであった。そして、私がその元ネタに出会うためには1990年まで待たなければならない。それは1990年発行、講談社、コラン・ド・プランシーの地獄の辞典、これは19世紀フランスで出されたものの翻訳である。この絵柄と説明がそのまま使われていたのである(もちろん剣道の達人という記述はないが)。ヒントはあったのである。プランシーは魔術師として図鑑に紹介されていた(ネタにした本の著者を魔術師呼ばわりとは)のである。

 他では「孔雀王」とか「ゴッドサイダー」で、この変な悪魔たちが活躍する。

 また、「魔天道ソナタ」(連載は1986年から)でも独自の世界が造られている。この世界では悪魔と天使が一緒に暮らしていてお互いを補完している。ちなみにこの世界の4代実力者はベール、ベールゼブブ、ルキフェル、アスタロト(パタリロと同じだ)、しかしこの作品の特徴は天使が階級があるということを示したことである。天使には九つの階級があって、上級三隊(繊天使、智天使、座天使)、中級三隊(主天使、力天使、能天使)、下級三隊(権天使、大天使、天使)と別れているということである。つまり悪魔だけではなく、天使も非常に奇妙な奴らであることが分かったのである。しかし、悪魔だけでなく天使の本は当時はなかった(一部、シンボル・イメージ辞典があったが)。それが1990年代から悪魔の本が増え、それを追って天使の本が異常に増えるのである。自分の印象では最後に神やオカルトの本が増えた(宗教関係の本は別)。

 たとえば、先ほどの地獄の辞典は1990年、J・B・ラッセルの悪魔の系譜は1990年、フレッド・ゲティングスの悪魔の辞典は1992年、ポール・ケーラスの悪魔の歴史は1994年、天使ではマルコム・ゴドウィンの天使の世界は1993年に発行されている。本の感じから言えば最初はこれらのハードカバーで値段の高い本が、次に安い簡単な読み物であるチープな本が、最近は写真や図面を使ったビジュアル面が充実した本が増えた。

 しかし、なぜ、これほど悪魔関係(天使、神秘学も)の本が増えたのだろうか。こういう本が望まれているというのだろうか。自分に限って言えば、今の状況は自分の子供の頃と似ている気がする。子供の頃、手元にはマンガの本があり、テレビではアニメがやっていた。そればかりではなく、テレビでは、心霊写真とかあなたの知らない世界であるとか、はては木曜スペシャルでは空飛ぶ円盤、雪男、ネッシー、超能力の特番をやり、科学では解明出来ないことがあるとかナレーションをやったものであった。

 これらはいつかは卒業するもの、卒業すべきものであった。しかし、マンガは少年マンガから青年マンガが出来、少女マンガもレディースコミックが出来た。アニメは需要はあったかもしれないが、アニメファンは子供向きアニメを見るしかない状況が続き、制作者も「アニメおたくのためでなく子供のために作っているんだ」と発言していた。しかし、いつしか、アニメファンのためのビデオが作られるようになり、そればかりでなく、ゲームの世界は子供の頃のアニメに似た世界を造っている。そして、ちまたではオカルトの本があふれ、新興宗教も隆盛を極めている。科学で解明できないことがきっとあると信じて成長した子供たちは相変わらず不思議な世界を求めているのだろうか。これは、自分の子供のころと同じ状況が別の形で展開されているように見える。

 このようなオカルトや神秘学隆盛の中、萩原一至の「バスタード」とアニメ、庵野秀明の「エヴァンゲリオン」が登場した。両作品ともこのような状況でのオカルト趣味の集大成のような側面があった。ドラゴンクエストのような世界から出発したバスタードはいつしか黙示録的な世界に入り、その世界をそのまま突っ走っている。一方、エヴァンゲリオンは24話まで神秘思想の集大成であるばかりでなく、アニメの集大成を、さらにはおたく文化(つまり現代そのもの)の集大成を目指しているように見えたが、最後の最後でそんなまとまりを拒否してしまった。しかし、確かに24話まではオカルトの集大成(それが表面的な偽装だとしてもだ)を目指しているように見えた。それではここで悪魔とは何か、天使とは、闇の思想(実はキリスト教自体、闇なのだが)は何を目指したかを考えてみたいと思う。


