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世界の像




たしかにすべての言葉がほんものだとは言えないが、しかし単なる話やおしゃべりは絶対にほんものではないと信じたハイデッガーはおそらく誤っている。多分、反省の加わらない機械的な会話でも、自覚しないながら、なにかを言おうとしているのだ。天気について話すことでも世界の秩序を呼びだすという意味をもつし、挨拶を交わすことも市民の秩序に順応するという意味をもっている。



デュフレンヌ





現代のシステム

 人間は、感覚によって得た情報を「世界」に組み上げて認識している。このことは、古くから明らかになっていた知識ではあったが、これに反対する意見もまた古い歴史をもっている。

 たとえば、「言霊」という考え方はわれわれ東洋人にはなじみが深い。言語に魂が宿る――すなわちある言葉に一種のアイデンティティの内在を認め、言語の内容が現実的に現象することを信じる、一種の精神現象学的思想である。これに代表されるような、「言葉」というものの背後にイデア的な何かを想定するという思想は、人類史において非常に古くからあった。しかしフェルデナン・ド・ソシュールによって、言語がその差異に本質をもつ記号体系の集積であることが暴露されたのは、これもまた近代から現代への変動の一契機であった。

 近代という世界は、ある約束事によって成立した。それは、合理主義という約束事である。

 提出されたある問題を解決する場合において、われわれはふつう、たいてい最小限の(多くの場合それはひとつかふたつ、もしくはそう多くない選択肢として)解決策の候補を考える。われわれは無意識と言っていいほど自然に、目の前の問題の最も合理的な解決策を見いだそうとする習癖をもっている。それはしばしば、最適化という言葉によってあらわされる思考の形式である。

 『オッカムの剃刀』という言葉は、哲学プロパーの知識を特にもっていない人でも聞いたことがあるかもしれない。この名辞の主であるウィリアム・オッカムは中世スコラ哲学の徒であるが、現象の背後に普遍的なものを想定するプラトン主義的な実念論に反対し、現象個別の特殊性を主張する「唯名論」を提唱した。道端に散る木の葉Aと木の葉Bとは、何か抽象的な『木の葉のイデア』といったものによってそれぞれ結び付いているのではなく、あくまで形象が似ているだけのまったく別の物質である――唯名論はこう主張する。

 現代に生きるわれわれの思考は、多かれすくなかれ、この知的潮流の流れをくんでいる。

 人生で最初にもらった給料の一部(もしくは全部)をいつまでも遣わずにとっておく、などというような行動は、現代人であるわれわれにもしばしば見られるものである。だが経済学や会計学ではふつう、こうしたものの考え方をとらない。現代に生きるわれわれは、多くの場合、財布の中の千円札と机の中の千円札を本質的に区別しない。それは単なる価値の象徴であり、経済的数値の指標である。この考え方は、合理的に最適化された思考形式である。

 世界から「絶対的なもの」が失われたとき、人はどのような原理に依存するだろうか。ある問題を解決しなければならないとき、いくつかののやり方があった場合、知の絶対指標をもっていた時代のひとびとは、それほど迷うことがなかった。こうした時代のひとびとは、絶対者、もしくは絶対者によって指示された思想的位置にある者の言い分に無思考的にしたがっていればよかった。だが現代の世界では、絶対という概念はあまり使われない。さまざまな局面において、いままで世界に指標を与えつづけてきた「絶対」という考え方が、陳腐化し、ほとんど崩壊してしまったためである。

 子供たちに道徳の必要性を説く場合を想像してみよう。おそらく、われわれは困惑するだろう。その行動を規定する根本的な指標を、現代のわれわれは持たないからである。「神様が見ているから」とか、「お国のために」などといった、かつて使われた指標は、現代では笑い話程度の意味しかもたない。こうした考え方が、「神」や「国家」などを、絶対的価値の指標として使っていたためである。現代において比較的効果がある方法は、頭ごなしに怒鳴るか、あるいは「生活が乱れると、社会的評価のパラメータが低下し、より高い水準の教育を受けたり、より安定した企業に就職したりする機会を逸し、経済的もしくは社会的成功をおさめる可能性を失ってしまうだろう」という説明をすることである。前者の方法はともかく、この説明はある程度の説得力をもっている。それは、世界を「ために構造」――すなわち目的と方法の体系としてとらえた、合目的的行動の指示、いってみれば相対指標を用いた考え方だからである。

