Genesis Apocryphon(Note:1)
* Genesis Apocryphon *
* 第一部(1〜6章)への註 *
【トンデモ本の逆襲】
と学会 編、洋泉社、1996年。
→「と学会」
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【と学会】
山本弘・藤倉珊らが中心となって設立した「トンデモ本」をこよなく「愛する」人たちの集まりらしい。 WAR MACHINE の眠田直氏も参加している。詳しくは、洋泉社から出ている『トンデモ本の世界』・『トンデモ本の逆襲』を参照してくれぃ。『逆襲』のほうには「と学会」結成の因縁話マンガも載っているぞ。
ちなみに、珊瑚舎・WWFには、このと学会の活動の影響を強く受けたメンバーが多い。ただし、その影響の受けかたは人それぞれであるようだ。
「トンデモ」のあるものは「超科学」や「超能力」の実在を主張している。このような考えかたにさらされつづけた者は、無批判にこれらの「神秘」・「超常」現象を確信し、それが大規模な反社会的な運動や宗教の発生の土壌をなすことがある。そのような「トンデモ」に対しては断乎とした態度で臨まなければならないという意見もある。
ただ、と学会のアプローチは、そうした「超科学」・「超能力」の実在を主張する議論にどう対処するかという姿勢のひとつとして有効であると私は考えている。もちろん、と学会的に「笑い飛ばす」方法が万能だとは考えていない。「これを放置したら危険だ」と判断したものには正当な反論・批判を加えるべきだ。もちろん、そういう場合でも、相手の言論の自由を尊重することを忘れてはならない。
→『トンデモ本の逆襲』
【「エウアンゲリオン」】
なんだこれは「エウアンゲリオン」であって「エヴァンゲリオン」じゃないじゃないかという声もあろう。新約聖書はギリシア語で書かれている。そしてギリシア語では「エウアンゲリオン」なのである。ギリシア語には英語のvの発音がなく、uとvの区別もない。ギリシア語の子音的なuをラテン語に写すときにvに写した。ちなみに標準的なラテン語ではvも英語でいうwの発音で、ラテン語のevangelionも発音は「エウアンゲリオン」となる。
なお、ラテン語のvを「ヴ」で表記するのは、慣例としては許されると思うが、不正確である。たとえば、古代ローマの詩人Vergiliusは、標準的なラテン語では「ウェルギリウス」であって「ヴェルギリウス」ではなく、まして「ベルギリウス」ではない。
【使徒】
なお、新約聖書の「十二使徒」の「使徒」はapostleであってangelではない。
【Angel】
Evangelion(euangelion)という語のなかにangelという綴りが含まれているのはもちろん偶然ではない。Angelはギリシア語の「使者」つまり「知らせを伝える者」ということばが語源で、その「知らせ」というところが「良き知らせ」evangelionの「知らせ」と重なるわけだ。
【創世記】
旧約聖書の冒頭におかれたいわゆる「モーセ五書」の最初の「書」。有名な天地創造の説話やアダムとエヴァの楽園追放、カインとアベル、バベルの塔などのエピソードを含む「書」である。経典としては、これらのエピソードは「出エジプト記」以後で語られる神との契約の前提という位置づけとして読むべきだという考えもかたある。
【モーセ五書】
たんに「五書」ともいう。旧約聖書の「律法」の基本をなす「創世記」・「出エジプト記」・「レビ記」・「民数記」・「申命記」の五つの「書」を指していう。モーセ時代を中心として叙述している。
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→聖書の構成
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【聖書の構成】
・「旧約聖書と新約聖書の関係は……」より。