第3章 罪の誕生

 神と魔、これらの思想は世界中のどこにもある。今まで登場してきたのはキリスト教の悪魔である。キリスト教の魔と日本の魔では明らかに違う。日本の魔は人間の中にある。人間の中の魔が増大し、ついには鬼にまでなってしまうのである。果ては怨霊になり、神にまでなる。「道成寺」においては、女は嫉妬から蛇になり男を吊鐘の中に焼き殺すのである。ここで、鬼と蛇は同義である。人は魔の感情が高まると鬼や蛇になるのである。般若というものがある。般若の面というのをよく見たことがあると思う。あの角がはえた怖い面である。この般若、元は半蛇であるとう説がある。つまり、人と蛇の間である。人は嫉妬、憎悪から鬼になる。ところが人の心が忘れきれず、完全に鬼になりきれない。かといってもう人にも戻れず、般若は永遠に人と魔ととの間を彷徨うことになる。般若は哀しい人の姿なのである。一方怨念が強すぎる場合、たとえば四谷怪談のお岩様はついには怨霊から神になった。怨霊と化したお岩様は、誰彼かまわず祟るのである。それはなぜか、自分を裏切った夫や毒を盛った相手、夫を裏切らせた吉良家の人々(四谷怪談の世界は忠臣蔵の世界の中で展開している。お岩様は浅野家の家臣の娘)だけを祟ればいいはずなのに、無関係の人々にも祟るのである。それは祟ることしか出来ない江戸時代の弱い立場の女性の恨みが、このような社会(四谷怪談の舞台が忠臣蔵であることに注目)を作っている人々全体に向けられているからである。こうして社会に向かった怨念を押さえるため、お岩様は神にまでなるのである。つまり、魔や人を越えた力は人の中にこそあるのである。

 一方、キリスト教の魔である悪魔は人の外にいる。確かに人は悪魔に魅入られたりするが、決して自ら悪魔になることはない。人は、悪魔と契約して魔術師や魔女になるのである。奇跡や魔術は人外の力によるのである。人は不完全で弱い存在であるが、自らの中には魔は持っていないのである。そして弱い人間である西洋の人々にとって悪魔は身近な存在であった。なぜ、弱く不完全な存在であるか。それは、原罪の考え方に由来している。

 元々、聖書によれば人間は完全な存在であった。旧約聖書の天地創造では神はちりから神に似せて肉体を造り、息を吹き入れて人間にしたのである。旧約聖書はヘブライ語で書かれたものであり、ヘブライ語では息も霊も同じ単語なのである。つまり人間は造られたとき、霊的には神と同一であったのである。よって肉体は土に帰り失われるが、霊は永遠に生きる。そして霊的に完全であれば、肉体を完全に支配し、肉体を失う事もない。霊的に不完全になれば、肉体とのバランスを失い、肉体は霊の支配を離れ失われてしまうのである。最初、完全である霊であったアダムとイヴは神の意志が完全に理解できて、何もせずに神の思うとおりの存在であった。原罪により神と離れた存在となった人間は、絶えずお祈りをして神の意志にお伺いをたてなければならなくなった。それでは原罪とは何なのだろうか。

 エデンの園において、蛇の誘惑に負けて、神が食べてはいけないと言われた知恵の実を食べた。これが原罪である。つまり、神の意志に従わず、自ら意志で判断し行動すること(これがキリスト教、最大の異端グノーシス派にとっての人間解放)、これが原罪なのである。知恵の実とは自ら判断する意志を持つということである。霊的に欠けた存在(もう神の意志が分からなくなった)である人間、そして、その時、肉体は霊のコントロールを失い、自らの欲望をあらわにする。知恵の実を食べた途端、人がやったことは、自らの肉体を、性的部分を隠すことであった。人間は性的に目覚めたのである。性欲、食欲、あらゆる欲望が肉体のうちからやってくる。そして、もう神の声も聞こえない。これがキリスト教の言う人間である。人は神しかなすことができない意志(思う事自体、キリスト教では罪となる。よって人は絶えず神の意志を考えなければいけない)を持ってしまった。さらに生命の木から実を取れば、自ら意志を持つ永遠の存在(神と同じ)になってしまう。よって、アダムとイヴはエデンの園から追放されるのである。そして、アダムの子孫である(人間は霊的には父親から、仮のうつわである肉体は母親から受け継ぐとされるので、霊的存在である人間は決してイヴの子孫ではない。女性は肉体を作る道具でしかない)人間は原罪を背負い、霊的に不完全で、悪魔の誘惑におびえ、肉体の欲望に苦しむのである。そして、自我のない人間も、肉体的な欲望もない人間もいるはずがないので、キリスト教徒は絶えず、罪におびえ、救いを求めることになるのである。誰もが悪魔を意識せざるを得ないのである。

