エディター、コピーライターなど、横文字の職業名が流行りだしていましたが、翻訳コーディネーターというのは、初めて聞く職種でした。面接で、教師はつぶしがきかない、初任給だけは他の職種よりいいから世間知らずな要求をする、非常識でわがままな人が多い、などと嫌味たっぷりに言われつつ、「時間に縛られない自由」と「社会保険やボーナスなどの保証」と、どっちを選ぶかと聞かれ、前者を選んで、契約社員となりました。
そこは女性の多い職場で、新規事業立ち上げのために雇われたという一つ年上の女性は、社員の一部から女王と崇められていました。
タメ口しか聞けないタチなので、同年輩の女王様にもタメ口になり、そういうことはお構いなしだし、正社員でもないし、というところが、彼女にも心地よかったのか、一緒に、会社で一升瓶を開け、当時、防衛省があった角の屋台に繰り出したり、六本木のカンボジア料理の店に行ったり、朝まで飲んだりしていました。
お局様たちから注意を受けたこともありました。思えば、その後の職場でも、そんなことが結構あったかもしれません。
ともあれ、女の陰湿な陰口やイヂワルにもノンシャラリとして、平気の平左みたいな顔をしてるのが、功を奏したのか、したがって、こんな生き方をせざるを得なくなったのか、わからぬところですが、格の上下はない、管理職は敵、先生は生徒より早く生まれただけ、といった、教員根性はいつまで経っても治りません。
よっぴいて仕事をし、パイプ椅子を並べて仮眠を取ったり、深夜タクシーに乗って仕事とアシスタントを連れ帰ったり、女の子がそんなことをしなくてもいいのに、と、中間搾取会社のおじさんたちが菓子折りを持って陣中見舞いに来るようになったのは、ひ孫受けではあっても、実入りのよかった、二つ目のプロジェクト、EDR機械翻訳に関わった時です。
先の在宅翻訳者の中から作業者を選りすぐって、機械翻訳用の英和辞書作成のコーディネートをしました。
女が女に厳しいのは、女だてらに徹夜仕事するなんて、いな、結婚もしないで仕事するなんて、といったような、男社会に潰されないためには必須のことだったのかもしれませんが、人の意地のために仕事をしてるわけじゃないし、と、プロジェクトがひと段落したところで、やめることにしました。
女王も、間もなく会社をやめ、イギリスに留学し、帰国後は大手化粧品会社で営業をやっている、という噂を聞きました。
その女傑は、体で仕事を取ってくると業界の男どもに揶揄されていましたが、まだそんな時代でした。いまも同じかもしれませんね。男が、女を貶める土台を固めているのはいまもあまり変わりません。それに追従する女も、いつの世にもいます。
一般論から自分の話に戻すと、その翻訳学校をやめるつもりでいたとき、二人の外部の人たちから声がかかりました。
一人は、中間搾取会社の社員で、社長が貴方を引き抜こうとしているが断ったがいい、ウチは貴方が来るようなところじゃない、とアドバイスしてくれました。岡なんとかいうアイドルが、峰岸徹と不倫をして、ビルの屋上から飛び降りた、サンミュージックの斜め前に、その怪しい会社があったのだったか、その社員と会った、窓がステンドグラス風の喫茶店があったのだったか、記憶が曖昧ですが、昭和の一風景でした。後日、そこの社長から勧誘されましたが、断りました。
二人目は、主要電機メーカー八社と通産省からなる日本電子化辞書研究所EDRの仕事のほとんどを直接受注していたINSという会社で嘱託をしていた方で、長く三省堂の国語辞典の編集に関わってきた、日本語の猛者でした。漢字検定試験が大好きでしょっちゅう受けて高得点を取っていました。
親より少し若いくらいの年齢だったでしょうか、彼女の知識や見識に惹かれて、ついINSへの入社を決めてしまったのが、後々に影響することとなりました。
INSでは普通の社員として入社しました。ここは、もともと入力専門会社で、プログラマーなどの新卒採用は子飼いでしたが、EDR機械翻訳関連チームは、もと平凡社の編集者が中心になって構成されていました。
私は、先の会社でやっていた機械翻訳用英和辞書の仕事ごと、この直の下請けだったINSに移ったことになります。
契約社員を望みましたが、新卒採用が増えてきて、新規事業も波に乗り始め、中途採用とはいえ、まだ二十代だし、ということだったかと思うのですが、社員となり、その社員となったばっかりに、接待の場に引き出されることが増え、やりたいのはそんなことじゃないと不貞腐れ、遅刻、早退、欠勤でタイムカードは毎日真っ赤でした。
経理の子からは、小山さんお給料なくなっちゃうよと泣かれ、平凡社組の人からは、私たちと同じように年俸制の契約社員になればよかったわね、と言われましたが、なにはどうあれ、自分の時間が大事!と嘯いていました。