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「えらそうな人びと」へのコメント

清瀬 六朗



 「おまえ、さてはアニメファンだな」。
 「ちがうって」。
 「アニメファンってのはどうしようもない連中なんだぞ。レアなアイテムはほしがるし、裏情報やスタッフとの人脈を見せびらかしたがるし、そのうえ嫉妬深くて自分より目立つやつをすぐにおとしいれたがるんだ。どうせおまえもそのクチだろう!」。
 「ちがうって。だっておれはアニメのことなんかなんにも知らないんだから。おれは○○も見てなかったし××だって知らないんだぞ」。
 「なにぃ? おまえはそんなことも知らないくせにアニメファンのつらをしているのか? おれなんか○○はどんな細かいセリフでも思い出せるぐらい見たし、××のスタッフの△△さんにはこんどの本に原稿書いてもらうんだぞ」。
 「だからおれはアニメファンじゃないって」。
 「いや、おれのまえにいる以上、おまえはアニメファンに決まっている。しかしこんなにたちの悪いアニメファンがいるとは思わなかった」。
 「じゃああんたはいったいなんなんだよ?」。
 「おれはもちろんアニメファンだ。それにおれは良心的なアニメファンだからすべてのアニメファンの欠点とは無縁の良質なアニメファンなんだ。恐れ入ったか!はっはっは」。


 私は奥田氏以上にパソコン通信の経験が少ない。そのわずかな経験にあってすら、アニメ関係の「会議室」その他で、カリカチュアライズすると上に書いたような感じになる会話というか論争というか言い合いを何度か見ている。

 もちろんアニメ関係の「会議室」すべてがそうだと言いたいわけではない。そんな紛争が起こるのは全体から見れば稀なことである。また、そうした紛争を起こさないように、公正な立場で努力している管理者やアクティブの人びとには私は敬意を払うことを惜しむものではない。私は多忙になったことがおもな理由で、最近はほとんどすべてのアニメ関係の「会議室」(その他ホームパーティーなどと呼ばれるものも含めて)を読んだり、そこに書きこみをしたりすることをやめてしまった。しかしその「会議室」で知り合った人とはいまでも交流をつづけている。

 ただ、それを奥田氏ように「えらそう」ということばで表現するかどうかはべつとして、「パソコン通信上のアニメファン」に共通する性格がその書きこみのなかに見られるのはたしかなように感じる。



 経済学の方法

 さて、奥田氏の「おたく」についての考察は経済学的側面から行われている。

 「経済学的」というとカネの話じゃないかというような反応もあろう。しかし、経済学というのはただカネのことのみを扱っている学問ではない。非常におおざっぱに言えば、ある行動に投入されるコストとその結果として得られるものの比較によって、人間がどうしてそういう行動をするのかということを明らかにするのが経済学の本質であると私は理解している。ある尺度から見て結果として得られるものよりコストのほうが多ければ、その結果をそれだけのコストに見合うものと考えさせている尺度を探すことだって経済学のたいせつな役割である。

 よく、日本の企業社会の弊害を「経済優先」だからいけないなどと批判し、「経済」ではなく「ゆとり」や「人間」をたいせつにする社会を、というような議論を耳にする。だが、人間に「ゆとり」を与えないで苛酷なスケジュールで働くことを強いるような社会のあり方自体、「経済」的によく構成された社会とは言いがたいのである――というのが私の解釈だ。「経済学」ということばを、たとえば企業社会の弊害やバブルやその崩壊といっしょに敵に回すような思考をするべきではない。経済学を捨ててたんに「ゆとり」とか「人間性」とか言ってみたところで、厳格な方法論を持つ体系を情緒で置き換えるだけの話で、何の解決にもならない。聖剣エクスカリバーで敵を倒せなかったからといって青銅の短剣に持ち換えているようなものだ。むしろ、企業社会とかバブルとかを経済学によって批判するという方法をこそ生み出すべきだと私は考えている。

 話がわき道にそれた。言いたかったことは、「経済学」という方法はカネの勘定をやっているだけのちっちゃい学問ではなく、社会で起こっているいろいろなことを説明するために応用可能な方法であるということである。

 じつは私もパソコン通信について、とくに、多人数が参加している「フォーラム」や「会議室」というものについて、「経済学」的に――コストと成果の考量によって考察してみる必要があると感じていた。