 神と人間の関係は何か。聖書にたとえがある。聖書のイザヤ書によれば人間は陶器であり、神は陶工であると言う。つまり、陶器である人間が造り手の神に対して、何も言う権利はないのである。神がただ造りたいように造る。それ意外になにもない。その中で人間は陶器としての役割をはたすしかない。言い換えれば、絶えず神の意志を考え、神の意志にそった生き方をせよ。ということである。なぜ、と問うことは許されない。なぜなら、陶器は陶工に対して文句を言わないのだから。そう聖書に断言されているのである(この関係は男と女にも、教会と信者にも当てはまることになる)。このたとえから、もし失敗作であればどうなるかは想像がつく。陶工はひび割れた失敗作を大事にとって置かないだろうから。

 こうして人は悪魔を身近に感じ、悪魔に誘惑され神に試される存在となったのである。よってキリスト教にとっては、食欲も性欲も、その他、肉体的欲望も全て罪なのである。中世、キリスト教徒とそれ以外の宗徒と見分けるのは簡単だった。キリスト教徒はくさい。つまり、お風呂に入らなかったから。体をきれいにすること、気持ちいいことは罪だからである。また、現代においても、キリスト教国では避妊も同性愛もだめである。あくまでも子供を作るためにしか許されないのである(体位まで決められている)。こうして人間は生まれながらして(泣かない赤ん坊はいないし、神を意識できる赤ん坊もいない)罪を持っている。そして罪を感じながら生きることになるのである。肉体的欲望をこえ、真の愛に目覚めること、それこそ人間の役割なのである。そしてそんなことが出来ないからこそ忌まわしい歴史が始まるのである(この流れにセヴンという映画がある)。

 イエス・キリストが悪魔の誘惑と闘ったように、聖人と呼ばれた人々は悪魔の誘惑と闘った。宗教改革を起こしたマルティン・ルターは教会だけではなく日夜、悪魔と闘うことになる。堕落したカトリックに対して信仰こそ大事とする宗教改革がルネッサンスの後期である16世紀に起こり、近代の幕が開ける。宗教改革により誕生したプロテスタントは聖人を否定して、権力としての教会を否定した。信仰のみを大切にしたのである。しかし、それは新しいと言うより保守的といった方がいいかもしれない。彼らは、決して、悪魔を否定しなかった。魔女も否定しなかった。彼らは今まで以上に神を、神の暗黒面である悪魔を恐れた。宗教改革で激動した16世紀から17世紀のヨーロッパは、又、魔女狩りがもっともふきあれた時代であった。魔女狩りの発端はそもそも異端とされる分派への弾圧が始まりであった。カトリックで始まったこの動きに、熱狂し、率先して行ったのがプロテスタントである。魔を人の外におくからこそ、人は悪魔を恐れたのである。そして自らの正義により、悪魔と闘ったのである。それが自らの魔であるとも考えずにである。


第4章 悪魔の誕生と敗北

 そもそも悪魔とは何なのか。なぜ人は悪魔と闘わなければならなかったのだろうか。悪魔の歴史はキリスト教の歴史であり、闇の歴史である。

 まず聖書の成立過程(キリスト教の創生期)を見てみよう。旧約聖書も新約聖書も何百年にも渡って書かれたものである(よって天地創造神話が2つも紛れ込む結果になった。つまり7日間の天地創造とエデンの園における創造と)。旧約聖書は紀元前5世紀ごろから書かれ、ユダヤ教の聖書の正典化が紀元90年であり、分派キリスト教(ユダヤ教の一派であった)への対抗措置として成立したのであった。ユダヤ教の分派だったキリスト教では、これに新約聖書を加え、聖書の原形が成立が2世紀末(キリスト教の独立)、正式の正典化(グノーシス派などの異端への押さえ込み)が397年のカルタゴ会議である。つまり、ユダヤ教の聖書とキリスト教の旧約聖書は同じものでなく並び方等で違うのである。ユダヤ教の聖書はユダヤ民族の救いを、キリスト教の旧約聖書は、イエス・キリストの登場の予言書である。

 キリスト教最大の異端であるグノーシス派は、もともと人の中に神と本来的に同じであり、本来の自己を知ることで誰もが救われるとした。キリストこそ、その本来の自己の実現者であり、誰もがイエス・キリスト、神と同一になれるとした。それを妨げるのがこの物質的世界である(エデンの園もその意味から理解される)。この抑圧された世界から解放され真の自己の姿に到達されたとき人は救われるのである。そこでは、絶対神(エホバの神は抑圧の神である)も、キリストの復活(肉体は意味をなさない)もない。キリストの救済(既に本質的に救われている)も必要もないのである。しかし、この異端こそ、キリスト教の初めからあり、キリスト教の正典を作るとき、取り除かれた教えの大部分はグノーシス派のものであった。そしてこの異端の思想は神秘思想として繋がっていくのである。

