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第4のアルケー



 人間の知は、その根源を3つの形態として考えることができる。

 森羅万象の本質的な存在への観照がもたらす《驚異の念》は、存在の根源を求める哲学、芸術へと向かう。眼前に横たわる世界を知によって類別する、構造の知はここより生じる。

 自己の埋没している世界そのものを超越的に俯瞰したとき、今までの世界解釈に対する懐疑が生じる。この《懐疑の念》から導かれる知は、不安の哲学と、厳密学への傾向をたどる。

 自己という視座へと回帰する知は、《単独者の意識》に密接に関係する。内省論的思想の数々、夜の哲学。そしてこれら懐疑と内省の精神は、世界の構造よりむしろ世界の意味を問題とし、解釈の知へと向かう。

 すべて人間の知的営為は、こうした原衝動からつき動かされる。人間を日常的・没世界的な習慣的思考から超越させ、世界の背後にひそむ多くの謎に目覚めさせる契機として、これらの知の根源は、あらゆる思想、芸術の根底に内在するのである。

 こうした視点をもって押井守作品を観た場合、それぞれの作品中に何らかの形でこれら3つの根源の存在をみることができる。構造主義的な作品性には世界に対する驚異の念が発露する。また、世界に対する素朴な信頼の揺らぐとき人間を襲う懐疑と不安は現象学的作品性に描かれ、そして確実性と世界への信頼を失い彷徨する者の姿は実存的作品性として展開する。

 だが、押井守の作品世界は、伝統的な哲学的根源――驚異、懐疑、単独者の意識の範疇だけでは語り尽くせぬある原衝動によって強烈に規定されている。それは、世界の崩壊の予感、終末の意識である。

 『天使のたまご』に充満するペシミスティックな雰囲気――世界の水没による終末感――や、パトレイバー『劇場版』で語られる都市論に見られる歴史観、また『紅い眼鏡』にある運命論などは、世紀末たる現代という視点を除いては語り得ないだろう。





終末の意識       ――運命の哲学――





L'an mil neuf cens nonante neuf sept mois,
Du ciel viendra un grand Roy d'effrayeur,
Resusciter le grand Roy d'Angolmois,
Avant apres, Mars regner par bon heur.

1999の年 7の月
空から恐怖の大王が降ってくるだろう
アンゴルモワの大王を復活させるために
その前後の期間、マルスは幸福の名のもとに支配するだろう

ノストラダムス『百詩篇集』第10章72篇



滅亡の記憶

 予言や運命というものの考え方は、たいへん古い。とりわけある種の文明圏では、その神話の中に常に滅びの記憶と、終末の予言をみることができる。

 原初的な神話のなかで、大洪水による壊滅というパターンには特別な意味合いがある。このパターンは世界各地で見られ、興味深い類型を形成している。

 かつてほとんど壊滅的な規模の洪水が世界を襲い、特定の条件を満たした非常に少数の者だけが生き残った。言ってみれば《ノアの類型》である。とはいえ、ノアはオリジナルではなく、このルーツとしては3人目である。初代は紀元前1700年頃バビロニアで書かれた『賢者アトラーシスの歌』のアトラーシス、次が『ギルガメシュ叙事詩』のウト・ナピシュティム、そしてノアである。

 彼らはとりもなおさず、かつての世界の例外的な生存者であり、ひとつの世界の滅亡の体験者である。こういった思考習慣の背後には、ひとつの定形を見ることができる。

 かつて、《理想郷》があった。そこに住む人々は、現在の人間とは異なる性質をもっていた。つまり彼らは豊かで、礼節に富み、神を信じ、平和を愛し、早い話が現在の人間よりもよほど完成された存在だったわけである。しかし彼らの幸福な世界も永遠には続かなかった。時が流れるにつれ、彼らの子孫たちはだんだんと堕落し、傲慢で、節度を守らなくなり、つまるところが現在に近いものとなっていく。そしてある日、ついに終焉が訪れる。壊滅的な事件が起こり、理想郷の子孫たちはほとんど生き残ることができない。われわれ現在の人間は、その後地上に現れた種なのであり、歴史はふたたびくりかえされるよう宿命づけられているのだ。

