インデックスに戻る


GENESIS APOCRYPHON

〜第二部〜



 ・論文の第一部(1〜6章)へ
 ・論文の第三部(10〜12章)へ


 さて、この文書を残した共同体(クムラン教団)とはどういう性格のものだったかということになると、諸説あるようである。

 いちばん有力であり、非トンデモ系キリスト教学界で定説となっているのが「エッセネ派説」である。このエッセネ派は、厳格な規則を守り、霊魂の不滅を信じ、結婚もしないというユダヤ教の教派で、死海のそのへんに拠点を持っていたという。エッセネ派は、聖書にも登場するサドカイ派・パリサイ派などよりもずっと非主流派色の強い教派だったようだ。

 古代ローマの歴史家ヨセフスが書いた『ユダヤ戦記』に出てくるエッセネ派像と、このクムラン教団の規則とを照らし合わせてみるとたしかに一致点が多いという。とくに、死海文書が書かれた時期にこのへんに拠点を持っていたということがこの説の決定的な強みとなっている。つまり、クムラン教団はエッセネ派ではないとすると、この時期、このあんまり広くない地域では、エッセネ派とエッセネ派ではないクムラン教団とが同時に拠点をおいて活動していたと考えなければならなくなる。しかも、どちらも、非妥協的な教条を持っていた、排他性の強い集団だったというのに、だ。

 他方、エッセネ派説を採っても矛盾はある。まずエッセネ派は結婚を否定しているというが、クムラン教団の文書(つまり死海文書)には結婚を前提とした記述が出てくるし、クムラン地域では家族の墓が発掘されたりもしている。エッセネ派は武器を持たないというけれど「戦いの文書」は武器を持っていることを前提として書かれている。エッセネ派は奴隷を持たないはずなのに、死海文書には奴隷についての規定がある――などである。このあたり、エッセネ派の姿を後世に伝えている中心人物のヨセフス自身がエッセネ派のところで修行したと称していて、まちがいを書いている可能性が低いだけに、この説にとっては大きな弱点になっているようだ。

 これに対して、エッセネ派説を否定し、パリサイ派・サドカイ派・「熱心党」(反ローマ過激派)などをクムラン教団だと考える説もあるらしい。ようするに、当時のユダヤ教の教派のいずれもが候補になっているというわけである。ただ、どの説をとっても矛盾する部分はある。いちおう「エッセネ派色の強い教団」だったというのが現在の定説だ。

 ところで、このクムラン教団が活動していた時期は、紀元前二世紀から紀元後一世紀にかけてであるとされる。「紀元前二世紀から」というのは、文書に出てくる「義の教師」のプロフィールから推定されることであるし、「紀元後一世紀」というのはユダヤ独立戦争の敗北でクムランの拠点がローマ軍に破壊された時代である。古文書学の知見もこの結論を支持しており、死海文書は紀元前一世紀あたりに書かれたものであるとするのが妥当だという。放射性炭素による時代測定でもだいたい同じような結論が出ているが、こちらは紀元後一世紀の可能性も残している。

 さて、この時代は預言者イエスの活躍した時代に重なる。しかも、ぐあいの悪いことに、死海文書が紀元前のものか紀元後のものか、断定的にはっきりと示せる証拠がないのだ。たしかに紀元前である可能性が強い。しかし紀元後である可能性も否定できないわけである。

 死海文書が紀元前の資料であればここにイエスが出てくるはずがない。ところが、紀元後の資料であれば、イエスが文書に出てきているかもしれず、またイエスがこのクムラン教団と密接な関係にあった可能性もでてくるわけだ。まぁ私のような異教徒にとっては「どーでもいーんじゃないの?」ってところであるが、そこはキリスト教圏の方がたやキリスト教徒の方がたには無関心ではいられない分野であるらしい。

 イエスがクムラン教団となんらかの関係があったのではないかということは、正統=非トンデモ学界でも承認されている。たとえば、非トンデモ新約聖書学の最近の成果である岩波書店版新約聖書では、クムラン教団とエッセネ派について、つぎのような註釈を載せている。