 異端との対決の中、キリスト教の教義も固まっていく。父と子と聖霊が一体とういう三位一体が確立する。父なる神と、子であるイエス、そして神の働きである聖霊(鳩で表現される)が、同一であるとされる。それまで、イエスは神が仮に現れたに過ぎないという説や、イエスこそ真の神で、旧約の神を否定する説まであった。また、最初から三位一体であった(創造の前からイエスはイエスであった)説と神が創造の歴史の過程で三位になるという説があったが、前者が正統として勝利を収める。ここにおいて妬みの神と救世主イエスは同一になったのである。つまり、世界を創造し、何度もこの世界を滅ぼそうとした神と、奇跡を起こし、人に愛を教えたイエスは同じ存在となったのである。では、聖霊とは何か。聖霊が主に働く場が、教会であると考えられ、救いが、教会を通じてなされることになったのである。つまり神と人の間に教会が介在することになったのである。

 もともとのヘブライの思想である旧約聖書においては、悪魔の影はほとんど感じられない。もともと神と人の間には、悪魔も天使も必要ないのである。神の前にひれ伏せばそれでよかった。エデンの園でイヴをそそのかしたへびが悪魔というのは後の世の解釈である。この世に幸福も不幸ももたらすのは神自身であり、エデンの園から人を追放し、洪水を起こし、バベルの塔を壊し、ソドム、ゴモラを破壊した。人を弄び、無理矢理契約を強制した妬みの神である。旧約聖書でも後の時代に書かれたものは少しずつ悪霊であるとか悪魔が出てくるようになる。そして紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて一連の黙示録的な文学が生まれ、悪魔が跋扈し救世主が待望される中でキリストは登場するのである。つまり、ユダヤ社会はローマの圧政に苦しみ(悪魔が跋扈する呪われている状況)、救い(世界の滅亡と救世主)を、新しいユダヤの王であるメシアによる神の国の実現を願ったのである。キリストは最初から悪魔と対決しなければならなかったし、終末に向かう(悪に支配された)世界から自分たち(ユダヤ人)だけを救わなければならなかった。

 悪魔が跋扈する世界。しかし、これは矛盾しないか。神はこの世の創造者であり、全智全能のはずである。なのになぜ悪魔がいるのか。これが2元論的な世界なら楽である。闇の王サタンと光の王エホバ(なんか弱そう)との対決で、人は光の戦士でも何でもなって闘えばいい。そして悪魔を倒せばいい。しかし、キリスト教の神は全智全能の支配者である。よって悪魔をも作り出さなければならない。そのため、悪魔は人を誘惑し試すという役割を持たされ、悪魔に対抗するものとして天使を創造し、天使は人を導く役目を負わされる。ここで悪魔は神と対決するものから1ランク下げて、天使と闘うものとされた。つまり、悪魔王と神の対決から、神の支配下、悪魔と天使の対決の図式が出来る。これは、神ー人の関係から、神ー天使・悪魔ー人の関係、さらには、神ー教会ー人の関係とつながる。後世、さらにくわしくなると、悪魔、天使がそれぞれ階級化され(これも当時の教会社会を模倣したものである)、そして一人の悪魔に一人の天使が対応する形(サタンにはミカエルという形で)が出来上がる。これらが悪魔の謎の軍団の正体である。人の社会を模し、精緻な一方、ほとんど意味をなさない図式が出来上がる。しかし、これが魔女狩りを初めとする異端審問の裏付けとなっていくのである。だが、これらの話で人は納得できるだろうか。それでも人は悪魔の存在を否定しなかった。無理な説明を取ったのである。それが現実の社会の状況とも、教会の利害とも一致したからである。聖書にあるように悪魔の出自は天使とされた。堕天使として誘惑に負けた天使として捉えたのである。


第5章 悪魔の逆襲

 2000年のキリスト教の歴史はそのまま悪魔の歴史であった。神と同時に悪魔(デーモン信仰)が地上を支配したのである。人々は神の存在と同時に悪魔(同時に天使や聖人も)の存在を感じながら生きていた。4世紀、ゲルマン民族の大移動により西ローマ帝国は崩壊し、ヨーロッパは中世を向かえる。キリスト教は変質し現世利益を求める手段になり、教会は絶対的な権力になり、救いは神からでなく、教会からもたされるようになった。ひとびとは教会の教え通り生きればいいされ、聖人が祭り上げられ、それぞれの職業、地域の守護神となり、現世利益を守るものにされた。天使を通じて奇跡が起き、恩恵を受けることができた。聖母マリア信仰が盛んになり、父なる神による否定された母なる神(大地の神、恵みの神)がここに復活した。一神教であるはずのキリスト教はいつのまにか、神、キリスト(こいつは神と同一だが)、聖母マリア、天使、悪魔、聖人、そして教会といくつも信仰の対象を持つようになっていた。天使学が隆盛し、人々は奇跡を願い、現世的な願いを込めた。しかし、14世紀、黒死病(ペスト)の流行により、人口の3分の1が減る大惨事の前、天使学は急速に衰える。

