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§序






真理が現実に存在するためにとりうる真の形態は、学問としての体系のほかにない。哲学を学問の形式に近づけること、言いかえれば、知識に向かう愛という名から脱却し得て、現実的な知識になるという目標に哲学を近づけること、この仕事に寄与しようというのが私のめざすところである。


ヘーゲル




 アブドーラ・ザ・ブッチャーというプロレスラーがいる。1970年代を中心に活躍した悪役レスラーで、センヌキ、フォークなどの凶器攻撃や、ルール度外視の場外乱闘など、どんな層の客にでもわかりやすいファイトを得意としていた。このレスラーがかつて、複雑・高度でわかりづらいテクニックを使うタイプのレスラーに対して文句をつけたことがある。

「もしも客が理解できないような複雑な技で突然オレがギブアップしたとしたらどうだ? 客は何が起こったか理解できずに怒るだけだ。そんなマネはプロのするこっちゃない……」

 あらゆる世界のプロフェッショナルにとって、この問題は常に択一を迫られる問題である。ひとりの技術者として高度な技術や深遠な思想を追及することと、経営の立場から商業的成功をおさめることを両立させることは、簡単なことではない。多くの場合、広い層の鑑賞者に理解され支持されるような内容は、技術的、思想的には低い評価しか受けず、技術的・思想的に高度なものをめざせば、一部の鑑賞者にしか評価され得ないものとなってしまう。

 この問題をうまく両立した作品はひどく少ない。たいていの場合、制作者は技術者サイドとしての立場より、経営サイドとしての立場を優先せざるをえない。それは、作品が経済的にペイしなければならないという経営サイドの事情が主だが、ここにもうひとつの意地悪いものの見方がある。それは、広い層の鑑賞者に評価されるような作品を作る方法は、かなりの部分がマニュアル化されているという見方である。このため、一部の高度な判断力をもった鑑賞者に高い評価を得るような作品を作るより、こうした多数受けする作品の方が技術的には簡単で、たいした才能のない制作者にも手軽にできるという考え方もある。

 ミクロ経済学的なものの考え方では、こうした場合、市場の性向はどうしても後者――広い層の鑑賞者に簡単に理解され、評価されるものの方へとシフトすることになる。じじつ、映像作品をはじめ、さまざまなジャンルの芸術の制作者サイドにも、ひとにぎりの鑑賞者にしかわからないような作品をひどく嫌うひとびとは多い。新古典派経済学的な市場原理に支配された現代の世界は、高度な知的文化を育てるのには向いていないのかもしれない。

 だが現実は、新古典派経済学の分析どおりとばかりは言えない。新古典派の経済学は、情報や知的環境をひどく軽視する傾向があった。たとえば、ミクロ経済学に言う「一物一価」の原則は、実際にはおおくの場合成立していない。あなたはAの店でより安く買える物を、しばしばより高いBの店で買う。なぜならこのとき、あなたはAとBの価格差に関する情報をもっていなかったからである。

 同様に、この経済学の分析は、人間がより高度な知的成果を好むという点、また鑑賞者の間により高度な知的環境が形成されるという点を考慮していない。古い経済学の世界観では、消費者はいつも同じ知的レベルしかもたず、ただ気分と経済的合理性の原理だけにしたがって行動する。しかし実際の世界は異なっている。人間にとって世界は常に一様ではなく、その世界への認識と解釈の変化や再構築によって、その行動は劇的な変化を迎えるのである。人間は新古典派経済学が考えているほど愚かではない。

 プロレスという格闘技について言えば、その世界観はこの10年ほどで驚くほど変化した。伝統的なわかりやすいスタイルに加え、極めて高度な、観る者にも深い教養と判断力が要求されるようなスタイルにも市民権が与えられた。栓抜きで殴られれば痛いことはだれでも知っている。だが、ヒールホールドやクロックヘッドシザーズがどの程度の威力をもっているかを評価するには、それなりの予備知識が必要である。この十数年という歳月は、観る者たちの間に、より高度な知的環境を構築させた。それは、ある意味で、ひとつのパラダイム・シフトだった。

 このように構築された知的インフラのことを、インテレクチュアル・ストラクチュアと呼ぶことにしよう。この環境構造を構築することは、機械的な経済学の世界観に対する反抗である。「評論」は、その責を担っている。