 ダメになっていくのは人間だけではない。現代のわれわれには若干奇異に思えることではあるが、多くの古代文化にあっては、世界の年齢や寿命は現在われわれが考えているよりずっと短かった。つまり、世界はもはやじゅうぶんに老朽化しており、あらゆる食料生産力は衰え、近い将来終末が訪れる。とにかく、なにもかもがうまく行かなくなっていく。世界は常に下降線にあり、その先に見えるのは必然的な滅びの運命である。

 ――こういったものの考え方が、中世以前の多くの文明に見られるごく普通の世界認識であった。



進歩の発見

 現代のわれわれが思い描いているような進歩や発展という概念は、人類史全体を通してみるかぎり、それほど一般的なものの考え方ではないらしい。むしろ文明の種類を問わず一般的なのは(むろん例外もまた多いが)、いわゆる《黄金時代》の記憶と、しだいにかつての輝きを失い、疲弊を深め、堕落と退廃とに蝕まれる現在、そしてその結果訪れるであろう世界の終焉の予言の神話なのである。

 かつて最良の時代があり、それが時を重ねるにしたがって堕落してゆく。こうした思考習慣は世界各地の歴史の原初部分に見られるものであるが、文化や文明が進歩するという考えはむしろ二次的な発想だったらしい。たしかに、神話に登場する文化形態や、道具、衣類や住居など文明の産物がいつから使われているのかという問題については「神から与えられた」という程度の説明しかなく、歴史のある時点から技術や文化が進歩したという考え方は基本的に現れないのが普通である。(カインの子孫、レメクの息子らによる冶金術や音楽器の発明は、例外というよりもいささか取ってつけたような感すらある。)

 進歩や発展という発想はやはり合理的思考の産物のようであり、古代イオニア文明やギリシア哲学世界においては進歩や発展に関する認識を見ることができる。しかし、こうした合理的思考の成果は、多くの場合神秘主義の蔓延によって覆い隠されるという運命をたどってきた。幾多の物語などに見られる「古代技術の復活」といった類型は、もはや進歩や発展という思想が一般化した現代にあってもなおその根底に神話的思考が根強く残存していることを示している。

 歴史が下るにしたがい、進歩の思想は次第に一般化していったが、ヨーロッパの中世暗黒時代の神秘主義の蔓延にみられるように、それは常に反合理主義との軋轢とともにあった。そういった歴史のうちに、はるかな古代の滅亡の記憶は次第にうすれ、単なる史的事象へと後退してゆく。だが終末の予感はそういった合理と反合理の知的格闘の地平を超えて、常に人類を脅かし、駆り立て続けてきたのである。



《千年王国》の思想

 ユダヤ教の黙示録には、千年王国という発想があった。

 決定的な世界の崩壊――《最後の審判》が訪れるまでの千年間、すなわち七千年の世界の寿命のうちの最後の千年間を、正義と幸福の新しい秩序のもと、古代の黄金期を復活させる救世主の信仰は、いま世界を支配する貧困や苦患をすべて一掃し、確実な終末までの限られた楽園を約束するものとして、キリスト教にも引き継がれていったのである。

 千年王国の到来は、従って同時に世界終末の到来を確実化せしめるものであった。そしてそれは、いくつもの前兆をともなって現れる。頻発する戦争、絶望的な飢饉、蔓延する伝染病など、その到来を予感させる前兆の材料は、いつの時代でもことを欠くことはなかった。(現代においてもそういった材料は不自由なく供給される。ヨハネの黙示録にある世界終末の描写では「ニガヨモギの星」なるものが落ちてきて飲み水を汚染するとされているが、たまたま事故を起こしたチェルノブイリ原発がロシア語で「ニガヨモギ」という意味だったため、その筋の関係者をいたく喜ばせた。)

 当然のことかも知れないが、千年王国という発想は、どちらかといえば現状に不満を抱いている者により受け入れられる傾向にあった。キリスト教教会は現状にそれなりの満足を抱いていたため、現体制を根こそぎ否定してしまう千年王国そのものを受け入れることにはあまり積極的ではなかった。ここから、教会と信者との軋轢が生じることとなる。

 千年王国という考え方が重要な意味をもつのは、それが苦しみに満ちた現行体制の崩壊と、その後にくる至福の世界の到来を約束していること――ダメになってしまった(あるいはしまいつつある)世界を、言ってみれば「初期化」させてしまうという効果をもった禁断のコマンドだという点においてである。たとえその千年の後に完全な世界の終末が来るのだとしても、現在の世界に深い絶望を抱いた者にとって、それは少なくとも現状よりはましなものだったに違いない。

