諸国民の祖先。バルト海沿岸が原住地で牧畜と狩猟を主とする部族生活を営む。 →先住民のb ケルト人 ※を圧迫しながら次第に拡大、ローマ帝国の国境地帯に進出。 ※アイルランド・ウェールズ・スコットランド・ブルターニュに残存。 ゲルマン民族の社会 ローマ時代のゲルマン民族に関する史料には次の二つがある。 c ガリア戦記(カエサル) ・d ゲルマーニア(タキトゥス) 部族(キヴィタス)ごとに王または首長に率いられ貴族・平民・奴隷の別があった。 首長の主催するe 民会 (貴族と平民の成年男子による集会)を最高議決機関とする。 人口増加に伴い、土地が不足し、ローマ帝政末期にはローマ領内に多数が移住する。 →ローマの下級官吏やf 傭兵 ・g コロヌス となる。
4世紀後半 アジア系遊牧民のa フン人 が黒海北方から西に移動開始。南ロシアの ゲルマン民族の一派のb 東ゴート人 を従え、さらにc 西ゴート人 に迫る。 d 375 年 西ゴート族の西方移動始まる。翌年ドナウ川を越えローマ領内に侵入。
a 西ゴート人 :イタリア侵入、410年 アラリックがローマ掠奪。イベリア半島に建国。 b ヴァンダル人 :イベリア半島から北アフリカに渡り、旧カルタゴの地に建国。 c ブルグンド人 :ガリア(フランス)東南部に建国。 d フランク人 :ライン川中、下流を越えてガリア北部に建国。 e アングロ=サクソン人 :ブリタニアに進出。ケルト人を征服し、七王国を建国。
a フン人 の国家 : b アッティラ大王 のもと、パンノニアに大帝国を建設。 451年 c カタラウヌムの戦い で西ローマとゲルマンの連合軍に敗れる。 d 476 年 ゲルマン出身の傭兵隊長e オドアケル 、西ローマ帝国を滅ぼす。 493年 東ゴート族 f テオドリック大王 イタリアに移動、オドアケルの王国 を滅ぼす。 → 東ローマ(ビザンツ帝国)が一時イタリアを回復。 568年 g ランゴバルド王国 北イタリアに建国 → 民族大移動の終息
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統一し、中部ガリアまで領土を拡大。b アタナシウス派 に改宗。 6世紀なかば ブルグンド王国を滅ぼし全ガリアを統一。 8世紀 メロヴィング家の王権衰退、c 宮宰 (カロリング家)が実権を握る。
ピレネーを超え、ガリアに侵入 → 732年 b トゥール・ポワティエ間の戦い フランク王国の宮宰c カール=マルテル が活躍、イスラーム軍を撃退。 =キリスト教世界を守る。地中海世界はイスラーム勢力に支配される。
→ ローマ教皇から王位継承を認められる。教皇に土地を寄進。教皇領の始まり。
ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリア 西方のa ローマ教会 と東方のb コンスタンティノープル教会 が有力になる
6世紀末 ローマ教会のa グレゴリウス1世 、ゲルマン人への布教に務める。 6世紀 b 修道院運動 を展開、→ 民衆の教化進む。 →ローマ教会の司教がペテロの後継者としてc 教皇(法王) と言われ権威を獲得する。
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568年 ランゴバルド王国(異端)が侵入、ビザンツ帝国はイタリアから後退。
→ ローマ教会はビザンツ皇帝の保護権から離れる。
→ 東西の教会で、b 聖像 (キリスト・マリア・聖人の像)の礼拝をめぐり対立。
← イスラム教(厳格な偶像崇拝否定を掲げる)がキリスト教を批判。
b ローマ教会 はゲルマン民族への布教の必要のため聖像礼拝を肯定。
フランク王国に接近、→ ピピンのフランク王位の継承を承認。 754年 a ピピンの寄進 返礼としてピピンはランゴバルド王国から奪った b ラヴェンナ地方 をローマ教皇に寄進。→ 教皇が大領主となる。
