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フロイトの出現

 ジークムント・フロイトが出現したとき、世界は怒りに包まれた。19世紀のまさに世紀末、世界とはすなわちヨーロッパのことであり、そしてヨーロッパはヴィクトリア朝的道徳の時代のただ中にあった。ピューリタンの厳格さが時代の要求であり、教養ある紳士淑女は当然のようにこれに従った。輝かしい20世紀は目の前に迫り、人類の叡知は世界の謎を残らず照明する。もはや世界は理性によって透明化し、あらゆる闇は消え去ろうとしていた。

 だが実は、19世紀的な叡知の勝利は、現実と事実の糊塗によって得られたものだった。いまだ光を当てられぬ闇は人間そのものの中にあった。人間の動物としての面は、神の属性としての理性によって克服されたことになっていたが、その実、抑圧された原始的衝動は衰えることなくくすぶりつづけていた。フロイトは、それを暴露した。

 フロイトは神経症の研究から、その症状の背後に必ず性的要因が絡んでいることを指摘した。それは他の研究者の間でもうすうすわかっていたことではあったし、このころこうした学説も論壇において認められつつあったが、少なくともそれを言明することは、19世紀という時代においてあるていどモラリストであることを放棄する覚悟が必要なことであった。

 フロイトは神経疾患の原因を「抑圧」に求めた。フロイトの唱えた汎性説は、すべての人間精神の営為の背後には過去の性的な動機があることを指摘した。そしてまた、文明というものの本質はやはり「抑圧」にあり、原基的な欲動の抑圧が文明を形成する原動力となると考えた。

 フロイトの説の特徴は、その学術方法のまなざしが、どちらかといえばもっぱら過去の分析へと向けられていることである。フロイトの学術方法は、どちらかといえば過去のある要因――それはある部分では幼児期に受けた(と患者自身が考えた)性的虐待であり、ある部分では人間という種が持っている何らかの本能であるような――に求められる。フロイトにとって、過去の因子こそが、対象の存在の生成から崩壊までの運命を決定する要因だったのである。こういった一種の決定論が、フロイティズムの方法論的特徴となるのである。

 フロイトは、運命論者だったのだろうか。



ふたつの本能

 フロイトは、人間の行動の原動力となる一種の原基的衝動である「欲動」を理論化した。初期においてはまず「愛」の欲動と「飢え」の欲動、すなわち性の欲動と、個体レベルにおける自己保存の欲動とが対立すると考えた。このうち性の欲動は外的対象へ向かい、自己保存の欲動は自我へと向かう。フロイトは先駆者アルバート・モルの研究から引用したリビドーという力概念を使い、二つの欲動をそれぞれ「対象リビドー」「自我リビドー」という形に分類した。

 フロイトは当初、人間の行動原理を快の追及と考えていたが、症例によっては必ずしも快の追及だけでは説明できないものがあることに気づきはじめていた。たとえば自分にとって明らかに不快な行為を繰り返すという症状が止まらない患者や、強烈な心的外傷を受けた者が繰り返しその体験を夢に見るといったケースである。このことから、やがてフロイトは快楽原理による一元論を放棄することとなる。

 このときフロイトが提出した概念は「反復強迫」というものであるが、やがて精神分析家バーバラ・ロウの涅槃原則の概念の影響のもと、この「反復強迫」の背後に、生物を強烈に衝き動かすある本質的な力――「死への本能」(タナトス)――が潜んでいると考えるにいたったのである。

 この「死への本能」の対局にある「生の本能」(エロス)とは、生物が自己の統一性を保とうとする本能である。生の本能は生成を司り、死への本能は解体を司る。生命はふつう生成をめざし、より複雑に、より高度なものへと発展しようとする。いままでの状態では生命の維持が困難になるような環境の変化があった場合でも、トインビーの「チャレンジ・アンド・レスポンス」の謂のごとく、自らをより高度なものへと発展させることによって適応しようとするのである。しかし、新しい環境が適応しえないほど苛酷であるような場合、時として生物は以前の状態へと退行しようとする。このように、生命は「生」を肯定的に受け入れ、バイタリティックに繁殖してゆこうという方向性と、反対に「生」を苦痛とし、自己のたどってきた生の遍歴を逆行し、ついには生命以前の原始的状態を終着点とする還元的・破壊的な方向性をもっていると、フロイトは考えたのである。

