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美紗緒ちゃんとピクシィミサ

― 『魔法少女プリティサミー』20話「ともだち」について ―


清瀬 六朗





―― 注意 ――

 『魔法少女プリティサミー』(TV版)の20話「ともだち」についてネタバレの要素を含んでいます。未見のかたはご注意ください。


■TV版『プリティサミー』の宿命

 『魔法少女プリティサミー』(TV版)で2月14日放映の「ともだち」は私にとってひさびさに「魔法少女もの」として「泣ける」エピソードだった。

 「泣ける」――というのもなかなか問題のある表現ではある。私はシナリオづくりのことは専門的に知らないが、どうやら「泣かせる」シナリオ作りの技法というものがあるように感じる。あるいは、シナリオがたいしたことのないものでも、音楽によって盛り上げて「泣かせる」ように持っていくこともできる。そういうばあい、映像作品の鑑賞者は、あるマニュアルにそった技法でたんに「泣かされている」とわかっていても、やっぱり「泣いて」しまうものなのだ。「だれがこんなあざといしろもので泣くか!」と意地を張っていても泣くときには泣いてしまうもので、そこで泣かせられないのはやはり技術的な力量の不足なのではないだろうか、よく知らないが。映像作品が情緒に訴えるということの怖さはそんなところにもある。また、ちゃんとアニメ(に限らないが)を作れる作者は、音楽その他が作品に持ってしまう情緒的な影響力を計算に入れることができる。押井守などはいつも音楽演出に非常に気を使っている作者である。

 で、美紗緒ちゃん――である。この「ともだち」が「泣ける」ものであったのは、たんにシナリオ上の技法で泣かされたというような性質のものではない。

 TV版『プリティサミー』は、放映開始当初、あんまり私の周囲でも評価が高くなかった。とくに古い「砂沙美ファン」・「サミーファン」から、「番組の対象がマニア向けなのかそれとも「本来の視聴者」向けなのかわからない」という批判をよく聞いた。天地・魎呼・阿重霞の『天地無用!』の主役三人組(といっていいのかな?)をレギュラーからはずしたことや、主人公砂沙美のそばかすがなくなったことへの不満も聞かれた。が、それはしばらく措こう。ちなみに『サミー』で天地・魎呼・阿重霞がレギュラーからはずれているのはこのTV版だけではないだろうか。

 これは『プリティサミー』をテレビで放映するということに宿命的についてくるジレンマのように思われる。

 ご存じかと思うが、魔法少女プリティサミーは、もともと、『天地無用!』の登場人物である少女砂沙美を魔法少女にしてみたらおもしろかろうという思いつきに端を発する「お遊び」的・「番外編」的企画のなかで最初に登場したキャラクターだ。もともと魔法少女でないキャラクターを利用して、魔法少女もののパロディーをやってみようという企画の主人公だったのである。その後、『プリティサミー』はじつに多彩な展開を示すのであるが、ま、そのへんは省略しよう。あんまり詳しくは知らないし。

 ただ、ラジオドラマの「マジカルナイト」版(脚本:黒田洋介・山口宏)が、いまのところいちばん「オリジナル」に近いサミーなんだそうである。この「マジカルナイト」版は、東京では金曜日の深夜(土曜日早朝)にやっていて、たまたまこのTV版20話の日にラジオのほうにも美紗緒ちゃんが出て、それでさらに涙したファンも多かった、というような話もきく。

 ともかく、このあたりの段階では、多少ともマニアックな「大きいお友だち」を対象にしていればよかった。ところが、テレビで金曜日の夕方にテレビアニメとして放映するとなると事情が異なる。その枠のアニメをリアルタイムで見ている「本来の視聴者」つまり小学生ぐらいの子どもにもアピールするものであることを要求される――といちおう書いたけど、でもCMなどを見るとスポンサー筋では「大きいお友だち」一本に絞っているような感じもかなり濃厚である。でもまあ、『プリティサミー』をそれまで見てきたマニアックな人びとより広い範囲にアピールする作にしなければならないという要請はとうぜんあったはずである。

 他の作品のキャラクターを使った魔法少女もののパロディーであることをこれまでその「個性」としてきた作品が、いきなり、そのパロディーという支えをはずされて、一本立ちの魔法少女ものとして「大地に立」たなければならなくなったのだ。