 教会の堕落が続く中、15世紀ルネッサンスが花開き、16世紀、宗教改革が起こり、キリスト教は新しい熱狂を燃え上がり、異端裁判の名の下に魔女狩りが大隆盛する。絢爛豪華な悪魔学(魔女を刈った者たちが悪魔の研究に血眼になる)が花盛りになり、錬金術に血道をあげた。世に悪魔学や錬金術そして予言者があふれた時代である。こうして、様々な悪魔、天使が造られていった。悪魔のステレオタイプが固まるのが中世後半である。これらの流れが脈々と現代に繋がるのである。その中で悪魔は反逆の堕天使という高貴な姿を見せ始める。それは1667年のミルトンの「失楽園」からで、ここでの悪魔は全能なる神に挑戦するロマンあふれる姿となる。ここに悪魔は新しい姿を手にすることになる。

 ところで悪魔と契約した者、神に従うだけで満足しなかった者は何を目指したのだろうか。彼らは現世的な利益を求めただけなのだろうか。悪魔の背後にあり、人を背後から動かそうとした闇の思想、神秘思想は何を目指したのだろうか。神秘思想の一つの柱(ヨーロッパの影の思想となすのはカバル、グノーシス主義、錬金術、古代ケルト神話、ゲルマン神話などである)、ユダヤの神秘主義カバルについて見てみよう。

 神秘思想は自らの力で神的な叡智が手にはいるとされる。

  霊的覚醒のための修行

  イニシエーションなどによる精神的な糧

  聖なる力の獲得

 カバルの根本思想は「無からの創造」である。キリスト教の神が時間も空間においても永遠の存在であるのに対して、カバルは神のいない段階があるとした。世界の背後にある超越存在から神性が流出して、すべてが創造されるのである。この説によれば神をも被創造物の一つに過ぎない。エホバの神はここに唯一の創造者、絶対者の座から降ろされる。そして、創造の秘術、人間生命の奥義が、秘術により明かされるとした。ここに神の御技が人間の手に取ることが出来るようになったのである。

 創造の秘密が明かされるとき、それは人類創造の夢に繋がる。新しいアダムの創造である。これこそ、自らを神にし、また神を創造することなのである。なぜなら創造が出来る者こそ神なのだから。また、アダムこそ神に似せて造られた神そのものだからである。ユダヤの伝説である巨人ゴーレム、中世、試験管で造られた人間ホムンクルス、又、フランケンシュタイン伝説、全て神に繋がる道なのである。

 カバルでは天地創造が、セフィーロートという形で表される。このセフィーロートこそ10個の球と22本の直線からなる図表である(これはエヴァンゲリオンのオープニングや碇指令の部屋にあった図である)。セフィーロートは広大な宇宙を示し、と同時にその雛形である小宇宙である人体も示している。さらに神に至る精神的遍歴をも意味するもので、また、神性の流出を示す、つまり天地創造を示す図表でもある。

 はたして人は神になれるのだろうか。神を創り出すことができるのだろうか。そしてそれはゆるされることなのだろうか。とそういったことはそれほど問題ではない。なぜそんな事を考えなければならないのかが問題である。神の道具としての人間、罪にあふれた人間、そのような枠組みの中、自分の存在を求めようとすれば、神の反逆する悪魔に救いを求めるか。自ら悪魔になるか。神になるしかないのである。しかし、それでも、神の思考の枠組みの中にいるのには変わりない。


第6章 神の勝利

 はたして神に逆らった悪魔や人にはどういう運命が待っているのだろうか。ここで話は終末、ハルマゲドンに突入する。キリスト教はもともとこの終末観のため、救いを求めた者に広がっていったのである。現世の否定こそキリスト教の中心である(中世では教会に従うことこそ救いになったが)、ここでキリスト教における人類の最期の姿をみてみよう。なぜならいくら神に逆らおうともキリスト教の枠組みにいる限りこの運命から逃れられないのだから。

 では、これから訪れるとされる終末への流れをみてみよう。

 七年大困難(ダニエル書)

   これは聖書では7日間と表現される。

   (ナウシカの火の7日間。バスタードでも最初の破局は7日間)

  偽キリスト(キリストの名をかたる者)が多数出現

  戦争の発生(国と民族との)