聖書は、「創世記」・「出エジプト記」……「ヨハネの黙示録」などの合計66の「書」から成り立っている(旧約39書・新約27書。ただし「旧約続編」は含まず)。その各「書」がさらに「章」に分かれ、「章」が「節」に分かれている。聖書を引用するときには「「イザヤ書」57章10節」などという引用のしかたをする。これを英文ではIsaiah 57:10のように表記する。
厳密にいうと、キリスト教では「旧約」・「新約」単独では「聖書」にはならない。両方が備わってはじめて「聖書」になるらしい。もちろんキリスト教にもいろんな立場があり、イエスのことに言及した「新約」のごく一部しか「聖書」として認めないという立場は早くもローマ帝国時代に出ている。
旧約聖書は、キリスト教の観点によれば、モーセによる神との契約の次第と契約の内容を記した「五書」、つぎに「歴史」の部分(申命記的歴史と歴代誌的歴史の二部に分けて整理される)、「文学」の部分、最後に「預言」の部分というように編成されている。
この編成はユダヤ教の編成とは大きく異なっている(→諸宗教における聖書)。また、キリスト教のなかでも、現在の「新共同訳」に「続編」として一括されている諸「書」をどう扱うかという部分で、こまかなちがいがある。
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※ 本文に戻る際にはブラウザの「戻る」機能を用いてください。
【諸宗教における聖書】
さきほどから「キリスト教では」と断っている理由をちょっち説明しよう。これはユダヤ教では聖書の位置づけがちがうからである。ユダヤ教で「聖書」というとキリスト教でいう「旧約聖書」のことである。各「書」の並べかたもちがっている。ごくかんたんにいうと、ユダヤ教の聖書では「律法」の重みが大きい。そのため、聖書の諸「書」の編成も、「律法」的に意味の重い「書」から重要性の薄いとされる「書」という順番に並べられている。それに対して、キリスト教の旧約聖書は、イエスによる救済というクライマックスにいたる「救済の歴史、救済への歴史」という位置づけで捉えられている。ユダヤ教では「創世記」はモーセを通じて授かった律法の出発点だが、キリスト教では「創世記」は「福音書」をクライマックスとする物語の出発点なのだ。
また、イスラム教(最近では「イスラーム」と呼ばないと怒る人がいる→「イスラーム」)ではまたまったくべつの聖書の位置づけがあるのだろうが、残念ながら私はよく知らない。
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【イスラーム】
最近は「イスラム教」でなく「イスラーム」と言わないと怒る人がいる。「イスラーム」の長音を無視して「イスラム」と言ってはならないのだそうだ(だったら「ソクラテス」や「プラトン」はどうなる?!)。また、「イスラーム」は生きかたの全体を指していうので「教」をつけるのもまちがいらしい。それだったらカトリックもセルビア正教も仏教も儒教も道教もユダヤ教も「教」と呼んではならないはずだが?
「イスラーム」のことをよく知らないなどというと、近頃では、「西欧中心主義」だ、アメリカ帝国主義の手先だ、などという罵声が飛んで来るかも知れない。じつはこういうところにもトンデモはひそんでいるのだが、「タキオン」とか「ニャントロ星人」とかいう「強くアピールするもの」に乏しいだけに、なかなかと学会的アプローチがとりにくい。困ったものである。
もちろん、筆者は、近年の「イスラーム」研究者が、一般の読者に向けて精力的に「イスラーム」に関する各方面の知識を伝える活動を展開しておられることに敬意を表している者であり、多くの「イスラーム」研究者が唱える「ヨーロッパ中心主義は是正されなければならない」という主張にも共感を持っている。ただ、その啓蒙活動の戦略として「イスラム教ではなくイスラーム」というようなコトバの問題に過剰にこだわることは逆効果ではないかと言っているのである。
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【エヴァ】