 ある優れた知的成果をもって語られる作品について、それを鑑賞する際の手がかりを、本論はもくろんでいる。本論は、作品の内容を解説することを目的としない。あくまで、これからも幾度となく作品に向かうであろう鑑賞者たちに対して、知の構造を構築し、パラダイム・シフトを生じせしめることを、本論は目的としている。本論を読む者は、本論に解答を求めるべきではない。あくまで作品に向かう鑑賞者、そしてその邂逅と知的戦闘の瞬間こそ重要なのであって、本論はその鑑賞者に理論の武器を手渡すのみである。すくなくとも、本論はそういった方法に拠っている。



 これまで論じてきたとおり、押井守の作品を特徴づける特異性、またその作品性の背後に垣間見られる真理要求は、「ビューティフル・ドリーマー」に代表されるような現象学的方法とそれによって語られる存在論的世界論、あるいは「御先祖様万々歳!」に展開されるような構造主義的方法などに見ることができよう。

 しかしここで、ひとつの注意すべき問題がある。それは、押井守作品の自己同一性という点である。

 われわれは無意識のうちに、作家に作家たることを、そしてまた同一性を持つことを要求する。だが押井守の方法は必ずしも常に同一ではなく、その真理要求すら不変のものとは限らない。いなむしろ、このような作品性に対する同一性の要求といった認識態度じたい、すでに押井守のブービートラップの術中に堕ちているのかもしれないし、また安易な同一性への期待は作品への接近にとって認識論的障害ともなりかねない。そこに要求される知的スタンスは、あくまでも原作品個々の真理要求に対する唯名論的なアプローチをこころみることにほかならない。



 さて、これまでの議論ではもっぱら方法をあつかってきたが、押井作品の背後に見え隠れする真理要求については、その作品のものとパラダイムを同じくすると思われる思想を提示するにとどめ、積極的には触れなかった。この論の目的は「謎解き」ではないし、作品に関するある事実を教えることでも、その一解釈を解説することでもない。その目的は、あくまでも鑑賞者が作品そのものに接したとき、その真理要求に追随するだけの「ツール」を提供するにすぎないからである。

 以上のような知的態度のもとにこの章で触れようとするのは、押井作品全体において見られるひとつの方法である。それは、それ自身が「方法」でありながら同時に真理要求でもあるという、若干特異な方法論の問題だといってよい。

 それはすなわち物語そのものに対する問い、虚構論の問題である。

 人間は言語によって思考し、知的営為を紡ぐ。現代の哲学がその言語そのものを興味の対象としたことはたんなる偶然ではない。知が展開する知的空間そのものに対する知、すなわち自己言及という方法は、たんなる世界所属的なものに対するまなざしを超越し、ハイデッガーの存在論にも通じる極限的な真理要求として展開するのである。

 押井守の方法とその背後の真理要求を系譜学のまなざしをもって見た場合、たとえば「御先祖様万々歳!」において発露し、「迷宮物件」や「トーキングヘッド」に最も顕著に見られた物語論、虚構論の問題に行きあたることとなる。それは「語り」という営為そのものへの言及であり、また同時に思考という営為のシステム自体への哲学的反省とならざるを得ない。こうした問題は現代という時代の知と無関係ではなく、この問題について論じようとするならば、現代という時代の知への接近が不可欠となるのである。





§3・テオリアを超えて

 

――媒体エレメントの哲学――




大地への問い




人間精神は、本来、物のなかにある以上の秩序と類似を想定しがちである。自然は例外と相違にみちみちているのに、精神はいたるところに調和、合致、相似を見る。そこから、あらゆる天体の運動が完全な円を描くというあの作りごとが生まれてくるのだ。

ベーコン





揺らぎ

 太陽はふつう、永久に変わらぬ恒常的なものの象徴として語られる。だがじつは、太陽の輝きが必ずしも一定ではなく、時にそれが弱々しく揺らめくこと、そしてその揺らぎは「天文学的」な時間の中でみられるようなものではなく、ほんの数百年、あるいは数十年程度の短い期間においてあらわれるという事を、いまわれわれは知っている。

 大地はしばしば、揺るぎない絶対的なものの象徴として語られる。しかし、大地を構成している地殻が、実際はマントルの海に浮かんだ薄くて脆い存在であり、またそれはある意味で流動的な存在であるということを、いまわれわれは知っている。