 しかも「戦う変身魔法少女もの」という設定はけっこう制約が多い。毎回、敵キャラと戦うように物語をもっていかないといけないし、しかも、学園生活を送っている女の子という設定上、あんまり破壊的なこともできない。あくまで、人命尊重で、登場人物みんな(理想的にいえば敵でさえ)が健康で文化的な生活が送れるようでなければならないのだ(それにしちゃパプアニューギニアまで漂流していったキャラがいたが……)。いきおい物語として無個性になりがちだ。もうちょっと具体的にいうと、1990年代のテレビアニメという条件では、『セーラームーン』(初代)の確立した型にはめざるを得なくなってくる。いまその創始者が『魔法使いTai!』でその型から「魔法少女もの」を脱出させるために苦闘している、その型にである。

 TV『サミー』もその制約に強くとらわれていた。最初のころは、『天地』から持ってきたキャラクターである美星・清音コンビや鷲羽ちゃんの個性や「へんな敵キャラ」によって無個性になることをかろうじて回避しているというような印象もあった。ちなみに「砂沙美」の名まえは岡山県の地名からとったらしいが、美星も岡山県の町名(読みは「びせい」)で、ここに天文台がある。

 そんななかで、シリーズの「個性」を支えてきたのが、主人公の砂沙美の親友であり、変身後は敵キャラになる美紗緒ちゃんであった。

 ふだんは気弱で病弱でお人好しでひっこみ思案で髪の黒い美紗緒が、変身させられると勝ち気でエネルギッシュで(あんまり基礎体力はないらしいが)人が悪い金髪(?)のピクシィミサになって破壊のかぎりをつくす――というのは、まあ一種の古典的な二重人格なのであって、これだけではそれほど意外性はない。

 それよりも、絵に描いたような気弱で可憐な女の子のはずの美紗緒がときどき見せる「へんな個性」が物語全体を引っぱっていたような感じがするのだ。「へん」というと失礼だが、砂沙美ちゃんといっしょに自分の作ったチーズケーキを食べたいと思うあまり人通りの多い公園の道のまんなかにござを敷いてお茶してしまうなどという、気弱で不器用なことと表裏一体の強引さというか一途さと、言っておけばいいだろうか――そうかんたんにことばに丸めこめるようなものではないのだが。ともかく、物語上の役割としてはただの「かわいそうなかわいい子」でいいはずのキャラクターがそういう性格を持ったキャラとして描かれているのである。

 この美紗緒ちゃんを個性的に描いたことが、シリーズとして、物語を「無個性な戦う変身魔法少女もの」になることから救っていたように感じるのである。


■美紗緒ちゃんのこと

 美紗緒が変身すると「悪い魔法少女」ピクシィミサになって主人公の砂沙美=プリティサミーをいたぶり、ご近所に迷惑をかけまくっていたことは、砂沙美はもちろん、当の美紗緒も知らなかった。ピクシィミサになっているあいだの記憶は美紗緒でいるときには失われているからである(多重人格というのはそういうものらしい)。それが砂沙美にも美紗緒にもわかってしまって、さて、この親友どうしがどうするか、というのがこの20話「ともだち」というエピソードだった。

 物語の構図は明瞭である。美紗緒ちゃんは親友としての砂沙美を失いたくなかった。だから、ピクシィミサの数々の悪い行いは自分が自分で知らないうちにやっていたことだということを告白して砂沙美ちゃんに謝ることができなかった。もし砂沙美が許してくれなかったら、自分のただ一人のともだちを失うことになるから――そして親友としての砂沙美を失った自分なんか想像することすらできないものだったから。親友としての砂沙美を失いたくないという恐怖自体が、美紗緒に砂沙美を避けさせていたのである。そして、じつは、その恐怖心に「悪い魔法少女」であるピクシィミサが住み着いていた――というわけだ。