厳密にいうと、実を食った段階ではまだ女のほうはただ「女」とだけ呼ばれていて、神からいくつかの報いを宣告されてから、アダムが「女」をエヴァ(命)と名づけるのである。「女」がつくられるまえ、アダムは、神が連れてきて「こいつ、なんて名まえにする?」ときいてきた動物にかたっぱしから名まえをつけた。その動物たちとおんなじように、アダムが「女」にエヴァという名まえをつけたのである。一方、神との関係ではその後もエヴァは「女」である。
ちなみに、『ひとが動物たちと話すには?』という本の原題 Adam's Task は、アダムが神に示された動物たちに名まえをつけたというこのエピソードから来ている。この本を知らない人は『西武新宿戦線異状なし』(押井守・おおのやすゆき、日本出版社)を読もう。
なお、邦訳聖書では「エバ」となっているが、ここでは「エヴァ」としておく。英語訳では Eve (イヴ)である。また、『新世紀エヴァンゲリオン』では、「エヴァンゲリオン」の略語として意図的に「エヴァ」という語を用いているが、語源的にはこの両者は関係がない。それを結びつけたのは『エヴァンゲリオン』スタッフの創意である。
【イスラエルの国際環境】
当時のイスラエルに脅威を与える北方勢力は、当初はスキタイなどの遊牧民が中心であった。「エレミヤ書」で言われている北からの脅威とはこの勢力を指していると言われる。その後、ペルシア帝国時代をはさんで、アレクサンドロス大王とその後継者たちのギリシア系勢力が新たな北からの脅威となる(アレクサンドロスの帝国は、伝統的なギリシア本土=「ヘラス」の外が本拠地であるが、ここではこのように読んでおく)。とくに、死海文書を残したクムラン教団の創立に深く関係するといわれる「ハシディーム戦争」は、このアレクサンドロスの帝国の系譜を引くセレウコス朝シリアのアンティオコス4世エピファネスに対するユダヤの独立戦争である。
南西のエジプトは、ときにはイスラエルに対する脅威として、ときには東からの脅威が及んだときのイスラエルの後ろ盾として、つねに大きな存在であった。メソポタミアからイスラエル・ユダヤに大きな影響を与えたのはアッシリア帝国と新バビロニア帝国で、アッシリア帝国は「北王国」を、新バビロニア帝国は「南王国」をそれぞれ滅ぼした。「エレミヤ書」からは、エジプトとメソポタミア大国のはざまで、客観的には大国とは言えなかった当時のイスラエルが外交戦略に迷い、知識人が苦悩するありさまを読みとることができよう。
(北王国・南王国については→古代ユダヤ王朝)
アッシリア・新バビロニアにつづくペルシア帝国は各民族の宗教を尊重する姿勢を示して勢力を拡大し、ユダヤ民族にも寛容であった。さらに、これらの大民族・大国以外に、「カナン」(≒現在のパレスチナ)の先住民であるカナン人やモアブ人・ペリシテ人・ミディアン人・アンモン人などの直接に境界を接している諸民族も、イスラエルの民にはつねに脅威であった。
【古代ユダヤ王朝】
イスラエルに統一王朝を打ち立てたのはダヴィデ王である(紀元前1000年頃)。メシアはこの王の血筋からのみ出るとイエスの時代まで信じられていた。「マタイによる福音書」が冒頭の部分でイエスがダヴィデ王の子孫であることを強調しているのはそのためである。ちなみに、その国家や民族の王や救世主となる資格を持つのはある一定の男性の男系子孫のみであるという考えかたは、これ以外にも、たとえばチンギス・ハン後のモンゴル民族でも見られた。ここでは、チンギス・ハンの男系の直系子孫のみがモンゴル系国家の君主でありうるという原理(これを「チンギス統原理」という)が何世紀にもわたって守られていた。
さて、ダヴィデのあとは「ソロモンの栄華」で知られるソロモン王が継いだ。その死後の前922年、王国は南北に分裂し、それぞれダヴィデ王の血統をひく王が統治することとなった。
北王国がアッシリアにより滅亡させられたのは前722または721年である。南王国の滅亡は前587年で、エジプトと新バビロニアの両大国に翻弄されたあげく、新バビロニアからの自立をめざして親エジプト政策をとったことが新バビロニア王国の侵攻を招いた。このときの新バビロニアの王がネブカドネツァルまたはネブカドレツァルである。「湾岸危機」の際、イラクのフセイン大統領は、みずからをこのネブカドネツァル王に擬していたという話がある。ネブカドネツァルはユダヤ人を大量に首都バビロンに連れ去るという「バビロン捕囚」政策を行った。