 現実世界に倦み疲れた者の、最後に縋る暗い希望。それが千年王国というものの本質だったのかも知れない。



魔の歴史

 ある時必然の名のもとにその訪れを約束された終末、滅びの予言の神話の文化。この思考習慣はヨーロッパ思想史を常に規定しつづけたものであった。

 キリスト教的世界の文化・歴史は、世界終末に備えるためのものであったと言っても過言ではない。十字軍の遠征も、宣教師たちの活動も、世界の終末の到来が間もなくであることを知らしめ、それに備えるための活動であった。スコラの学者たちによって著された多くの書籍は、世界の終末がいつ訪れるかという問題に関する研究結果であった。天文学者、占星学者、神学者らはこぞって世界の創成と終末の日付を研究し、書き記した。

「正確さにかけては一年たりとも狂いはないと、そこまで言うつもりはない。五年から十年、時には二十年ぐらいの誤差はありえよう。だがそれ以上ではない」というのは、アイザック・ニュートンという著名な学者が『古代王国の改正年代記』なる著作において、世界の創成を紀元前3504年とした自分の研究にたいして述べたコメントである。(ちなみにこれは宇宙の創成に関する現代の定説と約14999994504年ほどの誤差がある。)  科学という方法は、合理主義の思考法から生じたものであり、神秘主義の対局にあるものとしてとらえられるのがふつうである。しかしやはり、その暗黒面というものも見逃すことはできない。中世暗黒時代を通じて、科学的方法の発達を促し続けたのは、錬金術や不老不死術、永久機関の研究や世界創成・終末の日付を特定するといった神秘主義的な諸契機であった。

 世界が不安と疲労に満ち、建設的な希望が後退するとき、かならず生じるひとつの傾向がある。それは神秘主義の蔓延である。神秘主義とは、過程を怠った思考である。論理的思考がフェアな方法によって、1000ステップを費やして説明するところを、神秘主義的思考は知の反則行為とでも言うべきアンフェアな経路からわずか1ステップですませてしまう。かつてイオニアで起こった科学的思考の灯は、神秘主義によって吹き消されてしまった。一般的には、神秘主義的思考と科学的思考とは相いれない性質がある。

 しかし一方でそれは、科学的思考を育てる契機ともなりえた。すなわち、人間の手で為し得ない事業の成就である。合理的思考は、不可能な問題は不可能であるという回答しか出し得ない。だが神秘主義的思考は、なぜそれが不可能なのかという論理を追うことを怠り、たとえそれが不可能なものであっても、可能ならしめたいが為に可能である――すなわち、成功させたいことは可能だという「ことにする」――という考え方をする傾向にあった。そして、暗黒時代のヨーロッパが生んだ神秘主義的科学の実践形式の本質は、魔の召喚であった。

 人知によって為し得ない目的を達成するため、現世以外の何物か(それはあるときは悪魔であり、またあるときは超人的な力そのものでもあった)を召喚し、その力をもって事を行うといった発想もまた、歴史が深い。合理的思考では到達し得ない問題であっても、非合理の思考にとってはなし得るべきものであり、そしてそれには人間以外の、あるいは人間以上の存在を現世に招き入れる事によって可能となる。そもそも人間は神の被造物という無力な存在であった。その人間が神の認めるところでない事を為すとき、神に相対するもの、すなわち魔の召喚を方法としたことはむしろ自然な考え方だったのかもしれない。しかしそれは、元来神と人間のほかにはいかなる存在をも認めない(はずであった)キリスト教において、許されるべからざる考え方であった。

*補遺1

 キリスト教の思考世界にとって、認められざる存在の召喚は禁断の領域であった。そしてまた、神話の時代より、人間の、その身の程をわきまえぬ所業に対する神の怒りという話もまた、多く語られるものであった。キリスト教を思考基軸としたヨーロッパの民にとって、自らの造物主である神に対する畏怖を忘れた所業は、それを行う者自身にとっても常に涜神の意識を禁じ得ぬものだったのかもしれない。やがて魔の召喚は他の方法にとって代わられることとなる。

