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☆ 処士横議 ☆

― たんなる雑談のページ ―



1997年11月8日




「僕は甘くない」

――『もののけ姫』配収新記録を達成――


 10月30日、宮崎駿監督の『もののけ姫』が『E.T.』の記録を破って配給収入の日本新記録を達成したそうである。おめでとう。どうりで映画館がきゅーくつだったわけだ。

 『日本経済新聞』は、11月1日の文化面でこのことをとりあげている。配給収入記録を樹立したところでこの映画をとりあげるところが日経らしい。


・「生きろ」?・


 この記事は、『もののけ姫』の「生きろ」というメッセージに10歳代〜20歳代の観客が反応したのだ、という仮説を基調に書かれている。

 級友に陰湿ないじめを受けて自殺を考えた高校生、ふだんから「理由のわからない不安や孤独感」につきまとわれていたやはり高校生、「いやされた自分を感じました」という手紙を『コミックボックス』誌に寄せた20歳代の女性(年齢は同誌編集者の推定らしい)などの感想が記事には紹介されていた。『もののけ姫』の「生きろ」というメッセージに接することで「生きる」ことに前向きになろうと思えたというのである。

 これに対して、弓山達也さんという先生が「セラピー」としての『もののけ姫』の役割ということを話している。若者のあいだに自己に対する否定的なイメージが蔓延している。それも「理由がないのに悩む」のが現代の特徴だという。また、大沢真幸さんという社会学者の先生は、現在は「虚構の時代」であり、「生は無意味にだらだら続くものでしかなく、普通の生を否定する破壊的な行為だけが、自分を肯定するものになってしまった」と評しているという。

 たぶん、このような観点からすると、やはり夏に公開された『THE END OF EVANGELION』は、この「生きろ」というメッセージに対する陰画であり、それを「補完」する作品だ、という位置づけにでもなるのであろう。


・「モラルハザード」の危機・

 この大沢先生という方はオウム事件などについても論評していらしたということだ。ここに書いていらっしゃることはご自身の研究成果を反映したものでとくに異議をさしはさむつもりはない。だが、「オウム事件も、神戸の少年の犯罪もこうした時代の空気と無関係ではない」というご意見には、否定するわけではないが異議はある。オウムや「神戸の少年」を代表者に選んだおぼえはない。

 いかに「時代」や「社会」から影響を受けていようが、奇矯な行動の責任は第一義的には本人にこそある。それが他人の生命を損なうような犯罪であったばあいにはなおさらだ。それを時代の代表者のようにのみ位置づけることに私は強く反対する。

 むしろ、その個別の責任を問題にすることなく、「あれは時代の代表者だ」という位置づけがつねに先行して個人の境界をわざとぼかしてしまうような「時代」こそを先に問題にするべきだと私は思う。このような位置づけをすることが疑われないような社会は、結局、自分で自分の責任をとるという個人の成長を妨げる。

 金融破綻を公的な権威を持った機関が救済することがある。国内の金融機関ならば国家が、海外ならば国際的な金融機関やその地域の大国が資金を投入するということが、ここのところつづいている。これは、金融秩序の維持という観点からは一概に否定すべきではない。一市場で発生した大変動が世界を駆けめぐることは、先の「世界同時株安」事件で立証された。ばあいによっては、公的な権威を持った機関による救済は、いくら救済の義理などどこにもない相手に対してであっても、必要なのだ。

 しかし、ここで懸念されているのが「モラルハザード」という問題だという。救済された側は、「いざとなったら公的な機関に救ってもらえるからいいや」という気もちになって、自己責任の大原則に従うべきだという感覚を失っていくというのだ。なお、私は経済には詳しくないのでこの理解は誤りかも知れない。もしまちがっていたらご指摘願いたい。