  ききんと地震

  キリスト教徒への迫害

  にせ預言者が多く出現

  社会の混乱

  これがヨハネの黙示録によればどう表現されるのか。

   7つの封印が解ける。

    終末の災いが世界を襲い始める。

   7つのラッパが吹かれる。

    神の怒りが地上を襲う。

     地は焼けただれ、海は血に染まる。

     星が落ち、地獄からイナゴの大群が襲う。

   ミカエルとサタンの対決。

   敗れたサタンが地上に逃れる。

   サタンが地上を支配する。

    人々は額か右手に悪魔の刻印666を押される。

    悪徳が栄える。

 ハルマゲドン。

  神と神に反逆する者の最期の戦い。

   地上の悪が爛熟したとき。神が最後の災いを地上に注ごうとする。

   ハルマゲドンの地に神に対抗する者が集結する。

   最後の戦いによる地上の完全な崩壊。

   この時、「事は成就した」という大きな声がする。

 終わりの日、イエスの空中再臨。

  サタンを捕らえ底知れぬところに閉じこめる。

 千年王国の時代。

  キリストと生き返った殉教者によるこの世の支配。

  地上の楽園の出現。

 サタンの解放と宇宙の消滅。

  サタンが千年ぶりに解放されるが天からの火により

  焼き尽くされる。

  と、同時にこの宇宙が消滅する。

 最後の審判

  宇宙が存在しなくなり、人間も霊的存在になって

  神に裁かれる。

 新しい天地の創造

  新しい天地が創造され、最後の審判で選ばれた者がこの神の国に入り、至福の時を永遠に送る。

 ここにおいて、神のシナリオも終わるのである。

 終末論が盛んになり、救世主が待望された時代、つまりキリストが登場した時代、彼らは今の世界こそ悪魔が支配する時代だと考えていた。よって世界の滅亡と、自分たちだけ救われる事だけを願っていた。特に殉教してキリストとともに千年王国を実現することこそ、彼らの願いだった。死をかけた布教活動も、十字軍も、魔女狩りも、ナチスも、現代アメリカも、悪魔の支配から世界を救うための活動なのである。そのシナリオが今も生きているのである。

 全てが神のシナリオなのである。

 神への反逆者、悪魔は自らの意志により堕天使になり自らの王国を造ろうとしたはずなのに、実は神のシナリオどおり動いていたに過ぎず、自らの意志と信じていたものさえ、神に造られていたものかもしれない。はたして悪魔に救いの道は有るのか。そして人に救いはあるのだろうか。

 たとえば、マンガ「バスタード」において、まっすぐ神のシナリオどおりに進んでいるように見える。17巻までをみる限り、世界はハルマゲドンに進み、神の部下、天使たち(ここに描かれる天使は天使学の一つの極致)と、人間との戦いもクライマックスに向かい、千年の眠りについたはずの悪魔王サタン(堕天使ルシファーのなれの果て)が蘇ろうとしている。つまり、400年前に終わりの日があり、今は千年王国の時代ということになる。暗黒のアダムと呼ばれるダーク・シュウナイダーの復活も近い。これはキリストの再臨なのか。新しい人類のなのか。神のシナリオは最後に覆されるのだろうか。しかし、神のシナリオが覆ったとしても、シナリオに翻弄される運命は変わらず、また、覆った運命も新たなシナリオに過ぎないのかもしれない。


第7章 それでも神に挑戦する者たち

 こうしてみると人も天使も悪魔も神さえも大きな袋小路に彷徨い込んでいるように見える。人は存在するだけで罪ならば人はどこに行けばいいんだろうか。神の思いのまま行動するしかないとすれば、天使が存在する理由があるのだろうか。神の反逆をうたい、神に戦いを挑もうとも、全てが、その意志さえシナリオ通りなら、悪魔は何をなせばいいのか。神もまた、全てのシナリオがあるのなら、存在の理由がない。閉じられた世界がそこにあるだけである。

 天使ルシファーは自らの王国を望み、神以外に己の意志を持とうとして天界を追われ、堕天使となり、悪魔王サタンとして反逆の機会を待つ。しかし、自分の思いも、行動も全て無意味で、ただ踊らされているだけという不安を感じながら。しかし、それでも反逆せざるを得ない。反逆することが唯一出来ることだからである。

 私はここで今まで出会った作品のある登場人物に帰っていく。大いなる運命に翻弄されながら戦い、ある意味ではみじめに生き抜いた人々、悪魔たち、天使たちがいた。でも私にとって忘れられないのは「百億の昼と千億の夜」の阿修羅王である。最後まで負けるに違いない戦いに望み、永遠に闘い続ける。その姿こそ唯一の望みかもしれない。