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【遊女ラハブ】
「マタイによる福音書」冒頭の「イエス・キリストの系図」(じつは血のつながらない父であるヨセフの系図)にも名まえが出ている。
【みな殺し】
後述のように、敗残の異民族に寛容な態度で臨むと、あとでその異民族が勢いを盛り返したときにこんどは自民族が復讐を受けるからである。そうなることを避け、「安全」を確保するために、打ち破った敵を全滅させたのである。なお、「安全」はパレスチナ和平以前の(おそらく現在も)現代のイスラエルにとっても鍵となる考えかただったといわれる。
また、敵の財産を残すと、その分け前争いが内部分裂のきっかけになりかねない。敵を生かして残すと、これも奴隷として「財産」となり、これまた財産の不均等を招くきっかけになりかねないという一面もあったようである。「士師記」以下では、これらの民族に対してイスラエルの民がなまぬるい政策をとったことが、イスラエルの苦難のひとつのきっかけとして位置づけられている。
なお、城壁で堅固に囲まれた「悪」の側の都市に「正義」の側のスパイが潜入すると、「悪」の勢力のなかにひそかに協力してくれた者がいて無事にその都市を陥落させることができたという物語は、『水滸伝』や『三国演義』にも見られるパターンである(もしかすると日本神話にもあるのかも知れないがにわかに思い出せない)。そのとき、その一族だけを救うという物語になっていることもあれば、その一族がいたからということでその街の全員を救うという物語なっていることもある。
【アジアの宗教】
アジアが「温暖な森林地帯」であるというのは日本の一部の風土だけを見て「アジア」全体がそうだと考えることによる偏見である――などと書いていた1996年の1〜3月は日本もまさに「今日も寒いな、ぶるる」(『プリンセスメーカー2』で「北部山岳地帯」に出没するスノーオークのセリフ)というような日々であった。だいたいユダヤ教・キリスト教が興ったイスラエルも、イスラム教が興ったアラビアも、アジアの一部である! それどころか、ほんらい「アジア」(「アシア」)というのはいまのトルコあたりのことをいうので、そこまで遡ればイスラエルがいちばん「アジア」の本拠に近いことになったりする。温暖なはずの日本にも、他宗教・多宗派を厳しく排撃する宗教は育っている。風土論的な説明の有効性は認めるが、それをあまりに拡大してすべてを解釈しようとするのは「トンデモ」的であり、また危険な要素もはらんでいる。
なお、現在の「トルコ」を「トルコ」と呼ぶのはもともと民族名に由来するもので、歴史上の地名としては「アナトリア」とするのが正しいようだ。現在でもこのあたりを「小アジア」というが、もともとはこの地域のみが「アジア」だったのである。
ところで「厳しい」と言えばどっか茨城県のほうに「地球に厳しいアニメ」というようなものが存在したような気がするんだが、アレはどうなったんでしょ(^^;?
【死海文書】
Scrollというのだから文字どおりには「死海の巻物」である。「死海写本」という呼びかたもある。私の印象では、学術的なアプローチで死海文書がユダヤ教・キリスト教解釈にもたらす問題点をなるだけ慎重に解釈しようとする人たちが「写本」のほうを、逆にユダヤ教・キリスト教についての革新的な(あるいはトンデモな)見かたを読みとろうとする人たちが「文書」を使うようだ。「クムラン写本」という呼びかたもある。「死海文書」のうちでクムランで発見されたものだけを「クムラン写本」と呼んで使い分ける立場もある。ここでは『エヴァンゲリオン』にあわせて「死海文書」と呼んでおこう。
なお、「死海文書」の発見は1947年のこととされているが、「謎」には事欠かないこの「死海文書」のこと、最初に発見された年代そのものにもいろいろな説がある。最近では第一発見者は1936年だと言い張っているらしい。その後、この周辺のいくつかの洞窟から類似の古文書が発見されて現在に至っている。
【イザヤ書】