フランク王国全盛期の王。ランゴバルド王国を征服、ザクセン族を服従させる。 →ゲルマン諸族の統合とローマ=カトリックへの改宗。=西ヨーロッパ世界の成立。 東方:モンゴル系c アヴァール族 を撃つ。南方:イスラーム勢力を撃退。 全国を州に分け、それぞれに伯を置き、巡察使を派遣して監督。 教育と文化の振興。アルクィンらを招く。d カロリング=ルネサンス <p.144>
800年 a ローマ教皇 のb レオ3世 、カール大帝にc ローマ皇帝 の帝冠 を与える。→ 「西ローマ帝国」の復興をめざす。 意義 政治上 d 西ヨーロッパの安定、ビザンツ帝国に対抗する政治勢力の成立 文化上 e 古典古代・キリスト教・ゲルマン民族からなる文化圏の成立 宗教上 f ローマ教会がビザンツ皇帝から独立した地位を獲得したこと
┌ 西ヨーロッパ世界:ローマ=カトリック教会・フランク王国 │ 地中海世界の分裂 ┼ 東ヨーロッパ世界:ギリシア正教会・ビザンツ帝国 │ └ イスラーム世界:イベリア半島の後ウマイヤ朝
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843年 a ヴェルダン条約 ┌ 東フランク →c ドイツ の起源 │ → 870年 b メルセン条約 → ┼ 西フランク →d フランス の起源 │ └ 中部フランク→e イタリア の起源
10世紀前半にザクセン家のa オットー1世 、 マジャール人 (ウラル系)を撃退。 962年 b オットーの戴冠 :ローマ教皇からローマ皇帝の帝冠をうける。 =c 神聖ローマ帝国 の起源。その後、ドイツ王が神聖ローマ皇帝の称号を継承。 → 歴代の皇帝、ローマへの干渉(d イタリア政策 ※)を続け国内は分裂状態続く。 ※10〜13世紀に及ぶ、神聖ローマ帝国皇帝によるイタリアへの進出をはかる政策。
パリ伯a ユーグ=カペー がb カペー朝 を開く。王権弱く、各地に諸侯が分立。
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とするゲルマン民族 →海上活動を活発に行い、海賊行為を恐れられ、
c ヴァイキング と言われる。
10世紀始めa ロロ に率いられ、北フランスに進出し建国 911年 フランス王よりノルマンディー公に封じられb ノルマンディー公国 を建国。
1130年 a ルッジェーロ に率いられ地中海進出、イスラム教徒を破る。 南イタリアとシチリア島を支配し、b 両シチリア王国 を建国。 → 南イタリアには、ビザンツ文化、イスラーム文化、ノルマン人の文化が共存。
829年 b エグバート により統一されイングランド王国となる。 → ノルマン人(ユトランド半島原住のc デーン人 )の侵入を受ける。 9世紀末 d アルフレッド大王 、デーン人(ヴァイキング)の侵入を撃退。 1016年 デーン人のe クヌート王 、イングランドを征服。ノルウェーも支配。 1066年 f ノルマンディー公ウィリアム のイングランド征服。 =g ヘースティングズの戦い これをh ノルマン=コンクェスト という。 = ウィリアム1世。i ノルマン朝 の成立。大陸の封建制をイギリスに移入。 → イングランドで土地台帳(ドゥームズディーブック)を作成。
862年 a リューリク の率いるヴァイキングの一派がスラブ人地域に進出。 = b ノヴゴロド公国 建国。 → スラブ人が彼らをc ルーシ (またはルス)と呼ぶ。→「ロシア」の語源。 ・バルト海方面とドニェプル川を通じるルートで、毛皮・蜜蝋・琥珀などの交易に従事 9世紀 南下してd キエフ公国 をつくる。ドニェプル中流のキエフを都とする。 → ノルマン人がスラブ化。ビザンツ帝国からギリシア正教会が伝わる。