 エロスとタナトスとの葛藤は、近親相姦を犯したいという欲求とそれに対する父親による禁止、そしてそのことから生じる抑圧の暴力的発現という形を典型として、人類の歴史の至るところで展開し、文明の構築という形に昇華されてゆくのである。したがって文明の構築は、本質的に「罪悪感」をともなう。この「罪悪感」は父殺しの際に得られたものであり、以降父殺しは超自我による禁則によって押さえられているが、常に意識の表層に吹き出す危険性を秘めている。つまり文明というものは、エロスとタナトス――生の本能と死への本能との葛藤と抑圧の産物であり、その結果深まりつづける罪悪感と破壊衝動は、文明というものの運命を必ずや危機へと導いてゆく。フロイトによれば、文明とはその本質的属性として、崩壊の宿命をおっているのである。



アドラーのパラダイム

 フロイトの思想はしばしば、意志の哲学者アルトゥール・ショーペンハウエルの哲学に酷似していると言われる。フロイトの生の本能と死の本能の葛藤は、ショーペンハウエルの盲目的な生への意志と、その極限的な勝利を自殺へと置く人間の知性との葛藤劇に比される。一方、ショーペンハウエルの哲学に対置されるもうひとつの意志の哲学がある。言うまでもなくそれはニーチェの哲学である。ショーペンハウエルの盲目的な生への意志を中心とする生命否定的な哲学は、ニーチェによってきわめて強く反論される。ニーチェの「権力への意志」は力の概念をともなう存在の本質として提示され、あらゆるものの強烈な否定の後に到達する究極的肯定の哲学として展開してゆく。

 精神分析学の分野において、ショーペンハウエルに対比されるフロイトに対し、ニーチェに比べられる研究者としてアルフレート・アドラーがいる。生命体の運命を、その萌芽期に決定される宿命論としてとらえるフロイトの精神分析学に対し、アドラーの個人心理学はニーチェの哲学にその傾向を酷似させ、「勇気」や「権力衝動」といった諸概念をもって目的指向的な説を展開してゆくのである。

 アドラーは、人間の行動を生涯にわたって規定するのは幼児期の心的外傷ではなく、自己よりもより強大なものに対する劣等感――インフェリオリティ・コンプレックス――であり、その劣等感にもとづく上昇志向の衝動――権力衝動であるとした。アドラーに言わせれば、人間はその萌芽期に決定された運命によって支配されるのではなく、むしろ人間の精神生活のあらゆる現象は未来の状況に対する準備と考えられるのである。

 19世紀、こうした運命論・決定論的思想から非・運命論的思想への変化は、非常に広い分野でその例を見ることができる。ダーウィンの進化論がニュートン的世界観に対して与えた知的影響はその中でも最も強大な変化であったし、アダム・スミスの運命論的な経済学に対するヴェブレンの批判もまたこの知的潮流に数えることができるであろう。

 運命論の超克――これは近代の、きわめて重要なパラダイム・シフトのひとつなのである。



古い神と新しい神

 近代哲学のパラダイム・シフトはルネ・デカルトより始まった。人間の精神は神から付与されたものであるというかつての思想に替わり、人間の自我をとりあげたデカルトは神に対して最初の絶縁状を叩きつけた者だった。

 詩人として有名なハインリッヒ・ハイネは哲学者としてもまた有名だが、彼は神の殺害者としてイマヌエル・カントを挙げている。カントは、人間がはたして宇宙の因果律を超克できうるかという点を思索の対象のひとつとした。

 カントは世界を現象と物自体とに分ける二元論を唱えたが、まず人間の認識力を感性的直感の対象となる現象界に限定し、事物の存在の次元である物自体については認識できないとした。しかし一方、現象界は物理的な因果律によって支配されており、そこに人間の自由が入り込む余地はない。現象界を支配するのは唯物論的な法則、プロトコル命題と呼ばれる冷徹な原理のみである。そこでは人間も、マクロ的視点においてエントロピー増大の傾向に従うのみであり、世界の従属物として決定された運命にただ従うだけの存在である。