 近代的合理主義の「知」は、神の不在となった近代的世界にとって、残された数少ないよりどころであった。人は、神でなく人間の「知」によって世界を照明し、計量し、比較し、分類した。「知」は近代において、ある意味で絶対的な地位を獲得した価値であり、また「科学」や「哲学」など数々のソフトウェアーの制御を可能ならしめる完全無欠のオペレーティングシステムであった。

 しかし、いかなる通念も常識も容赦なく批判の対象とする現代という時代において、知という「太陽」もまたその輝きに陰りをみせることとなる。世界が「近代」という時代を経、そして現代を迎えるに至り、人はひとつの疑問に行き当たることとなる。それは、言ってみれば大地に対する疑問であった。

 ショーペンハウエルは、思想の体系というものを建築物に喩えた。何物からも支えられぬ土台石、すなわち証明をすら必要としない命題が体系の基底部をささえ、その上に成立する命題は他の命題を支え、また前者は決して後者に支えられることはなく、最終的には何物をも支えることのない頂点をいただく。ショーペンハウエルのこの考え方には若干の独断性はあるが、近代までの学術体系の構造をあるていど的確に指摘している。そして現代の問題とは、その「土台石」そのものが立脚する「大地」に対する疑問であった。

 記述された思想は、それがある事物を説明するために便利で効率的であるようにしつらえられた「土台石」に依拠するに過ぎないのではないか、かつて人類が追及しつづけていた「神に約束された知」など本当は存在せず、そこには思考と記述と了解の経済学だけがあるのではないか。絶対的真理という考え方そのものがただの虚構にすぎず、知の正当性を保証するのはただ送り手と受け手の契約、約束事だけである――こうしたコンベンショナリズムという考え方は、旧世紀から今世紀にかけて、さまざまな知的領域から急速に提出されていったのである。



視と思

 地理学をすべての知の根源であるとする立場は一見奇妙なものに思えるが、この考え方は時としてある種の説得力をもつ。19世紀に地理学の論壇において展開された環境決定論と環境可能論との相剋は、現代においてもわれわれに問題を提示する。

 たしかに、単純で一元的な環境決定論に頼り過ぎることは時として危険な独断論をまねくが、哲学や思想の原基的成立過程に立地条件や気象条件が重要に関与するということは、けっして考えられないことではない。例えばひとくちに東洋の思想と言っても、遊牧のセム的知の形態と農耕の中国的知の形態が全く異なることは、その地理的要素を無視して語れることではないのかも知れない。

 セオリーという言葉がある。これはギリシア語のテオリアをその語源とし、「観照」すなわち「観ること」をその意味とする。真理の形状を、無形の、何かもやもやとしたものと考えがちな「湿った東洋」的発想をもつわれわれには多少抵抗があるかもしれないが、彼らギリシアの人々は、真理をはっきりとした形のあるものとして考える傾向があった。真理を表す「アレーテイア」という言葉の持つ根源的意味が「隠されていない」ということ、すなわち可視性という意味の上に語られていることにも現れるように、ギリシアの哲学にとって視覚は、神に約束された聖なる感覚であった。特定の目的などを持たず「観照」することは、ギリシア哲学の根幹をなす思考態度であった。シュペングラーは『西洋の没落』においてギリシア文化に内在する「アポロン的」な文化類型を「明晰な視覚」の文化精神と称したが、あるいはこれは地中海の透明な大気による明晰な視野のもたらした思考形態だったのかもしれない。

 紀元前600年頃のイオニアの哲学者は、現実世界の観測を方法とし、論理と理性によって世界を構築する方法をとった。この伝統はエジプトのアレクサンドリアに継承されていったが、ギリシアは必ずしもそうした方向へは進まなかった。

 たとえばピタゴラスとその学派は、世界を単純な秩序あるものとしてとらえ、円運動や、直角三角形や、正多面体のなかに真理の存在を求めた。紀元前数百年の地中海地方といえども、現実がフラクタル的な複雑さをもっているという事情は現代とほとんどかわらないはずである。しかし彼らは、真理はシンプルな形をしていると確信していた。ピタゴラス学派の考え方は、あらかじめ決まった結論へ論を導くような演繹的方法を用いた。こうした思考方法は一種の神秘主義であり、目的論的方法と呼ばれる。アテナイのプラトンらはこの方法を受け継いだ。