 ある目的を遂行するために、その論理的ステップ数を最少に抑える、すなわち最も単純化された思考経路を選ぶといった知的形式は、近代という時代において世界をぬりかえた。人間はこの思考方法によって世界を認識し、区分するようになった。しかし、コンピュータの一般ユーザーが、機械語レベルのロジックの流れをほとんど意識しないのと同じように、この変化――認識と知のオペレーティング・システムの更新という思想史的事件は、ごく一部の専門家をのぞいて、ほとんど誰の目にもとまらずに進行した。


中国の辞典

 われわれのもっている辞典は、合理性に富んでいる。それはふつう、現代にはりめぐらされた合理的思考の枠組みに忠実に、最適化された構成をとっているためである。

 そうした時代の子であるわれわれは、次にあげるテクストを見るとき、不可解な感覚に襲われるだろう。『シナのある百科事典』と題されたこのテクストは、ミッシェル・フーコーが著書『言葉と物』の冒頭に挙げた、ホイヘ・ルイス・ボルヘスのエッセーに採録された奇妙な分類の記述である。

「動物は次のごとく分けられる――

a、皇帝に属するもの
b、香の匂いを放つもの
c、飼いならされたもの
d、乳呑み豚
e、人魚
f、お話に出てくるもの
g、放し飼いの犬
h、この分類自体に含まれているもの
i、気違いのように騒ぐもの
j、数えきれぬもの
k、駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの
l、その他
m、いましがた壷をこわしたもの
n、遠くから蝿のように見えるもの」

 この百科事典は、現代に生活するわれわれが実用に使うには、若干の難があるように思われる。なぜならここで行われている知的作業は、われわれの思考を規定している知の基本システムに準拠していないからである。

 分類という処理は、「与えられたあるキーによって」、「同じレベルにあるデータを」、「重複のないように」注意して行わなくてはならない。この三つの原則のいずれが欠けても、分類処理の結果は正しいものとならない。合理主義的思考という知の基本システムを標準装備しているわれわれは、ごく幼いうちからこの原則を身につけている。

 このテクストをわれわれの目でよく見てみると、まずそもそも現代的な意味での「分類」という処理がうまくいっていないことに気づく。

 この分類において、そもそも分類のキーが不在であることがまずあげられよう。そして同時に、分類項目の重複という点が指摘できる。つまり、たとえばgの「放し飼いの犬」は、cにある「飼いならされたもの」である場合もあれば、同時にiにあるように「気違いのように騒ぐ」場合もある。この問題に関していえばこれは、われわれの基準、われわれの知のプロトコルに準拠して思考するかぎり、意味論的なエラーと言わざるをえない。われわれの思考は「批判」という方法をとる。あるシステムの正当性を検証する場合、われわれはたいていあらゆる論理的な限界値を想定したデータをそろえ、考えられるあらゆる面からそのシステムをチェックする。そうすることによってはじめて、そのシステムがあらゆる局面において正当性をもつものであることが証明できると、われわれは考える。だがじつは、それは考え方の手法のひとつにすぎない。

 この辞典の編纂者はおそらく、何らかの独特なプロトコルをもって正しく「分類」を行ったのかもしれない。それはたしかに、われわれの知のタイプにとっては見慣れないプロトコルだっただろう。われわれの「すべてのロジックについて検証する」という批判的思考にとってそれは不完全なものに見えるかもしれないが、この編纂者にとってはじゅうぶんに機能的なものだったのだろう。われわれにとってこの辞典の「分類のキー」は曖昧模糊としているが、編纂者にとっては明確なキーとして有効に機能していたに違いない。われわれには「重複」に見える分類結果も、編纂者には的確な結果であったに違いない。こと「キーの不在」や「重複の規定違反」の問題に関して言えば、思考のプロトコルの相違という論理の補正を加えることで、このテクストの非論理性もわれわれにも理解することが可能なものとなるのである。

 しかし、このテクストにはもうひとつの重大な不可視的要素がある。それは、メタ意味論的エラーの問題、データのレベルの点に関する問題である。


不思議な輪


 先のテクストについて考えてみよう。『中国の辞典』において、ほとんど致命的にわれわれの知がその受け入れを拒む要素とは、hの「この分類自体に含まれているもの」という記述にほかならない。hの項目は、このテクストによる分類という操作の通常項目――いってみればオブジェクトレベルである他の項目に対して、むしろ管理項目――メタレベルの関係にある。この関係は、われわれを困惑させる。作品の内部にその作品自体を包含する作品、分類項目としてその分類そのものを項目として扱う分類。これらのテクストは、不思議な輪とでもいうべき混乱を、見る者にあたえるのである。

