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【起】 |
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二月の初旬に鎌倉に遊びに行き、馴染みの居酒屋に寄ると、「魔王」という名前の芋焼酎が置いてあった。その店オリジナルの麦焼酎を飲もうとしていたので、連れが頼んだのをちょっと舐めた。二十年近く前の日本酒ブームを思い出した。フルーティー、ジューシー、フレーバーな酒。 |
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日本酒ブームの頃、同世代の女ばかりからなる職場にいた。部長が一つ上、直属の上司が一つ下で、わたしは、高校教員を三年やって辞めて一年ほど遊んだあとの、時間の制約も残業代も社会保険もない、一ヶ月幾らの契約社員だった。女の園を傍観しているつもりだったが、若手を通して忠告を受けて初めて、お局社員にイヤミを言われたりイヂワルされていたらしいと気づいた。お局たちが一目も二目も置いている部長に対してタメ口を聞いているのが気に障ったようだ。 |
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縦社会に対して批判的な教員上がりで、性格も立場も帰属意識や深慮遠謀が希薄だったのが却ってその部長には心地よかったのか、彼女とは妙に気が合った。彼女と直属の上司と三人で、アフターファイブの職場で飲んだのが、ブームになり始めていたフルーティーな日本酒だった。あっと言う間に一升瓶を空け、そのあと、青山一丁目のさんざめく飲み屋街に繰り出した。飲みやすい酒ではあったが、あれは日本酒ではないのではないかと二日酔いの頭でふと思った。 |
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十六、七年前に二ヶ月ほどかけて九州を旅行したとき、別府の居酒屋でウーロンハイを頼んだら、それはどういう飲み物かと店員に聞かれた。それから間もなくウーロンハイが全国区になったはずの頃、芋焼酎と言えば、大手の「さつま白波」しか知らず、独特の臭さに閉口して、ほとんど飲んだことはなかった。 |
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旅の途中で、熊本の八代にある親戚の家に行き、初対面だった、祖母の従妹のご主人と酒盛りをすることになった。「アンタ、飲むとじゃろ」と、電電公社を退いてミカン畑などを作って隠居暮らしをしていたモイッつぁんが、畳の上にドンと置いたのは、さつま白波の一升瓶だった。思わずのけぞったが、覚悟を決めてグビリと飲んだ。芋焼酎ってこんなに美味しいのかと初めて思った。夕暮れ前に始まった田舎の宴は早いうちにお開きになったが、それでも、二人で二本目の口を開けるまで飲んだ。家に帰ってから、さつま白波の750mlを買って飲んでみたが、感動はなかった。 |
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【承】 |
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その九州旅行の直前、韓国に行った。というより、韓国を二週間旅したあと、釜山から下関に船で渡って九州各地を歩いたのだが。 |
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会社を辞める直前に、アルバイトをしていたヨンスと仲良くなり、チェジュド(済州島)にある実家に帰るので一緒に来ないかと誘われ、12月いっぱいで辞めたあとの予定はなかったから、すぐに応じて、出発は1月下旬と決まった。その頃は、女の園から離れて、男どもがパワーゲームに夢中になっていたバブル末期のコンピュータ関連会社にいた。中小企業ではあったが、国家事業絡みの仕事を請け負ったことで、数年の間に膨張していた。バブルで弾ける前夜、ねずみは退散し、初めての韓国に始まり、九州全土から山陰へと三ヶ月かけてダラダラと旅することになった。 |
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チェジュドに向かう飛行機のなかに、中年男の団体がいた。韓国人のスチュワーデスに水を頼もうとしてうまく伝えられないでいるのにヨンスが助け舟を出すと、「韓国語上手だねぇ。ところで、女の子二人で韓国なんかに何しに行くの」とニヤニヤしながら言った。その四ヶ月前に行ったバリ島では、バリの少年から「バリニーズ・ボーイいらない?」と声をかけられた。当時、日本人の買春ツアーが大手を振るってアジア各地を闊歩していた。 |
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ヨンスのご家族や旧友たちと一緒にチェジュドの名所旧跡を案内してもらった。ハングルはさっぱり分からなかったが、出されたものは何でも食べた。イシモチの塩焼き、蒸した豚バラ肉、唐辛子味噌を添えた醤油につけて食べる「スシ」、翌朝お尻が痛くなるほど唐辛子の効いたケジャン、海女が獲りたてをその場で輪切りにしてくれるナマコ。自家製のキムチが朝昼晩のどんな料理にも出された。あんたならずっとここで暮らしていけるとヨンスの母上に太鼓判を押された。ただし、生のナッチだけは一口しか食べられなかった。小気味よい音で叩き切られたイキのいい蛸の足が皿の外まで飛び出す。ヨンスの姪っ子が上顎に吸い付いて離れない吸盤に舌鼓を打つ。皿の上でぴょんぴょん跳ねる白いものをじっと見ながら箸を出せないでいると、同席した誰も彼もがこちらに顔を向けて食べろ食べろと囃し立てる。大葉か胡麻の葉にくるんで一気に飲み込み、しばらく青紫蘇が食べられなくなりはした。 |