旧約の大預言書の一「イザヤ書」は、時代を異にする三人の預言者が同じ名まえでつぎつぎと預言を行ったのを一巻にまとめたという複雑な構成をとっている、けっこう長い預言書である。ちなみに旧約聖書について論じるときには、預言書を「大預言書」と「小預言書」の二種類に分類するが、「大」と「小」の区別はもっぱら預言の分量によるのであり、預言者や預言の内容の格にちがいがあるわけではない。「大」預言書とされるのは「イザヤ書」・「エレミヤ書」・「エゼキエル書」であり、「エレミヤ書」の主人公エレミヤのものとされる「哀歌」とバビロニアで活動した預言者ダニエルを主人公とする「ダニエル書」もこの大預言書の部類に入れられる。それ以外の12の預言書が「小預言書」である。なお、カトリックの「第二正典」には、「エレミヤ書」の関連文書としてさらに「バルク書」と「エレミヤの手紙」がある(「新共同訳」では「旧約聖書続編」に収録)。
旧約聖書の現存する原典は、早くても6〜10世紀、そしてその多くは14世紀以後のものである。いっぽう、「イザヤ書」の成立は紀元前数世紀にまで遡る。そのあいだに聖書の文章がどの程度まで忠実に伝えられていたのかは、この写本の発見までは、はるか後代の写本のあいだの差異を検討するなどの間接的な方法しかなかった。それが、この写本の発見によって、「聖書の本文はイエス時代から忠実に伝えられている」ということを直接に証明できる証拠が手に入ったのである。
【ハバククの伝承】
預言者ハバククは「ダニエル書補遺・ベルと竜」にも登場する。
バビロンで活躍していた主人公ダニエルが王によってドラゴンのいる洞窟に幽閉されたとき、ハバククはユダヤで畑で刈り入れをしている人たちに食事を持っていくためにシチューとパンを持って歩いていた。そのときとつぜん「主の使い」があらわれて「その食事をダニエルに差入れしてやれ!」と言った。ハバククが「バビロンになんて行けるわけがないじゃないの!」と口答えすると、主はこのハバククをイスラエルからバビロンまで髪の毛をつかんでぶっとばした。この差入れのおかげで、ダニエルは洞窟で飢え死にもせず、ドラゴンにも殺されないですんだという。(→ダニエルの伝説)
……ところで、シチューとパンを心待ちにしていてはずの「刈り入れをしている人たち」はどうなったんでしょう。それに、そんなに乱暴にぶっとばされたら、シチューがぜんぶこぼれちゃったと思うんですが(^^;。
【ダニエル書補遺】
「新共同訳」の聖書には、「旧約聖書続編」部分に、「ダニエル書補遺」として、物語を二つ(「ベルと竜」・「スザンナ」)、祈り・賛歌(「アザルヤの祈りと三人の若者の賛歌」)を一つの合計三編掲載している。これらはカトリック系の旧訳ではダニエル書の一部とされていた。他方、プロテスタント系では外典とされていた(→外典)。
なお、「ベルと竜」と同様のエピソードは、正典の「ダニエル書」にも見える。
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【ダニエルの伝説】
余談であるが、この「ベルと竜」というのは、神殿の供物がなくなるので大食らいの神さまがいるといわれているのを調べてみたらじつはぼーずどもがむさぼり食っていたという話で、まぁ「日本むかしばなし」にでも出てきそうなよくある話である。
おなじく「ダニエル書補遺」の「スザンナ」のほうを読むと、「セクハラ」をしておいて、それが発覚すると地位と権力を利用して相手の女を陥れようとするいやらしいオヤジというのは紀元前からいたんだということがよーくわかる。このオヤジどもは、自分たちが手を出そうとした相手の若い娘を無実の罪に陥れて、しかも社会的威信を笠にきて死刑にしようとする。それも「姦淫の罪」というので群集に石で打たせて殺させるという方法でである(「申命記」22:24。この律法がイエスのエピソードの下敷きになっている→イエスのエピソード―姦淫の女)。で、その女がベールをかぶって出てきたのを、むりやりベールを脱がせて(古いギリシア語訳である「七十人訳」ではたんに「脱がせて」という訳になっているらしい)その美しさを堪能した――なんて話がよく聖典に書いてあるものである!