 ここで唐突に金融破綻の例を出したのは、奇矯な事件を起こした個人や一集団に対して、「あれは時代なのだ」「あれは社会の影響なのだ」というような論法の批評ばかりが社会にあふれることが、日本社会にその「モラルハザード」を起こしているのではないかと言いたいためである。はっきり言って、インターネットの猥褻映像だ映像作品の残虐描写だなんだより、個人の責任をあいまいにするこういう発言を、それも社会的に権威を与えられている人間がマスコミを通じて流すほうがよほど青少年の健全育成を阻害する。


・香山リカさんの異論・

 こうした『もののけ姫』に対する批評について、精神科医の香山リカさんはつぎのように批評しているという(「」内が発言、地の文は原文記事のもの)。
 「作品本来の意図とは関係ない文脈で抜き出して、勝手に思い入れている」。コミュニケーションの問題としては深刻ではないかという。

 私はこの意見に強く共感する。

 二回しか問題の映画を見ないでいうのもなんだが、「生きろ」というセリフがどの場面で言われたのか私は正確に思い出すことができない。アシタカのサンへのセリフであったこと、アシタカとサンが出会ってそんなに経たないうちのセリフだったことをおぼえている程度である。それよりは、いかにも唐突な「そなたは美しい」というセリフのほうがずっと印象深い。

 だいたい、糸井重里先生がキャッチコピーとしてこの「生きろ」を採用しなかったとしたらどうだろう? 自分で「生きろ!」というセリフを拾い出し、それに感動したというひとが、どれぐらいいるのであろうか?


・「虚構の時代」こそ虚構ではないか?・

 安易に「癒し」などということばを持ち出すことにも私は違和感を感じる。『となりのトトロ』のあとにも、映画をきちんと見たのかどうか疑わしいような批評で宮崎作品の「癒し」効果を論じた本が出た。

 現代が「虚構の時代」であるということを仮に認めるとしよう。「漠然と」した不安に若者たちが悩まされていることも仮に認めるとしよう。

 いや、個人的な感想をいうなら、理由もなく「漠然と」悩むことが現代の特徴などと論じることは、私は「現代」がいかに歴史に対して傲慢かということを示す以外のなにものでもないと思う。

 論者たちが「現代」として意識するのは1990年代中盤の「バブル崩壊」の社会を指すのであろう。では、芥川龍之介は何と言い残して自殺したのか? J.S.ミルが青年時代にとつぜん直面した「精神の危機」とはいったい何だったのか? キルケゴールの「大地震」体験には「理由」があったとしてもである(これも直接の証拠はない)。

 理由のない不安感や悩みに直面し、それにどう向き合っていいかわからずにただ精神を消耗するという過程は、べつに私たちの時代だけの特権ではないのだ。すくなくとも「近代」が始まって以来、多くの人がそういう不安に直面してきたのではないか。

 それに「虚構の時代」とはいったい何なのか? 「時代」にしても「社会」にしても、それは概念によって把握したものであるかぎりある程度の「虚構」性は持つ。「虚構」ではない社会とはいったい何なのか? かつてのマルクス主義者なら、「虚構」ではない社会とは階級社会である、と明快な答えを提示したであろう。その答えが正しいとは言わない。だが、「虚構」であることが問題であるというのなら、そうでないものとはいったい何なのか、それを提示して議論すべきだと思う。

 大沢氏によれば、「思想や夢をシニカルに語ることすらできない」時代が「虚構」の時代なのだそうである。規定としては感覚的すぎる気がする。「思想や夢をシニカルに語ることすらできない」人はいるだろう。しかしそれはやはりまず本人の問題である。「思想や夢」は時代に与えてもらえるものではないからだ。すくなくとも、「若者」に「思想や夢」をただ待っていて与えられるものだと錯覚させてしまうような社会であるということを先に問題にしなければならない。