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釜山に渡りヨンスと魚市場で飲んだ。巨大でシンプルな構造の、印象としては温室のような作りの建物のなかに、数知れぬほど魚屋が犇めき合っていて、多くの店が、氷を敷き詰めて魚を並べた脇にカウンターをしつらえ、客が選んだ魚を「サシミ」にしてその場で飲み食いさせる。ヨンスも初めての経験で、どの店で飲むかを物色し、熊本のおばちゃんを思い出させるようなオモニの店に腰を落ち着けた。サヨリやイカをサシミにしてもらう。真露は瓶のまま三ツ矢サイダーを飲むようにしてあおる。店じまいする頃、小柄なアジョシが隣に座った。 |
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最近流行っている韓流ドラマに脇役で出てくる役者を見て、どこかで会ったことのあるような人だと思っていたが、釜山の魚屋のアジョシに似ていたのだといま思い出した。「冬のソナタ」では、遺影としての死んだ父親、「美しき日々」では、回想としての殺された父親、「天国の階段」では、実子が、後妻と連れ子と壮絶な戦いをしていることに全く気づかない父親、と影の薄い役ばかり演じている役者に似た、小柄で、地味で、気の弱そうなアジョシが、その魚屋のオモニのご主人で、店を閉めたらどこかに飲みに行こうということになった。 |
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それはそれは怪しげなバーのような店に連れて行かれた。韓流ブームの今でも、ましてや、そんな兆しもなかった当時など、日本人が足を踏み入れることは滅多になかったであろう、唐十郎の舞台に出てきそうな、暗がりが多くて、ピンクや黄色の照明が、もやっているタバコの煙と交じり合う、韓国のエネルギーがけだるく充満しているような店だった。 |
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しばらくすると、小さなおばあちゃんがやってきて、「私は本当は日本人だ、子どもの頃に捨てられた、日本人に会えて嬉しい」というようなことを流暢とは言いがたい日本語で話しかけてきた。どんな顔をしていいか分からず頬をこわばらせていると、魚屋のアジョシにダンスに誘われた。中央の小さなホールでゆらゆら揺れているうちに、ワーワー泣き出してしまった。 |
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韓国語はまったく勉強していないが、日本がかつて韓国にしたことは少しは知っているつもりだし、正直なところ、韓国に来るのが怖い、何をされるか分からない、何をされてもやむをえないのではないか、と思う気持ちもあった、そんなことを泣きながら話すと、ヨンスが通訳してくれた。あんたのせいではない、あんたみたいに考える日本人がいるのは嬉しい、何も気にすることはないよ、ケンチャナヨ!とオモニやアジョシたちに寄ってたかって慰められたような気がする。 |
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気がするという記憶しかないほど飲んで、予約していたホテルに戻ろうとすると、とても危険な地域にあるホテルだからと、魚屋の夫婦がホテルの前まで送ってくれた、らしい。部屋に入ってオンドルで温まった床に寝転ぶと、天井がグルグル回った。トイレに駆け込んで便器に張り付くと、真露は悪い酒だからねぇと背中をさすりながら、ヨンスが言った。 |
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【転】 |
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十年前、バリ島に行った。二度目のバリだった。一度目は学生アルバイトだった女の子から、秋の連休にバリに行かないかと唐突に誘われ、予定はなかったので、すぐに応じて、数週間後には赤道を越え、旅の手配をした彼女にひたすらくっついていって、バリニーズ・ボーイ云々と声をかけられたのだった。二度目は、かつて同僚だったノリコに、四人で予約していたが一人行けなくなったので行かないかと唐突に誘われ、予定はなかったので、すぐに応じて、やはり人にくっついていったことに変わりはない。ノリコ以外の二人には、旅の直前に初めて会った。そのうちの一人がバリの人(以下ジモッティ)と懇意にしていて、ジャングルの奥深く、山の上にあるジモッティの実家で一泊することになっていた。 |
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ちょうどその村の人の葬礼が行われる日だった。昨日今日亡くなったというのではなく、殯(もがり)のような一定期間を経たあと、村の祭祀者が日取りを決めて儀式を行う。村では、路地に舞台をこしらえて、宗教儀礼のメインともなるワヤン(影絵芝居)が始まっていた。ランプの灯りを光源にして、ガムランの奏でる音に乗って、ダラン(人形遣い)が人形を操りながら歌うように語る。子どもやおじいさんたちが、人家の壁に背をもたせかけて観劇している。一泊させてもらった家のご主人もダランの一人だった。ジモッティの友人の家に招かれ、開け放したドアからワヤンを眺めながら、暗がりのなかでアラックをご馳走になった。 |
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一晩中続くというワヤンを一時間ほど見たあと、山の上にあるジモッティの実家に案内されて、寝場所として離れの小屋があてがわれ、二方に窓も壁もない広間で酒をふるまわれた。葬礼の日であることに加えて、村里から離れた山奥に日本人が来るのは珍しかったこともあったのだろう、庭というより小さな広場と言ったほうがいいようなところに、近隣から人々が集まってきていて、男たちが広間に上がり酒宴となった。持参した日本酒を出すと、これは飲めるかというふうに、アラックが差し出された。ジモッティの知人である旅の同行者とその連れは下戸だったので、ノリコと二人で、次々と注がれる杯を飲み干すたびにやんやの喝采を浴びた。 |