 だが、美紗緒は砂沙美を慕いつづける。こういうときに自分を支えてくれるのがまぎれもなく砂沙美ちゃんだと知っているからだ。だから、砂沙美ちゃん自身と顔を合わせることはどうしてもできないのに、砂沙美ちゃんの思い出を追い求めてさまよう。砂沙美も美紗緒ちゃんにどうしても会いたくて同じ場所に来ていてそこで二人は再会する。だが美紗緒はどうしても砂沙美ちゃんに心を開くことができず、ピクシィミサに人格の主導権を奪われそうになる。そこで、砂沙美が魔法で美紗緒ちゃんの心の中に入りこんで、ピクシィミサと対決するというような展開になる。

 ピクシィミサはここまでの美紗緒の心の動きを「悪い魔法少女」ピクシィミサの立場から説いてみせる。自分は、砂沙美ちゃんに助けられてばかりいることで美紗緒が感じていた負い目や元気な砂沙美への羨みの気もちによって生まれたといい、砂沙美を、「美紗緒ちゃんを助けることによって優越感を感じていた」と責める。セリフどおりではないがようするにそんなことを言う。

 そのピクシィミサに、砂沙美が、「美紗緒ちゃんはそんなことを考える子ではない」といい、自分も美紗緒ちゃんのけなげなところ(とは言わなかったが)が好きで、自分も美紗緒ちゃんを求めていたというようなことを言う。そして美紗緒ちゃんをピクシィミサの手から解放する。ピクシィミサは美紗緒を救ってくれた砂沙美に感謝しながら、美紗緒との別れを惜しみつつ去っていく、というような、そんなふうなクライマックスである。

 じつはこの砂沙美の側のリクツはそんなに目新しいものではない。戦後児童文学の傑作である薮内惇夫(だったかな?)の『グリックの冒険』など、「ガンバ」三部作(アニメ『ガンバの冒険』の原作)の一貫したテーマがこれだったように記憶している。強者と弱者がいて助け合えば、弱者が一方的に強者に頼ってしまっているように見えるけど、じつはそうじゃなくて、助け合っているなかで強者のほうも弱者に頼っているのだ、というようなテーマである。これはこれで現代の社会では真理と言っていい発想であろう。ただ、それを「強者」の側だけの視点から描くと、その論理が「強者」のなかで空転して自己満足気味になってしまうこともある。

 この『プリティサミー』20話が「泣ける」ものになったのは、その論理を美紗緒ちゃんの視点を忘れないで描写したところにある。

 気弱で病弱な自分をいつも助けてくれかばってくれる砂沙美ちゃんは、じつは自分を軽蔑し優越感を感じている――というのは、じつは砂沙美の問題ではない。美紗緒ちゃん自身が、親友である砂沙美ちゃんを失った自分というのを想像するのが怖くて、砂沙美ちゃんに対して心を閉ざしてしまったことの生み出した幻なのである。砂沙美ちゃんがほんとうは自分を軽蔑しているのか、それとも砂沙美ちゃんが自分を親友として求めてくれているのか――それは砂沙美ちゃんとじかに瞳を見つめあい、手を握りあうほかには解決のしようのない問いだ。だが、その幅のある「可能性」が一つの答えに(量子力学の用語の語感で)「収束」するのが美紗緒には耐えられない。何度も言うように砂沙美ちゃんがほんとうの友だちでないというほうに「収束」することに自分は耐えられないからである。というより、耐えられないと自分で思っているからである。

 しかし、というより、だからこそ、美紗緒の心の中には、親友として自分を求めてくれる砂沙美ちゃんと、じつは自分を軽蔑して優越感のネタにしている砂沙美ちゃんとが一対のものとして存在してしまう。そして、砂沙美を求める自分と砂沙美を憎み拒絶する自分がかならず心の中に一対で存在してしまうわけだ。「収束」を拒否する以上、その一対のどちらを切り捨てることもできない。

 美紗緒自身には親友である砂沙美ちゃんを求める気もちも強い。だから、自分は砂沙美ちゃんを避けているということ自体を忘れようとする。そうして強いて忘れられたものがピクシィミサという別の人格を構成してしまったのである。

 この美紗緒ちゃんの物語を先に進めたのは、しかし美紗緒ちゃん自身ではなかった。美紗緒ちゃんの心の中で出会ったピクシィミサの制止を振り切って、心を閉ざした美紗緒ちゃん(ややこしいが要するにミサでないほうの美紗緒ちゃん)に近づき、美紗緒ちゃんが聞こうともしないのに自分の心のなかをぶちまけた砂沙美ちゃんだった。

