かきわりの風景

第四章


【序】

インターネットと生身の人間ということを改めて考えていた九月下旬の夜。
あいかわらず通勤電車などで読書はしていないが、約一年ぶりに寝床の中で本を読むようになり、古山高麗雄の『フーコン戦記』も終盤にさしかかっていた。
大敗した前線から脱出し大隊との合流を目指してズタボロになって歩く道沿いに、途切れることなく死体が横たわっている。においについての描写はない。においに触発されて過去の風景を思い出すことはあっても、においそのものは思い出とともに蘇るものではないのかもしれない。ひどく現実的なもの、即物的なもの、その場限りのもの、想像を拒むもの。
最後の数ページを残して、パタンと眠った。入眠剤が効いた感。一時頃だったろうか。
ハタと目が覚めた。四時。
においと夢。嫌なにおいだと思ったのが先か、嫌な夢を見たと思ったのが先か。

夢は、祖母や母の相次ぐ死がテーマだった。死んだはずだと思っていると生前の姿で現れたり、自分の死後を見越したようなことを聞かされたり、何か話しかけなきゃと思っていると葬儀の只中にいたりする。

実際に二人は相次いで死んだのではなく、八年、間が空いている。その順番は、そろそろかと周囲も本人も思っていた八十代後半の祖母より先に、その一人娘だった母が、本人も含めて誰もが思いがけなかったほど突然死んで、父が取り乱して母のいないその後をいかに格闘したか、といったことが乱れた脈絡で夢に現れた。


【破】

そして、現実のにおい。くさい。昨夜、帰宅したときに何かにおうなとは思った。涼しくなって小窓を開け放しておくこともこの数日なくなったとは言え、こんなに、においがこもるほど、生ごみは残していないし、暑くもない。冷蔵庫に腐りかけた生ものも見当たらない。においに覚醒したあと、台所のシンクのパイプが怪しいと夜中であることを憚りながら念入りに洗い、それしかなかったのでやむをえず、ヌメリとりの粉末を撒いてからぬるま湯で泡立たせ、ベッドに戻ったが、においが鼻について眠れない。

帰宅してから次第に、においが増している。今朝まではさほど感じなかった。夜になって、しかも、こんな深夜、どんなに排水口に漂白剤を流し込んでも、芳香剤のように別のにおいに紛らせることはできず、特定のにおいだけがますます「精彩」を放つ。

ふと気づいた。グリルに、出し忘れた焼き魚が残っているのかもしれない。そうだとしたら、魚を焼いたのがいつのことか思い出せないぐらいだから、この程度では済まないだろうと思いながらも、おそるおそるグリルを開ける。何もない。

この数ヶ月、下の住人を見かけない。隣の住人も見かけない。巨大な分譲マンションの一角だけ賃貸になっていて、賃貸区画にもマンションの自治会の回覧板が回ってくる。回覧表に空白が増えているとは思っていたが、どの部屋が空いているかを把握していたわけでもない。

数日前に見た、松戸の団地での中年男の孤独死を扱ったテレビ番組を思い出した。ここしばらく姿が見えない、何かにおうぞと住人たちが不審に思い始め、ドアの新聞受けに鼻を近づけ、ああ、これは、と観念して警察を呼んで、警察の立ち会いのもとにドアを開けると、布団の横に倒れたまま死後三ヶ月たっている男性が発見された。

下の住人はカップルだったと思う。一人が一人を放置したまま退去して、ようやく涼しくなったこの時期になってにおい始めるというのもおかしな話だが、台所のシンクの底から立ち上ってくるように思われるこのにおいの正体は、よもや死体の腐乱臭ではあるまいか。

ベッドに腰かけて、呆然と考える。さっきまで見ていた夢。来月命日を控えた二人が、生きているときには気づかなかったことを死んだあとになって気づくものよとでも言うように、これでは主体が誰なのか、二人がどちら側にいるのか分からないが、生死の境が曖昧なまま、何度も何度も、場を変え、時を変え、代わる代わる姿を見せたのは、現代社会の闇に気づかせるためだったのか。

死体の腐乱臭?嗅いだことがない。果たしてこんなにおいだろうか。もっと生臭くて吐き気を催すような、失神しかねない強烈なものではなかろうか。ミステリードラマで新米刑事がうろたえるように、先のドキュメンタリーで見た、開かずのドアを取り巻く人々がそのにおいで確信してしまったときのように。

そもそも、腐乱するより前の、死体のにおいというのを嗅いだことがあるだろうか。ベッドで事切れた、白い布切れで顔を覆われた、棺桶の窓から覗いた、一晩中隣で添い寝した、一晩中同じ部屋で酒盛りをした、あれらの体からにおいは発せられていただろうか。血の流れていない、細胞が呼吸していない、生を支えていたもののあらゆる動きが止まり、堰を切ったように腐敗、崩壊に向うにおい。