 出版物をめぐる権威の発生

 奥田氏も書いているように、パソコン通信という媒体は、情報というものをめぐる環境を革命的に変えてしまった。

 かつては、文書を発表する側と講読する側、あるいはメディアの「送り手」と「受け手」のあいだには絶対的な格差があった。

 「送り手」の側は出版社・新聞社やテレビ局から一方的に大量の相手に対して情報を送り出すことができた。

 また、それゆえの権威というものがこうした型の情報送出(出版とか放送とか)にはついて回った。これは○○という出版社から出ている本なのだからいいかげんなはずがない、××新聞に書いてあったことだからまちがいない、△△という人は○○出版から本を出している人なんだからきっと信頼できる言論人にちがいない……。

 出版社なり新聞社なり放送局なりが使える資源の量は限られている。その限られた量でなるだけよいものを送り出すことが出版社・新聞社・放送局などの役割であると期待されている。また、よいものを継続的に送り出すことがその出版社などの信用を高める。それだけに出版社などはなるだけ質のよいものを送り出すべく、そこから送り出す新聞記事や本や番組を厳選する。ひいてはその作り手である記者や著者やテレビ・ラジオのスタッフなどを厳選する(それが社内の人間であるかそうでないかはここでは問題ではない)。その何段階もの審査に合格したものだけが本や新聞記事になり、またテレビやラジオで放送される。逆に言えば出版社から本になって出たり新聞に載ったりしたことはその審査に耐えたものだということで、「それはいいものにちがいない」という信用が生まれ、ひいては権威が生まれる。また、出版社などもその信用や権威を保つためにより内容を厳選しようとする。

 もちろん、正確にいえば、出版社・新聞社・放送局が真に「質の良いもの」を選択するとはかぎらない。では何を選択するかというと、それは(官僚統制社会でないかぎり)市場によりよく受け入れられるものである。出版社側でも「こんなめちゃくちゃなものを出していいのだろうか?」と思い、もしかすると読者も「またしょーもない本!」と思うかも知れないものでも、売れるのであればどんどん出していくという判断もあるだろうし、すべての出版社(新聞社他も含めて)には多かれ少なかれそういうところはある。だが、すべてがそういう目の前の市場だけを考慮して出版されているわけではない。市場のなかのどの層が自分たちの出版社の本に注目しているかということも考慮するだろう。市場で売れなくてもやはり「質の良い」ものを出版している出版社であるというところを見せないとけっきょく「質の良い」ものを書く書き手を逃してしまうというような考慮が働くこともあろう。

 だから「質の良い」ものがかならずしも「売れる」わけではなく、「売れる」ものがかならずしも「質の良い」ものではない。ここに緊張関係があるわけだ。ただ、情報の「送り手」の権威にとってはそれはあまり重要なことではない。「質は良くないがよく売れる」ものの「送り手」には、「質の良い」情報の「送り手」という権威のかわりに「よく売れる」情報の「送り手」という権威が生まれるだけの話だからだ。

 それに対して情報の「受け手」の立場に置かれている者のできることはかぎられていた。

 出版社に手紙を書いてもせいぜい著者のもとに送られるだけだし、著者は読むだろうけど返事なんか書いてくれない。また、ひまな人が趣味で書き物をしているならともかく、職業的な文章書きにはなかなか読者からの手紙に返事など書いている暇はないものである。電子メールではない手紙というものはなかなか時間と手間のかかるものである。ハガキとか便箋とか封筒とか切手とかいうものを用意しなければならないし、鉛筆書きは失礼とされているので書き損じしないように下書きしたり、文章を工夫したりしなければならない。そのあとポストのあるところまで出しに行かなければならない。しかも文章書きがあんまり下手な文章で手紙を書くこともはばかられる(なんせその人の「全集」とかが出たらその手紙がそれに載ることになるのだから!)。かくして、読者からの手紙というものは、せいぜいつぎの本を書くときに、「前の本にはたくさんのお手紙をいただき感激しています」というぐらいに触れてもらうので我慢しなければならない。それでもたまに自分の手紙に返事がもらえないということに怒る読者もいたようだが、怒ったところでその怒りを表現する場なんてないに等しかったのだ。

 新聞や雑誌に投稿してもよいが読者の投稿というのはなかなか載るものではない。だいたい投稿欄というのは字数が限られているからちゃんと構想を立てて練って書いた文章なんて載る余地は少ないのである。雑誌の場合は長文の投稿を載せるものもあるが、それでも本文のアーティクルよりはずっと扱いが小さい。

 同人誌とかミニコミとかいうものはどうか?