 神に挑戦する者はアニメ「エヴァンゲリオン」にもいる。碇ゲンドウである。彼のやろうとしていることは、中世の錬金術士(たとえばホムンクルスを造った錬金術士パラケルスウスやゴーレムを造ったプラハの錬金術士)と本質的に変わらない。その意味で彼は一つの理想郷を描く妄想家である。エヴァンゲリオンのオープニングを中心にこの作品の神秘学(キリスト教的)側面を見てみよう。

 まず最初に出てくる光の輪、これは何とも解釈出来るが、たとえば、天使を表しているとも言える。なぜかというと天使は階級制になっていて、太陽系に似た形をして聖なる中心をめぐるように表現される。中心は純粋な光の領域で遠いざかるほど光は物質化する。マンガ「魔天道ソナタ」や「バスタード」でみられるように天使は9階級あって上級な天使ほど中心を回るのである。中心近くにいる天使の仕事といえば、ひたすら神を讃える歌を歌うことである(バスタードではよく天使は歌をうたう)。

 そして最初に出てくる使徒の顔しているみたいな奴(使徒)は9階級の内、上から2番目、上級三隊の二番手、智天使のケルービームである(実はセラフィームも同じ姿をしているが)。元々、ケルービームや天使の最上級セラフィームは他の天使と違い人間の形をなさず土俗信仰の影響から複雑怪奇な姿をしている(キリスト教は異邦の神々を悪魔や天使にして取り込む。大地の神、地母神も否定されるが、その影響は聖母マリアに復活するが)。ケルビームは4つの翼もしくは6つの翼を持ち(本当は6つの翼はセラフィームだが混同されている)、あのような姿で表されるのである。

 ケルービーム。ケルビム。諸星大二郎の妖怪ハンターシリーズ「生命の木」で生命の木を守るとされたケルビムである。智天使はエデンの園でアダムから命の樹を守ったのである。聖書によれば知恵の実を食べ、知恵を知るようになった人間アダムとイヴから生命の木を守るため回る炎の剣とケルービームに守らせたのである。そうするとその後に出てくるのは生命の樹である。生命の樹とはいろいろあるが、ここにあるのは、逆さまの樹と呼ばれるものである。根が天があり、枝が地にある。これは天から天地創造がなされたことを意味するのである。世界中にある生命の樹伝説の特徴は、魔力ある生命の樹のまわりに楽園があり、この生命の樹には必ず守護者がいて資格ないものから守るということである。この生命の樹がユダヤの神秘思想カバル、先に述べたセフィーロートになったのである。そしてこの図は先に述べたようにオープニングやゲンドウの執務室に出てくる。

 そしてカバルの奥義セフィーロートこそ天地創造そのものであり、この奥義を解き明かすことこそ新しい人間を創造することである。新しいアダムの誕生である。そして、イヴはアダムの肋骨から生まれた。しかし、イヴは2番目の妻で、最初の妻はリリスであるという説がある。最初の妻リリスは神に嫌われ、サタンの妻に墜ちる。

 そして人間の成り立ちは霊と肉体である。肉体を作り霊を吹き込まなければならないのである。この霊が不完全であると肉体との調和が失われ、暴走し、肉欲、性欲へと走る。 また、エデンの園のアダムは2番目に造られた人間で、その前に原初のアダムがいたという説もある。原初のアダムこそ天地創造の7日間で造られ、その姿は巨人だったという。しかし、神の怒りをかい、滅ぼされたという。これらの姿がエヴァンゲリオンに反映しているのである。こうしてみると碇ゲンドウこそ、新たな人間を創り出そうとする現代の錬金術士である。

 もう一つの流れがキリスト教の終末観である。既に現代という世界が滅びの中にあり、人は神に滅ぼされるしかないという考え方である。作品上、何の根拠も示されず、「時間がない」「人は滅びるしかない」という言葉が繰り返された。そして、神の使徒による攻撃が何度も繰り返される姿は、生命の秘密を守ろうとしているとも考えられるが、人類を滅ぼそうとしているとも考えられる。そういう面から考えれば、碇ゲンドウは、人類を救うイエス・キリスト、救世主であると考えられる。彼はよく十字架を背負って登場した。しかし、彼は終末を喜んでいる。彼に興味があるのは人類が救われるかどうかではなく、自分に救えるかどうかなのだ。