 だがそれは、神を主体とした敬虔な方法などではなかった。それは、召喚された、すなわち他者としての魔に代わって術者自身が所業の主体となること、言葉をかえていえば、人間自らが神のプログラムから逸脱した《魔》となり、自己を主体として認識しつつ《魔力》をふるうことであった。かつて、守護星を意味する言葉であったGeniusが、実験科学的方法の勃興する17世紀頃より、人間を主体とする「天才」という意味に変質したことはこのことをものがたっている。

 アダムとイブの楽園追放は、蛇の誘惑から知恵の実を食べたことによるという。人間は、近代においてふたたび神を無みし、知恵の実を手にした。

 「知」は、本質的に《魔》の属性をもっているのかもしれない。



神のプログラム

 キリスト教的精神およびその世界観をひとつのプログラムと考えれば、それははっきりと全体化を意識した構造をもっていると言える。世界が創造され、神の国が生まれ、そしてそれが失われ、苦しみに満ちた現実世界の歴史が始まる。七千年という約束された時が過ぎたとき、終末が訪れる。これらのことはすべて神の計画であり、すべては蓋然としてではなく必然として画されたものなのである。すべての文明はその萌芽の段階からすでに、滅びのシナリオを背負わされている。

 たとえば占星術というものは、そうした神の計画の片鱗を伺い知ろうとする人間の願望のひとつの表象である。占星術によれば、すべて世界の森羅万象は星々の運行によって支配をうけている。なぜなら、星々は神により近い存在であり、それはこの不完全きわまる地上の世界よりもはるかに完全であって、神の計画を正確に反映しているためである。こうしたイデア論的な思考習慣の残存は、現代でも多くのものの中に見ることができる。

 現代科学の成果も、ある面でこうしたものの考え方を裏打ちした。熱力学におけるエントロピー増大の法則や、その結果がもたらす「熱死」というボルツマンのセンチメンタルな表現は、運命の思考習慣にとって極めて受け入れやすいものであった。ビッグ・バンからビッグ・クランチに至る宇宙論や、さまざまな文明論の多くには、ヨーロッパ・キリスト教世界を支配した神の計画の思考習慣との共通項を見いだすことができる。それはもちろん、かつてのヨーロッパ・キリスト教的の思考習慣をそのまま表現している訳ではない。それはむしろ、あたかも多くの文明において神という発想がありふれたものであったのと同様に、人間の思考が《運命》という形式をとりやすい傾向にあるということに由来しているにちがいない。

 この宇宙のすべては神の計画によって進行するラン・ストリームなのだろうか。あらゆる事物は神のプログラムによって定められ、決定されたものとしてあり、そのなかであがく人間の営為は結局すべて約束された滅びへと向かい、これに飲み込まれることが決まっている虚しいものなのだろうか。あらゆる存在はその生成の時から、崩壊の因子をその内部にもっているのだろうか。滅びを必然と考える思考形式自体、われわれの知そのものの奥に刷り込まれた基本プログラムなのだろうか。

 こうした問題意識を射程に入れたとき、近代の思考の本質というものがその輪郭をあらわしてくる。滅びの伝説と予言とを拒み、神のプログラムに疑問を抱く人間の知的営為、それはあるときはゲーテ『ファウスト』のファウスト博士や『紅い眼鏡』の都々目紅一の遁走劇として展開し、またあるときは光瀬龍の『百億の昼と千億の夜』に描かれる滅びに瀕した数々の都市文明の群れや『天使のたまご』の水没する街を覆う諦念にも似た世紀末感として、そしてまたあるときはハイデッガーが実存の中にみいだし、『迷宮物件』の探偵が世界に対して抱いた不安として、さまざまに語られていくのである。

 神はふつう救済を約束するように思われがちだが、神の本質は滅びという隠された約束にあるのかもしれない。もしもそうなら、神の名を騙った帆場暎一は、隠された神の一個の表象として、近代形而上学の根底を穿つ神のプログラム――滅びの約束としてのプログラムを、一つの隠喩、隠された命令としてのウイルスとして再現したのかもしれない。

 こう考えたとき、ひとつの問いこそがわれわれが語るための契機となりうる。それは、神のプログラムは、人間が本質的に受け入れざるを得ないものなのかという問いである。デカルトが死刑を宣告し、カントが処刑を執行し、ニーチェがその死亡を確認した近代世界の神、その神の不在となった現代においてもなおそれは、予め決定された運命としてわれわれを呪縛しつづけるのであろうか。