 コミケが開かれるようになってからはやや状況が異なってきたが、それまでは、「同人誌」というのは、ごく少数の文学愛好家なんかが集まってごく少部数を出版しているという底のものだった。もちろん正規の流通ルートに載るわけもない。そのころの「同人誌」作者たちがのちに書いたものを読むと、大手の書店から近所の小さな本屋まで足を棒にして歩いて「これ置いてください」とたのんで回ったというようなことが書いてあって涙を誘う。社会性を持つミニコミ誌はもうすこし広い範囲に流通したかも知れないが、やはりその範囲は限られていた。

 そして、これらのものには、出版社が正規の流通ルートに出しているものにはある権威がないのである。それが受け入れられている社会の枠から外に出ると、それは「得体の知れないやつが作ったわけのわからない本」と思われるがちなものだ。もちろん同人誌から始まって商業出版になった雑誌もないわけではないが、それは非常に稀な例だと言っていいだろう。



 パソコン通信は文章をめぐる関係をどう変えたか?

 ところが、インターネットも含めたパソコン通信というメディアの登場はそれを大きく変えた。

 そこでは情報の「送り手」と「受け手」という区別がなくなってしまった。だれもが「送り手」であり「受け手」であり得る。出版社との折衝もないし、編集の人にぐちゃぐちゃと文句をつけられることもない。めんどうな校正作業もない。文章を書いて送信すればそれでいいのである。

 もしだれかの書いているものに言いたいことがあれば、それが「会議室」のようなものであればそこに書きこみをすればいい。それはオリジナルの発言とまったく同じ体裁で掲載され、同じ条件で読んでもらうことができる。もしそこに直接に書きこみができないのであれば、自分でホームページにコメントの文書を上げればいい(早い話が このページがその例である )。

 しかも、出版社に手紙を送ったり、新聞に投稿したり、同人誌やミニコミを出版したりしたら、それがだれが送ったもの・作ったものかをはっきりさせなければならなかった。匿名の手紙とかビラとか怪文書とかいうものはあり得るが、それはイヤガラセとしては効力を発揮するかわりに内容的には無価値なものとされてしまう。そこでは匿名性は十分に保護されないのである。

 ところがパソコン通信は匿名性の高いメディアである。何を書いてもどこのだれが書いたのか知られることはまずない。誹謗中傷を流せばID剥奪になったり「フォーラム」などの集団から退会させられることはあるかも知れないが、それとてIDを再取得して復帰すればそれで終わりである。

 では、そういう場で、出版の「送り手」にあった権威というものが意味を失ったかというと、けっしてそうではない。

 もともと希少な資源を使う資格を得ているからにはちゃんとした本なんだろう、ちゃんとした人なんだろうという思いこみがその権威の源泉だった。だがパソコン通信においてはべつに資源は希少ではない。もちろんプロバイダやパソコンネット管理会社のディスクの容量という制約はあるが、出版社から本を出そうと考える者が感じる制約からするとないに等しいようなものである。

 しかし、それは、何百万の人相手に公開されており、それだけの人数に読まれるものなのである。読者が多いということは、出版や放送の場合にはたしかに権威の源泉になり得た。それだけの部数を出したり、それだけ多くの地方でしかも視聴者の多い時間帯に放送したりしてもらえるということは、それだけコストをかけてもらっているということである。それだけのコストをかけてまで送り出してもらえる情報だというによってそれは権威を得ていたのだ。

 パソコン通信では何百万の人に公開されるのが当然なのだから、べつにそれは権威の源泉にはならないはずである。そころがそうはいかない。

 権威というのはいちいち過程をこまかく考察することで感じられるものではないからである。むしろ、個別に過程を細かく検証するのがめんどうだから、いくつかの特徴のあるものに「権威がある」ことにしてしまい、考える手間を省く――そういう思考の経済のための道具が権威という発想なのだ。