 人間が因果律によって決定された運命論を超克し、形而上学的・本質的自由を獲得するためには、存在の次元である物自体――超感性界の段階へと踏み込む必要があるとカントは考えた。つまりこのときカントは、人間を特異な存在――時間を我が物とし、「運命」と戦い得る存在としてとらえるという考え方をもっていたと言うことができよう。だがこの時点で、超感性界への超越の具体的方法を「定言命令による道徳法則の実践」という形で説明し、また神の存在の可能性を持ち出さざるをえなかったカントは、時代の限界を示していた。また近代哲学を完成させたヘーゲルは、人間精神の求めるものは知られ得るという認識のオプティミズムを展開しはしたが、その弁証法と、壮大な歴史哲学の展開によって結果的に運命論を擁護することにもなった。

 結局、哲学において運命論の克服が現実的なレベルで論じられるのは、夜と不安の思想である実存の知においてであった。ノストラダムスの予言や黙示録の呪縛と戦うのは、「超人」の出現を唱えたニーチェから、人間のもつ「未来」という次元に関して論及を行ったハイデッガーらへと引き継がれることとなる。

 第一章で細述したとおり、ハイデッガーは人間に時間を支配する超常的な能力を認め、人間には運命を打ち消し闘う能力があるということを理論的に論じた。だが、それはあくまで先行的決意性に立脚する企投という内省的レベルでの議論が中心であり、人類全体といった社会的視点において若干欠ける面がある。たとえば実存主義のサルトルはアンガージュマン(歴史参加)という語を用いて社会的視点を射程に入れた理論構築を試みたが、それにおいてもその社会実践的な面で結局マルキシズムに接近せざるを得なかったという理論的脆弱さを暴露してしまう結果となった。ハイデッガー自身すら、最初の哲学者といわれるプロメテウスの言葉「知は運命よりもはるかに無力である」という言葉をしばしば引用していることからもわかる通り、運命に対して決して楽観論をもっていなかった。むしろハイデッガー自身の人生を顧みてみれば、ヤスパースにおいては決してなすことのなかったナチスへの協力、そしてまたそれとの衝突・決別などと、必ずしも力強く理想的な企投をなしてきたとはいいがたい。

 だが、知の運命の前に挫折することを絶望的な宿命としてとらえつつ、それでもなおハイデッガーは、運命に対し全力の反撃を試みることを知に課された使命として説くのである。



 人類の知の歴史を永きにわたって支配し続けた「運命」という発想に対する反撃は、人類の知にとってひとつのライトモチーフであった。だが、その反撃の歴史はまだそれほど深くない。中世ヨーロッパにおいてわきおこった「魔」の精神は、世界に潜在する力を我が物として使役しようという願望から、ひとつは科学的思考法という究極のオペレーティング・システムを勃興させる契機となり、また神から付与されたものでしかなかった主体としての意識を人間固有のものとする近代自我の確立の契機ともなった。

 そしてまた、魔の精神は「狂気」の発現形態としても存在している。

 近代になって神のプログラムにとって替わったのは、科学的方法を裏打ちする合理主義的思考であった。ニーチェの指摘にあるとおり、神の放逐のあと人間がすがった新しい偶像は、科学や人本主義、経済学やインダストリアリズムなどといった近代的諸価値であった。この新しい人工の神は、人間に新たな予言と運命とを課した。経済的価値のない「狂気」は、合理的思考によって徹底的な排除を受けた。中世以前、饒舌だった狂気は17世紀を境に沈黙した。人間の存在は限りなく矮小化し、システムだけが極大にまで肥大化した。そして、そこに出現したのは、人間を全人類的に支配するあたらしい運命論であった。

 だが、現代にも残る魔の精神は、この狂気――沈黙のもとに潜在化した非合理的精神の噴出口ともなりえたのである。魔の精神は、合理的世界観が人間精神に課したあたらしい枷、あたらしい運命論に一点の楔を穿つ狂気として発現する。すなわちそれは、芸術などの知的営為に姿を変え、冷徹な口調で陳述することに終始する合理のシステムの中にあって、ひとつの「叫び」として、また唐突な「雷鳴」として、人間精神の、いな人間存在そのものの証明となり得たのである。

 阿修羅王は仏門に帰依したことになっているが、本当はどうなのだろうか。
「魔」はその本性として、神と戦うものなのである。



失楽園の意味するもの

人間は、自分の死が近い将来まちがいなく訪れるだろうことを知っている。このことをはっきりと自覚している生物が唯一人間だけであるということは、きわめて重要な事実である。

