■補遺1

 事情に詳しい方なら一度ならず考えることであろうが、おもしろいことにいわゆる「魔法」のものの考え方は、コンピュータの世界と多くの共通点をもっている。コンピュータのコマンドと魔法の呪文との間に見られる共通点のうちで最も重要なことは、そのコマンドを入力する手間が、それによって呼び出される効果よりも必ず小さい、という点である。ある特定の効果を得るため、ある呪文(spell)を唱え、そしてその効果の大きさは、術者の能力・地位に立脚するセキュリティレベルによって段階的に決定される。余談だが、UNIXにおけるコンピュータ・ユーザーのレベルには7つの段階があり、@ビギナー、Aノヴィス、Bユーザー、Cエキスパート、Dハッカー、Eウィザード(魔法使い)、Fグールー(大魔道師)という呼称が使われている。

 情報技術者のテキストには述べられてはいないが、コンピュータの機能の本質は、効果の「呼び出し」、すなわち召喚にあると筆者は考えている。論理と経済性の究極的集積であるコンピュータと、非合理で恣意的な精神の生んだ魔法とが極めて酷似した知的形態を示すという事実は、何を意味しているのだろうか。思うに、人間の「知」の恣意的な所産が必然的に到達する形状が、コンピュータであり、魔法なのではないだろうか。人間が自由にものを考えると、その最も最適化された形こそすなわち魔法なのではないかと思わざるを得ないのである。































■補遺2

 『天使のたまご』は、まぎれもなくマギ的な作品であった。その作品的外観や舞台装置としての設定は言うに及ばず、永劫回帰的な世界の直線的展開といった歴史哲学的隠喩においても、それは指摘することができる。そういった観点から分類すれば、初期の『うる星やつら』はアポロン的作品であり、特に『ビューティフル・ドリーマー』は『うる星やつら』という世界のもつアポロン的性格を辛辣なまなざしで語った物語だったと言える。また『紅い眼鏡』はその透明化されつつある《昼》と、実存的粘性に富み、不気味に広がる不透明な《夜》との世界観の対比という点からも、また主人公都々目紅一の遁走劇としてのメタファーの面からも、ファウスト的作品であることが指摘できそうである。同様に『御先祖様万々歳!』および『パトレイバー・劇場版』はマギ的とファウスト的なパラダイムに展開する作品であると言えよう。このようにみると、押井守作品の本質を、マギ的なパラダイムにおける運命論と《魔》の精神に発露する反・運命論との葛藤、および失ったアイデンティティを求めるファウスト的彷徨という点に求めることは、さほど的外れな意見ではあるまい。