 だから、パソコン通信に何かの書きこみをした者が、従来、何百万の人に読まれていたものが権威があるとされていたなら、いま通信に載せたこの文書とその作者である自分にだって権威があるはずだと思いこんでしまったってそれはそんなに奇異なことではない。

 同時に、パソコン通信が従来の出版やら放送やらとちがっているのは速報性である。新聞では、その日に起こったことは、(号外の出るような大事件を除けば)せいぜいその日の夕刊かつぎの日の朝刊に載るものだ。しかも紙面にかぎりがあるので自分にとっては大きな事件でも――それどころかかなりの数の人間にとって大事件であったようなことでも、ばあいによっては掲載されないこともある。放送には速報性があるといわれるけれども、ニュース番組だって普通はいくらか時間をかけて編集しているのが普通である。

 ところが、パソコン通信では、書いてネットに上げてしまえば、その1秒後からでもその文章全体を読んでもらうことができる。しかも、それは世界的大事件についてのものであろうと社会的には取るに足りないできごとについてのものであろうとなんら区別されない。インターネットでであれば、自分の家のネコに子猫が生まれたということを、即座に全世界の人びとに知ってもらうということすらごく普通にできる。

 速報性というものは現代社会では非常に価値あるものとされる。速報性に適したメディアであるパソコン通信の普及は、非常に多くの人に速報性のある情報を発表する機会を与えた。

 それが現代社会全体に与えた影響とか衝撃とかいうものを論じるのは私の任ではない。それが「おたく」活動の重要な舞台のひとつであるアニメというメディアにどういう関係があるかに話を絞りたいと思う。

 テレビアニメは、通例、一週間に一回かそれ以上の頻度で、決まった時間に放映される。スペシャル枠で単発で放映される作品もあるが、性格としてはそれ劇場作品のテレビ放映に近いだろう。野球や特番で何週間か連続で休みになるとかいうこともあるがそれは例外――ということにしておこう。

 すると、その感想をアニメ誌に投稿するとしても、それが掲載されるのは一か月、タイミングによっては二か月も後になってしまうということになる。

 ところが、パソコン通信であれば、その放映が終わった直後に、いや放映中にでも感想を書き、それを多くの人に公開することができる。まさにパソコン通信に速報性の賜物である。その速報性はただちに活用されるようになった。アニメ関係の「会議室」には、その日の夜には多くの――「会議室」によってはすさまじい数の書きこみが「未読」としてたまることになる。

 べつに時間をかけて先週や先々週の放映分について感想を書いたってよいようなものだし、げんにそうしている人もいる。けれども、「会議室」に「その週の放映分の感想はその放映から一日二日のあいだに書くものだ」ということが常識として定着してしまったら、多くの参加者は一日二日のあいだにその感想を書こうとする。そうしたもののほうが他の参加者からも注目されやすいし、他の参加者からコメントをつけてもらうことも多くなるからだ。「パソコン通信」のたのしみが他の参加者とのやりとりにあると考えるのであればなおさらなるべく早い書きこみが望まれることになる。



 速報性、アマチュアリズム、権威

 さらに、パソコン通信は文章を書く上でのアマチュアリズムの実践の場をも拡大した。これは当然だろう。さきに書いたように、投稿するにしても同人誌を作るにしてもそれには多大な手間と時間が必要だったのだ。だが、パソコン通信に書きこみをするためには、万年筆で清書する必要もなければ切手を貼ってポストまで投函に行く必要もない。夜だと郵便局が閉まっていて切手が買えない、文具屋が閉まっていて原稿用紙も買えない――といった事情もない。仕事や学校や塾が終わってから帰ってきて、ちゃっちゃっと書いて、送信すれば、一歩も動かないで自分の文章を発表できてしまうのである。

 私は健全なアマチュアリズムは民主主義社会にとって必要なものだと考えている。だから、パソコン通信がアマチュアリズムの場を拡大したことを私は基本的には肯定的に評価していきたい。

 が、文章書きのアマチュアが、速報性を重視して書いた文章が、文章として十分に練れた、思想的に深みのあるものとなることはあまりないであろう。出来合いの発想・思想の型をいくつか借りてきて、自分の感じたことを適当に表現できればそれで足れりとするものになるほうが普通だろう。

