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●日本の伝統美術を採り入れる―「平成狸合戦ぽんぽこ」

 九四年の「平成狸合戦ぽんぽこ」では多摩丘陵乱開発の現状を、狸たちの視点から現地取材に基づいて再現して見せた。狸たちの四変化や妖怪大作戦など、前二作とは打って変わったファンタジックな描写があったが、監督は「これはT空想的ドキュメンタリーUだ」と、あくまでアンチ・ファンタジー路線を強調。
 実際、人間達との闘争に破れゴルフ場で何とか生き延びるラストのもの悲しさは、ファンタジーのカタルシスとは程遠い苦いものであった。ここにも、自然破壊の告発と共に「人づき合い(自然環境・動物達とのつき合いも含む)の回復」というテーマが見え隠れしている。観客は、観終わってもスッキリせずに考えさせられてしまう。
 前作からリアリズムの面で一歩後退した裏には幾つかの理由が考えられる。
 第一に、日本古来からの「狸」のイメージに照らして、写実的リアリズムが不似合いであること。間抜けで憎めない愛らしさを表現する、コミカルなキャラクターが前提として必要だったのではないだろうか。
 第二に、セルアニメが表現法として限界に来ていたこと。美術は緻密化する一方で、キャラクターのセルがどうしても浮き上がる。ベッタリと塗り込めるキャラクターでは演技の巾を使い果たした感があった。
 第三に、アニメーションの原点に立ち返ること。一つのモノが別の何かに無理なく変化するトリック的シチュエーションこそ、アニメーション生来のメディア特性である。全編に散りばめられた「変化(へんげ)」シーンは、アニメーションの原点であるメタモルフォーゼ。ラストでは風景を丸ごと変化させる、監督曰く「六〇秒の真正背景動画」まで登場する。
 第四に、前二作で作画監督を務めた近藤喜文氏の体調が思わしくなかったこと。これはあくまで私的予測だが、「おもひでぽろぽろ」の制作後近藤氏は入院していたと聞く。高畑監督は、「三千里」から「赤毛のアン」へ転換したように、一端リアリズムから離れて新しいスタッフにふさわしい表現法を模索したかったのではないか。
 この作品にはかつてない膨大な数のイメージボードが描かれ、その多くが作品に採り入れられている。それは、監督が、初めて高畑作品の作画監督を務める大塚伸治氏と、「火垂るの墓」以来絵コンテ・場面設計を務めて来た百瀬義行氏と三人で、「一からイメージと演技設計を煮詰める」共同作業であった。つまり、表現とテーマを根本的に一致させるための、いつものセッションであった。その結果、力強い作風の大塚氏、緻密な中にとぼけたテンポを感じさせる百瀬氏の個性が遺憾なく発揮された。
 作画枚数は、一一八分で八万二千枚。「おもひでぽろぽろ」の最多記録を更新した。
 美術監督は、前作に続いて男鹿和雄氏。描き込みを少し減らし、失われ行く多摩丘陵の四季の風景を情感豊かに表現した。
 更に、この作品にはもう一つ画期的な特徴があった。それは、童話・昔話・伝承・俳句・民謡・講談など日本の伝統文化を作中に採り入れたことである。「文化人類学的」視点は、ついに「現状の再現」を離れて、歴史的・伝統的・民俗学的領域にまで踏み込んだわけだ。スクリーンに刻まれた情報量たるや莫大なものであった。
 高畑監督考案のコピー「おもしろうてやかて悲しきタヌキかな」は、松尾芭蕉の俳句「おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉」のアレンジ。登場する狸の三長老は「阿波の狸合戦」の「六代目金長」、「源平屋島の合戦」に登場する「太三郎禿狸」、「八百八狸」の頭領「隠神刑部」と、全て実在の伝承から創作。「双子の星作戦」は宮沢賢治の「双子の星」と「星めぐりの歌」へのオマージュ。更に「注文の多い料理店」の狸版まで登場する。
 中でも、「妖怪大作戦」のシーンでは、葛飾北斎の「百物語」、歌川国芳の「相馬の古内裏」「流行達磨遊び」といった浮世絵、室町時代に描かれた「百鬼夜行絵巻」がそのまま登場。他にも「阿波踊り」「狐の嫁入り」から「風神・雷神」まで盛り込む過密ぶり。
 隠神刑部の死に際しては、知恩院の「早来迎」に描かれた阿弥陀如来が天空から舞い降りる。禿狸がラスト近くに踊る念仏踊りは「一遍上人絵伝」にヒントを得たものだと言う。
 高畑監督は、線で描かれた日本画を、その精神を生かしながらセルに置き換えて動かすという快挙を成し遂げたのである。
 高畑監督は以前、以下のような発言をしていた。
「“民族的伝統を作品に生かす”ことに関していえば、ぼく自身がいままでたずさわってきた作品には、それがほとんどふくまれていない。またその機会もなかった。関心はもっていたけれどね。それに今『日本の民族的伝統を生かした作品を作れ』といわれても、解決しなきゃならない問題をいっぱいかかえているし、また解決する自信もいまはない。」
(「月刊アニメージュ」八一年六月号/「映画を作りながら考えたこと」一四八ページに再録)
 この自戒的発言から十三年を費やし、高畑監督はついに日本の伝統文化への積極的アプローチを開始した。「解決すべき問題」がどこまでクリアされたのかは不明だが、その多くは「日本人であること」の積極的意味を問い直すことであった筈だ。その回答の一つは、「柳川堀割物語」で出された中世以来の循環型生活サイクルと地域共同体のよき伝統であったと思われる。「ぽんぽこ」では、更に進んで芸術的文学的伝統にまで視野の裾野を広げたわけだ。
 この新たな視点は、「ぽんぽこ」一作で終わる筈もなく、五年後に画期的な絵巻の研究書「十二世紀のアニメーション」として結実化することになる。