こういう聖典はあんまり「君といっしょ」に読まないほうがいいと思うよ。
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・ダニエルについては9章の「ベル」の項でも言及している。
→「ベル」の項へ
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【姦淫の女】
イエスの有名なエピソードに、女が姦淫の罪で処刑されるところを通りかかったイエスが「自分に罪のおぼえのない者が姦淫の女にむかって最初に石を投げろ」と民衆に言うと、だれも石を投げようとしなかったというものがある(「ヨハネによる福音書」8:3―11)。
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【七十人訳】
紀元前の旧約聖書のギリシア語への翻訳。新約聖書での旧約聖書からの引用の一部はこの翻訳に拠っている。
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【君といっしょ】
某ガイナアニメの主人公が少女をナンパしようとするときのセリフ。さて、このガイナアニメとは何でしょう? 正解した人には先着50名様でWWFから……何も出ません!
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【イエスの刑死の描写】
「ヨハネによる福音書」では、イエスの刑死の際に、ローマの兵士が、規則に反して十字架のイエスの足を折らなかったことと、そのわき腹を槍で突き刺したこととを描写し、それを(旧約)聖書の預言が成就されたものと説明している。
「……〔イエスを十字架にかけた後、ローマの兵士たちが〕イエスのところに来てみると、すでに死んでいるのを見て、その足を折ることはしなかった。しかし、兵士たちの一人がその槍でわき腹を突いた。すると、すぐ血と水が出てきた。目撃した人が証ししてきた。彼の証しは本物である。その人には自分が真実を言っていることがわかっている。あ
なたがたも信じる[ようになる]ためである。つまりこれらのことが起こったのは、その骨が打ち砕かれることはないであろう、という聖書〔旧約にある預言―私の註〕が満たされるためだったのである。また、〔聖書の〕他の書物は、彼らは自分が刺し通した人を〔思いをこめて〕見るであろう、と言っている」(ヨハネによる福音書19.33-37、岩波版に拠る)。
この「ヨハネによる福音書」の記述は、現在、新約の正典に採られている他の三福音書(マタイ・マルコ・ルカのいわゆる「共観福音書」)にはなく、「ヨハネによる福音書」独特のものである。
(1) 「足を折らなかった」ことについて 「その骨が打ち砕かれることはないであろう」の出典は、「出エジプト記」の12:46の「過越祭」に関する「主」のことばである。過越祭では犠牲に羊をお供えする。このお下がり(?)を、だれが食うか、どう食うかということをモーセの律法はこと細かに定めている。その一部分に「一匹の羊は一軒の家で食べ、肉の一部でも家から持ち出してはならない。また、その骨を折ってはならない」とある。これはモーセが神から伝えられたことばで、それをモーセは「律法」としてその他おおぜいに伝えている。形式としては、神からモーセが与えられたことばなので「預言」といえないこともないが、現在ではこの部分は「律法」の一部であって「預言」には含まれない。ところが、ギリシア語訳の旧約聖書(→「七十人訳」)では「〜しなければならない」は「〜するであろう」という未来形で訳されていた。これを、「ヨハネ」の作者は、イエスは神に捧げられた犠牲の羊であるという前提にたって、純然たる預言として読んだのである。前後の記述を考え合わせるとけっこう特殊な―「トンデモ」な読みかただと思うが。
(2) 「槍で突き刺した」点について 「彼らは自分が刺し通した人を……」の出典は「ゼカリヤ書」の12:10といわれている。
「その日、わたし〔主〕はエルサレムに攻めてくるあらゆる国を必ず滅ぼす。わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼らみずからが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(新共同訳)。
「ゼカリヤ書」はペルシア帝国時代の預言書で、二人または三人の預言を合わせたものとされている。この部分は、そのうちの「幻」を中心に語られている部分にあたる。幻を見て、それに的確な解釈を与えることが、聖書での預言者の役割のひとつであった。「エゼキエル書」・「ダニエル書」や有名な「ヨハネの黙示録」に見られる。