祖母は生きているうちに、足が壊死した。膝から下がサツマイモのように赤く膨れ上がり、足の裏に茶色い膿が溜まっていた。どんなにおいだったのか。若い頃から左膝の関節が悪く、古木の瘤のようになっていて、その左足から壊死が始まった。このままだと壊死は上に進行して心臓に達する。普通はこんな状態になる前に死ぬのだそうだ。生きながらにして体の一部が死んでゆく。生き物は生まれ落ちた瞬間から細胞が死にはじめるとは言うが、祖母の場合は、もう再生、新生する細胞はなかった。死臭と腐乱臭とは違うだろうが、死臭と老臭とは似ているだろうか。

寝つけそうにないほどくさいのだけれど、死臭とは違うような気もする。腐った肉や魚の生臭さがない。歯の隙間に溜まった食べかすから醸し出されたようなにおいがカタマって襲ってくる。電車で隣り合わせた人があくびをしたときに虫歯になりかけた腔内を曝したかと思われるようなにおい。

死臭だとか死だとかから頭が離れなくなった。朝まで眠らずにいて、管理人か掃除のおばさんに部屋に来てもらおうか。下の部屋が怪しいと言うだろうか。そうか、出口を塞いでしまえばいいのだ。シンクの脇にプラスチックのトレイが伏せてある。これですっぽり排水口を覆ってしまえばいい。そう思いながらトレイを取り上げると、そこに、においの元があった。

数日前、友人が遊びに来て、ジャガイモ料理をした。小ぶりのジャガイモで、全部皮を剥いて、使い残しは、変色しないよう水にさらし、あとで湯がいて冷凍するなり、次の日にでも使ってしまおうと、水を張った小さめのボールに浮かべたまま、スーパーで買った刺身などが入っていたような色のついたトレイで覆っていたことを、すっかり忘れていた。晩夏の陽気のなかで、水につかったジャガイモは、ドロドロに溶けていた。


【窮】

インターネットをはじめとするコンピューター絡みの、誹謗中傷、不正経理、詐欺、窃盗、盗聴、盗撮、改竄、漏洩、殺人教唆、殺人請負など、他人を貶めるための、あるいは、他人を陥れる結果となる、そして、その多くがれっきとした犯罪に値する、さまざまなイタズラは、その仕掛け手に、何の痛みも感じさせない。

喫茶店で年配の男性が若いオタクにコンピューターを買おうかどうかと相談していた。「マルチコンピューター」という単語が耳に飛び込んできた。マルチとはどういうことだろう。何か一つの機能に特化したものではなく、いま各家庭や各オフィスに少なくとも一台はある、なんでもできるという謳い文句のパソコンのことを言っているのだろうか。

所詮、コンピューターには計算しかできない。計算した結果を数字や文字や絵にして表示しているだけだ。人が何らかの命令を下さない限り、コンピューターは何もしない。人がそのように関わらなければ、何の役にも立たない。機能もデザインも長い歳月を経て磨き上げられた万年筆のような、成熟した道具とはなりえない。人間が未熟であるかぎり、決して成熟することはない。

コンピューターはどんどん高速に精密に計算できるようになっていくだろう。便利、高速、大量、生産的、合理的、美しさ、若さ、元気、健康。現代文明社会で望まれるこれらの成果は、実は、人間ならではの属性に馴染むものではないのではなかろうか。不健康、病、老い、死、ゆっくり、ダラダラ、サボる、ぐずぐず、汚さ、泥臭さ、のんびり、うじうじ、気まぐれ、お茶目、思いつき、ユーモア。

自分自身の実感、知識を血肉にするまでの葛藤、発信することの羞恥や痛みなどを伴わない、においのない情報が、跳梁跋扈している。世の中には悪意が満ちあふれていて、インターネットもその例外ではないし、もともとインターネットは軍事目的から発明されたのではなかったか。人の悪意をいとも簡単に具現化する装置であることに加えて、薄気味悪く思われるのは、偽善が大手をふるっていることだ。偽善という言葉が大げさならば、いい子ぶりっ子と言い換えてもいい。ニュースサイト、蘊蓄ページ、掲示板、ブログなどから知識を拾い集めてきて、物知り顔し合ういい子ぶりっ子たち。

コンピューターやインターネットが誕生してはじめて、世の中がとてつもないものに変貌したわけではなく、産業革命以降、人々の欲望が、これらを必ず介在させると言っていいような具合になってきただけのことだが、引き起こされる結果に比して、犯罪を犯した本人が自分の悪意に気づいていないふうであることに、とんでもないものが出来たと人々の不安や恐怖心を煽っている。そうしたお手軽さを裏返すと、五感の一部を失った人や体の機能を制限されている人が、残された器官の能力を自力で拡充させるのをお節介ではなく軽やかに補助する装置ともなりうるはずだ。健康、元気、若さなどに重きを置いてシステムやハードを設計する市場原理から離れることさえできれば。

この数ヶ月、ノートに書いては消し、消しては書き、ページを遡り、別のノートに新たに書き始め、ということをしていたときは、もっとにおいを放っていたような気がするが、こうして電子化してしまった瞬間から、こざっぱりとした、においのないものと化してしまったように思われる。

もっと匂いを!

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