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●70年代末〜80年代日本のアニメーション業界の惨状

 七〇年代末以降のいわゆる「アニメブーム」到来によって、視聴者は高齢化し、テレビアニメは増産された。制作費のかからないテレビシリーズの再編集映画が次々とヒットを飛ばし、金と手間のかかる一部のアニメーションは窮地に立たされた。
 爆発的に拡大するファン層の要望と作り手の不満との合作で、物語の設定や脚本は複雑化した。エロ・グロ・シビア・ナンセンスと物語枠は拡大したが、ほとんどの作品は相変わらず国籍不明で、地理的条件や環境描写はメチャクチャ。美形キャラクター中心主義は更に深化し、アニメーション技術は一層簡略化した。当然「日常芝居」はなく、直立不動の立ち話が増えた。ドラマが派手なため 感情表現も極端で、技術は止め絵をいかに描き込むかというイラスト的方向へと発展した。それでも、異世界や非日常が舞台なので何ら問題はなかった。

●原作漫画に「時間」を発生させる ―「じゃりン子チエ」

 八一年、高畑監督は初の漫画原作作品「じゃりン子チエ」を映画化する。念願の日本を舞台とした長編であった。作画監督は大塚康生氏と小田部羊一氏という旧知の黄金トリオ。美術にはリアル志向の新鋭・山本二三氏が参加した。
 早速大阪のロケハンを敢行。難波の労働者気質を実感するために、わざわざ木賃宿に泊まって銭湯に通い、昼はパンをかじるという生活をしたと言う。訪れた古めかしいホルモン屋の壁は、熱とススで黒く歪んでいたそうだ。そうした実体験の一つ一つがこの作品に厚みを与えた。勝手の分からない海外のロケハンと違い、言語も生活風習も根本的な理解を得られる大阪のロケハンは魅力的だったに違いない。
 従来の漫画原作のアニメーション映画化には、二通りあった。一つは原作通りに各エピソードでブツ切りにしてしまうオムニバス型。
 もう一つは、設定とキャラクターだけを使って物語を長編枠に構成し直したオリジナル型。
 高畑監督は、そのどちらも否定。全く新たな構成に挑んだ。
 それは、適度なオチで毎回潔く終わる漫画のエピソードの前後に「時間」を発生させることであった。エピソード間に「時間の継続」を意味するオリジナル・エピソードを挿入することで、自然な流れを作り出す。原作部分が“見せ場の非日常”なら、オリジナル部分は“楽屋裏の日常”。監督は、かつてない原作尊重型の演出法を編み出したのである。
 チエとヨシ江が、「ひみつのデート」で「ゴジラの息子」(実写!)を観るシーンや心斎橋のネオン街を散策するシーン。「遊園地」のエピソードで、往きの電車でチエが歌い出すシーン、様々な乗り物に乗るシーン。これらは原作を「時間」的に拡大させた創作である。
 この「時間」の技法は、以降の作品で発展的に継承されることになる。
 この作品にも、少女の仕草を得意とする小田部氏、オッサンのドタバタやドラネコの立ち回りを得意とする大塚氏の個性が十二分に発揮されている。制作スタジオとなったテレコムの若手の功績も大きかった。
 正面と横しかない平面的なキャラクターの顔を生かすカメラアングル、棒のような手足をそのまま動かす試み、カメラワークの抑制、ザラッとした質感の水彩画風の美術など、多くの新技術に挑戦した。
 冒頭の「花札」によるキャラクター紹介を兼ねたオープニングも、今にして思えば「山田くん」の原型である。
 この作品以降、監督は全作品の舞台を日本に限定している。おそらく、監督は母国・日本(しかも出生地の三重県、幼少を過ごした岡山県に近い大阪)を舞台とすることで、かつてない達成感を得たのではないだろうか。
 また、この作品は同名のままテレビシリーズ化され、監督は初のチーフ・ディレクターという一歩引いたスタンスで関わっている。これが、高畑監督の最後のテレビ作品となった。