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民族移動後の混乱・イスラームの地中海支配 →西ヨーロッパのa 商業・都市の衰退 →自給自足の農業経済に移行し、貨幣にかわり土地・生産物の価格が上がる。 イスラーム、マジャール人、ヴァイキングなどのb 外敵の侵入 →武装して自衛する。 領主たちの中に、弱者が有力者を主君として保護を受ける主従関係が生まれる。
皇帝・国王・諸侯・聖職者など、有力で多くの所領をもつ領主たちの間で、所領(土地) を仲介として主君と家臣の主従関係が生まれ、その関係は世襲化した。 主君は家臣にa 封土(領地)を与えて保護し、家臣は主君に忠誠を誓い、b 軍役 などの義務を負う。その関係は、何重にも重なり、同時にc 双務契約的な関係 である。 その起源:ローマのd 恩貸地制度 とゲルマンのe 従士制度 の結合 d:土地所有者が有力者に土地を献じて保護下に入り、改めてその土地を与えられる制度。 e:貴族や自由民の子弟が他の有力者に忠誠を誓いその従者となる制度。 → 10世紀 フランク王国分裂後に西ヨーロッパで一般化する。 → 各地の大諸侯は、多数のf 騎士 を従えて自立。 → 王建の衰退。
a 領主 :土地の領有者で国王・諸侯・騎士・聖職者などの支配階級。その所領が荘園。 ┌ 領主のb 直営地 (農民の賦役で耕作する。) │
荘園の構成 ┼ 農民のc 保有地 (農民が耕作し、地代を領主に納める。) │
└ 農民のd 共同利用地 (農民が共同使用する牧草地・森林など。) 農民:大部分が、領主にe 賦役(労働地代) とf 貢納(生産物地代) を負担する g 農奴 。その他、結婚税・死亡税や教会に対するh 十分の一税 なども負担。 荘園の経済:農業生産、手工業生産も荘園内で行われるi 自給自足の現物経済 。 領主は国王の役人の所領への立ち入りと課税を拒否するj 不輸不入権 を認められた。 →さらに領主裁判権を行使して、領民に対して独立した支配を行う。
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西ヨーロッパの封建社会の形成と並行して、修道士などによるキリスト教の教化進む。
農民へのa 十分の一税 の課税 ┐ ┌ 教会のb 大領主化 ├─→┤ 国王・貴族からの土地の寄進 ┘ └ 聖職者のc 階層制組織 の成立
聖職者階層制組織:d ローマ教皇 →e 大司教 →f 司教 →g 司祭 、
(ヒエラルヒーという) 他に、h 修道院長 などが聖職者。
→世俗の権力である国王が、聖職者を任命する。→i 教会の腐敗・堕落
11世紀 この修道院を中心に教会の腐敗堕落に対する粛正運動が始まる。 → 厳格な戒律、労働と修養の重視 聖職者の堕落を批判、攻撃。<→p.144>
1073年 ローマ教皇a グレゴリウス7世 (クリュニー修道院出身)の改革。 b 聖職売買・聖職者の妻帯 の禁止。聖職叙任権を俗権からの奪回をはかる。 → 教会を世俗勢力の支配・干渉から解放することを目指す。 c 聖職叙任権 = 司教・修道院長などの聖職者を任命する権利。はじめ、世俗 の権力である国王(君主)や封建領主(貴族)に握られていた。しかし、聖職者自身 が封建領主化するにともない、ローマ教皇がその権利を奪おうとするようになった。 教皇グレゴリウス7世が、神聖ローマ帝国皇帝d ハインリヒ4世 をe 破門 。 1077年 f 「カノッサの屈辱」 :皇帝ハインリヒ4世が、教皇に謝罪し許しを乞う。
【解説】ハインリッヒ4世は、ドイツからアルプスを越えて、当時教皇が滞在していたイタリアのカノッ サ城を訪ね、面会を拒否されたが、3日間素足で雪の中に立って許しを請い、ようやく許された。その後、 ドイツ諸侯の支持を回復した皇帝は、教皇に反撃、ローマから追い出すなど両者の闘争は続いた。
11世紀末、ローマ教皇の主唱でg 十字軍運動 始まる。 1122年 h ヴォルムスの協約 教皇の叙任権認められる → ローマ教皇の勝利。
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