 それでは、われわれのこの困惑はいったいどこから生じるのだろうか。

 ひとつの問題を出そう。ここに、ふたつの命題がある。

A、XはYである。
B、XはYではない。


 いま、このふたつの命題が同時にともに真となるように、XとYに代入できる語句はあるだろうか。

 意味の定義が曖昧な語句を用いたりしない限り、通常のレベルのデータについて考えてみても、おそらく容易には解答は見いだせないだろう。だが、データのレベルを変えることによって条件を満たすことができる。すなわちそれは、自己言及という構造の導入である。

A、「この命題」は、「肯定文」である。
B、「この命題」は、「肯定文」ではない。


 ここにあげたように、命題が対象とする成員が、その命題そのものに対して言及しているような構造は、ある特殊な効果を生むのである。

 「クレタ人は常に嘘をつく」とクレタ人の預言者が述べたという、いわゆるエピメニデスのパラドックスは、論理学の世界を長い間悩ませたアポリアだった。数理哲学のバートランド・ラッセルはこの問題について、「すべての集合を含むものは、その集合のひとつであってはならない」という禁則を設けることにより、論理の破綻を回避しようとした。こうした禁則の体系がいわゆるラッセルのタイプ理論である。

 だが、いかに人為的にしつらえたサブ・システムによって禁則扱いしようとも、これらのパラドックスはわれわれの眼前に厳然として存在しつづけ、われわれをまごつかせる。

 『ドグラ・マグラ』という小説がある。奇異の天才・夢野久作の手により昭和初期に書かれたこの作品は、まさに奇書の名に値する。この作品の秀逸さを論証することはここでの目的ではないが、この作品に展開する不思議な構造は、いま論じている問題と通底する。

 この作品には、一冊の書物が登場する。この作品自体を規定する位置にあるひとつのテクスト――狂人の著したというその書物こそ、『ドグラ・マグラ』というひとつの探偵小説である。作中に登場するこの作品には、その小説そのものが再現されているのだ。

 あるテクストがその内部に、そのテクストそのものを制御するような要素をもつという構造が、これらの不思議な輪という構造である。しかしより本質的な問題は、われわれをとりまく知のシステムにある。


知のプロトコル

 押井守の作品のなかで、われわれはしばしば目眩にも似た感覚を覚えることがある。『迷宮物件』や『御先祖様万々歳』等に代表される作品群に現れるこの感覚、先の『ドグラ・マグラ』や『中国の辞典』に通底するこの感覚は、「物語」というシステムへの問い、延いては「認識の形式」自体への問いにその源泉をもつ。こうした、われわれが「世界を読み取る」ためのプロトコル、世界を合理的に了解しようとするための規約体系を破壊するようなその感覚が、押井作品を重要に特徴づけているということは、誰しもが何らかの形で感じていることに違いない。

 われわれの知を規定している近代的思考には、いくつかの必要条件がある。「思考の空間」の問題は、そういった条件のひとつである。

 われわれは思考するとき、整然とした空間を必要とする。それは、空間というほど立体的なものではないかもしれない。それはむしろ、思考という営為を行うための「場所」ともいうべき、平面的なものとすら言える。近代的思考というソフトウェアーは、ある確定的な場の上でこそその機能を発揮しうるのである。

 たとえば、「分類」という作業を例にとった場合、われわれの知は無意識のうちに、あらゆるケースにおいて重複を排したキーを設定し、「同じ次元に並ぶ」結果を期待する。われわれの思考は、この規約の上に成り立っているからである。先のテクストが近代的思考を拒むのは、こうした「知の場」が破壊されているところにその要因がある。インデックスのレベルであるメタ項目と、ボディ部のレベルにあるデータとの同一階層での混在や、その集合自体を包含する要素を項目として持つような集合は、われわれの得意とする近代的思考を無効にしてしまう。こうした問題はしばしば、無限後退のループへと人を迷い込ませる。この迷宮への道を、押井作品は提示する。