●過渡期の作品 ―「セロ弾きのゴーシュ」「ニモ」「ナウシカ」
  
 続く八二年(実際には七五年頃から制作されていた)の「セロ弾きのゴーシュ」では、設定の曖昧な原作の舞台を、あえて昭和初期の日本の田舎町に設定。普通の青年の成長譜に仕上げた。この作品では、人づき合いの苦手な青年が、動物との交流で心を解放して行く様子が、演奏の上達に重ね合わされていた。
 この作品も、雰囲気あるキャラクターデザインとチェロの運指まで研究したリアル作画を貫徹した才田俊次氏と、日差しの柔らかい水彩調の美術を描き切った椋尾篁氏に全面的に支えられていた。どちらが欠けても、高畑監督は、全く異なる演出法(原作のアレンジの仕方)を採用したのではないだろうか。

 八三年には日米合作の超大作「ニモ」の監督に就任。久々の高畑版ファンタジーとして期待されたが、諸般の複雑な事情により、わずかな期間で監督を降板してしまった。思えば、架空世界のファンタジー演出は、監督にとってはモチーフの逆戻りであり、成算のない仕事であったのかも知れない。ただし、引き受けたからには徹底的に研究する監督のこと、新聞連載の原作を徹底して尊重する演出法を構想していたに違いない。
 アール・ヌーボーの系譜、ロシアの木版画家イヴァン・ビリビンの画風などを調べていたとも聞くが、その構想の全貌を知る術はない。

 八四年、宮崎駿監督の強力な要請で「風の谷のナウシカ」のプロデューサーに就任。高畑監督は友人・宮崎監督の作家性を守り抜くべく、奮闘した。ただし、作品テーマの表現法、ヒロインの英雄的な描写には違和感が残った。監督は友人としての感想として「現代を照らし返しす構成にはならかった」と語っている。(ロマンアルバム「風の谷のナウシカ」/「映画を作りながら考えたこと」二六六〜二六七ページに再録)
 同様の違和感は、続くプロデュース作品「天空の城ラピュタ」にも感じていたかも知れない。
 優れたリアル・ファンタジー作家として自己確立を遂げた宮崎監督を間近に見て、高畑監督のアンチ・ファンタジーの志向は一層強くなっていたのではないだろうか。「現代を照らし出す作品を作りたい」という創作意欲。それは一種のライバル心でもあっただろう。

●人づき合いの回復と日本人の再発見 ―「柳川堀割物語」

 八七年完成のドキュメンタリー「柳川堀割物語」は、初の実写映画。高畑監督が「文化人類学的」探求を極めた傑作長編である。
 高度経済成長期、悪臭を放つドブ川と化した掘割が、一人の行政職員の献身的努力を契機として再生されていく感動的な実話が、ゆったりとしたテンポで実証的に綴られていく。中世以来の「環境に優しい」循環型農法の伝統の発掘、地域住民の自主的参加の広がりなどを通じて、「人同士と川との面倒なつき合い」の大きな意義が浮かび上がる。
 この作品の制作が、以降の高畑演出に再び転換をもたらしたことは言うまでもない。監督自身が「日本人を再発見する」ための勇気を与えられたであろうし、「感動的事実は客観的に提起してこそ正確に伝わる」という表現法の自信にも繋がったのではないだろうか。
 技術的にも、アニメーションでは困難な長回し、存在感ある市民たちの生の表情の活写、固定カメラの多用などを存分に行えたことは、精神衛生的に良かったのではないだろうか。

