サッカー観戦歴

2018年7月5日、記

最初に、競技場でサッカーを見たのは、1964年の東京オリンピックです。

父が都立高校の教員で、地方公務員の特権で優遇されたというより、動員のように割り振られた試合観戦だったのではないかと思います。

というのも、当時の日本では、サッカーなんぞ見向きもされていなかったし、次のメキシコ大会で銅を取って、ちょっと脚光を浴びましたが、その後も大してもてはやされなかったように思うからです。

サッカーは、クラブチームが世界最高峰を競うもので、中立地帯の日本で、トヨタカップが開催されていました。サッカーやラグビーというスポーツは、国の威信をかけた、というようなものではなかったようにも思います。

ともあれ、オリンピックで観戦した試合は、そんなに観客の入っていない、でも、釜本や横山のいた、日本戦だったような気がします。

当時、6歳でした。そんな具体的な記憶は、作られた記憶かもしれないし、強烈な印象だけが先走った記憶かもしれませんが、とにかく、いまはなき、初代の国立競技場のゴール裏、ぎゅーぎゅー詰めではない観客席で、試合を観ました。ゴール裏だったのは、都立高校の教員の割り当てだったのかもしれないと、今になって思います。

その次に観たのは、日本で開催された、ユース大会です。満席でした。日本代表には、永井だったか奥寺だったか、随分違うけど、が、いました。イスラエルの国旗が、誇らしげに若々しく、観客席で翻っていたのを覚えています。

感動しました。そういうことに。思春期の純情と言えましょう。

高校生の時、ペレの、世界を巡業する引退試合があって、国立競技場でのチケットを入手できた同級生が観に行くという話を、忌々しく、羨ましく、聞いていました。

大学生の時、一人で、夜の国立競技場に行きました。前売りではなく、当日、思い立って観に行ったので、アルプス席でしたが、入れました。

まだ現役だったマラドーナが主役の試合でした。遠くから見るしかなかったけれど、マラドーナのドリブルはほんとに素晴らしかった。目に焼きついています。マラドーナがその後、どんなふうに非難されることになろうが、ビクともしないくらい、華麗なプレイでした。

何かの大会に関連したものではないので、試合の結果はそっちのけで、観客の誰もが、マラドーナを観たい一心の試合だったし、マラドーナも真剣勝負ではなかったとは思いますが。

その後は、加藤久さんがいた頃の早慶戦を観に行ったかなぁ、ぐらいです。

日常的にどうだったのか、と言うと、父が、若い頃からサッカー好きでした。

学生時代、第二次世界大戦前後から、サッカーをやっていました。戦中、サッカーは蹴球と呼ばれていました。いまの東大、当時の一高が、一番強かったのではないかと思います。父がいたのは、いまの熊大、旧制五高です。

そんな我が家にとって、元旦に天皇杯の決勝をテレビで観るのは、年中行事の一つでした。

元旦は墓参りをする日でもありましたが、二時から始まる試合に間に合うようにしていました。

近所に住む父の同級生の家にお年始に行くようになってからは、元旦なら、二家族みんなでサッカーを見る、2日なら、駅伝を見る、場合によっては、ラグビーを見る、その後、私は友人と国立競技場にラグビーを見にいくようになりましたが、ともあれ、サッカー天皇杯は、日常の一部でした。

古河電工が強かった。

父は、サッカー部の顧問をしていました。サッカー部の試合に連れていかれたことが何度もあります。吉原の付け馬のようなものだったのかもしれません。

余談ですが、同じように煙もくもくの吉祥寺のバラックの飲み屋に連れていかれたのは、五、六歳の頃ですが、好きな風景として思い出します。

そんなわけで、Jリーグができる前から、プロ野球と同じようにサッカーの試合もチャンネル権争いで父が主導権を握っていましたし、家族も、サッカー部やサッカーボールなどに、日常的に触れていました。

二十五年ほど前、ワールドカップに出られるかもしれない、結局、出られなかった、という、ドーハの悲劇の頃、母が急死しました。

それから二十年、父のサッカー熱は変わらず、大きな試合の時は、その試合経過を携帯メールで実況してきましたし、賭け事も好きなので、競馬だけではなくトトも欠かさず買い、一度、一等をとったこともあります。

父と同じことを考えた人が何人もいたらしく、少額賞金になってしまったそうですが、四百万の賞金を、三人いる弟たちに百万ずつ送り、残りは、娘や日頃世話になっている姪などに使い、あとで、人に話さなきゃよかった、と何度も嘆いていました。黙っていることができないタチなので、無理な話でしたが。

東日本大震災のほぼ一年前、肺炎嵩じて入院し、ベッドに横たわりながら、あっ、トトと宝くじが当たってるかもしれない、通帳を確認してきてくれ、暗証番号は…、いかん、暗証番号が病院中に知れ渡ってしまった、いまのはナシ!というのが、いわゆる、最後の言葉となりました。

遠因は肺気腫、近因は肺炎、その亡くなり方は急変、と、父の教え子の医者が言うほど、バタバタと入院し、会って一週間も経たない看護師たちが泣きじゃくるような、急な死に方でした。

それ以降、なんとなく、サッカーから距離を置いています。

そして、今現在、再来年のオリンピックや来年のラグビーワールドカップを控え、皇室の交代劇や慶事などに対する、何の屈託もない報道を見ていると、「あの時代」を思わずにいられなくなり、ますますサッカーから目を逸らしています。

サッカーもラグビーも好きなんだけどね、いまの社会の風潮が、とっても嫌い。

20代前半

20代後半

30代前半

ばあちゃんも生きとるよ!