 ピタゴラス学派は知を絶対の権威とし、生活に汚れた一般社会からはその知識を隠蔽した。プラトンは、自分の学校に幾何学の素養を持つ者以外は入れようとしなかった。プラトンは、例外や不均衡や貧困や矛盾や不完全性に満ち満ちた現実世界は本当のものではなく、もっと別に、はっきりと明晰な真理があると考えた。これは、ピタゴラス学派の考え方の影響下に培われた思考だった。こうした、現実世界の背後に理想的な真理の存在を求める考え方は、プラトン主義と呼ばれている。

 ピタゴラス学派にとって、最初に師によって提唱された学説は絶対的な「教義」だった。したがって、整数によってあらゆる数が導かれるという教義が無理数の発見によって揺らいだとき、彼らはその発見そのものを隠蔽しようとした。正多面体は5つしかない。そのうち正12面体の存在は、秘密にされていた。他の4つの正多面体はそれぞれ神秘的な理由により地水火風の4大元素に対応していると考えられていたため、5番目の正多面体である正12面体は神の世界の元素に対応していると考えられたためである。

 真理は単純で美しい姿をしていなければならない以上、より真理に近い天体の運動は、是が非でも完全な円運動をしていなければならなかった。これもまた、絶対的な神との約束のはずだった。彼らは観測の結果よりも、この約束を信頼した。


視覚の限界

 数学的知識のある部分は、まったく自明な、証明をすら必要としないもののように考えられていた。デカルトは直観を神に与えられた聖なる感覚とし、幾何学のこうした命題を「自然の光による直観」によって得られる知識であると考えた。またプラトンの考え方を有名な鳩の例示によって批判したカントすら、数学的な知識をア・プリオリなものとする直観主義を主張した。

 だが皮肉なことに、絶対的知に対する疑いを最初に提出したのは、人類の知の絶対性を常に保証し続けてきた数学の世界であった。それは、近代西洋哲学の完成者ヘーゲルの死に前後する19世紀の初頭に論じられはじめていた。

 それまでの数学、中でも幾何学は、演繹的理論体系としてほとんど完全に近いとされていたユークリッドの世界観が支配的だった。ユークリッドは、視覚的な常識を「土台石」として体系を構築した。

 ユークリッドの幾何学は、常に「図の思考」のもとにあった。その説得力は、そこに添えられた「図例」によって、ゆるぎないものとなっていた。「ピタゴラスの定理」に添えられた、あの「ひとつの直角三角形と三つの正方形」の図例がひとびとの心に神の言葉のように焼き付いたのとおなじように、視覚は思考を強力に支援した。

 「与えられた直線上にない点を通って、その直線に平行な直線は一本しかない」といった、点や線や円などの空間的存在に関する命題は、証明の必要すらない「公理」ないし「公準」としてユークリッドの幾何学体系を規定していた。そして哲学をはじめとする学術も、体系の構築方法を幾何学から学んだ。しかし、この有名な命題が視覚的な常識という一種の「直観」に支えられていることは、あまり注意を払われない問題であった。

 ニコライ・ロバチェフスキーが1829年に発表した論文は、与えられた直線上にない点を通ってその直線に平行な直線は常に一本以上存在し得ること、すなわち、あらかじめ設定された自明であると思われる公準の代わりに別の公準を仮説しても、幾何学はその論理的整合性を保ち得ることを明らかにした。友人に宛てた手紙の中で、ガウスはこれを「非ユークリッド幾何学」と呼んだ。そしてその後、ついにユークリッドの幾何学は、リーマンの1854年の論文『幾何学の根底にある仮説について』によって絶対的真理の座から引きずり降ろされ、「n次元多様体の特殊例」にすぎないと考えられるに至ったのである。

 時代は、視覚から出発する思考と知を超越しつつあった。


絶対の崩壊

 19世紀の後半、学術方法論に関する議論が活発化した。その発火点は、数学だった。視覚的知の超克は、数学の方法に最も顕著に影響を与えた。

 この時代、ペアノが試みた自然数の論理的定義をはじめ、「数」というものを純粋論理的に把握するという運動が数学の世界において問い直されていった。ひとつの方法論的潮流として、「数学」という知的領域を「数」という基本概念に還元しようとする運動が次々と提出されていったのである。たとえば従来、「線」は連続的なものであるという可視的な前提があったが、じつはその本質は無限小的数から構成されていることをデーデキントは指摘した。またカントールは「無限」を集合論から論じ、「無限」には種類および大小すら存在することをあきらかにした。

