1998/9/15
吹上の花見に出かけようと、春らんまんの中をまきば園に向かった。
2時着。ばあちゃんは、車椅子の上で眠っている。スタッフと話をしたりして、3時半。同じ場所で、右腕で頭を抱えこみ、車椅子にうもれるようにして眠っている。一緒に花見に行ってくれることになっているトンちゃんが、声をかける。「えっちゃん、起きて」なんとか顔をあげて、うるさそうに言う。死のうとしとるところじゃけん、ほっといてくれ。「花見に行こうよ」花見? 行ってくればよかろ。
車椅子を押して、玄関口まで出る。外の風は少し冷たくて、ばあちゃんも少し目が覚めたようだ。トンちゃんの車に、なんとかかんとか言いながら、トンちゃんがばあちゃんを乗せる手際のいいこと。りんどう湖旅行でのスタッフたちの手際のよさを思い出した。花見に行ったさきで車から降りることもなさそうだったので、車椅子は置いていく。助手席で、交通事情に目を見張る。ぐっさぁ、おらす。とおられんとね。いさかねぇ。トンちゃんにはなんのことやら分からない。赤信号なので、車は交差点を通れず、横断歩道の前で止まっている。その車の数に驚いている。
前の座席で語られる、意思の疎通を欠いた、でも、途切れることのない会話。「どこさ行くとね」「死に場所探してあげるから、一緒に行こう」「ああ、そうね」
「埼玉」の語源といわれる、さきたま古墳の駐車場。丘のように盛り上がった古墳は芝で覆われ、桜が咲き誇っている。駐車場からは遠いし、そこまで車椅子なしでばあちゃんを連れていくこともできないので、駐車場を取り囲んでいる桜のなかから、枝ぶりのいいのを探して、その下に車を止める。フロントガラス越しの簡単花見とあいなった。 「きれいだねぇ」なにがぁ?「ほら、桜、満開だよ、見えるでしょ」どこにあっとね、見えんよぉ。目の前にある。少し間が離れているとは言え、風が吹けば、花びらが窓に張りつくほどの近くにいる。花見をしようという気がない。
しょうもない。孫の感傷にすぎない。一緒に暮らすようになってから、ぼけたばあちゃんと毎年どこかで花見をしてきた。今年で最後かもしれない、と思いながら。やっと焦点があったのか、ああ、ほんにきれいかねぇ、と言ったが、声に力がない。買ってきた桜餅の包みを見つけ、少し表情が変わる。これは、なんねぇ。「桜餅、食べながら、花見をしよう」それはよかねぇ。
花よりダンゴ。ダンゴならぬ桜餅を目にしたとたんに、ばあちゃんは会心の笑みを浮かべた。
帰る道々、ようやく、沿道の花に気がつくようになった。ほら、見ゆるよ。
まきば園到着。ばあちゃんを車椅子に移し変える。助手席が濡れていた。お尻も濡れている。漏らしていたのだ。多分、ここで眠っているあいだに。だから、死にたい気分だったのだろう。目を覚ましたくなかったのだろう。
外出のときは、いつもトイレを促し、安心のために紙おむつをする。それが、一緒に暮らしているときの習慣だったし、おそらく、ここでもそうしてきたはずだ。でも、この日は、ひたすらばあちゃんは眠っていた。あらかじめ花見に連れ出すからと、事務長を通じて断っておいたのが、もしかするとあだになったかもしれない。勝手なことをして、という気持ちがスタッフたちの中にあったかもしれない。外出は何時とも知らせておいたから、きっとそれまでに出かける準備をしておいてくれるだろう、という身勝手な思い込みもあった。眠っているばあちゃんを起こすことにばかり気をとられ、起きたぞ、すわ花見だと気がせいていた。
漏らしていることを知ったスタッフが、清拭して、着替えさせた。そのあとの、ばあちゃんのさわやかな顔といったら。
午前中シャワー浴をしたそうだ。婦長が、ばあちゃんの髪をきれいに編み上げしてくれていた。シーツも取り替えたばかりのようだった。偶然が重なったのだろう。あるいは、好意からということもあろう。
事務長や園長に連絡をしてから、ばあちゃんに会いに行くのはやはりやめよう、と改めて思う。スタッフの、妙なぎくしゃくを感じる。あまりに愛想のない顔。仕事で忙しい、笑顔の余裕がない、それだけではないのではないか。事務長や園長と気の合っている家族、わたしたちには迷惑だなぁ、というところがあるだろう。