●アンチ・ファンタジー路線の確立 ―「火垂るの墓」

 八八年には六年ぶりのアニメーション作品「火垂るの墓」を監督。この作品で、高畑監督は溜まっていた創作エネルギーを一気に放出、本格的なアンチ・ファンタジー路線に突入した。監督は、人間離れしたヒーロー・ヒロインの活躍の否定、思い入れを拒否した客観主義の導入、ドラマチックなカタルシスの解体など、それまでの実験的傾向をより高次元のリアリズムによって完成させた。それは、「観客をドラマに立ち会わせる」作風の体系化でもあった。
 「文化人類学的」姿勢は、神戸のロケハンはもとより、敗戦前後の体験談・写真集・記録・地史などの収集、焼夷弾の効果音に至るまで、かつてない徹底的なものとなった。
 この作品の驚異的クオリティは、何よりスタッフ重視・演技主導の高畑演出の最大の成果である。監督は、企画当初「全く違う表現」(非セルアニメ?)を構想していたが、実現に至らず。これまでの技術的蓄積の総力をあげた演出を選択することになった。
 キャラクターデザイン・作画監督には近藤喜文氏を起用。「赤毛のアン」で「感じの出た」キャラクターを共作した経験を踏まえ、試行錯誤の末に「日本人の尊厳を感じさせるキャラクター」の創出に成功。同時に、日本の子供らしい仕草の描出に挑戦した。近藤氏は、日常的に周囲の人々を観察し、繊細な動きに分解する訓練を重ね、それを正確に表現することが出来た希有なアニメーターである。近藤氏特有の才能と技術抜きにこの作品は考えられない。近藤氏の個性が高畑監督のリアリズムを引き出したという面もあるに違いない。作画枚数も八八分で五万四千枚に達した。
 美術監督には、「じゃりン子チエ」の山本二三氏を起用。高畑監督は山本氏のリアル志向を最大限に引き出した。正確な日本家屋、里芋・じゃが芋・トマト畑、独特の空・雲・海の色、赤茶けた廃墟など、隅々に至るまで山本氏の個性が光っている。例の赤い幽霊の描写にしても、山本氏と「臨場感のある赤い風景が可能か否か」を論議した上で生み出されたものと聞く。
 その結果、紛れもない過去の日本の人物と風景を丸ごと描き出すことに成功。実写のセットやメイクでは不可能な確かな臨場感・実在感を獲得した。
 また、監督は原作にない赤い幽霊の兄妹を創作。全編を幽霊の視点で見ることにより、原作の主観性を乗り越えた客観性を維持。加えて、ラストで現代のイルミネーションを浮かび上がらせ、幽霊に観客のいる実世界を見つめさせるシーンを創作。幽霊と同じ視点でドラマを見ていた観客が、逆に幽霊に見られているという構図の逆転によって、見事に過去から現代を照らし出した。主人公は、幽霊となることで死後四三年の時をタイムスリップし、観客の前に現れるのだ。
 これは原作に「時間」を発生させる「じゃりン子チエ」の発展形である。
 思想的には、「疎外された環境を好む現代の子供」をイメージし、主人公・清太を「三千里」のマルコを発展させた媚びない少年に設定。その死を描くことで、「人づき合いの回復」という現代的でシビアなテーマを込めた。監督は、反戦一般や心中物と解釈され、観客が感動に流される「自己完結型」の鑑賞姿勢に対する防波堤を築いたのである。「あくまで、現代に返って下さいね」と。それは、「柳川堀割物語」の実践的継承を意味していた。
 残念ながら、こうした監督の隠れた意図をくみ取った評価はほとんど聞かれなかった。現代的課題に疎い評論家の体質にも問題はあっただろう。しかし、その真相は、近藤氏らのキャラクター・アニメートがすさまじい臨場感を生み出したために、観客は否応なく深く感情移入してしまったということではないだろうか。監督のテーマを表現が上回ってしまったと言うべきか。結果としては、幸せな誤算である。
 この作品が「となりのトトロ」と同時に公開されたことは、日本アニメーション史上の大事件であった。後のスタジオジブリの作風は、この二作品に集約されていると言っていい。片やリアル・ファンタジー、片やドキュメンタリー的客観主義ドラマ。高畑・宮崎両監督は、互いに独自の演出路線を完成させたのである。
 なお、高畑監督はこの作品以降、全ての作品の脚本を自ら手がけるようになる。チームを組める脚本家の不在が理由だろうが、結果的には高純度の高畑作品が制作される環境が整ったと言える。