●90年代日本のアニメーション業界の惨状

 八〇年代後半からテレビアニメは、週四〇〜五〇本という驚異的な量を維持するに至り、九〇年代には深夜枠にまで進出。更にビデオソフトの大量リリース、衛星放送による新旧作品放映、ケーブルテレビのアニメ専門チャンネル放映開始と、最早洪水的状態となった。視聴者はアニメからアニメへとハシゴする生活を送れば、それで感性の全てが満たされてしまい、社会や家庭に関心を向ける暇もない。むしろ煩雑な日常からの「癒し」を求めてアニメへの逃避は加速する。これにゲームや漫画も加わり、幾つもの「非日常」を繋ぎ合わせた非現実的日常が完成されて行く。アニメ漬け世代をターゲットに同じようなドラマを再生産し、関連グッズを売ることでスポンサーも産業的に安定。こうした自閉的な円環構造が自然と出来上がり、「毎日が愛と冒険」の簡便なドラマチック・ファンタジーが世に溢れ返るに至った。
 また、アニメーション技術は、演技設計の動画的向上へ向かうことはなく、ますますレイアウト偏重のイラスト志向になっている。物語も相変わらずの枠組の変奏。デジタル彩色やCGの導入により、作業効率は上がったものの、その分煩雑化したとも聞く。爆発や光などの特殊効果、止め絵を回り込ませる奇妙なカメラワーク、ワイプやフェードなど場面転換のバリエーション等、見た目に派手な効果だけは確実に肥大化した。
 某テレビ作品を見た子供たちが視覚と体調の異常をうったえた事件も、こうした視覚効果偏重の作品傾向と無縁ではあるまい。部屋を明るくして、テレビを離れて見ても根本的には何も解決しない。作品傾向は全く同じである。
 表面は華やかだが、こうしたアニメ業界の現状は、「家庭崩壊」「学級崩壊」「青少年の残虐な犯罪」などの社会問題とも関連性が深く、事態はいよいよ深刻である。(当然だが、「アニメ漬け」を卒業し実社会に適応した生活を送る者もたくさんいる。)
 背後にある国内の政治・社会情況を見れば、長期の経済不況、自然災害の頻発、猟期的犯罪の多発、国家主義の台頭など、不安材料にこと欠かない。おまけに「世紀末」なる予言めいた宣伝で、いらぬ緊張感まで持ち込まれる。
 日本人にとって、まさに先の見えない時代である。ファンタジーに逃避したくもなろうと言うものだ。