 こうした方法論的議論は、構成主義、論理主義、公理主義などに展開してゆくが、こうした知的潮流は哲学や物理学などにも重大な影響を与えていった。

 物理学のマッハは、1883年の『力学の展開』において、ニュートンの絶対時間や絶対空間の概念を「経験においては示され得ない単なる空想の産物」にすぎないと批判した。それまでユークリッド的な絶対の概念は、人間の経験や認識の有無に関係ないア・プリオリなものとして考えられていたが、マッハはこれを糾弾した。そもそも人間の認識活動とは単なる自己保存という生物学的過程のひとつにすぎず、従来ア・プリオリなものとみなされていた「公理」のような認識前提もじつは本能的認識の一種に過ぎないと、彼は主張した。

 マッハによれば、自然科学というもの自体、人間がその社会生活の中で情報を伝達する際により「経済的」に選んだ約束事にすぎない。

 こうした思惟経済性という考え方は、ポアンカレにおいて明確に提出された。ポアンカレは、特定の幾何学が「真理」としてあるのではなく、事実を記述する上でどのような公理系が便利であるかという経済性の問題があるにすぎないとした。このコンベンショナリズムという考え方は特に科学哲学において活発に議論されたが、こうした相対主義の思考はむしろ特定の知的分野にとどまるものではない、まさに現代という時代の思考形態であった。

 思考そのものの「系」、とりわけその相対性に関する議論は、あらゆる領域で展開した。ホワイトヘッドとバートランド・ラッセルは1910年から13年に人工言語学派の立場から、任意の公理群から全数字を導きだす試みを『プリンキピア・マテマティカ』において展開し、またヒルベルトは公理系の無矛盾性を証明して数学の基礎づけを再構築しようと試みた。だが1931年、論文『プリンキピア・マテマティカおよび関連する体系における形式的に決定不可能な命題について』が発表された。これによって、「数学のいかなる分野においてもその分野に属する真なる命題の総体を体系的に展開しうるような公理系が存在する」はずだというオプティミズムは決定的な破綻を迎えることとなる。これがゲーデルの「不完全性定理」であった。この出現により、公理系の無矛盾性と完全性は両立しえないことがあきらかとなった。これもまた、「絶対」という観念の崩壊の一形態だった。



 「絶対的」なものへの憧憬は、かつて人類の知を導く重要な動機であり、契機であった。しかし、近代から現代という転換の時代において、「絶対」という観念は次々と崩壊しつつあった。

 18世紀はニュートンの時代であった。最初に神を無みした者、世界を静態的な機械にした男。彼は、神という仮説を必要としなかった。ニュートンの絶対時間や絶対空間の概念は、単に力学の世界にとどまることなく、あらゆる学術のあらゆる知の空間に座標を与えた。

 19世紀はダーウィンの時代と言われる。世界がじつは静態的なものではなく、たえず流動的に変化しつづけていること、世界は神に約束されたものなのではなく、盲目的な変化の累積によって成立しているということが、進化論によって明らかとなった。そしてこの世紀、ニーチェの宣じた「神の死」は、近代合理主義の事実上の母体である西欧キリスト教世界を震撼させた。その「怖れ」は、それが新奇な、聞き馴れぬ思想であったためではなく、むしろそれが、世界が無意識のうちに感じ始めていた近代の不安の体現であったこと、誰もが疑い始め、しかし声に出して言うことのできない禁断の言葉であったことからわきおこった怖れだったのかも知れない。ゆえに人々がその怖れの表象に気づいたのはニーチェの死後、ツァラトゥストラの去ったのちであった。

 20世紀の時代性はアインシュタインによって代表されることとなるのかもしれない。ニュートンの絶対時間や絶対空間の概念は過去のものとなり、知はその「相対性」を自覚せざるを得なくなったのである。

 今世紀半ば、文化人類学の知的領域からレヴィ=ストロースが提出した西欧文化至上主義に対する方法論的攻撃や、フェミニズム運動などの知的潮流から提出された、従来の形而上学の男根主義的傾向の指摘、先住民族運動などによって展開される歴史再評価なども、広くこうした絶対的知という概念の崩壊の一端と考えることができよう。

 神――絶対者という概念は、強力な首長に従うことで精神の平安を得る霊長類の本能が生んだ、ひとつのバーチャル・システムだったのかも知れない。

 そして現代の思考は、絶対的座標を見失った混沌の中で、みずからの姿――「知の形式」そのものを問題にしようとしていた。





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