 神のプログラムには、バグはないのだろうか。





神と戦う者




「昔、善の神に対するに、悪の神の在ることを信ずる民族のことを聞いたことがある。また、日の神に対して夜の神を祭る習慣をもつ部落に立ち寄ったことがある。善の神はすなわち、日の神、太陽であり、これがやがて、天なる神、天の父という思想に発展してゆくことを考えれば、悪の神、夜の神、という設定は、単なる寓意以上の意味をもっていたと思うが」

光瀬龍『百億の昼と千億の夜』より



西欧の没落

 19世紀初頭、ヨーロッパには一部に悲観論的思想が席巻していた。ヨーロッパ世界のみを世界として築いてきたヨーロッパ人のアイデンティティは、アメリカの台頭、アジアの脅威、ソビエトの勃興などによって揺らいでいた。またそれら外的要因のみならず、ヨーロッパ的自我に内在する自己の運命に対する不安がつのり始めていた。神の死とともにヨーロッパの没落を示唆したニーチェの予言は、ヨーロッパ人の心理の根底に深い疵を穿った不安の表象だった。

 第一次世界大戦の終結も間近に迫った1918年、一冊の書物が刊行された。ヨーロッパ世界の終焉を予言したこの論文は、論壇の酷評にもかかわらず、当時のヨーロッパ全体に大反響を巻き起こした。これがオスヴァルト・シュペングラーの『西洋の没落』である。文明というものを生物的な有機体的存在としてとらえ、その寿命を約1000年であるとしたこの論文は、ヨーロッパ文化の生物学的寿命がすでに尽きかかっていることを示唆し、その必然的な老衰死を予言したのである。

 『西洋の没落』は歴史学上の論文として有名であるが、その実かなり重厚な哲学書である。その論調は形而上学的な色彩を帯び、また独断論の様相が少なからず濃い。と同時にその文化・文明論は運命論的傾向が強く、半ば神秘主義的な印象すら受ける。

 シュペングラーによると、各文化間には決定的な断絶があってその運命は常に完全な独立関係にあるという。ただし、各文化はあたかも生物個体にみられるのと同じく、その発生・成熟・衰退・終焉といった各段階に典型的な類型があり、異文化間にも相同性と呼ばれる同段階の形態の類似性がみられる。

 文化は、まずその初期において内面的な創造が活発に行われるが、やがてそれが爛熟期を迎えるころには文化の形態は「文明」の段階に入り、文化の様式もすべて外面的な形式――巨大都市の出現、質より量の尊重、階級闘争の激化、人間の創造力の枯渇などを特徴とする――へと向かう。この点について、現在のヨーロッパ文化は古代社会におけるヘレニズムからローマにかけて現出した状況と酷似する。この相同性から考えてヨーロッパ社会の没落を予見することができるのだという。



3つの魂

 シュペングラーは、文化の諸段階において、その文化全体の性質を規定する一種の原理の存在を示唆し、これを根源象徴と呼んだ。「古代」においてはその原象徴として「アポロン(アポルロン)的」、中世として「マギ的」、近代として「ファウスト的」という呼称を与えて区別している。

 ギリシャ・ローマ文化を典型とするアポロン的根源象徴は、元来ニーチェによって規定されたものであって、音楽と太陽の神に象徴される精神であり、明確な合理の体系、叙情詩に対する叙事詩、明晰な視覚、テオリア(観照)の文化精神である。シュペングラーによればその特徴は、「感覚的に現存している個体を拡がりの理想とした」文化であり、その文化の典型は「裸体の柱像であり」、「機械的静力学、オリュンポス神々の感覚的な崇拝」に現れ、芸術として「個物を輪郭で限定する絵画」として発露する。その自我を「体躯」と名付けるこの精神は、内的発展の観念を持たず、内的にも外的にも歴史という概念を欠く。