 これとて私は悪いこととは思わない。むしろ、アマチュアが自分の感じていることを容易に表現できるように、その表現のためのキットやパーツの数を増やし、その質を向上させていくことこそが、文章書きの能力にそれなりの自負を持っている者の務めだと私は思っている。

 だが、そうやって既存のパーツを組み合わせて作った速報性の高い文章に、専門の文章書きが、構想をきちんと立て、何度も検討を加えて発表した文章と同じ権威があるものと感じてしまったとしたら、それは問題があると言わざるを得ない。

 大手ネットや、アニメ界で有名なネットのアニメ関係の「会議室」のばあい、そこにスタッフが参加することもあるだけに事情がさらに複雑になる。番組に投書したり、アニメ誌に感想を送ったりしても、まず反応を返してくれなかったスタッフが、ここでは自分の書きこみにレス(返事)をつけてくれるのである。

 アニメ界でアニメが制作される事情をよく知っているならば、現在放映中の番組づくりにおいて、スタッフに一ファンの意見をそれほど重視して番組づくりに反映させる余地などほとんどないことはわかりそうなものだ。とくに始まってしまった番組の方針を途中で変更するようなことは、2クール(原則的に26話)で組まれる多くのアニメ番組ではむずかしいものである。しかもそこには視聴者以上に代理店やスポンサーの思惑というものが強く働く(興味ある人は押井守監督『Talking Head』のアニメーター「大塚」の独白を聞いてみてください)。伝え聞くところによると、作者はそれでも視聴者の意見や感想をリップサービスではなく本心からありがたく思うものらしいが(人によるだろうが)、それは普通は次回作以降で生かされるというタイムスパンでしか実現することができない。

 ところがファンはなかなかそうは考えることができないものである。スタッフがファンの意見にレスをつけてくれたり、そこまで行かなくても「会議室」を読んでときおり何か書きこみをしてくれることが日常的になれば、「スタッフはこの会議室を読む義務がある」という思いこみが生まれてしまうこともあるようだ。

 自分の書いたものがどの程度の権威を持つのが相応なのかを判断する感覚が適切ではないのである。だが、アマチュアが、速報性を重視して文章を書くのである。なるだけ速く、なるだけ人に強い印象を残し、できれば多くの人から肯定的な返事をもらえるような文章を書く。そこに生じる種類の「経済性」(だから「経済性」にもいろんな種類があるのだ!)の思考において、やはり細かい過程をとばして「こういう特徴のあるものには権威があるものだ」と決めつけてしまう権威の思考はたいへん有用なものである。

 パソコン通信の一部の参加者は、自分の書いたものには大きな権威があるものと思いこみ、それに対して少しも自省の機会を持たないためにますます自分の書いたもの――ひいては自分に大きな権威があるものと思いこんでしまう。そして、場合によっては、こんどは権威のほうが自己目的化してしまうこともある。それが、奥田氏の文章でいう「えらそう」現象なのだと私は考えている。



 学術の頽落形態としての「おたく」現象

 私は「おたく」現象というのは「学術」の頽落形態――つまりその本質的部分を省略したまねっこであると考えている。

 べつに頽落形態であってもまねっこであってもそのこと自体はべつだん責めるべきことではない。ここでいう「頽落」ということばはハイデガーから引っぱってきたものである。で、ハイデガーによると人間は日常においては頽落しているのが当然だというのだ(「当然だからそれでいい」と言っているか否かについては議論がある)。

 とりわけ、民主主義社会では、大衆はそのすべてがすべての分野について専門家であることを期待されている。専門家は僧侶とか貴族とかだけでよく、民衆は無知なままでいいといったことが通念とされる社会ではない。もちろん現実にはすべての分野について専門家であるようなことはむずかしいし、それも社会のなかの情報量の増大によりそんな型の人間が生まれる余地はますます狭くなっている(だからインターネットのようなものの存在が社会的に要請されるのだ!)。しかし、そこでは、やはり、専門家としての知識を持っていることはよいこととされ、専門家としての知識を示すと尊敬されるものなのだ――もちろんその尊敬に比例してやっかみとか嫉妬とかの的になることも引き受けなければならないが。

