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●演技主導の討議型演出の確立 ―「太陽の王子 ホルスの大冒険」

 まず、六八年の初演出(監督)作品「太陽の王子 ホルスの大冒険」である。高畑監督は、自らが意図するテーマとアニメーターの表現とを最高の状態で一致させる演出を目標とした。
 監督は、まず原作や出来合いの脚本を「絶対不可侵」と重視する《シナリオ主導型演出》を真っ向から否定。自らはシナリオの大枠を提起し、各スタッフから得意の表現法やアイデアを公募。集まった素材を徹底した現場の論議と再検討によって最善の形に煮詰め上げ、各シークエンスを創作。それらを有機的に結びつける物語を同時に構築するという画期的なシステムを開発した。いわば《演技主導の討議型演出法》の確立である。 
 これは、組合活動で培った同志的信頼関係を基盤としてたシステムと言えるが、何より監督自身は絵を描かないために、才能ある絵描きの能力を引き出す必要があったと言える。以降の作風を理解する意味で、この観点は重要である。
 全編にあふれるアクションは作画監督の大塚康生氏、少女・ヒルダの難しい心理描写はベテラン・森康二氏、船出や婚礼の踊りは静かな演技を得意とする小田部羊一氏、巨大な岩男や鍛冶屋を中心とした砦的な集村のアイデアと場面設計は新人・宮崎駿氏という具合である。
 このように、「スタッフの適材適所」の心がけは、初監督で既に実践されていた。結果的に全ての表現が無理なくドラマに収斂されているのはこのためである。
 生き生きとした男女の労働描写(漁撈と食糧の備蓄)や、習俗の表現(収穫の祭りや婚礼の宴)など、生活感あふれるシーンの設計。超人型主人公を否定した群像劇の構成。記号化した感情表現を一切排して、人々の微妙な感情や何気ない仕草を丁寧に描く作風。場面丸ごとを切り取るロングショットの多用、キャラクターを追いかける複雑なカメラワークや主観のカメラ位置。どれもが「子供騙し」からの脱却を強く意識した革新的な試みであった。
 一言で表現するなら、監督は「ファンタジーをリアリズムで補強する演出」を目指したのである。ただし、この作品は「団結」をテーマとした象徴性が強く、設定は北欧やアイヌ民族に材を得た架空のものであった。
 また、「演技主導」と言ってもディズニーに代表される《場面主導型》とは決定的に違う。ディズニー作品は、物語上必然性のないミュージカルシーンや、立ち回りをアニメーター主導で膨らませるため、監督の権限は薄い。物語の整合性よりも、見所が重視される傾向と言っていい。
 加えて、技術的なスタンスの違いも大きい。ディズニーや欧米の大作アニメーションの多くは、難しい日常的演技を「実写で演じたフィルムを引き写す」ライブアクション(ロトスコープ)に頼って来た。東映動画の伝統を受け継ぐ高畑演出は、全て人間の眼で観察し抽出した演技設計によって「らしさ」を追求している。これも、以降の作品に共通する大きな特徴である。