●平均的現代日本人を描く究極の野心作 ―「となりの山田くん」

 最新作「となりの山田くん」は、こうした情況を見据えて制作された。
 この作品で、高畑監督はついに念願のセルアニメからの脱却を果たした。「山田くん」は、世界アニメーション映画史上初の水彩画調フルデジタル長編である。
 今回の各誌インタビューで高畑監督は、ファンタジー漬けの若者(特に三〇代)への憂慮を切々と訴え、今だからこそスーパー・アンチ・ファンタジーの「山田くん」を作る意義が大きい旨を語っている。今必要なのは、暗い情況にどっぷり浸った「癒し」でなく、「慰め」や「あきらめ」だと言う。 
 「山田くん」の設定は、まるで平均的現代日本人家族の生活標本である。話題は衣食住をめぐる他愛のないものばかり。家族は互いに甘えながら支え合う。一見曖昧なようだが、実は日本中に対応する普遍的舞台と言える。監督は「昔の通りでいいんじゃないのか」と中高年にエールを送っているようである。
 「おもひでぽろぽろ」の制作時、監督は「四人の麻雀より一人のパチンコが流行る風潮」への危惧を度々語っていた。今回も「コタツが廃れフローリングが流行る風潮」を痛烈に批判している。テーマの一つは「コタツ型日本家族の復権」のようだ。それは、「人づき合いの回復」というこれまでのモチーフを、家族という最小単位の中に発展的に封じ込めたものと思われる。
 また、「じゃりン子チエ」に続き、メイン・キャラクター二人は大阪弁。これは、平板なイントネーションの標準語でなく、大阪弁の方が「楽に生きられる」という自説に基づくものだと言う(九八年七月一六日の記者会見での発言)。監督は講演で「律動のない日本語」の問題を採り上げたこともあるが(前述の東京芸大での講演)、「律動のある方言」を重視なモチーフの一つと考えているのかも知れない。監督は、関西弁エリアである自らの故郷・岡山県周辺の民家を想定していたとも聞く。
 また、一個一個のエピソードには原作にない「前後の時間」が加えられている。怒鳴ったり、突っ込みを入れたりしてスパッと終わる四コマ特有のリズムを自然な時間軸の中に埋め込む。言い換えれば、コマ漫画では断片しか記録されていないキャラクターに時間と生命を与える。これは「じゃりン子チエ」の発展型。
 たとえば、「のの子の迷子事件」や「暴走族注意」は、幾つかの別エピソードを含む中編に発展させている。「眼鏡の女」が登場する病院の見舞いのエピソードでは、悲壮感たっぷりの顛末が加えられている。(「あんた、どこが悪いの?」のオチで終わる原作のラストからは想像もつなかい。)「分別ゴミ」のエピソードでは、しげとまつの追っかけが加えられている。
 冒頭と末尾で二回結婚式を描いた構成の妙。後半、暴走族を注意出来ずに、落ち込んで傘を忘れ、それでも頑張って会社へ通い、最後には立派にクソ度胸でスピーチを全うする父・たかし。一個一個のエピソードが独立していながら、微妙な関連をなして大きな物語を編んで行くという構成は、「おもひでぽろぽろ」を更に発展させたものである。
 一方、監督の伝統文化への愛着と理解も、一段と進化している。シークエンス毎に挿入される松尾芭蕉・与謝蕪村・種田山頭火の俳句は、江戸や明治の処世に遊ぶ俳人の気質が、現代の日常生活にも立派に通用するという心憎い「橋渡し」演出である。
 「ボブスレー編」で現れる波飛沫は葛飾北斎風、「桃太郎」「かぐや姫」など昔話まで家族の歴史の中にサラリと埋め込まれている。「ぽんぽこ」のダイレクトな挿入に比べて、今回は物語に漂う生活感・ペーソスと分かち難く結びついている。
 もう一つ大きな特徴がある。それは、新鋭アニメーター・田辺修氏が、ベテラン・百瀬義行氏と共に「演出」とクレジットに表記されていることである。
 制作当初の九八年一月二一日、近藤喜文氏が急逝された。あの繊細なリアリズムを極めた近藤氏の筆致は、もう戻らない。しかし、遺志を引き継ぐジブリの若手アニメーター諸氏の中から、今回田辺氏という新たな才能が頭角を現した。「エピソード編」の驚くべきリアルな「静的」演技設計は、全て田辺氏によるものだと言う。簡素なキャラクターで、真摯に人間を捉える新たな演出家の登場。これは特筆すべき事件である。
 田辺氏は今後、高畑監督の新たなパートナーとなるのか、あるいは独自の路線を歩むのか、注目しながら見守りたい。
 また、百瀬氏演出の「ボブスレー編」は、家族の歴史を象徴的なメタモルフォーゼを駆使した手法で描いている。「ぽんぽこ」の「変化」シーンの経験の上に活劇要素をふんだんに採り入れた、ジブリのデジタル技術の集大成と言うべき超豪華な「動的」設計となっている。
 作画枚数は、一〇三分で実に一五万枚余で、またまた記録を更新。「動画三枚」の新技術により、過去の作品と単純比較は出来ないが、量的には「もののけ姫」を六千枚も上回っている。
 「山田くん」は、演技従属型でテーマと表現が一体の作品。ドラマの体裁こそ「微笑ましい日常劇」だが、監督の思想的制作意図はこれまで以上に実践的社会派である。八〇を越える大量のエピソードをはらみながら、大筋の物語も楽しめる。技術は前例のない革命的フルデジタルと手描きの融合。キャクターは簡素だが、演技は緻密でリアル。加えて伝統美術・俳句の大胆な吸収。まさに三重、四重の意味で革命的作品である。究極の野心作と言うべきであろう。
 なお、この作品は世界配給を射程に入れているとの事だが、諸外国人にとって、これほど文化人類学的な日本を体験出来る商業映画は稀であろう。小津安二郎監督や成瀬巳喜男監督がヨーロッパで高い評価を得たように、日本人の生の生活感が世界に訴えるものは大きいのではないだろうか。
 最後に、この作品は高畑監督自身の希望ではなく、鈴木敏夫プロデューサーの持ち込んだ企画であったことを付記しておきたい。鈴木氏は、数年に亘って監督を説得し、ついに制作にこぎ着けた。鈴木氏は監督の眠れる巨大な可能性を見抜いていたのである。「『もののけ姫』と正反対の作品」を企画した意外性・先見性と、「言ったことは必ずやり遂げる」実行力は驚嘆に価する。
 深い信頼と実績で結ばれた高畑・鈴木両氏の最強コンビが、今後どのような展開を見せるのか。期待は膨らむばかりである。