 そうなると、たとえ専門家でなくても、「専門家のまねっこ」をすることが、尊敬を集め、自分の権威を高めるための手段として重視される。どうせ自分が真の専門家なのか「専門家のまねっこ」をしているだけなのか、そんなことをいちいち検討する(と学会のような)変わり者はそんなにはいないのである。また、ときにほんものの専門家が「専門家のまねっこ」にいちゃもんをつけてきたら、「閉鎖的な世界(象牙の塔)にこもる専門バカが優越感に浸って何を言っている? 庶民の味方はオレだ」という反アカデミズムに由来する反論の定式がちゃんとできている。ほんらいの反アカデミズムの論理とはそういうものではないはずなのだが(とか書くとまたヒハンされるんだぜ、きっと)。そんなわけで、専門家みたいな物言いで尊敬を集めつつ、ほんものの専門家ではないと言うことで鼻につく「専門家臭」がない、「専門家のまねっこ」が幅を利かせることになる。別の文章にも書いたが、「トンデモ」の流行はそういうところに根があると私は考えている。

 「おたく」とは、学術についての「専門家のまねっこ」の体系だと思っている。専門家のやっていることを見れば、その分野についての知識を豊富に持っていて、何か言われれば、「いや、それは○○の××が△△で……」とかその知識をひけらかすのが仕事のように見える。とくに私たちの目にとまるテレビでのコメントとか新聞に出ている評論とか「識者のコメント」とかを見るとそんな印象が強い。「おたく」のなかには大学生やかつて大学生だった人も多いと思う。大学で専門のゼミなんかに出れば、指導教員から「きみはこんなことも知らないのか、いや、そもそもこんな基本的なことすら知らないのか、それじゃだめだ、勉強して出直してきなさい」と脅しをかけられたりするのだ(ちなみに、私の指導をしてくださった先生には、「知らないのだったらちゃんと調べてこい」と叱られたことはあるが、「そんなことも知らないのか」とバカにされたことはない)。ますます「ははぁ、学術的にえらい人とはそういう態度をとるものなのか」ということを「学習」してしまう。一連の薬害エイズ事件報道のなかで「専門家」が見せた姿はますますそういう「専門家」像を助長したかもしれない。

 ぜひとも学術の「まねっこ」をしてみたい。そのときに、あの先生たちのように国際政治とか経済とかの知識はないし、そんなもので人の注目も引きたいとも思わない。もっと大衆に――あるいは自分の周囲にいる連中に受け入れられやすいものはないか。

 ない、ならそれまでである。が、ファンとして楽しんでいたアニメとか特撮とかの知識がそれに役に立つと気づいたときに、顕示行動としての「おたく」的な行動様式が生まれるのだ。

 「おたく」の人たちがよく他人に浴びせるヒハンのことばに、最初にも書いたが「おまえは何も知らないのになんでこんなことを言う資格があるんだ!」というものがある。私も経験がある――言ったほうではなく言われたほうだが。だが、正当な「批判」であれば、そういう前に、その無知がその人の議論の欠点となっている箇所を指摘してやるべきである。そうしない以上はそれはたんなるえせ学術の顕示行動にすぎない。

 こんなことを書けば、大略、つぎのようなヒハンがあり得るであろう。

 「オタクの存在はいまや社会的に認知されている。オタクの帝王岡田斗司夫はいまでは最高学府東京大学の講師ではないか。そのオタクの存在を否定的にしかとりあげられないとは、なんとおくれた、無知なやつであろうか! オオワライである!!」。

 はいはい。東京大学の先生になることが社会的に認められるということなのなら、その東京大学の医学部の教授になった、薬害エイズに責任ありと言われている厚生省の元課長さんはさぞかし社会的にりっぱな人物だと認められているのでしょうね?

 とは言っても、私はこの「おたく」学の隆盛をもって、困った現象だとか、病理だとかいう気はない。学術の「頽落」形態であっても、それはこの社会のなかに正当に生まれてきたものなのだということをまず認めて相手にしなければならないと考えている。ものの「表層」を見ることもなかなかに重要である。そういえば『表層批評宣言』というような本を書いたのもその東京大学の先生ではなかったか?