 しかしこういうことは問わないとしよう。


・商品としての「癒し」の大流行・

 「時代」や「社会」が「癒し」を必要としているということと、何かが「癒し」の効果を持つということの社会的意味とは、それぞれ別に考えなければならないと思う。

 「癒し」はすでに商品になっている。

 さまざまな作品の「アダージョ」の部分だけを抜き出したアンソロジーがクラシックCDの棚に並べられたりしている。「アダージョ」だと「癒し」になるのだそうだ。ハープ奏者の竹松舞さんのアルバム『ファイヤー・ダンス』の解説も、「癒し」の話から始まり、ハープは「天国の楽器」だから私たちのささくれだった心をいやしてくれるなどと書いてある。なお、竹松さんの名誉のために書いておくと、解説を書いたのは演奏者自身ではない。

 「アダージョ」は原義では「心地よい」なのだから、「アダージョ」を聴いて心地よくなるのは、演奏者・指揮者がまともに演奏しているというということにすぎないのではないだろうか。

 それに、「アダージョ」のなかにはたしかに独立で書かれた作品もあるだろう。しかし、同時に、それはハイドン式の交響曲の「緩徐楽章」(普通は第二楽章)であることもある。一般には「アダージョ」は速度標語としては「ゆっくりした」という意味で使われるのだから。

 交響曲というのは第一楽章から最終楽章まででひとつづきの音楽である。交響曲はソナタ形式の大規模なものである。そしてソナタ形式というのは首尾一貫した物語性を重視する種類の音楽だ。

 それの第二楽章だけ引き出して「癒し」のために聴くというのは、すくなくとも作曲者に対してはたいへん失礼だと思う。同じ「つまみ食い」でも、ある楽章のメロディーを拾い出してそれを変奏曲として展開するという、19世紀の大音楽家ならごく普通にやっているような、オリジナルの作者への敬意をもとにした行為とはぜんぜんちがうのである。

 雅楽の楽器を用いてオリジナルアルバムを作っている東儀秀樹さんは「癒しのための音楽なんて不浄ですよ」と言っている。この発言には「音楽というのは浄不浄で判断するものなのか?」というまた別の違和感を感じる。このアルバム(『togi hideki』)のインタビューに示された東儀秀樹さんの音楽論には私は賛同できない部分も多い。けれど、音楽を作っている人間が「不浄」ときめつけたくなる不快感は理解できる。

 ハープだって、何と言われてきたかは知らないが、演奏のしようによっては、強靭さや攻撃的な表情だって十分に表現できる楽器なのだ。ハープが不協和音を強奏したときにどんな感じがするか、ハープの独奏曲やハープの入った曲をある程度以上聴いたことのある人ならば思い当たるであろう。

 もっとも、作曲者への失礼というのなら、こんな駄文を書きながらCDで安物のステレオでベートーヴェンをきいている私も相当にベートーヴェンには失礼なのだから、あんまりひとのことは言えない。私はなるだけ「楽章抜き聴き」はやらないようにしているけれども、言ってしまえば程度の差にすぎない。ここで言いたいことは、これは「癒し」のための商品だと性格づけすることが商品的な価値を持つようになっているということである。


・「僕は甘くない」・

 『もののけ姫』は売れた。それは「癒し」商品としての価値があったからだ。

 ――それが事実だとしよう。だが、それは「癒し」には商品としての価値がある、ということを言っているにすぎない。

 そんな表現を「癒し」の専門家である香山リカさんが喜ばないのは当然である。

 もちろん映画の作者だって「癒し」の商品価値で売れたのだ、などと言われたら怒るのが当然だと思う。

 この記事に紹介されている宮崎監督のコメントはつぎのとおりだ。
 「子供たちの書いてくる手紙をうのみにするほど僕は甘くない」

 「僕はもっと冷酷に自分の作品を見ている。千二百万人が見たというのは、映画の力というより、社会現象であって、その本当の奥にあるものを時間をかけて見極めたい」

 宮崎作品のファンであってよかったと思った。

 ここで宮崎監督が言っていることはたいへん冷酷である。「いじめで自殺しようと思った、それを救われた」という感想に対して、「そんな「子供」の告白は信じちゃいませんよ」と言っているのだ。例はたしかに極端だし、宮崎さんが全体として冷酷な人間であるとは私は思わない。宮崎監督は、その感想に対して、「虚構の時代」などということばを持ち出すことと、「僕は甘くない」と突き放すことと、どちらが望ましいかを判断するだけの見識は持っている、ということを私はここで確認したと言いたいのである。