 クムラン教団
 紀元前二世紀中頃成立した、祭司的要素を基とした特殊共同体。死海のほとりのクムランの隠遁所で律法を徹底的に守りながら、近い終末に備えようとした。その外輪部分がエッセネ派であると考えられる。創始者は「義の教師」と呼ばれたカリスマ的祭司。ユダヤ戦争中、紀元後六八年にクムランの本拠地もローマ軍に破壊されたが、教団の重要文書はその直前に近くの洞窟群に隠された。それが一九四七年になってようやく発見された「クムラン文書」〔つまり死海文書〕の主要部分である。なお、クムラン教団やエッセネ派は新約聖書には直接は出てこない。しかし、洗礼者ヨハネはこれとなんらかの関係にあった可能性があり、また新約の後期の文書(ヨハネ文書)などもエッセネ派的象徴との触れ合いを示す。

 エッセネ派
 律法を特殊共同体的環境の中で遵守しようとしたグループ。おそらくその中核部分が、クムランに隠遁したクムラン教団。エッセネ派はしかし、おおむね都市に住む。
 この「洗礼者ヨハネ」は、福音書のなかでいちばん古いとされる「マルコによる福音書」の冒頭に出てくる人物で(もちろんほかの福音書にも登場する)、ヨルダン川方面で活動していた宗教家である。ヨルダン川というのは死海に注ぐ川だから、ようするに「クムランのそのへん」だ。

 「マルコによる福音書」一章によれば、
「そして、ユダヤの全地方とエルサレムの全住民とが彼のもとに出て行き、自らの罪を告白しながら、ヨルダン河で彼から洗礼を受けていた。ヨハネはらくだの毛ごろもを着、腰には皮の帯を締め、いなごと野菜を食べていた」[岩波書店版三頁]。
 それにしてもヨルダン川ってどろどろの塩水だぞ。そんな水で「洗礼」してもらうのは、あんまり、水浴びして気もちいい、ってな感覚ではなかったと思う(→エリヤとイエス)。

 ま、このヨルダン川にイエスがやってきてこの「洗礼者ヨハネ」から洗礼を受ける。ヨハネはかねてからイエスが自分のところに来ることを知っていて「私はこの方のために奴隷のしごとをする値うちもない」というようなことを言っていた。洗礼を受けたとき、イエスは「お前は私の愛する子、お前は私の意にかなった」という天の声を聞く。イエスは「天の声も変な声」などとはもちろん言わず、それから霊に導かれて荒れ野の修行に入り、いまのキリスト教のそもそもの旗揚げへと動き出すわけだ。

 上に書いたように、クムラン教団そのものは閉鎖的な共同体で、入会にも厳しい試練をパスすることが必要だったから、ユダヤやエルサレムの住民に広く悔い改めと洗礼の行事を行っていた洗礼者ヨハネのイメージとはちょっと食い違いがある。あるいはクムラン教団の一般向け広報部みたいな役割を担当していたのかもしれない。ともかく、洗礼者ヨハネがクムラン教団の幹部だったとすると、ヨハネはイエスにキリスト教創設のきっかけを与えた重要な人物なのだから、キリスト教の創始にはクムラン教団が深く関わっていたということになる。




 このあたりまでは非トンデモ学界でも認めている点だ。また、正統派に批判的な説でも、この時代にはユダヤ教の革新運動というのが幅広く展開していて、その一翼を担ったのがイエスであったというような位置づけをしているばあいもある。

 だが、それを乗り越えてトンデモの域に達している説もあるらしい。私が参考にしたクックの本の監訳者(土岐健治氏――ベテランの聖書学者である)はなにしろ正統派のマジメな学者さんであるので、そうした説が出回ったことを「騒ぎ」と表現し、これについて、
「この「騒ぎ」を取り巻くのは、心静かに、知を深め、学ぶことの楽しさと実りを分かち合うという精神性とは、余りにもかけ離れた世界であり、また、怪しげな書物について論評しようとすれば、筆者の嫌う、「正論」(「正統」)が「邪説」(「異端」)を駁する、という論調が、どこかに避け難く見え隠れせざるを得ないことに、不快を感ずるのである」(『死海写本の謎を解く』三二九頁)
などとたどたどしい説明をしている。こんなのは「死海文書についてトンデモ本がたくさん出た」と一行書けばすむ説明なのに。

 けれども、聖書学者であれば、新約に出てくる聖書(旧約)解釈に関して「トンデモ」を感じたことの一度ぐらいはあるはずだと思う。「トンデモ」が楽しいのは、それが「まともなこと」の正反対にあるからではなくて、「まともなこと」すれすれのところで「まとも」を外しているからなのだ。それは、意外と、「知を深め、学ぶことの楽しさと実りを分かち合う」ということの本質に近い部分をついていると私は思う。「トンデモ」に対しては、「不快を感ずる」よりも、笑って楽しんでしまうというと学会の態度がとりあえず正解であるようだ。がんばれ、と学会!