この部分は、エルサレムが絶体絶命の窮地から「主」の働きによって救われる場面であること、その前の章が犠牲にするはずだった羊が商人の手に入ってしまったという話で「羊」と関係のあること、ここの文脈ではエルサレムの人たちによって刺されたのが「主」であること、それをユダヤ人たちが「独り子」(イエスは「神の独り子」などと自称して
いた)を失ったように悲しむであろうと書かれていること……などが、このイエスの処刑の一節と符合する。
なお、邦訳聖書ではゼカリヤ書のこのへんはやや難解である。注解を読んでみると原文でもなんかよくわからないそうだ。
【共観福音書】
マタイ・マルコ・ルカの三福音書は、観点や内容に似ているものが多いので「共観福音書」とひとまとめにして呼ばれることが多い。このうち、最古の資料が「マルコ」であり、「マタイ」と「ルカ」は、執筆当時すでに成立していたこの「マルコ」と、現在は失われているイエスの言行録(→「Q資料」)とから書かれたものであるとされる。「ヨハネによる福音書」はこれら三福音書とはやや系統が異なる。
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【Q資料】
現存する最古の福音書である「マルコによる福音書」には記述されておらず、「マタイ」と「ルカ」に共通して描かれているイエスに関するエピソードがある。そこで、「マルコ」と並んで「マタイ」と「ルカ」の執筆の参考になった別のイエス言行録があったのではないかと推定されるようになった。この現在では失われた言行録はかりに「Q資料」と呼ばれる。「Q」と「マルコ」が他の二福音書の資料であるとするのが「二資料説」、それ以外に「原ルカ」・「原マタイ」というさらに別の資料があったとするのが「四資料説」である。
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【クムラン版ハバクク書】
現行の「ハバクク書」には3章に「歌」が収録されているが、クムラン文書にはこれがない。
【外典】
単数でApocryphon、複数形はApocryphaで、日本語でも「アポクリファ」という呼びかたをする。「聖書的な文書」でありながら現在の聖書には収められていない文書のことを「外典」と呼ぶ。ただし、広義の「外典」を「偽典」・「外典」に分ける教会もあり、また、逆に、他の教会が「外典」とする文書を「第二正典」として正式の聖書に受け入れている教会(カトリック教会がそうである)もある。詳しくは6章参照。
新共同訳で「続編」とされている部分のうち、末尾の三編をのぞく他の「書」はカトリックでは「第二正典」として「外典」・「偽典」扱いはしなかった。他方、プロテスタント系ではこれらの文書に対する態度は厳しい。その理由は、これらがヘブライ語ではなくギリシア語などで書かれ、旧約聖書としてはヘブライ語のテキストまで遡れる由緒正しい文書でないというところにあるとされる。だが、これらのなかには、イスラエルの外にいて当時の共通語であったギリシア語を話していたユダヤ人が最初からギリシア語(その他の言語)で書いたことが確実なテキストとともに、ヘブライ語のテキストの存在が確実なものもある。この「続編」以外にも「外典」・「偽典」は存在する。
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【アラム語】
当時のこの地方の有力言語であり、イエスは一般にアラム語をしゃべっていたという説もあるが異論もあるようだ。
【綴じられた本】
綴じ本はコーデックスcodexと呼ばれ、(少なくとも聖書関係では)紀元後100年ぐらいからしか現れない。
【1947年のパレスチナ】
当時のパレスチナの状況を記録した映像は、NHKスペシャル『映像の世紀』の第10集「民族の悲劇果てしなく」で放映された。
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【SFCチャチャゲーム】
『赤ずきんチャチャ』がまだ本放送中だった時期に、大チャチャ様(マジカルプリンセス)が「たのしみに待っててね!」と呼びかけるCMが放映されていた。だが、その後、このゲームのリリースは期日未定になってしまった。最新情報では1996年の5月に発売されるという話もあるが、どうなんだろう?
【ユダヤ教の会堂の屋根裏部屋】
そういうところで発見された貴重なキリスト教・ユダヤ教関連文書もある。「ダマスコ文書」はそのひとつ。
【ニャントロ星人】
だから、わかんない人は『トンデモ本の逆襲』を買おう!
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