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屋外に灯りはなく、麓からガムランの響きが聞こえる。寝床に入ってからも、祭礼は夜通し続いていて、死者を村中連れ回っているのか、時折、音楽が途切れたり、間近に聞こえたりするのを聞いているうちに、夜はどんどん更けていく。起き上がって下界をうねうねと動いているであろう行列の灯りを見に行くには酒が回りすぎていて、夢か現か、神秘の音と闇のなかでバリの夜は明けた。 |
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翌朝、思いがけぬほど腹具合がよかった。あれだけ飲んで、あれほどバリの珍味らしきものを食べて、下痢になることもない丈夫さ、適応力に我ながら呆れたが、それ以上に驚いたのは、民家のトイレだった。その前にも用を足したはずなのに記憶がなく、覚えているのがあの朝のトイレだけなのは、トイレが幾つかあったのだろう。 |
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四本の柱に、上も下も数センチぐらい空けて板を打ちつけ屋根を被せたような掘っ立て小屋に、トイレと風呂がある。風呂といっても、立方体のコンクリートの箱があって、そこに水が蓄えられており、周りにスノコが敷いてあったから、そこで裸になって手桶で水を汲んで体にかけるもののようだ。とても無防備な、ガランとした空間だった。水浴びする気にはなれなかったが、トイレは済ませぬわけにはいかない。 |
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浅く地面を掘ってコンクリートを流し入れたようなのが便器で、一辺から外に向かって溝が掘られていて、板壁の下方の隙間から溝が外につながっているのが見える。水道は引かれておらず、風呂桶に蓄えられた水を汲んでジャージャー流す。驚くほど「快腸」だったので、大地に返すまで流し去るにはかなりの水量を必要とした。掘られた溝と畑が混ざり合うあたりまでその行方を見守った。これが畑の肥やしとなり、雨季を経て乾季に至って疫病の発生につながるのだろうかと思いながら。前回の旅行で、ジャングルのなかの洒落たレストランで食事をしたとき、用を足したあと甕から掬った水で洗うやり方は知っていたが、自分で流すことになるとは思いも寄らなかった。 |
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アラックを一本買って帰ったが、いまだに封を開けていない。 |
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【散】 |
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七年ほど前、長江(揚子江)のクルージング・ツアーに父と妹と三人で参加した。長江に作られつつある三峡ダムが完成する前に、河上の重慶から河口まで豪華客船「錦繍中華号」で川下りをするという日本の旅行社が企画したツアーだったが、あいにく、長江は洪水の真っ只中だった。 |
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河川沿いに住む一億人が被災していた。通常より川幅が広くなっていて、三階建ての建物や大木のてっぺんが、水の中に散見された。人海戦術で河岸に土嚢を積んでいるすぐその傍らに市が立ち、買い物客で賑わっていた。それを見ようとしてツアーに参加したと言ってもいい三国志ゆかりの「赤壁」は水に浸かっていて見学できなかった。諸葛孔明と劉備ゆかりの白帝城のある小高い山は本来地続きだったところが水に巻かれていた。ダムが完成した暁には、もっと水位が上がり、白帝城跡は水没するため、さらに高い所に移設されることになっていた。三峡の両岸はそそり立っているが、そのかなり上のほうまで水が来るので、それよりさらに上に家屋が移され、水際にある丹精こめて作られた畑も道も家もすべて水底に沈むことになっているのだから、こんな洪水なぞ大したことはない、金持ちの日本人たちよ、大いに楽しめ、という勢いだ。 |
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赤壁は見られない、洞庭湖にも船を進めることができない、一旦船を下りてバスで移動し、そこからまた船に乗るという具合に急遽予定が変更され、一日の行程500キロというバス行の途中で、ニイハオトイレにお目にかかった。北京広場は有事には滑走路になり、人々が集うときには一枚はがすと簡易トイレになるとか、地方都市のトイレは、板塀で囲われていても下が空いているから、しゃがむと隣の人と顔を合わせることになるなどという話は聞いたことがあった。 |
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我慢すれば用を足さずに済みそうではあったが、中国人ガイドにあおられて、ニイハオトイレとはどんなものかとバスを降りた。荒野のようなところに、下までちゃんと壁で囲われた小屋がある。どこがニイハオなのかと近づくと、まず、その小屋には戸がついていなかった。男女は別だったが、中に入ると何の仕切りもなく、壁に沿ってグルリと溝が切られているだけだった。溝をまたいで用を足す。水がチョロチョロと流れていて、人の背後にしゃがむと何かと見えてしまうので、対面してしゃがむことになるから、ニイハオなのだった。さすがににっこりと微笑み合うほど目を合わせはしなかったけれど。 |