 たとえば、死海文書に出てくる「義の教師」が使徒ヤコブ、「悪の祭司」が対ローマ妥協派の――つまり異邦人伝道者として有名なパウロであるという解釈がある。あるいは、新約聖書の福音書に出てくる地名を、クムランの拠点(ヒルベト・クムラン)の部屋の名まえをさすものとして、その「暗号」にもとづいて新約聖書を読み解こうとするような説もあるらしい。前者はともかく、後者はどうやら「トンデモ」の洗礼を得て天の声をきいたことは確実なようだ。がんばれ、と学会!

 かと思えば、これとは逆に、たとえば「人の子」や「神のひとり子」ということばに対して、イエスとクムラン教団が正反対の態度を示したというような証拠から、クムラン教団とイエスの関係はきわめて薄いし、死海文書から「キリスト教」を読みとろうとするのはむずかしいのではないかという正統派の説もある。がんばれ、と学会!

 ところで、「クムラン系トンデモ本」に関しては、一般のトンデモ本とはちがった配慮が必要だというのが私の考えである。一般のトンデモ本は、調べて理解しようと思えばそれができることがら――たとえば相対性理論などに対して、薄弱な根拠で異を唱えるという点がトンデモらしさを増幅していた。ところが、死海文書については、文書そのものが十分に公開されていないという状況のもとでトンデモが生じてきたのである。相対性理論トンデモについてはアインシュタインにはまったく責任はない。しかし、死海文書をめぐってトンデモが生じたことの責任は、文書へのアクセスを閉ざしつづけた文書管理者にも多分にある。一方的にトンデモだけを非学問的だと非難することはできないはずである――というのが私の感じたことだ。

 なんにしても「トンデモ」は楽しい。
 がんばれ、と学会!




 さて、旧約聖書ではもちろんヤハウェが唯一の神である。これを「エホバ」と読むのが誤りから広がった呼びかただというのは『機動警察パトレイバー劇場版』第一作で後藤さんが言っていた。

 だが、さっきも書いたように、当時のユダヤは周囲を有力なさまざま有力民族に囲まれていて、イスラエルの民の力が弱くなるとそれらの民族がユダヤを支配した。また、エジプトから脱出してから「カナン」に定住したときに、イスラエルの民が滅ぼさずに残してしまった先住民族もいた。(→アンモン人に関するどうでもいいこと

 で、それらの民族にはそれぞれ「主」と仰ぐ神があり、そうした民族がユダヤを支配すると、それらの神がイスラエルの民に押しつけられた。その影響で、これら諸民族が信奉する「異教」の神々がイスラエルの民の信仰に入ってきたり、もともとこの地方に広く分布していた信仰がヤハウェへの信仰に勝ったりすることがあった。そのへんの多神教の神についてちょっち書いてみよう。

 バアル
 ヤハウェを信奉するエジプトからの難民群が、モーセに、そして途中からヨシュアに率いられて侵入してくるまでは、「カナン」にはまったく別の多神教があった。この宗教では、主神はエル、その妃がアシェラ、そしてこの宗教での雨の神・豊饒の神がバアルである。ヤハウェの宗教は、このバアル信仰とつねにライバル関係にあった。イスラエルに神が災厄をもたらす原因となる「悪」のなかでとくによく見られるのがこのバアルを祀ることである。イスラエルの民が受けた大きな災厄のひとつであった、新バビロニアの王ネブカドネツァルによる「バビロン捕囚」の前夜にもこのバアル信仰がさかんだったという話が「エレミヤ書」に見える。ちなみに「バアル」は「主」という意味らしい。

 イシュタル
アッシリア・バビロニア系の神で、天空神または月の神の娘とされている。戦争と愛の女神であり、ギリシアのアフロディテ(標準的な古典ギリシア語では「アプロディテ」)・ローマのヴィーナス(ラテン語では「ウェヌス」)にあたるとされる。聖書には「アシュトレト」という名まえで登場し、豊饒の女神として祀られたという。バアルの妃ということになっていて、やはり古代パレスチナでたいへん信仰されたらしい。そうか、あさりよしとおはアッシリアの時代から生きていたんだ!――さてはあさりよしとおはじつはうぇぴぃファンにタコ殴りにされそうだなぁ。デイジーもアスカも好きだぞ、うん。イシュタルというと、ほかに、『マクロス2』で笠原弘子がやったキャラの名まえとか、安彦良和の『ヴィナス戦記』での国名とか、いろいろこの方面では使われていますね。