●高畑作品の近未来像 ―「平家物語」は実現するか

 以上、簡単に述べて来たように、高畑勲監督は、既に三〇年以上も日本のアニメーションの主流に逆行し続けて来た。また、常に時代状況に対する明確な位置づけと徹底的な論理化のもとに仕事を行って来た。
 参加スタッフの特性を極限まで引き出し、見向きもされなかった「日常芝居」の再建を成し遂げ、起伏の少ない叙情的ドラマを作り、動植物を丁寧に描く自然主義を確立させた。ジブリ時代以降は「人づき合い」をモチーフとして、常に「現実に還れ」とドラマを締めくくって来た。さらに、近年は日本の伝統文化の映像的復権を試みて来た。
 「山田くん」の宣伝ポスターには「日本の巨匠・高畑勲」とある。「巨匠」の定義が「類を見ない独自の創造性」であるならば、常に日本映画界の異端であった高畑監督こそホンモノの巨匠である。では、大作「となりの山田くん」は、巨匠の今後に何を残したのであろうか。
 実は、高畑監督には「ぽんぽこ」の企画以前からずっと温めている作品がある。それは「平家物語」である。長編セルアニメの技法では、無数の鎧武者が入り乱れる合戦シーンなどは、作画・美術・彩色に手間がかかり過ぎて不可能である。「ぽんぽこ」の際もこの企画は検討されたが、実現しなかった。(原作本「平成狸合戦ぽんぽこ」二一二ページ参照)監督は、その余熱を燃やし、本編では「屋島の合戦」の那須与一による「扇落とし」シーンを描いている。
 今回も一応企画は検討されたようだが、やはり技術的困難さから見送られたようだ。
 監督は、四年前に以下のように語っている。
「平家物語をどうして日本映画でやらなかったのか、(中略)アニメーションでザーツとしたようなもので、描くことが出来たとしたら」
「首一つ掻き斬るというときに、生首がゴロンという風ではなく、そのときの精神的な勢いを、例えば巴と義仲が別れていくときに、胸一杯になった巴は、突然敵の大将に猛然の一騎打ちを挑んで、その首を掻いて去って行くんですね。本当は義仲と生死を共にしたいのに、そう出来ない巴という女性の気持ちを見事に文学的に表現しているわけですよね。そういうものにふさわしい表現が見出せるかも知れない。それはアニメーションでしかできないんじゃないか」
(「キネマ旬報/九五年三月上旬号」池澤夏樹氏との対談)
 要約すれば、情感と迫力豊かな大合戦シーンや瞬間的な殺戮シーンを、ラフスケッチのような画風で作り出してみたいということのようだ。
 今回の「山田くん」の制作によって、スタジオジブリはフルデジダルという新たなツールを手に入れ、水彩画やラフスケッチを動かす経験を積んだ。ひょっとすると、数年後にはいよいよ「平家物語」が本格的に検討されるかも知れない。
 戦国の合戦絵巻が丸ごと動くような様式美の大スペクタクル作品となるのか、より簡素なスケッチ画が勢いよく動き回るのか、凡人には予想もつかないが期待は高まるばかりである。いずれにしても、基調は「かつてないリアリズム」の構築であろう。表現の様式は、コンビを組むアニメーターの個性次第であると思われる。
 また、監督は二年前の講演(前述の東京芸大講演)で、木下順二氏の戯作「子午線の祀り」を引用していた。これは、「平家物語」を下敷きにした現代劇である。監督もまた、「平家物語」を現代と結ぶ何らかの演出法を考えているのかも知れない。
 一方、アイヌユーカラの忠実な映像化という構想も抱いたことがあると言う。(前述「キネマ旬報/九五年三月上旬号」)
 八六年頃には「何世代にもわたる定点観測のコマ撮り」映画という夢も語っていた。(「若きアニメ演出家へのノート」/「映画を作りながら考えたこと」三〇四ページに再録)この定点観測シーンは「柳川堀割物語」や「ぽんぽこ」(先の真正背景動画)で既に具体化しているが、近年ますますカメラを固定する作風を深めて来た高畑監督のこと、いずれこの観点が短編作品などに生かされることがあるかも知れない。思えば、映画版「チエ」のエンディングも定点観測であった。
 