●リアリズムによるファンタジーの補強 ―「ルパン三世」「パンダコパンダ」

 続く初のテレビシリーズ予定作「長くつ下のピッピ」は、小田部羊一氏(作画)・宮崎駿氏(場面設計)とトリオを組んだ最初の作品。原作者の不許可で幻の企画に終わったが、原作の空間を具体的な画面にする準備は進んでいた。ここで、スタッフを代表して宮崎駿氏がスウェーデンへのロケーション・ハンティング(ロケハン)を経験したことは、高畑監督にとっても大きな収穫であった。
 この時点で高畑演出は、《実在の環境・生活を基盤に据えたファンタジー》という次のステージに進みつつあった。
 七一年には、宮崎氏と共同で「(旧)ルパン三世」を途中から演出。舞台を身近な日本に限定した。この作品で、作画監督・大塚康生氏以下作画スタッフは、全て実在の車輌・銃火器等を描くこだわりを発揮。高畑・宮崎演出もその路線を継承・発展させ、ホンモノの道具を志向した。環境描写は曖昧さを残すものの、細部にリアリティを持ち込む実験は成功した。
 大塚氏は、リラックスムードやドタバタの脱線が得意技。車輌の知識が豊富でカーアクションを描けば当代随一の腕前。「ルパン」は、この大塚氏の絶妙なアニメートを前提とした作品であった。言い換えれば、意図的に「大塚氏でなければ描けないシーン」を創作したのである。その時点で、質の高さは保証されていたと言えよう。
 七二年の「パンダコパンダ」「同・雨ふりサーカスの巻」で、高畑演出のファンタジー路線は最初のピークに達する。
 この二作品で、監督は「普通の日本」を舞台とし、魅力的な食事シーンや、落ちつける家、学校給食やぐっすり眠るベッドなど、ないがしろにされて来た日常描写を試みた。竹山も街並みも簡潔でスタイリッシュな環境だが、生活空間としては密に設計されていた。結果として、あり得ない動物と人間が同居する世界が気持ちよく味わえる傑作となった。
 これもまた、ドタバタ・アクションや機関車を得意とする大塚氏(作画監督)、日常的な仕草を得意とする小田部氏(作画監督)、そしてファンタジックな解放感を強烈な個性でまとめ上げた宮崎氏(原案・脚本・画面設定など)との共同作業を前提とした作品であった。この四人のうち、誰が欠けても全く違った印象の作品になったと思われる。

●ファンタジーとリアリズムの幸福な融合 ―「アルプスの少女ハイジ」

 七四年の「アルプスの少女ハイジ」は、高畑監督の大きな転機となった作品である。
 外国の児童文学を素材として、一年という長いスパンで小石を積み上げるように作品を作る。それは、未経験の苛酷な試練であった。高畑監督は、これまでファンタジーの補強材として導入して来た「文化人類学的」視点を、全面的に体型化しようと試みた。それは、実在の地域の歴史と環境、生活の実態に徹底して学び、それを独自の研究と解釈で膨らませてドラマの背骨を形成する演出法であった。
 監督は、日本のテレビアニメ史上初のロケハンをメインスタッフと敢行。原作に描かれたアルムの山岳地帯を訪れた。ただし、正確には「ロケハン」だけではなかった。作画監督の小田部氏は、彼の地で暮らす人々や少年少女を観察しスケッチする「キャラクター・ハンティング」を行った。また、衣食住や地理・気候を体感する「シナリオ・ハンティング」も兼ねていた。
 監督は、過度の刺激的演出を避け、従来の一話完結スタイルを無視。ゆったりとしたテンポで、現地の魅力的な生活を丸ごと再現して見せた。監督は、「山での一日」というドキュメンタリー的要素を採り入れ、その中に「急勾配の野山をかけ登る」「ハイジが喜べば山羊も飛びはねてくれる」等のファンタジー的描写を絶妙なバランスで融合させた。結果として、パンとチーズの簡素な食事に大きな魅力が与えられ、牧場と家を往復する生活に自然と触れ合う労働の素晴らしさが吹き込まれた。地域・風土に根ざした確かな生活空間を築き上げたからこそ、何気ない日常が輝いたのである。
 ここにファンタジーとリアリズムは幸福な一致を見た。それは、日本アニメーション史上かつてない革命的な作風であった。
 こうして「ハイジ」の特徴を述べてはっきりと分かることは、要するに小田部氏(キャラクターデザイン・作画監督)と宮崎氏(場面設定・画面構成)の得意分野が最高の形で引き出されていることである。おそらく、脚本・絵コンテも両氏の個性を重んじて現場で微妙に調整していた筈だ。
 「文化人類学的」視点は、「ホルス」以来、ずっと緻密な世界観を探求する宮崎氏の念願でもあったし、肉体を駆使した爆発的感情表現も宮崎氏の専売特許である。子供たちや動物の生き生きとした生活描写は小田部氏の得意技。「パンダコパンダ」との最大の相違は、ドタバタ・アクションの不足―つまり大塚康生氏の不在である。また、美術の井岡雅宏氏による筆を省いた自然描写も印象深いものであった。
 以前から児童文学のシリーズ・アニメはあったが、この作品によって、それらと一線を画した「名作もの」という新ジャンルが確立された。後に続く一連のシリーズは、通常のテレビアニメに比して、カメラもドラマも抑制し、日常描写・環境描写を重視する方向で作られた。作画枚数も、通常のテレビアニメの二〜三倍に相当する(一話あたり)五〇〇〇〜六〇〇〇枚が費やされた。
 しかし、高畑監督はここに安住することを嫌った。元より、同じ傾向の表現を何度も繰り返せば、鮮度も情熱も落ちて、手管に陥ってしまう。
 以降、監督は新たなテーマと表現を求めて、「気持ちのいいファンタジーで現実を濾過してしまっていいのか?」「これは本当の子供の姿でなく、大人から見た理想像ではないのか?」という自問自答を繰り返すことになる。同時に、この時期から既に「セルアニメでは表現に限界がある」と考えていたと言う。
 なお、高畑監督は一連のシリーズを、後日「観察した日常をそのまま描く」という意味で、「自然主義的傾向」と定義付けている。(「映画を作りながら考えたこと」七四ページ)