●前代未聞の表現に挑戦―「おもひでぽろぽろ」

 続く九一年、漫画原作をオリジナルの物語で繋ぎ合わせた「おもひでぽろぽろ」を制作。高畑監督は、一九六六年を舞台に十歳の少女のエピソードを綴った「おもひで編」、八一年を舞台に二七歳の主人公を描く「現代編」という二重構成を採用。この二重構成は、原作の前後に「時間」を発生させる作風を質量共に発展させたものと解釈出来る。
 高畑監督は、ファンタジックな印象の「おもひで編」を含む本作に、「二七歳になった主人公のセルフ・ルポルタージュ」であり、同時に「十歳の少女のルポルタージュ」でもあるというアンチ・ファンタジーの位置づけを与えている。
 自我の確立を行う思春期以前、まだ万事に受け身であった頃に様々な摩擦を経験する少女の心理劇。それは「運命をきり開く」派手なファンタジーの主人公像とは程遠く、映像化は困難とされて来た。
 監督は、あえてこれに挑戦。些細な出来事を切実に受け止める姿を、本人によるリアルな(しかし多少は抽象化された)ルポとして描いて見せた。画風も原作漫画を意識して白を基調とした淡く優しいトーンで統一。引用された六〇年代のテレビ番組や風俗の一切は、実在のものをそのまま描き直すこだわりを徹底した。
 一方、「現代編」では「火垂るの墓」を引き継ぐリアリズムに徹した。まず、山形県の紅花農家をロケハン。花摘みから加工まで作業行程をそのままドキュメンタリーとして描き出した。
 つまり、作業行程としては技術も内容も異なる二本の長編を同時に制作したことになる。しかも、どちらも実在の地域・学校・職場を舞台として、実在の習慣・行事・テレビ番組・流行歌などの膨大な引用によって成立している。前代未聞だが、まさに「表現自体がテーマ」と言い得る作品である。
 チーフ作画監督は、前作に続いて近藤喜文氏。監督は、近藤氏の個性をギリギリまで引き出し、共にセルアニメのキャラクター造形の限界に挑んだ。
 近藤氏は、二七歳という全例のない成人女性キャラクターをリアルに描くため、頬骨や口元のしわを線で描くことに挑戦。セル・アニメーションが最も不得意とする奥深い表情の開拓を追求した。自然な対応の表情、イエスでもノーでもない微妙な笑顔、悩みや困惑を押さえた無表情、苛立ちまじりの驚き、そんなものを線と色面だけで構成されるセル・アニメーションで表現しようとした人はいなかった。
 一方「おもひで編」では、棒のような手足のキャラクターの自然な動き、何度も出てくる教室や校庭の群衆シーン、生き生きとした子供の仕草などが要求された。さり気ない身振り・手振りや、歩行・走りのタイミングによる身体全体の微妙な演技。それと気付けば、気が遠くなるほど緻密な演技設計。
 この作品に刻印された近藤氏の技術は、一種の崇高さとガラス細工のような透明感を獲得するに至っている。カメラは人物を追わず、ほとんど固定したまま。監督は前作の教訓を踏まえたのか、ひたすら現場で展開される演技に頼り切る。「演技主導」どころか、「演技従属型」アニメーションの誕生である。
 作画枚数も、一一八分で七万三千枚余と、それまでのジブリ作品で最多となった。
 美術監督は、「となりのトトロ」の男鹿和雄氏。「おもひで編」では白を基調として、水彩画調の優しく繊細な画風で背景美術の新境地を開拓。「現代編」では濃淡の鮮明な精緻な筆致で自然主義的描写の一つの頂点を極めた。実質二作品分の画風を使い分けた表現力の幅広さは、男鹿氏ならではの職人技であった。 
 テーマ的には、都会と田舎の問題、人口の里山の懐かしさ、農村の嫁不足、有機農業の理念など、現代日本を照らし出す作風に拍車がかかった。一方、都市生活での疎外感や、恋愛感情の発生過程や結婚といった側面から再び「人づき合い」の問題を丁寧に織り込んだ。それは、「観客が主人公と共に考える映画」というモチーフの一層の明確化でもあった。
 この作品は「写実的でアニメーションとしての魅力に薄い」と一部マスコミ掲載の感想文で酷評された。しかし、各評者が「アニメーションの魅力」を高畑監督以上に理解していたとは到底思えない。実際はその逆で、実験精神に溢れた画期的意欲作であった。
 複雑な時期の少女の心理描写、大人の日本人女性の表情を描く試み、ドキュメンタリー的描写、固定カメラで演技を徹底して見せる大胆な演出、複数のエピソードを無理なく内包する構成、入れ子状態によって楽しめる二つの画風の差など、全ては「動く緻密な絵」としての「アニメーションの魅力と完成度」を前提として設計されている。
 実写でこれをやったところで、キャラクターの新鮮な魅力は薄く、派手なカメラ・短いカットに慣れた観客の集中力を持続させることは困難である。下手な演出では、観客は緊張感を感じるどころか眠くなるのではないだろうか。
 高畑監督は、この作品について後日「アニメーションならではの表現になっている」と言明している。
(九七年九月一四日東京芸術大学講演「日本絵画のなかのマンガ・アニメ―日本の絵画伝統にマンガとアニメのルーツを探る―」)
 また、この作品以降全ての高畑作品は、鈴木敏夫プロデューサーという強力な後楯に支えられることになる。

                                 (1999.6.)禁無断転載


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