 ニーチェはアポロン的精神に対してディオニュソス的精神を提示したが、シュペングラーはアポロン的精神にファウスト的精神を対置させる。孤独と不安とにさいなまれつつ彷徨うファウスト的精神は、アポロン的自我を象徴する《体躯》に対し、「限界のない純粋空間」であり、「自己自身を内省する現存在」として、「記録、反省、回望と外望、それから良心からなる決断的な人格文化」を形成する。ファウスト的精神の発露は「フーガの芸術」、「ガリレイの動力学」などとして発露し、アポロン的絵画に対して「光と陰とで空間を形づくる」絵画にあらわされる。

 一方、古代ヨーロッパを規定したアポロン的精神、近代ヨーロッパを規定したファウスト的精神とともに、中世ヨーロッパを規定した精神としてシュペングラーがあげたのは、《マギ的》な精神であった。マギ的精神はその根源象徴を、アポロン的の《体躯》、ファウスト的の《空間》に対し、《道》として表すことができる。「《道》とは運命を意味し」、アラビア文化――ヨーロッパにおける「書かれた形而上学」に対する「石でできた形而上学」――や中国文化――ヨーロッパにおける「建物の建築術」に対する「土地の建築術」――などにその典型的発露を見ることができる。この文化精神はヨーロッパにおいて、「代数学、占星術と冶金術、モザイクとアラビア模様、カリファ制と回教寺院、ペルシャ教、ユダヤ教、キリスト教」などにあらわれ、いわゆるヨーロッパの神秘主義的な「暗黒時代」を形作ったのである。



楽園の蛇

 宇宙を意味する《コスモス》という言葉は、「混沌」を意味する《カオス》に対義し、「秩序」を意味するものであった。古代ギリシャ人にとって世界は本来合理的なものであり、予定調和こそが当然斯くあるべき宇宙観であった。そしてその世界の中に棲む人間の知の形式は、斯く在る世界に対する観照――テオリアの知であった。一方、近代以降を規定するファウスト的精神の知の形式は、これに対し、神との対応関係を忘れ、真理への意志として世界の秘密を垣間見ようとするものであった。そしてこの差異の原因は、マギ的な精神の中にその萌芽を見ることができる。

 マギ(magi)とは、本来ゾロアスター教を意味する言葉である。魔術(magic)という言葉の語源となったことからもわかるとおり、神秘的な魔の精神の象徴として考えることができる。

 中世ヨーロッパは、神学的オプティミズムの時代であった。世界は神があらかじめ組んだプログラムのままに運行し、やがて当然の結果である終焉を迎える。神のプログラムである以上、それはこれ以上よくしようのないほどよいものであり、したがって人間がこの世でできることなど基本的に存在しない。オプティミズムの究極はペシミズムと同じ結論に達する。

 ヨーロッパのマギ的精神のもたらした神学の神秘性は、この運命論の論理の強化につながった。人間はあらかじめ決まった運命に支配されており、すべては神の決定事項である。人間にできることはせいぜい、世界が終焉を迎えるのはいったいいつのことなのか、神の予定表をなんとか盗み見ることくらいしかなかった。たとえばノストラダムスという人物は、まさにこういう時代の子であって、人間の主体的な企投が未来の生成に参加するといった発想は、彼と同世代の多くの知識人ともども希薄である。この時代、神のプログラムは支障なく運行していた。

 だが一方で、ヨーロッパがマギ的精神によって発現させた文化精神は、ある面においてむしろ混沌の相にあるといえるのではないか。そこには、黙示録などに見られる神学的オプティミズムや、運命の決定論である占星術の精神とともに、それら神のプログラムへの反逆――神の目を盗んでの密やかな営みとして――神を欺く魔の精神が息づいていたのである。

 歴史上しばしば見られる、滅びと再生の神話パターン、また近い将来ふたたび訪れるであろう滅びの予言は、楽園を追放された者が、神のプログラムから逸脱してゆく自己に対して抱く不安の表象なのかも知れない。アポロン的世界の楽園から人間を放逐させたのは、一見敬虔なキリスト教徒の時代である中世のマギ的精神から生じたもうひとつの面――魔の概念であった。哲学者ロジェ・カイヨワは、著作『円環的時間、直線的時間』において、西欧の時間概念を直線的であると述べた。楽園からの追放が、円環的であった時間概念を直線へと変えてしまったのだろうか。とすれば、その変換は時間の輪に入った傷――原罪によって起こった「円環の直線への展開」というパラダイム・シフトだったのかもしれない。


*補遺2



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