●高畑・小田部・宮崎トリオの解消 ―「母をたずねて三千里」

 七六年の「母をたずねて三千里」は、再び高畑(演出)・小田部(キャラクターデザイン・作画監督)・宮崎(場面設定・レイアウト)三氏のトリオで制作された。
 「母探しの絶望の旅路」という悲惨な物語をこのトリオで乗り切るためには、従来にないハードルの設定が必要であった。監督は、「ハイジ」で発揮された二人の得意分野を、違う形で引き出す努力をしたと思われる。
 それは、解放的なファンタジー性を抑制して、より現実的・客観的な作風に挑むことであった。監督は、自立型の媚びない少年、屈折した内向的な少女、完全な善人でない大人、再利用の許されない遍歴の舞台設定など、あらゆる意味で「ハイジ」と正反対の設定を自らとスタッフに課した。小田部・宮崎両氏は「抑制されたリアリズム」という新たな分野の開拓に苦心を重ねながら邁進した。
 制作にあたっては、アルゼンチンとジェノヴァ(イタリア)をロケハン。舞台設定は椋尾篁氏の美術を得て、より「文化人類学的」視点で極められた。
 作品の世界観・民衆観のイメージには、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「自転車泥棒」に代表されるイタリアン・ネオリアリズモを参考にした。戦後間もないイタリアで、無名の市民を起用し、オールロケで厳しい現実生活を映し出したネオリアリズモ運動。それは、絢爛豪華な娯楽劇に徹したハリウッド映画に対する強烈なアンチであった。
 余談だが、ハリウッドのトップ女優イングリッド・バーグマンは、リアリズモ映画「無防備都市」を観て感動し、夫と子供を捨ててイタリアのロベルト・ロッセリーニ監督のもとへ走ったという。まさに世界映画史に刻まれた衝撃的な事件であった。
 高畑監督の挑戦も、従来のテレビアニメの人物像と世界観を覆すことを意味していた。監督とスタッフは、一年間を通じて挑戦を全うした。ここにトリオのアンサンブルは臨界を極めたが、その分疲弊も大きかった。小田部氏は、複雑な心理をはらむキャラクター設計の量的限界に悩み、宮崎氏は得意技を発揮出来ない鬱屈としたドラマに苦しめられた。この頃から、それまでの高畑作品に潜在していた「人づき合いの回復」というモチーフが色濃くなって来るように思える。
 残念なことに、その後二度と三者が組んで同じ作品を作ることはなかった。
 七八年、宮崎氏は演出に昇格。ありったけの技術とテーマをブチ込んで、大塚氏と共にファンタジー・アクションの大作シリーズ「未来少年コナン」に挑む。
 一方、小田部氏は七九年に古巣・東映動画で民話「龍の子太郎」の映画化に挑むことになる。