 ところで、ここで重要な点は、こうしたテーマがとりもなおさず、われわれの前に「思考システム上の問題」が存在することを示唆するという事実である。

 われわれは主に「思考」によって知を構成している。「思考」は、根本的な、いわばシステム・ソフトウェアである。われわれは、システムの上で稼働するプログラムを意識することはたやすい。アプリケーション・ソフトウェアーの問題は、比較的よくわれわれの目に止まる。だが、意識の背後に存在するシステムそのものの問題は、一般に目につきづらい。加えて、問題を問題化する意識そのものの基体である知のシステムの問題は、その認識を一層困難にする。空気が存在することによってはじめて飛ぶことのできる鳩は空気の存在を忘れ、データの異常を検出するチェック・プログラムは、それ自身のウイルス感染をチェックできない。

 コンピュータは、オペレーティング・システムの性能によってその性質をすっかり変えてしまう。同じような性能のコンピュータであっても、優秀なオペレーティング・システムを使っているかいないかにより、まったく異なった機能を果たすことになる。このことはわれわれ人間にもあるていど妥当する現象であるが、このことはふだんあまり意識されない。

 フォン・ノイマンによって開発された当初のコンピュータは、オペレーティング・システムというものを持っていなかったし、それ以前に、ハードウェアとしての性能そのものが、現在われわれが使っているようなコンピュータにくらべていくぶん劣っていた。電子機械であるノイマン式コンピュータの場合、これまでの進歩は、ソフトウェアの面もさることながら、むしろハードウェアの進化によって進められてきた感がある。また、ハードウェアの発達は、専門知識をもたない一般のひとびとにも容易に理解できるが、ソフトウェアの進歩を理解するためには、ある程度のシステムに対する理解が要求される。そのため、現在に至ってもなお、われわれはハードウェアの進化のニュースを重視し、ソフトウェアの進化のニュースを軽視しがちである。

 しかし「人間」というコンピュータの場合、人類の歴史のログが残っている程度の期間について言えば、すくなくともハードウェアのスペックアップはそれほどなされていないように見受けられる。人間というフレームは、もっぱらソフトウェアのスペックアップによって「進歩」してきたと言ってさしつかえなさそうである。このことは、誰でも知っていることであるが、意外なほど注意を払われていない。

 「知の基本システム」の問題は、比較的最近になるまで論壇の主要なテーマとはならなかったように思われる。もちろん、はるか過去の偉大な先駆者の存在はあったが、こうした問いがあらゆる領域で発せられるようになったのは、おおむね今世紀に入ってからの傾向である。

 こうした、「知の基本システム」そのものへの問いをつきつめることは、押井作品に隠されたさらなる謎をわれわれの前に提示する。この問題を認識せずに、押井作品の最深部へ到達することはかなわない。知の基本システムの存在論と、その考古学――押井守の次なる問いはここにある。



エピステーメー

 映像芸術のジャンル、なかんずくアニメーションというメディアの論評法は、他の多くのメディアのそれにくらべ、現在に至るもまだじゅうぶんに理論化されていないように思われる。アニメーションを論評するにあたって、映画などの評論法のいくつかが適用された例はあるが、こうした手法はおのずから限界をもつ。なぜなら、アニメーションはわれわれが目にする世界の直接の映像ではなく、人工的に作り上げられた、いわば現実の「代理」(representation)の映像だからである。

 イギリス経験論哲学のデイヴィッド・ヒュームは、著作『人性論』において「人間は印象の束である」と述べた。人間が世界を認識するにあたり、その認識はいったん印象という原子的要素に還元されるというのである。では、その「印象」のみを抽象したものは、「世界」を再現させ得るのだろうか。

 人間は世界を、必ずしもそのままの物自体として認識している訳ではない。ヒュームの古典的経験論をいま繰り返すことはかなり乱暴だが、人間は世界を意識の作用によって再構築し、認識している。こうした、再構築された世界像を表象(representation)と呼ぶ。

 アニメーションは、ある意味で、表象を具現化するメディアである。それは現実の世界の「代理」であり、観る者に対して作る者の「像」としての世界を再提出する。しかしこのとき、世界を再構築するために必要な「知の場」についての考察を、われわれは忘れがちである。