 この世界は法則性をもっている。もし世界が法則性をもっていなかったら、われわれは次に何が起こるかを予測して行動するようには進化しなかっただろう。

 エデンの園において人間は、環境の変化を予測し、それに備えるという知的活動をする必要があまりなかったようである。また、エデンの園の住人は、基本的に死という運命を認識していなかったらしい。死が人間にとって必然的な運命として開示されたのは、楽園追放以降のことである。失楽園は、人間に時間と歴史とをもたらした。

 失楽園がひとつの隠喩であるとすれば、それはもうひとつの重要なものを人類にもたらした。それは、「自己」の意識である。たしかに、創世記には知恵の実によって自己意識が獲得されたという記述はないし、楽園の中でアダムが最初に行った仕事が「名前をつける」という高度に抽象的な知的作業であったことを考えれば、あまりアダム氏の能力を低く評価しすぎることは考えものかもしれない。ただここで言いたいのは、楽園追放というイヴェントが意味する事実である。

 死の意識や歴史、はっきりとした必然の認識、自我などといった諸概念は、主に脳の前頭葉にその座をもっている。人間が世界を我がものとすることができたのは、前頭葉の爆発的な発達というハードウェアー上のスペックアップを主因と考えるのが無難である。「あなたは、誰?」という問い、その「誰」という概念そのものは、前頭葉の所産である。自己の意識をもたない者にとってこの問いは、意味をもたない。

 脳は、コンピュータである。コンピュータのような高度なシステムは、段階的に進化するのが普通である。その場合、スペックアップは、一気に全体について行われるという形より、初期に構築されたシステムを元に、部分的な入れ替えをもってなされる場合が多い。ポーカーの強い手は、総取り替えの場合よりも、ペア以外のカードだけを何度か取り替えていったほうができる確率が高いのである。

 「個体発生は系統発生を繰り返す」というエルンスト・ヘッケルの学説は、いまでもあるていどの説得力をもっている。人間の脳のような、数限りないスペックアップを経てできあがったシステムは、その構造が重層的になっている場合が多い。人間の場合、その最も根底には爬虫類においてメイン・システムとして活躍しているものと同様な部分があり、その上層に他の哺乳類においてのメイン・システムが、そしてその最上位の部分に人間ご自慢のシステムが乗っている。古いシステムは新しいシステムが導入されたからといって即座にその運用をやめてしまう訳ではない。いちがいには言えないが、古いシステムは、従来の機能をその稼働実績にもとづいて受け持ち、新しいシステムには新しいシステムにしかできない新機能が割り当てられる。したがって、生命の維持に直接関与しているような、その生物の種にとって長い稼働実績をもつ機能は、脳の比較的古い部分が受け持っており、あとになって付加された高度な機能はあたらしい部分が受け持っているのが普通である。この構造は、人間のような高度な生物においてもおおむねあてはまる。

 死や歴史や自我などといった観念は、どちらかといえば人間が最近になって獲得したオリジナルな脳のはたらきである。したがって、前頭葉の比較的発達していない動物の場合、死が自分に必然的に訪れる運命であるという事実に気づかない。自分のかたわらで、同胞がテントウムシの幼虫にむしゃむしゃやられていても平気で葉の汁を吸っているアブラムシたちは、エデンの園の住人である。イブとアダムが食した知恵の実とは、どうやら前頭葉の爆発的進化という、システムのヴァージョンアップのことだったようである。



運命の正体

 高度なシステムと原始的なシステムが有機的に連携しているような構造体が障害を受けた場合、そのダメージは高度なシステムが大きく被るケースが多い。電気スタンドをつけながらパソコンを操作しているとき、一時的な停電があったとしよう。この場合、電気スタンドが破壊されてしまう確率よりも、パソコンがダメージを受ける確率のほうが大きい。(ただし停電に怒った使用者がスタンドに八つ当たりをするという精神医学的な要素についてはこの場合考慮しない。)