 ところが、こういう考え方、いっさいのことは25話、26話で否定された。投げ出されたと言ってもいいかもしれない。


 エヴァンゲリオンの宗教(オカルト)関係の用語

 死海文書

  死海のほとりに紀元前2世紀から、紀元後1世紀まで独自の

  共同体を作ったユダヤの一派、エッセネ派が残した文書。

  羊飼い宝物だと思って発見したがただの紙だったのでがっか

  りしたもの。

  キリスト教成立の背景を知るのに貴重な文書である。

 ロンギヌスの槍

  イエスが十字架に磔にされた時、脇腹からさしてとどめを刺

  した槍のこと。

  この槍を刺した兵士がガイウス・カシウス、後のロンギヌス

  であることから、この名がある。

  このロンギヌス、槍を刺したとき、イエスから吹き出した血

  を目に受けて、今まで悪かった目が治り、回心、ついには聖

  人にまでなったという(よかった。よかった)。

  この槍を手にすると、この世の王になり、手放すと破滅する

  というとてもありがたい聖遺物。

 ガスパール、メルキオール、バルタザール

  東方の三博士(マギ)のこと。

  イエスが誕生した時。占星術によりその誕生を知り、イエス

  を拝みに来た三人の学者である。

 福音(英語でエヴァンゲル)

  イエスが磔にされたことで世の全ての罪が贖われた。よって

  世の中の全ての人が救われることになった。このことがよい

  知らせ。福音である。

 リリス

  アダムの最初の妻。淫乱の罪により追放され、サタンの妻と

  なる。

  本来、生と死を司る女神だったという。

 シャムシエル、ラミエル、ガギエル、イスラフェル、

 サンダルフォン、マトリエル、サハクィエル他

  天使たちであり、それぞれ役目があるとされる。

   シャムシエル     昼

   ラミエル       雷

   ガギエル       魚

   イスラフェル     音楽

   サンダルフォン    胎児

   マトリエル      雨

   サハクィエル     空




エピローグ 悪魔の迷宮 人はどこに行くのか

 人は、この眼前の世界が狂っている。あるべき姿でないと感じた時、この世界の滅亡を願うのだろうか。それとも世界の支配を願うのだろうか。少なくてもこの世界を自分の思い通りに変えようとする人々がいる。たとえば、ある宗教の教祖を名乗る男だったり、有害図書を追放して子供の世界に幸せをもたらそうとする主婦だったり、愛すべき生き物を守ろうとする正義の人だったりする。しかし、その行動は、独りよがりで、考えは妄想に近い(妄想そのものだったりする)。彼らには彼らの理想があったはずなのにどこが狂ったのだろうか。

 人は理想を求め、世界をあるべき姿を求める。キリスト教の光と闇も、人々のもがき苦しむ姿のはてにあった。しかし、それはキリスト教だけではなく、あらゆる場で、世界に押しつぶされようとしている人間にとって、甘くかぐわしい誘惑であった。終末の到来も、そこで下される、神の裁きも、救世主の救いも、天使たちの麗しく残酷な姿も、悪魔たちの悪の誘惑も、又、神に反逆する勇敢な姿も、みんな救いなのである。

 悪魔をはじめとして、この世には存在しない(確認できない)ものたちについて語ってきた。虚構の世界である。しかし、この虚構は、ある時は、この世の最高の叡智で築かれ、またある時は、民衆の願いの中で、生まれた。そして、信じられ、多くの人の救いとなり、残酷な殺戮の元になった。ある時は、欲望から生まれ、ある時は世界を探求する心から生まれた。

 この豪華絢爛たる世界は、確かに人の心から生まれた。人が造りだした世界である。この現実の世界以上に、こんな世界を造らざるを得なかった人間とは何なのだろうか。そして、どうしてこんなにひかれるのだろうか。

 終末も来ず、神も悪魔にも救いがないとすれば、行き場がないのは人間の方である。だからこそ、物語や、虚構の世界に救いを求めるのである。そして人間は、自分こそ世界のあるべき姿を知っていると信じて愚行を繰り返すしかないのかもしれない。

  

 最後に参考にさせていただいた本を紹介させていただく。他にも本文に紹介したように悪魔関係の本はたくさんあるので捜してみて頂きたい。また、浅学のため、間違いも多々あると思うが、広い心で許して頂きたい。

 世界妖怪図鑑 立風書房

 トンデモ本の逆襲 洋泉社

 キリスト教の本 上、下 学習研究社

 誰もが聖書を読むために 新潮選書

 悪魔の話 講談社現代新書

 教養としてのキリスト教 講談社現代新書

 悪魔の系譜 青土社

 悪魔の辞典 青土社

 悪魔の歴史 青土社

 地獄の辞典 講談社

 天使の世界 青土社

 天使 新紀元社

 堕天使 新紀元社

 生命の樹 平凡社

 新約聖書ものがたり 創元社

 鬼の研究 ちくま文庫

 四谷怪談の女たち 小学館




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