 「知の場」の歴史的変転を「考古学」として研究した研究者の代表としてミッシェル・フーコーの名をあげることには、多くの賛成が得られるだろう。

 フーコーによれば、近代西欧的思考の空間は一定のものではなく、たえず変動しつづけている。それは、その文化のなかの特有の秩序を確保するために、その文化の基体となっている知のシステムによってフォーマットされた、認識と思考の空間である。彼の研究の出発点は、そうした特定の時間継起と地理的に限られた裁断面によって隔絶された知の基本的配置の発掘と分析である。フーコーは、そこにおいて思考という営為を可能ならしめるこうした「知の場」を、エピステーメーと呼んだ。

 フーコーの提唱したこの「エピステーメー」は、人間の世界観の構築に関する概念である。現代のわれわれは、現代の知のシステムにのっとった世界観念を構築する。この世界構築のシステムへの問題意識は、われわれの問いに何らかの回答をあたえてくれるかも知れない。

 知的活動の空間は、いくつかの成立段階をもつ。たとえば、人工言語の技術的集積としての科学においては、パラダイムという概念がある。これを提唱した科学哲学のクーンによれば、パラダイムとは、学術研究者などのある共通言語体系の共有者が、その知的活動の規範・範型として認める理論、法則、装置、教育法、思考習慣などによって確立させる総合的な世界観ないし思考空間であり、またより厳密には「ある期間を通して科学研究者の集団に問題や解法のモデルを提供する、普遍的に認められた科学的成果」と定義されるという。

 このパラダイム論については、提唱者クーン自身発言を濁している部分があってやや不透明な用語と言わざるを得ないし、もともと科学における研究計画理論を発展させた方法論的概念であって、「エピステーメー」という概念とはかなり離れるが、知的営為の基体となる「場」へのまなざしの発露の一形態という側面においてはある程度の共通項を見いだすことができよう。

 むしろここで重要なことは、この概念が、それまで言われていたように「科学は進歩する」という固定観念を退け、従来進歩と言われていた世界観の変化を、単にパラダイムの入れ替わりに過ぎないと説明したところにある。こうした認識に若干ためらいを見せたクーンに対し、ファイヤアーベントはより徹底し、「科学は進歩しない」とまで言い切っている。そう、ここで注目したいのは、「知の場」の不連続性という観点である。

 従来、世界観や思考のシステムは、変化するとしても、ただゆっくりと変わりゆき、基本的に連続したものであると考えられてきた。だが近代の認識として、「知の場」にはっきりとした断層がいくつか存在することが、複数の観測者によって提出されてきたのである。

 この「パラダイム」論は、人工言語としての思考の場を中心としている。しかしここでいうフーコーの「エピステーメー」は、思考や言語のある秩序の使用と、その活動の場であり、反省の眼差しを送り続ける秩序自体という両極の間にたたずむ、むきだしの経験をも包含する混沌とした場としてとらえられるのである。

 クーンのパラダイムと同様、エピステーメーは歴史の流れの上で少しずつ流動的に変化するばかりのものではなく、そのある部分にはいくつかの明らかなねじれや不整合面があると、フーコーは述べた。もっとも、フーコーの立場を、ファイヤアーベントと同様に歴史性の単純な否定の立場として見たり、またエピステーメーを単純な構造主義者のように人間の思考や行動を背後から規定する一種の制度的存在と考えたりするのは正確さに欠ける。それはあくまで従来の中心的視線からの歴史観を断ち切った、知の場に対する存在論的認識論的言及と理解されなくてはならない。

 フーコーは中世から近代に至るヨーロッパ文化を研究対象としたが、その代表的なもののひとつは17世紀ごろ、ルネッサンスから古典主義時代への転換期、もうひとつは19世紀初頭の近代への移行期の変動によるものであるという。この変動によって、それまでの人間の目にうつる世界はまったくその容貌を変え、思考のシステム自体も変わってしまったのである。

 たとえば、現代の思考空間で代表的なキーワードとしての位置を占めるのは、「人間」という視点である。現代に生きるわれわれは、さまざまな思想の根底に「人間」という中心的な概念があって、常に諸思想を規定し、視座を支えつづけることを当然と思い、疑うことをしない。だがわれわれは、それがけっして普遍的な構造ではないことに気をつけなくてはならない。緒思想の中心的概念の座に「人間」がついたのは、思想史が近代を迎えてからのことである。「人間」という中心的な知の対象と、それによって規定される「知の場」なしには、経済学や近代哲学などの諸学術は成立し得なかっただろう。われわれは、いま立っている大地の確実性を疑うところからはじめなくてはならない。




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