 人間の場合、たとえばアルコールの服用で脳の機能に障害が生じることがあるが、このときいちはやくダメージを被るのは脳の最も高度な機能をつかさどる部分である。この場合それは、まず前頭葉の受け持つ抽象的思考能力、時間的因果の観念、死の不安、自己意識などの機能低下・制御不全といった形で現れる。神の怒りをかってまで手に入れた知恵の実だが、時として人間はその効果を意図的に放棄し、一時的に古巣の楽園に舞い戻るらしい。たしかに、われわれの体験でも、そうした場合の論理性の欠如、文字・数字などシンボル的思考演算能力の減退、自己意識の衰退などを指摘できるが、このとき人事不省となったご自慢のシステムに代わって主制御の任につくのは、一世代前のシステムである。

 人間以外の哺乳類たちの場合、人間にとってのサブ・システムが、ふだんから主制御の役をつとめている。おそらく彼らは、人間が酩酊状態、または寝起きやまどろみの半覚半眠様の精神状態なのではないか。つまりイヌやネコなどといった連中は、いまでもエデンの園に住んでいるということになる。

 人間も、エデンの園の永住権を手に入れることは可能である。前頭葉の切除手術を行えば、それは比較的たやすく実現できる。

 神経生理学者ハンス=ルーカス・トィバーの研究によれば、前頭葉に重大な損傷を受けた患者は、「事柄のなりゆきを予測する能力を完全に欠くわけではないが、自分自身を事柄に立ち入る可能性のある者として思い描くことができない」ことが指摘されている。前頭葉の切除手術を受けた患者が感じる「気分」は、「自己の継続感の喪失」という言葉で表現できるという。

 「未来」は、前頭葉の作用である。ハイデッガーの見いだした不安や、人類の歴史を支配しつづけた自己の終末を予感する心理は、このあたらしいシステムの導入成果と考えることができる。人間は、自己の置かれた状況を理解し、解釈し、その状況が時間的因果のなかで自己にどのような影響をもたらすか考えることができた。そして人間は、未来をあるていどコントロールする力を手に入れた。その結果と集積が歴史であり、文明である。

 前頭葉の発達によって人間は、神の所業を知るにいたった。そしてその結果、神が人間をそれほど愛してはいないこと、黙って神のいうままにすれば破滅はより早く訪れるであろうことを知った。そうでなければ、魔界の者の召喚も、暗黒魔術の研究も無用のものであったにちがいない。

 だが、その代償として人間は、不安や心配に悩まされ続けることになった。それはあたかも、霧の中に立っていた人が、霧の晴れたとき自分が左右の切り立った絶壁の頂上にいることに気づいた恐怖ににている。神という手すりが幻想だったことに気づいたとき、近代の不安は始まった。

 未来を思い悩み、その不安におののく能力は、人間を現在まで生き延びさせた。それは一面、非常につらく不愉快な気分であるが、人類の祖先のうち未来を思い煩う能力のない者は生き残ることができなかった。つまり「未来」や「不安」という観念は、人間の本質的――ハードウェアの基本性能に対して本質的という言葉を使うことが許されるなら――な、最も人間的な属性だといってよいだろう。「運命」という概念も、実のところこれと同様なものである。あたかも壁のしみがしばしば人の顔に見えるように、時間的因果の認識処理の際に人間の脳が引き起こすあやまったパターン認識こそ、「運命」の正体なのではないだろうか。



思惟の根源

 押井守の諸作品がわれわれに対して引き起こす根源的な心情は、以上に論じてきた4つのアルケー――本質的契機によるところが大きい。その精緻な構造主義的手法は、文化全体に散らばるさまざまなサブルーチンとなっている諸契機と結びつき、観る者を驚愕へと導く。近代的主体という知的射程をもった視は、不安と、単独者の意識を呼び込み、その鑑賞者をして実存論的な意識への到達へといざなう。

 そしてまた、第4のアルケーとなる自己存在の終末感は、その中でも最も根源的な、人間的な知的契機にほかならない。人類の全ての知的営為は、その根源的契機をここに求め得る所産だとすら言うことができるのである。

 人間がなぜ知的営為をなし、機械的な活動だけにとどまらず一見無駄とも思える哲学的思惟や芸術、宗教へと思いを馳せるのか、その根源に4つのアルケーがあること、またひるがえって、その4つのアルケーにより密接に、本質的に関係しているという点を芸術の価値の標版のひとつに加えること、これこそが本文において論じてきた主意なのである。






第3章に続く




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