 「癒し」は必要とされているのかも知れない。

 しかし、「癒し」を必要としている相手に、「癒し」が必要なのはそういう社会でありそういう時代だからだ、ということを提示することにはほとんど意味がない。風邪を引いて高い熱があって苦しい喉で速い呼吸をしなければならない患者に「いま風邪がはやってますからね〜」と言っても何の治療どころか慰めにもならないのと同じだ。「風邪がはやってますからね」というのは、風邪を引いていない人間か、あまり重くない風邪の患者のあいだでかわす会話である。

 この社会が「癒し」が必要な社会になっていると思うのなら、「『もののけ姫』には「癒し」の効果があります」などと言うまえに、自分の領域で社会のために何ができるか考えて、そのことをこそ積極的に発言しなければならない。そのことがあまりにおろそかにされているのではないだろうか。

 もっとも、この記事に登場する「癒し」論者の方がたに直接の非難を向けるつもりはない。記者に『もののけ姫』と「癒し」効果との関連を問われたならばこう答えるしかないはずだからだ。

 だが、社会的権威のある人たち、とくに「知識人」たちが傍観者的な発言をするということが、社会にどういう影響を与えるか――そのことにはもうすこし自覚的であってほしいと思うのである。すくなくとも「癒し」を求めている人たちにほんとに共感しているならば、傍観者的な発言ばかりくりかえすことはできないはずだと私は思う。




・秋の新番組・

 「アニメ」という共通点以外にあんまり関係がない話をちょっと。

 今秋の新番組でおもしろいのは『夢のクレヨン王国』と『バトルアスリーテス大運動会』だと私は思っている。というより新番組はそれしか見ていない。

 『クレヨン王国』は『魔法使いTai!』総指揮業から解放された佐藤順一大せんぱいが、『きんぎょ注意報!』・『セーラームーン』と同じ『なかよし』の漫画を原作とし、一部共通するスタッフとともに作っている作品である。「主人公がかわいい」というだけで見ている。だが、なかなか社会派な一面も感じさせてくれることもある。楽しい作品だ。

 『大運動会』は、去年、この枠でやっていた『魔法少女プリティサミー』と同じ主要スタッフの作品である。これも、最初は、奥田淳デザインのあかりちゃんに昨年の美紗緒ちゃんを投影していたり、『魔法使いTai!』の沙絵ちゃんたちを投影していたり(これは他の人からも同じような感想をきいた)という動機で見ていた。ここのところ、おもしろく感じるようになっている。倉田さんのバカ話の暴走もさることながら、黒田洋介さんの「シリアスなバカ話、バカなシリアス話」のセンスも嬉しい。言ってはなんだが、「またP社のオリジナルビデオのテレビ化か」とほとんど期待していなかっただけに、『プリティサミー』枠にこの感覚が戻ってきたのはとても嬉しい。

―― 終 ――




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―― 昔の横議 ――

(前回以前の掲載分)

 ・もっとまっすぐに もっとリアルに(1997年10月19日)
―日本の近代史像の捉えかた―

 ・沈黙から意味を読み取ること(1997年8月17日)
―「最低の投票率」を誇った東京都議選をめぐる報道について―

 ・不滅の九曲(1997年3月16日)
―ベートーヴェンの交響曲全集を買ってきたというような話―

 ・いまさら言えた義理じゃないけれど(1997年3月2日)
―秋葉原に買い物に行ったというたんなる雑談―

 ・美紗緒ちゃんとピクシィミサ(1997年2月23日、一部改訂)
―『魔法少女プリティサミー』20話について―

 ・『プリンセスメーカー ゆめみる妖精』(1997年2月2日)

 ・寒中お見舞い(1997年1月26日)
―冬の住み心地について―

 ・晴海の別れ(1996年12月28日)
―コミックマーケットについて―




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