●外国文学演出の限界 ―「赤毛のアン」

 七九年の「赤毛のアン」は、三作目にして最後の名作シリーズ演出作品となった。
 メインスタッフは、舞台のプリンスエドワード島をロケハン(ただし、宮崎氏・井岡氏は不参加)。高畑監督は、小道具や料理・民族間の差異に至るまで「文化人類学的」視点を更に前進させた。
 監督は、世代毎の解釈が成立する「ユーモア小説」と原作を分析。アニメーション的魅力を創作しづらい会話劇の演出に悩んだ結果、従来の主人公にベッタリ寄り添うカメラを否定することを決定。クールに引いたカメラで、客観的に見たおかしさ・親しみやすさをにじませる演出を採用。ナレーターを男性にして、わざわざ棒読みにさせるなどの工夫をこらした。こうした設計により、原作通りの饒舌な台詞が、画面上で生きる効果を狙ったのである。
 「ハイジ」に続いて美術監督を担当した井岡雅宏氏は、立ち話が中心になりがちな画面に華やかさを与えるため、面倒な壁紙の模様を毎回描いたと言う。更に、模様が良く見えるよう、画面正面に壁が向き合うよう「展開図風」のレイアウトを多用。少女の心象を表現する装飾性を心掛けた。
 キャラクター・デザインと作画監督は、柔らかくおっとりとした画風の小田部氏から、より繊細な画風の新鋭・近藤喜文氏にバトンタッチ。加えて、場面設定・画面構成の宮崎氏は「ルパン三世 カリオストロの城」の監督に就任したため、十五話で降板してしまった。苦楽を共にした二人の盟友と決別し、スケジュールの苛酷さもあり、監督はシリーズ後半では最低限の仕事に徹していたと言う。つまり、監督のナマの個性がより発揮されていたと考えられる。
 その結果、前半ではチラチラと見えた空想的ファンタジーの色合いは消え、少女の成長に即したドキュメンタリー的描写に傾倒して行った。近藤氏の個性と奮闘抜きには成立しないギリギリの制作条件の中で、監督はアニメーションの一つの可能性を再確認する。
 それは、《人間のありふれた動きや些細な機微を「感じの出た」絵と動きで抽出すること》であった。この観点は、以降も近藤氏とコンビを組んだ作品で発展的に継承されることになる。
 また、この三つのテレビシリーズを制作する過程で、監督は次のような危惧も抱き始めた。
 他国の名作文学を文化人類学的・自然主義的表現法で極めていく路線には、もう開拓の余地がない。残された道は更に日常表現の密度と完成度を高めるか、ドラマチックなファンタジーに後戻りするしかない。さらに日常を極めるには、小田部氏・近藤氏ら名アニメーターと再びキツイ試行錯誤を繰り返すか、セルアニメの枠組みを外すしかない。ファンタジーには宮崎氏のような豊かな才能が必要となる。いずれにしても、前三作以上の才能と労力と時間が必要である。それは、実質的に不可能であった。では、他に自分のテーマを発展的に展開させる道はないのか。
 監督には、大切にしまっている一つの原稿用紙があった。それは、七〇年頃に尊敬する先輩アニメーター・森康二氏に依頼して書いてもらった文章であった。そこにはこう書かれていた。
「そうだ ボクらのマンガ映画も 日本人の日本のマンガ映画を 作るべきだ」
(森やすじ著「アニメーターの自伝 もぐらの歌」収録/高畑監督による解説「作画家森康二氏」より)
 監督は、繰り返しこの原稿を読んで励みにしていたに違いない。監督は己の足元を見つめ直して結論を出したのではないだろうか。母国・日本を舞台にしてこそ、文化人類学的・自然主義的表現法は最も深く掘り下げられるのではないかと。
 ここに監督の作風は、またしても大きな転機を迎えることになる。

                                 (1999.6.)禁無断転載


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