 嬉しいことに、御歳六三(今年六四)にして巨匠の創作意欲はまだまだ底なしの御様子である。不世出のアニメーション監督と同時代に生まれたことを心から感謝しつつ、新作を気長に待ちたいものである。

補論(余談)

●動物生態学的観点 ―ポチこそ高畑演出にふさわしい

 アニメーション作品には洋の東西を問わず、擬人化された動物を扱った作品が多い。これはディズニー以前からの伝統で、現在でもアメリカでは普遍的な描写である。弱く可愛らしい小動物は人間の味方で、大きな肉食獣は(善玉以外は)邪悪な敵という人間中心主義が罷り通る世界。ミッキーマウスは、サンドイッチを食べ、着飾ってコンパーチブルでドライブし、庭に大型犬まで飼っている(初期作品は除く)。日本でも幼児向け番組などでは、未だに人語を喋る可愛らしい動物劇が主流だ。それらは、動物の姿を借りた少年少女を意味しており、実在の動物を意味してはいない。
 しかし、高畑作品には、こうした「人間的動物」はほとんど登場しない。高畑演出に於ける動物たちは、常に動物自身の意志と生活スタイルを持ち、自分たちの利害で行動する。これは「文化人類学」に対応させるなら、「動物生態学」的観点とでも言える。
 「ホルス」の白フクロウ・トトと子リス・チロは、ヒロイン・ヒルダの心理的葛藤を象徴する意図もあって擬人化されているが、片方は斬殺され、片方は自立してヒロインから離れてしまう。画面を賑わすギャグメーカーとしての動物描写が常套であった当時の情況を考えれば、実に画期的な設定であった。
 「パンダコパンダ」は例外的な作品だが、パンダは何よりタケノコを好み、進んで人間化はしない。また、パパンダ父子とトラちゃん以外は人語を解さない。
 「ハイジ」の大型犬ヨーゼフは、原作には登場しない。元はスポンサーの商品化の意向で作られたオリジナル・キャラクターだ。
 ヨーゼフは、ハイジにベッタリ寄り添うことなく、マイペースで無表情・無愛想。窮地に活躍することを除けば、ほとんど寝ている。擬人化を控えた犬らしい犬である。山羊たちも、一緒に飛びはねてくれることを除けば、餌を食べ寝ることが第一であった。
 「三千里」の白い子猿・アメディオも、原作には登場しない。アメディオはマルコに寄り添って旅をするが、これも常に無表情でマイペース。なかなか言うことを聞かず、度々マルコの危機を招く。
 「アン」のグリーンゲイブルズの家では、ネコ・牛・馬などを飼っているが、家畜という扱い以上ではない。
 「チエ」「ゴーシュ」「ぽんぽこ」には、いずれも擬人化された動物たちがメインキャラクターとして登場するが、これらの作品にはある共通シーンがある。
 それは、動物たちの登場シーンである。監督は、あえて動物たちが通常の四足歩行から二足歩行に変わる瞬間を描いている。
 「チエ」では、コテツがホルモンの串を拾って立つ瞬間、「ゴーシュ」ではネコが扉を開ける瞬間、「ぽんぽこ」では冒頭の集団戦の下りで、タヌキたちが走りながらひょっこり立ちあがる。最初は四足で実在の生態をなぞり、動物たちが意識的自覚的に物語に参加しようとする瞬間に二足になる。裏を返せば、「本来は四足歩行の動物なのだ」という説明とも受け取れる。物語の中では二足で歩いたとしても、動物はあくまで動物であり、完全に人間の価値観に染まったりはしない。
 その意味で、「山田くん」のポチは、まさしく高畑作品にふさわしい動物キャラクターである。無愛想で利己的で何を考えているのか分からない。動物園で接するリアルな動物はそんな印象のものが多い。動物には動物なりの都合と価値観(動物権?)があるのだ。

                                 (1999.6.)禁無断転載


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