 ベル
 バアルと同じく「主」という意味で、嵐の神「エンリル」の称号だった。バビロニアの主神として祀られていた神である。
 預言者ハバククが登場する「ダニエル書補遺・ベルと竜」の「ベル」がこのベルだ。ところで、この伝説での「邪神ベル」退治の主役の名――「神はお裁きになる」という意味のダニエルという名まえそのものが、ユダヤ教以前のこの地方の多神教にあった名まえなのだ。バアル信仰などの原型を伝える紀元前一四世紀の「ウガリット文書」にも寡婦や孤児を救ったシリアの名君のもともとの名まえとして登場するらしい。ほかの聖書関連の書物にも登場し、エチオピア語エノク書という「書」では堕天使の名まえにすら使われているそうなのである。とすると、「預言者ダニエルが邪神ベルの神官たちを裁いた」というこの聖典は、イスラエルの神にとって異教起源の賢者が異教の神をやっつけるという仕組みになっているわけだ。旧約聖書編纂当時にと学会がなくてよかったね。
 いずれにせよ、

 ユダヤの陰謀はもう古い!
 これからはニャントロ星人だ!

 とりあえず話をと学会からベルに戻そう。このバビロニアの主神ベルは、もともとバビロンの一地方の神だったのが、帝国の主神になり、その神々の上位に立つものとして「ベル」と呼ばれるようになった。では、このバビロニアの主神のもともとの名まえは何か――それが マルドゥク なのである。
 ついでだが、東方三博士の一人「バルタザル」という名まえは、このバビロニアの守護神「ベルよ王を守護せよ」という意味なのだそうだ(→『珊瑚舎通信』95年冬臨時増刊での誤訳のおわび)。

 キリストの生誕に際して東方から占星学の学者が訪れたという話は、福音書のなかで「マタイによる福音書」にだけ見られる。この占星学の学者がMAGI(マギ)だ。

 この占星学の学者というのは、つまりは東方の大国ペルシア地方のゾロアスター教の祭司のことであって、宗教家としても知識人としてもエリートだった。ただしユダヤ世界にとっては異教徒である。ユダヤ教のエリートである律法学者たちはメシアであるイエス・キリストの誕生をカンペキに無視したのに、異教徒のエリートはわざわざ遠くからやってきて、イエスに対して最初の礼拝を行った――というところにこの伝承の意味がある、とキリスト教では解釈しているようだ。この異教徒のエリートたちが捧げた「宝」も、黄金と没薬と乳香と、黄金を除けば東方の産物である(→東方三博士来訪の物語の位置づけ)。

 が、じつは、「マタイによる福音書」には、この三人がバルタザル・メルキオル・ガスパル(キャスパー……ってなんでこれだけ英語読みなの?)という名まえであるというようなことはぜんぜん書いていない、それどころか、「三つの宝を持ってきた」とあるだけで、三人で来たとはどこにも書いていないのだ。二人だったかも知れないし、もっとたくさん団体さんになって来たのかも知れない。が、いまでは三人ということに落ちついている。

 ようするに、占星学の学者すなわちMAGIというのは、冒頭におかれた(「最初に書かれた」ではない)福音書euangelionのイエス物語のほとんど最初の登場人物なのだ。それ以前にイエスに接触した人物は「両親」である神とマリアしかいない。やがて人類を補完することになる救世主に神とマリア以外で最初に接触したのはこのMAGIたちなのである。

 旧約ではバビロンは「偶像の都」として描かれている。香貫花がモロに言ってしまうのでアレだけど、この「バビロン」のイメージは『パトレイバー1』(劇場版第一作)に効果的に活かされていた。押井守には「多神教」にシンクロする部分が大きいのではないかと思う。

 また、多神教の国であってその宗教を強要してくること、ユダヤ人の厳格な宗教感情を考えずに頽廃的な雰囲気を持ってきたこと、ユダヤ人または初期キリスト教徒を迫害したことなどから、新約のとくに「黙示録」などではバビロンは初期ローマ帝国の暗喩として使われている、という読みかたが一般的である。




 ・論文の第一部(1〜6章)へ
 ・論文の続きへ
 ・目次へ戻る
 ・戻る