 まえにも同種の批判をしたことがあるので気が引けるのだが、あえて書くと、正統の学術自体に「知識をひけらかすことこそ学術だ」という気風がないとも言えないように感じるのである。まあ私は学術の専門家ではないから的確な批評はできない。できないけれど、「学術は専門化してタコツボ化して全体像が見えにくくなり社会とのつながりが見えにくくなってきた」という感覚が社会的に蔓延していることは事実だ。そして、そんな感覚をバネにして、最高学府のエリート学生があやしげな宗教に入信したという例もあるようだ。「全体像」なんてのは自分で形成するものであって、自分で「全体像」を構成する意欲もなく、他人が「宗教」というかたちで提供してくれる定式に沿ってしか構成できなかった者自身に第一の責任はある。それはかつて他人が提供する「マルクス主義」とかいう定式に沿ってしか「全体像」を構成できなかった学生についても同じであろう。だが、こういう事態に学術はどう対応するのか? 私にはその答えを示す責任は学術の側にもあるように思えるのだが。



 メタファーやアレゴリー

 最後に、奥田氏の文章で批判されている「メタファーやアレゴリー」の思考について私の感ずるところを述べてみたい。『エヴァンゲリオン』の綾波レイがシンジに対して母親の地位にあるというようなことをわりと早い時期から言っていたのは私であるので、これも、多少、気が引けるのであるが――。

 メタファーというのではないが、作品のなかから「構造」を見出して、それを分析することを作品鑑賞の楽しみとする方法は、私は登坂正男氏の押井守論から学んだ。登坂さんのようにキレイに決まらないのが難点であるが、その方法は私はいろんなところで試してみている。それでずいぶん作品を楽しく見ることができているんだからいいじゃないかと私は思う。

 ただ、よく見られるのが、自分の発見した「暗号」とか「メタファー」とかを絶対的なものと思いこみ、それを考えに入れないその作品についての物言いをいちがいに「ダメ」と決めつける論である。これは、じつは、そういうものを見出して作品鑑賞の手段とすることとはぜんぜんちがったことだ。しかも、登坂さんのようにその作品のおもしろさを引き出す手段として「メタファー」とかなんとかが活用されるならば好感が持てるのだが、そうではない例が多い。むしろ、自分勝手に「メタファー」のたぐいを作品から引き出しておいて、自分勝手な論理で作品を「ダメだ」と決めつける手段としてよくそれが使われるのである。

 それもたまにやってみるにはおもしろい批評のやり方かも知れない。しかしそれは作品のアラ探しに堕してしまうことが多い。学術の皮をかぶっていればなおさらその態度の非学術性があらわに見えてくる。先にも書いたとおり、学術は論理的な相互批判を前提として成立している体系だからである。けっきょく残るのは「どうだおれはこんなことを知ってるんだぞ、えらいだろう」という顕示的な面ばっかりだ。そんなものを書く人物が、自分がいかにアニメや特撮を愛しているかを縷々述べてみても、なんの説得力も感じない(もちろん感じないのは私の勝手であって、それにものすごい説得力を感じる人のことをどうこう言うつもりはないが)。



 で、けっきょく――

 私は「おたく」現象を目の敵にして駆逐しようなんて思っているわけでもなければ、ましてみんなで「おたく」現象を駆逐しようと提案しているわけでもない。かといって、東大の岡田斗司夫先生のようにそれを一方的に肯定的に礼賛するつもりもない。私がここで仮説として提案したいのは、「おたく」現象は現代民主主義の社会に正当に発生しているものであるということであり、それはそういうものとして捉えなければ肯定も否定もできないということである。

 要は、「おたく」現象の一部としての「えらそう」現象にどう対応すればよいかということをまず個々に考えるべきであると私は思う。アホらしいから読まないというのもその対応のひとつだろうし、けっこう気もちがよさそうだから自分もその場に参加して「えらそう」にふるまってみようというのも選択肢のひとつかもしれない――ただしその場のエチケットに反しない範囲でという条件はつくけれど。

 それで足れりとするのではない。だが、私は、「えらそう」の弊害を除去しつつネットでのアニメ論議を楽しんでいくためには、「会議室」での発言というものがどの程度の権威を社会的に持つものなのかという合意を形成していくことが必要だと思う。そのためには、月並みな言いかただけれど、参加者が自覚的に「会議室」の発言というものにどう対応するかを自覚的に考えていくことが必要だと思う。

 アマチュアリズムと速報性が重視されるメディアでそれがたやすいことでないのは重々承知しているが。



 関連アーティクル:「トンデモ本」シリーズについて


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