 美紗緒ひとりでは――あるいは美紗緒の心のなかに住む美紗緒とピクシィミサの一対の人格だけでは、けっしてその追いつめられた美紗緒ちゃんを救うことはできなかったのである。ピクシィミサは、美紗緒が忘れたかった部分を一身に背負ってやるという意味では美紗緒を救っていたけれど、それ以上、美紗緒を救うことはできないのだ。その救いを達するためには、美紗緒が心に描いた砂沙美ちゃんではなく、美紗緒の心の外から入ってきた砂沙美ちゃんという外部からの侵入者がぜひとも必要だった。この物語の構成からはなんとなくペシミスティックな雰囲気をも感じる。しかし、こういうときに、ためらいなく「外部からの侵入者」になれることこそ「ともだち」というもののすばらしいところだ、ということを読み取るべきなのかも知れない。

 同時に、ピクシィミサは、砂沙美ちゃんが自分の制止を振り切って(ミサでないほうの)美紗緒に接近しようとしたときに、それを力づくで止めようとはしなかった。これまでピクシィミサが示した暴威をもってすれば砂沙美を足止めすることは十分可能だったはずなのに。砂沙美のその強引な語りかけで美紗緒が自分を追い出すことに成功したとき、ピクシィミサは、自分の片割れであった美紗緒との別れを惜しく思いつつも、感謝して出ていった――という描写になっている。じつは、美紗緒ちゃんの恐怖が生んだ「もうひとりの」人格であるミサは、自分で自分のことを消え去るべき人格であるということを知っており、自分を消してくれる「外部からの侵入者」を待ち望んでいたのではないか。そこにまたこの物語の希望が示されているように思うのだ。

 こういうことを書くと作品の意図に反してしまうとは思うが、極端なことを書くと、砂沙美ちゃんがほんとうに美紗緒ちゃんをどう見ているかなんていう「ほんとう」のことは、美紗緒ちゃんにはぜったいにわかりっこないのである。だいじなのは、美紗緒ちゃんが、砂沙美ちゃんがもしかして自分を軽蔑しているかも知れないという恐怖を克服して、砂沙美ちゃんは自分のともだちだと確信することそのものなのだ。友情として祝福されるべきなのは、その確信そのものであり、「ともだち」砂沙美ちゃんの役割はその確信を助けることにある。その、「ともだち」の心のなかに「外からの侵入者」として入りこむこともやはり「ともだち」の行為として祝福されるべきものなのであろう。

 じつはこの件が落着したあと、美紗緒ちゃんが自分の片割れであったピクシィミサのことをどう考えているかというところでまた美紗緒ちゃんの「へんな感性」が発揮されたりするのだが、それは見てのお楽しみである。

 「明るくなる方向性がちがうよ〜ぉ!!」
 「そ……ぉう??」

 ま、あれでこそ、この物語があの「調子に乗っておりました」のエンディングにつながった、ということが言えるのだろうけど。どうでもいいが、この曲、こないだカラオケではじめて全曲の歌詞を知ったのだが――すごい歌だ、うん。

 こういう物語を見ると、見る人に印象を与える物語の「オリジナリティー」というのが何なのかということを改めて考えさせられる。たしかに脚本も演出もよかった。美紗緒とミサを、しかも心にミサを封じこめた美紗緒とミサを別人にしてしまったあとの美紗緒をも演じ分けた笠原留美さんの演技もよかった。もちろん砂沙美・サミーの横山智佐さんもね。

 しかし、ともだちの心のなかに魔法で入りこむとか、いつも助けている側も助けられている側を求めているとか、もっと言ってしまえばいい子と悪い子の二重人格とかは、こういう物語としてはとくに目新しい要素ではない。ただ、そこで、それを美紗緒ちゃんの物語として描くという視点を忘れなかったこと、そして、その美紗緒ちゃんがこのシリーズを通してのシリーズの個性を担うキャラクターだったことが、このエピソードの印象をより深いものにしているのだ。それまでこの『サミー』に批判的だったのに、このエピソードでこのシリーズに「転んだ」というファンが多いことも、これが私だけの印象ではないことを傍証しているように思われる。

                         ―― 終 ――


 初出:1997年2月23日、「処士横議」のページ。




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